沈む煙月を背に浴びて 引きずる足で地面を掻く。ずる…ずる…と進むたびに地面に線が増えていく。頭のてっぺんから爪の先まで地面に引きずり込まれそうなほど重い。重い、が進まなくてはいけない。背負った重さがどれだけ体に負担をかけても進み続けなくては。
街灯もないただただ広いだけの空間。空間というか広場だが。街灯もないわけじゃなくて破壊しただけだが。
片田舎の小さな村。暁人の住んでた町よりも小さな牧歌的で寂れ切った廃村には時を止めたのかと思えるほど息吹を感じえない。
凛子機関長の命で馬車を乗り継いで二人旅の帰り道。そこそこの場数を踏んで足並みが揃ってきたと長旅でも比較的気分よくやって来たわけだが、それが油断を呼んだのか。
帰りの移動中一夜の寒さしのぎに立ち寄っただけだったはずだ。だがその地に足を踏み入れた途端、暁人が何かを"見た"のか、見えない糸に縛られたように身体を硬直させる。そこからは怒涛の襲撃で、どこかで地獄の大穴でも空いたかと吠えたくなるような数を相手にしてに息が上がってしまった。
特に苦戦を強いられたのは相棒兼弟子の暁人で、短・中距離を得意とし時に接近戦をもこなす銃と違い、ターゲットとの適切な距離感を必要とする弓は大規模な襲撃には対処しにくい。一度距離を取りスナイプポイントを確保するのが定石だが、如何せん小さな村の外は枯れた林が広がるばかりで高所もなく戦いづらいものだった。中距離以下の戦闘が苦手であることを鑑みて体術やけん制用のダガーを持たせているがそれでもさばき切るのは難しく、視界に入るごとに彼のベールやトゥニカは傷や破れが増えていった。
背中に背負った彼は意識を飛ばしてしまっている。辛うじて最後の一匹を仕留めるまでは繋いでいたのだが、緊張が解けた途端電源が切れてしまったようだ。教会時代は人一倍働いても空にならなかったものの、流石に命のやり取りの中での緊張は無限のスタミナをも削り切ったらしい。背負いなおした動きで体が軋んだのか横にいないと聞こえないくらいの小さな声で唸った。
(…さすがにキツいか)
未だ発展途上。力を得たとはいえ駆け出しのひよっこ、助走段階だ。その分伸びしろを見守る甲斐がある。
へし折れた古井戸の屋根を横目に地面を靴底で削る。こんなだだっ広いところで寝るわけにはいかない。死なない自分はなんとかなるが暁人は明日に響くだろう。
今のうちにタバコ吸うかと懐に手を伸ばそうとしたものの手を放そうとしたら背中の暁人がずり落ちそうになる。バランスが崩れそうになるのを踏ん張って体幹のみで持ち直すと少しぐずるような寝息が耳に届いた。
「待ってな、もうちょいだ」
抱え直して顔を上げるともう何十歩か先に古ぼけた教会が見えた。来客のない村での唯一の宿である。
もう随分と誰かが利用した痕跡はない。村に人がいた頃には質素ながらも活気を持っていたはずだ。色のない記憶をも既視感で引き上げてくるような、時代に取り残された建築様式。装飾の彫刻こそないが何年何十年先でも崩れないよう細部まで綿密に組まれた建物は押し寄せる風化の波にも耐えてみせている。
足に力を入れて大扉の前まで上がる。背中の暁人が落ちてしまわないよう慎重に片手を離し体重をかけて扉を開ければひどく甲高い音を響かせてどうにか一人分通れる程度の口を開けた。人の通わなくなった教会はどこを見回しても埃っぽくてそこかしこに蜘蛛の巣が垂れていて、思わずつま先で躊躇した。
陽が昇りきるまでここで過ごすのか?冗談キツいぜ、と眉間にシワをよせて逡巡する。一番近い町まで行けば次の馬車を捕まえられるだろう。大きな街までいけば最近範囲を伸ばしつつある鉄道だってある。どうにか暁人が目を覚ますまで距離を稼いで歩き続ければ太陽が顔を出す頃にはなんとかたどり着けるかもしれない。……体力を度外視した地図上での空論での話だが。すでに膝が笑いをこらえているというのに隣の町までの10kmそこそこを二人分の荷物と成人男性を抱えて歩き抜けるだろうか。肉体年齢40ほどで。否、断じて否だ。
半開きの扉の途中でまごついていると、背中越しによろめきそうなほどの突風が吹きこんできた。咄嗟にその場にしゃがみこみ、片手で暁人を庇いつつ薄目で後ろを確認する。未だ夜明けの兆しを見せない紺と濃い紫の混ざった空におおいぬの一等星を思わせる光が一つ煌めいていた。というか、ギラついていた。
「はよ入れってか」
ため息ついでに零せば光は上機嫌に明滅する。人は天命を全うすれば星になるという話もあるが、本当に星の姿で見守っているとは思うまい。
(というかアンタ、あのじいさんのとこにいるんじゃないのかよ)
風に混じるローレルに凛とした彼女の背中を見た気がして心の中でぼそぼそとごちる。同時になにか威圧感のある眼差しを感じたのでそそくさと教会内へと歩を進めることにした。皆に慕われた母の超自然的な気遣い(強烈な突風)により教会内はすっかり綺麗になっていて、祭壇までの一本道は埃一つない。固定されてないベンチとかは天地がひっくり返っているが……もう誰も使っていないしいいか。
両足に力を入れ直して重い足取りで前進する。くすんで茶けたバージンロードをいつかの誰かは歩いたのだろうか。祝福の道をど真ん中ストレートで突っ切っていくと何か悪いことをしているような気分になる。祭壇の後ろから見下ろすガラス製の聖母は血と硝煙を纏って歩み寄る男を前にしてもたおやかな微笑みを崩すことはない。仕方のない人ね、と零した記憶の中の女性は二度ほど顔を変えてみせる。一人は背負った彼の母、もう一人はひどく昔に炎に消えたモノクロの記憶の。
「…うぅ」
「おっと」
参列者の長椅子の縁に手をついて背負った彼を労わる。感慨に耽ると周囲を疎かにしてしまうのは悪い癖だ。しかしこの教会がいつぞやに立ち寄ったときの建築様式に似ていたせいでうっかり昔を振り返ろうとしてしまう。昔を懐かしむよりも今の自分たちの体を休めなければ。
祭壇に凭れさせるよう暁人と手荷物を降ろす。身じろぎもせず寝息だけをたてているところを見るにやはり体力の消耗が激しかっただろう。膝立ちでしばらく眺めていても目覚めそうにない。本当はベンチなり仮眠ベッドなり使えればよかっただろうが、積もった埃と内装の崩れ具合からして期待はできないだろう。
よっこらせ、と自分も隣に座りこむ。緊張の糸が切れたのだろう、全身に疲労がどっと圧し掛かって来た。動かせるのはせいぜい両手と頭くらい。働きすぎた足は爪の先ひとつこれっぽっちも動かない。これはしっかり動けるまでなかなか時間がかかるだろうと肺に詰まった空気を大きく吐きだした。
体を預けるように隣の肩に少し寄りかかる。触れた部分の温かさは夜間の冷え込みで下がった体温に滲んで戦闘でささくれ立った精神に染みた。隣り合った絵具が混ざって渦を巻くように暁人が自分に流れ込んでくるみたいだ。さっきまで背中に背負っていたのにそれとはまた違う心の動き方。さっき自我を獲得したばかりでもあるまいし未経験の感情というわけでもないのにやけに特別で特殊だ。
なんとなく上がった体温に視界が沈んでいきそうになったところですぐ隣からヘクシュッと小気味のいい音が聞こえてきた。横目に見ると袖を引っ張って鼻周りをぐしぐしと擦っている様子であるが、小動物かなにかなのか。ともあれ今頃は季節の変わり目で朝晩は特に冷える。また凛子あたりに頼んで冬用の装備に変えてもらうべきだろう。
なるべく起こさないようゆっくりと手を伸ばして隣人の肩を抱き寄せる。……人肌が一番温まるのが早いからで他意はない。ないったらない。とはいえやはり寒かったのかしばらく抱えて背中をとんとんと叩いてやると落ち着いた様子で寝入っていた。
見下ろした身体は未だ発展途上。年齢的に成人済みではあるものの骨は太い方ではなく、比べるまでもなく自分より筋肉量は劣る。成長期の悲惨な体験は彼の成長を妨げ一般的な男性像からやや離れた姿にした。どちらかと言えば中性的な体形であるがゆえに纏った修道女の服はそうあれかしと誰かが願ったように似合っていた。しかしそんな彼のため特別に誂えられた機関服は凄惨なほど激化した戦闘で頭の先からつま先までボロボロだ。やはり間合いを詰められてしまったのか腕や足には爪で引き裂かれたような破れが散見される。指先は何度も引き絞った弦で傷ついて、爪も欠けている。本当に傷だらけだ。しかしそれほどになっても自分の隣に立ってくれている。
肩を抱いていた手をベールで隠れた後頭部へ。血や土埃を被った髪は汚れても綺麗なままで、少し掃うだけで艶やかなラインを描いている。労わるように撫でれば肩口で聞こえる寝息にくふくふと笑う吐息が混ざった。
薄暗い教会内にふと柔らかい光が差し込む。夜明けか、と思ったがまだ時間が早い。視線を上げて見渡すと昇る朝日にとても似た小さな光が翼を広げた祭壇の上から見下ろしていた。
「守ってくれるのか?」
問いかけた先で少女が目元を柔らかく細めて頷いてみせた。暁人の守護天使は幼くして命を散らした代わりにその身を上回る強い力を持っている。とはいえ長く出てくることはせず暁人が祈りを捧げない限りは姿を現さない。きっと悪しき者たちが危害を加えないよう力を尽くしてくれているのだろう。天使からの純粋な労りの恩恵。まさしく天の恵みだ。
『休めるときまで頑張らないで』
ドキッと心臓が大きく鼓動を打つ。その言葉は間違いなくこちらに向いている。目を泳がせながら見上げると少女の姿を模った光は瞬きの間に舞い上がって霧散した。それだけをどうしても言いたかったのか、と乾いた笑いが口をついた。純粋な者の言葉ほど胸に刺さるものはない。きっと同じ言葉を凛子から言われていたら空返事で適当に流していただろうが、愛らしい少女の姿で言われてしまえば助言に逆らうこともできようがない。
「……お見通しか」
気張っていた筋肉から一切の力を抜く。最後の最後、いつどんな攻撃を受けてもいいようにすぐ手に取れる場所に愛銃を置いて全方位に意識を向けていた。それも全てやめてしまって目を閉じる。気張るのはもうやめだ。
慕ってくれている暁人を手放したくない一心で一人でいたときよりも気を張っていると自覚している。今回これだけ傷を負ってしまったのも戦闘中何度も暁人へ意識を向けたからだ。彼のせいではない、全て己の実力不足。それを痛いほど身体に刻んだ。抱えた体をさらに抱き寄せると腕の中で苦しそうに身じろいだ。
吐息と鼓動から命を肌越しに感じる。愛おしく離しがたい唯一。安らぎの中にずっといてほしいのに荒んだ戦場へ共に駆けたいと思うことは矛盾しているのだろうか。いずれにしろこれ以上傷ついてほしくないという想いだけが共通している。傷ついたまま治ることがない背中を布越しに撫でると寝息が詰まったような気がして早々に手を離した。
(余計なこと考えちまってダメだな)
形のいい頭に頬を寄せてさらに脱力する。天使の見守るこの場所は少しの間だけの聖域だ。目を閉じて朝を待とう。心臓の音が同じリズムで打ち始めてようやくうつらうつらと舟をこぎ始めた。見るのはいい夢だろうか。身の内を憤怒で焼き尽くすような夢は散々見てきたのだから今ぐらい幸せな夢を見たい。それが夢幻の世界でも、その中にオマエがいてくれれば。
意識をようやく手放した男を肘をついたまま見下ろしていた天使は笑みを湛えて目を閉じる。純白の翼と同じ色をした月がガラス越しに見つめた教会に朝日が当たるのはもう少し先だが、まだ来ないでほしいと彼女は願わずにはいられなかった。
END.