20ポンドの行方クリスマスまであと3週間ほどとなったある日。ロンドンの外れに佇む小さなスーパーマーケットで、店主の男はオープン前の掃除をして時間を潰していた。平日ともあって外の人通りは少ない。これは暇な一日になりそうだと予感したその時、一台の車のエンジン音が店の前で停まった。熱心な主婦が買い物に来たのかと思って扉の方を見たが、ベルの音とともに入ってきたのは一人のアジア系の男だった。
店主はその男の顔を知っていた。というか一度見たら忘れない外見をしていた。柔和な印象を与えるグリーンの瞳にスッと通った鼻筋。特徴的なピンクの猫っ毛は、襟足だけ黒く無造作に後ろで縛られている。その男を印象づける極めつけは、たまに一緒に来るパートナーらしき男性も美形のアジア人だということだ。
12月の空気に触れ大きな体を縮こませながら、男はぎこちない英語で話しかけてきた。
「すみません、黒糖ありますか」
「あるよ」
黒糖なんて小さなスーパーマーケットではなかなか出ない。店主は乾物の棚の一番下で静かに身を潜める黒糖の袋を指さした。男は黒糖の存在を確認するとホッとした表情となり、手に持ったメモに目を落として話しだす。
「あと、小麦粉20ポンド……」
「20ポンド?そんなにどうするんだい?」
男と多量の小麦粉が結びつかず、店主は思わず質問していた。すると彼はゆっくりとした英語で一生懸命に説明をはじめた。
聞けば、パートナーの経営するショップが今度のクリスマスマーケットに出店することになったらしい。そこでクリスマスオーナメントと一緒にマルドワインと焼き菓子を売るんだ。彼はお菓子を作るのが上手だから、と話した。
男が頬を染めて語るのはあの黒髪の美形のことだろう。彼らが一体どんなものを作るのか気になったが、男が急いでいる風だったのでメモに記されている製菓の材料をひと通り揃えて一緒に車に運んでやった。
慌ただしく走り去る車を見送ると店の奥から一部始終を見ていた店主の妻が顔を出す。ミーハーな妻が目を輝かせながら話すのは先程の男の話だった。あの人は日本人で3年前にこの街に越してきて、旦那らしき男が営んでいるアンティーク雑貨店の2階に住んでいると話した。日本人がなぜロンドン郊外で雑貨屋をしているかは分からないが、彼らがうちの小麦粉で作る焼き菓子には興味があった。
◇◇◇◇◇
バターと小麦粉とスパイスが混じりあって焼けた香りがキッチンに充満している。玲太は腰を丸め真剣な眼差しで、こんがりと焼けた人形型のクッキーに顔を絞っている。
対して実は、形が良くないと言われ顔も描かれずに弾かれたジンジャーブレッドマンたちを次々に口に運んでいる。プロ顔負けに美味しいクッキーたちを食べながら、アイシングと奮闘する玲太を写真に収め、日本に住む仲のいい友達グループに送信した。
実が自分に向かっていきなりシャッターを切るのはもはや日常茶飯事なので、玲太は特に気に止めることもしない。
クッキーを食べ尽くした実はいつの間にか玲太の後ろに立っていて、何を思ったかアイシングをやらせて欲しいと言う。恋人の気まぐれな行動はまるで猫みたいだと玲太は思った。
玲太に丁寧に説明されたが、実際やってみると思ったより難しく、どうしてもたどたどしい手つきになってしまう。それでも一生懸命やっている実に取り敢えず任せることにした玲太は、当日屋台で出すマルドワインの味見をすることにした。シナモンの風味が効いていて、我ながら美味い。これなら客ウケもいいだろうしついでに店に興味を持ってもらえれば万々歳だ。
アルコールとストーブのせいで体温が温かくなり、次第に瞼が重くなってくる。ソファに体を沈めてウトウトしていると、できた。と実が呟いた声がした。
◇◇◇◇◇
後日、スーパーマーケットの妻は例の日本人の店でジンジャーブレッドマンを買ってきた。袋に詰められたクッキーには、なぜか髪の毛が描かれている。ひとつはピンクのおかっぱをした女の子、もうひとつは金髪の男の子でなぜかカブト虫を持っている。受け取った店主は日本人の作るクッキーは不思議なデザインだな、と思いながら躊躇なく腹の中に収めた。