慟哭のエリンジウム -承-渡瀬真魚花。渡瀬家長女。25歳。大学卒業後東京の有名商社に就職。3年ほど勤めるも婚約を期に退社。物静かでおっとりした性格だが勤務態度は真面目。幼い頃から無理をすると体調を崩すなど決して体が強いほうではなかった。子供のころは主に読書や手芸などの趣味を持ち、外で遊ぶようなことは稀だった。
渡瀬飛鳥。渡瀬家次女。18歳。高校3年生。運動系の部活ではたびたび大会記録を残している。姉とは対照的に活発な性格で交友関係も広い。
『飛鳥先輩?覚えてるよ。すっごく頼りになる人でね、学級委員長とかもよくやってた。高校は別だからよく知らないけど、たしか生徒会長やってるって友達が言ってたかな。遅くなる時はいつも美人のお姉さんと家政婦さんが迎えに来てたと思う』
「渡瀬家は江戸時代から続く運送業で栄えた家だ。主に渡し舟で荷物や人を運んで生計を立てていたらしい。最近は貿易関係の仕事をメインにしているそうだがまあ、業績を聞く限りでは芳しいほうではなさそうだな。父親は海外出張でほとんど家には帰ってこねぇ。母親は…何年も前に鬼籍に入っている。今は住込みの家政婦も合わせて3人暮らしだそうだ」
「綾風さんだね。麻里が言ってた。おじいさんの代から働いてくれてたって」
「しかし、歴史ある家だかなんだか知らんが掘れば掘るほど出てくるな。呪いの白無垢の情報だけで十分だったんだが、芋づる式に出て来やがる」
「呪いの白無垢…?」
そんな名称ついていただろうかと暁人が復唱すると、KKは束になったA4用紙を投げてよこした。何の気なしにめくっていくと、数枚にまたがる文字列は仔細を語っていた。
『呪いの白無垢
古くは平安時代には存在が確認されている白無垢だが、使われる色にはいくつかの意味合いがある。白は一度死に無垢なまま何色にも染まるため、赤は生まれ変わる時の血を意味する。これは花嫁の神聖性を現しつつ死と覚悟を絡めたものではないだろうか。
死者と婚礼衣装の関係は日本に留まらず諸外国にも見受けられる。例を言えば花嫁のゴーストなどがわかり易いだろう。ここで考えてほしいのはいずれも“花嫁”であるということだ。対して花婿のゴーストや花婿衣装についての噂は見受けられない。恐らくは見た目の華やかさもあるだろうが、花嫁が神聖視されていることが大きな要因だろう。地域問わず花嫁という存在は神や心霊に近しい存在と捉えられていたのかもしれない。その証拠に古い時代の集落では飢饉や干ばつの際『嫁入り』と称して神への生贄に花嫁衣裳を着せていた風習があった。半分は嫁ぐこともできずに死ぬことを憂いてのことだろうが、もう半分は穢れなき魂を神に捧げることへの罪悪感の軽減と形式化のためと思われる。
(中略)
神や霊と同義ということは、反転することも容易い。この場合祝福と呪詛の関係に近いかもしれない。他人を祝福するということは己の心を一部分け与えることである。それは他人を呪うことと共通している。ただ一点違うのはそこに内包した心がプラスであるかマイナスであるかということだけだ。』
「祝われるための衣装に呪いが溜まるなんて、なんだか悲しいね」
「仕方ないさ。それだけ人の想いっていうのは重く不安定なんだ」
『呪いの白無垢という噂は辿れる限りでは明治時代後期から存在を確認できる。
ある武家の娘が大地主の家に嫁ぐことになった。丁度家が傾いていたため親は喜んだが娘は密かに意中の相手がいたため内心穏やかではなかった。婚礼の日、白無垢を着た娘は三三九度が始まる前に持ち込んでいた懐刀で自害した。魔よけのために持たせた懐刀で自ら死を選ぶとは思っていなかった親は随分と悲しんだそうだ。真っ白な着物が娘の血で真っ赤に染まる様はたちどころに噂となり、いつからか「片思いを抱えた者が白無垢を着ると呪われる」とささやかれるようになった。』
「片思い…」
「それがあの姉の不調と結びつくかは謎だがな」
「でも真魚花さんには婚約者がいるはずだよ。それなのに片思いって、あるのかな?」
「あのなぁ暁人くん。片思いってひと口で言ってもいろいろあんだよ。おこちゃまにはわからんだろうがな」
「またそうやって子供扱いして」
そんなこと暁人自身が一番わかっている。図らずも目の前の男のおかげで嫌と言うほどに。
一通り資料を読み終わると乱れた紙を机で整えて返した。受け取りながら「律儀だねぇ」と口元で笑うKKに唇を薄っすらと尖らせた。大学生である暁人は書類の束に触れる機会が多い。収納しやすいように紙束をきっちり揃えて返すのは当たり前のことなのに、それがなんとも馬鹿にされているようで先ほどの子供扱いも含めて何となく引っかかった。
(KKは僕の事どう思ってるんだろう。相棒っていう割に時々子供扱いして、なんだか庇護対象みたいだ)
背中を護り合う相棒だと言う口で子供だから大人の事情は分からないと暗に遠ざけられているみたいで納得がいかなかった。お前にはまだわからない。まだわからなくていいと。
化け物退治についてもKKは暁人を現場に連れて行きたくないと思っている。本人に直接言われたことはないが、彼の態度から簡単に読み取れた。だからいつも先手を取るしかない。無理やりにでもついて行くようなことしかできない。目を離すとKKは自分を置いて行ってしまうから。
それはなんだか壁を作られているようで寂しかった。これならあの夜二人で戦った時のほうがよっぽど信頼してくれていた。
(今ならあの時の絵梨佳ちゃんの気持ちよくわかるかも)
私だって戦えると心から叫んだ彼女の悲しみが痛いほどに暁人の中に染み込んだ
「…ところでお前、その腕のやつどうした」
「腕?」
口をへの字に曲げたKKの視線が暁人の左手首に注がれる。どこか怪我でもしただろうかと手首を上げると赤と黒の細いシルエットが肌の上を滑った
「誰かからの貰いもんか?」
「麻里だよ。昨日の帰りに押し付けられた」
『あ、お兄ちゃん待って』
麻里と絵梨佳を送る帰り、呼び止められた暁人は左手をぐっと引かれてたたらを踏んだ。
危ないだろと振り返った時にはもうすでにくくられていた。有無を言わさないあたり間違いなく暁人の妹だ。
『ミサンガ?』
『組み紐だよ。おじさんがいてもお兄ちゃん危なっかしいからお守り代わり。絵利佳ちゃんと作ったやつだから効き目はバツグンだよ!』
そう言って右手を見せた彼女の細い手首にも同じ色の紐が揺れている。最初に作ったものだろうか、細腕には若干長く肘の手前まで滑っていた。
「紙コップで作るのが流行ってるんだってさ。皆の分も作るって言ってたからそのうちKKの分も結びに来るよ」
昨日の買い物も足りなくなった材料を買いに行っていたからだ。大体は手芸ショップで買いそろえていたが、道中猫又の店にも連れてけとせがまれたので特殊な素材も入っていそうだ。…ところで取引に使う冥貨はどこで手に入れたんだろうか。
暁人の手を何気なくとって結ばれた紐をしげしげと眺めると、KKは感嘆の声を上げた。
「へぇ…なかなか良くできてるじゃねぇか。こんだけしっかり作ってりゃあちょっとやそっとじゃ解けねぇだろうよ」
「すごいよね。ところで何か気になることでもあった?」
「いや、大したことじゃねぇよ。随分と強い想いが込められているように見えたからな。変な奴に結ばれてたら反転して穢れる前に祓っちまうかと思ってたくらいだ」
「えっそんなすごいの?」
「おう、これなら結界に隔たれても貫通するだろうよ」
「例えが分かりづらいな」
手首に巻かれた紐を眺めてみる。三つの輪が組み合わさったような飾りがついていたので何だろうと問えば「あわじ結びだ」と教えてくれた。どうやら繋がりを意味する結び方らしい。なんだか妹の込めた願いとその裏にある心配がむず痒かった。
「オレの分に飾りはつけないように言っておいてくれよ」
「KKはすぐ一人でどこか行くから鈴と緊急連絡先でも編みこんでもらおうか」
「おいふざけんな」
窓から流れる風に紐が意味ありげに揺らされていることに気が付くこともできないまま
スマホの地図アプリで目的の場所までバイクを走らせる。初めは電車で行くつもりだったが、KKの「帰りの満員電車がだりぃ」の一言でタンデムが決定した。満員電車を気にするあたり、戦闘込みでも早くて今夜中に帰る気満々なのが伺える。これで今日中に終わらなかったらどうするつもりなのか。後ろで乗ってるだけのお客さん男に悪態をつきながらなんのかんのと郊外までやってきた。
「う、わ…」
まず初めに暁人の口から溢れたのは驚嘆の一言だった。
都心から外れた位置に建つ家は一般家庭で育ってきた暁人にとってはほとんど豪邸と言えるもので、招かれているとはいえ足を踏み入れるには躊躇してしまう。
昔ながらの日本の邸宅ではある。二階建てのそれは豪奢な門で隔たれており、中身は見えてこない。なんだかそれだけなのにこれから深淵でも覗かなくてはいけないような気分になって思わず委縮してしまった。右後ろにいたKKがその様子を見て何を感じたのかはわからない。けれど背中をポンと叩かれて一歩足を踏み出したら硬くなった体も解けたから、やっぱり傍にいる心強さはあの時から変わりがないと胸にしみた。
呼び鈴を鳴らすと、少し遠くからどたばたと二人分の足音が聞こえてくる。可愛らしいものというより、なんというか…野を駆ける獣というか、驚いた鳥の羽ばたきに似た騒がしさだ。しばらく呼び鈴に手をかけたままのポーズで固まっていると、観音開きの戸の一部が大きな音を立てて開いた。
「い、いらっしゃいませ!」
息を切らせた少女…飛鳥と追いかけてきたらしい中年ほどの女性が慌てて駆け込んできた。あまりの勢いにぽかんとしている暁人に少女特有の輝きを帯びた視線を投げている。背後で見守っていたKKの眉がお、と上がったのと同じタイミングで息を整えた中年女性が戒めるような声を上げた。
「ご準備いたします。こちらでお待ちください」
純和風な外観に反して内装は思ったよりも洋風の装いにまとめられていた。二人が通された応接間も舶来品が多く、昔学校の行事で赴いた外国人向け旧居留地を思わせるような調度品がいくらか収められている。毛足の長い絨毯やら渋茶色の家具やら、どれも整えてありとてもじゃないが触れることすら戸惑われる。欄間には四季をイメージしているのか花や鳥、流れる風と離れた場所に月夜の彫り物がはめられている。そのどこにも埃や汚れは見当たらず、常に整えられていることが伺えて、余計に汚してはいけないとよりプレッシャーを感じてしまった。
それでもどうぞと言われた以上戸惑っているわけにはいかず、浮ついた胃袋に力を入れた。そんな暁人に目もくれずずんずんと進んでいったのはKKである。相反するように勝手知ったる足取りで布張りのソファにどかっと座ってしまった。
「とって食われるわけじゃねぇんだ。お前も早く座れ。」
「…わかってるよ」
「なんだよ、いっちょ前に緊張してんのか?若いねぇ」
「そういうKKは随分ふてぶてしいよね」
「堂々としてるって言え。オレはこういう場所に慣れてるだけだ」
「化け物退治で?」
「いやそっちじゃねぇ、刑事の時だ。きな臭くて汚い場所を嗅ぎまわるのが国家の犬の仕事だからな」
「なんだかサスペンスドラマみたいだね」
「事実は小説より奇なりってな。こういう豪勢な場所には事件が絡んでるって相場が決まってんだ」
「そりゃまたなんで」
「見てくれを気にするのは人間だけだからだよ」
人間だれしも他人には見せたくないような汚い場所ばかり着飾るんだ、と首を回すKKに暁人はそうかとわかったようなわからないような曖昧な相槌を打つしかできなかった。
それからしばらく、そこそこ長い時間…それなりに長い事このキンキンギラギラとした部屋で待たされた。特段話すこともなくただただジッとするしかない部屋の中で、だんだん苛立ってきたKKの貧乏ゆすりの音ばかり(実際は絨毯のおかげで薄っすらもす、もすという音しかしないのだが)響いている。
「煙草吸いてぇなぁ」
「ここで吸っちゃダメだからね」
「わかってんだよそんなことは」
外で吸わしてくれねぇかと庭園の見える窓辺に立ってそわそわし始めたKKの背中にちょっと、と声をかけようとしたところで閉じていたふすまがズッと音を立てた。
「失礼したします。お待たせいたしました。」
家政婦の綾風の声に続いて、妹の飛鳥に支えられた姉の真魚花がしずしずと入室する。
清楚な白いワンピースよりも青白い顔をした真魚花は、それでも客前だからと気丈に振舞おうと背筋を伸ばして着席した。ここまでくると死人よりも死人のようだ。長い髪を下の方で緩く結んでいるが、顔色も相まってどうにも幽霊画の女性に見えてくる。目を見張るほどの美人と言うのも尚のことそれを助長させた。
続いて飛鳥も着席するが彼女もどこか疲れのようなものが出ていて、前日よりも覇気はない。むしろなぜ先ほど玄関に出てきたときにあれだけはつらつとした顔を見せられたのかと疑問に思うほどだ。可愛らしい花柄のスカートに反して薄く出た隈が痛々しい
「お待たせしちゃってすみません。体調がなかなか優れなかったものですから」
「いえ、問題ありません。それより、起きてきてもらって大丈夫だったんですか?」
「はい。多少無理をしても起きてこなければ。私のことなのだから私が見届けないといけないと思いまして」
「へぇ、なかなか気丈に振舞うじゃねぇか」
やつれても尚背筋をピンと伸ばす姿に窓際にいたKKがのそのそと戻ってくる。そのまま暁人の隣に腰を据えるが、それをじっと見つめる三人分の視線は皆一様に警戒心を孕んでいた。
「伊月さん、こちらの方は?」
「あ、すみません。昨日お伝えした同行者のKKです。顔面硬めですが気にしないでください」
「あぁ…例の…」
「なぁ暁人くんよ。お前どういう伝え方したんだよ」
「愛想がなくて髭面の強面でたまに子供みたいなこと言い出すおじさん」
「おい昨日聞いたやつより増えてるじゃねぇか」
「全部言ったら可哀そうかと思って」
「オブラートの使い方間違ってねぇか?」
二人がわいのわいのと会話する様を対面の真魚花がクスクスと手を添えながら笑う。隣にいた飛鳥は面食らったような顔でこちらを凝視していた。流石に時を争うような場面でする話ではなかっただろう。いつも通りのKKに引っ張られてしまったことを反省しながらも、KKに対する疑心を少しでも省けたようで内心暁人はホッと胸を撫でおろした。
「脱線してすみません。今回の件は僕と彼の二人で対応させていただきます。途中失礼なことをしてしまうかもしれませんが、ご容赦いただければ幸いです。」
「構いません。それで解決するのであれば。」
「ありがとうございます。それで早速ですが、品物を見せていただくことは可能ですか?」
「もちろん。―――綾風さん、お願いします」
真魚花が振り向いて綾風に声をかけると、ひとつ頭を下げて引き戸の向こうへ消えていく。持ってくるように言われた瞬間の顔の強張りに、ピリリと緊張感が伝わってきた。
呪われているかもしれないものを持ってくるだなんて、確かにプレッシャーだろう。
「ところで、昨日の夜はどうだったんだ?」
「え?あっありました。布を擦る音。」
KKに声をかけられた飛鳥にも緊張が走った。年近い暁人ではなく目に見えて年の離れたKKに話を聞かれるのは若い女の子には圧迫感があるのだろう。思わず肘でKKを小突けば、嫌そうな顔をして黙った。
「様子は見た?」
「いいえ…どうしても怖くて。ごめんなさい」
「いや、懸命な判断だ。見えなくていいものには関わらないほうがいい」
「音はやっぱり進んでた?」
「はい。昨日は、私の部屋を通り過ぎたところで消えました…でも」
「でも?」
「一瞬だけ、だったんですけど部屋の戸の前で立ち止まった気がします」
どこか信じられないような、信じたくないといった語尾の消え方に、対面の二人は眉を動かした。
「やっぱり妹さんも関係してるのかな」
「狙われている可能性は捨てきれんな」
「真魚花さんだけじゃなくて飛鳥さんまで顔色が悪いのってもしかして関係してる?」
「いや、あれは憑かれているというより寝不足だ。連日連夜妙な音が部屋の前通るんだからな。おちおち寝てられんだろう」
「わかるの?」
「見りゃわかるさ。姉妹の背中よく見てみろ」
小声でのやり取りに気を取られることもなく、真魚花は震える飛鳥の手を取って背中を擦っている。その輪郭をじっと見つめていると、ふとした瞬間に見える黒いモヤのようなものがあった。
「真魚花さんの背中に付いてるのって、もしかして穢れ?」
「そうだな。…妹はどうだ?」
「飛鳥さんには何も付いてない。でも、疲れてるせいで無防備になってる」
「及第点ってとこだな。穢れってのはもとは『気枯れ』…魂の疲弊の事を言う。普段元気な時にあるガードも、心が疲れていると簡単に外れる。そうなったらヤツらの恰好の的だ。ちょっとしたことでぐらついて迷い、崩れ、堕ちる。ヤツらの戯言に簡単に惑わされて最後は食い尽くされるのがオチってわけだ」
覚えておけよ、と念を押された。
暁人にはなんとなく心当たりがあった。あの夜、何度も暁人の頭の中を麻里の声が響いた。その度に心がぐらついて、がむしゃらに進んでいた足が止まった。実際あれが本当に麻里の言葉だったのかはわからない。きっと一人だったら簡単に惑わされて崩れ落ちて…何もできずに消えてしまっていただろう。その度に進め、立ち止まるなと手を引き背中を押したのは紛れもなく隣の男だった。般若の男を打倒し渋谷を救うために必要だったからとはいえ、初めこそ足手まといになるようなら容赦なく体を奪うとまで言っていたのに気が付けば支え合い足並みをそろえて進む唯一無二の相棒になっていた。彼がいたからこそ自分は立ち止まっても最後まで走りきることができたのだ。
では、目の前の姉妹は。父親は健在とはいえ、二人の傍にはいない。そもそも血の繋がった姉妹と言っても、両名の間に置かれる感情は様々だ。今、彼女たちのどちらかが足を止められた時相手のために手を引いて背中を押すだけのことがあるのだろうか。自分と麻里の間でもすれ違いがあったというのに、彼女たちはそういったこともなく手を差し伸べることができるのだろうか。
そんなことまで考えてしまったところで、他人の事情に突っ込みすぎだと頭を振った。自分たちはあくまで部外者。すべきことは事態の収拾だ。
「一つ聞くが、白無垢に触れたのはあんただけか?」
「いえ、綾風さんもですね。蔵から出していただきましたし、着付けも手伝っていただきました」
「妹は触れてないのか」
「私は眺めることはあっても触っては―――あ、一度だけ…サイズ合わせの時翻った裾を整えたので…」
ここに住む全員が件の白無垢に触れている。つまりあの白無垢と全員が縁を持っているということになる。とはいえ、この閉鎖的な屋敷の中で縁を持たずにいられるということのほうが難しいだろう。
着用した真魚花、それを手伝った綾風、裾を直しただけの飛鳥。しかし実害を被っているのは真魚花と飛鳥だ。
「こいつはあの家政婦にも話を聞く必要がありそうだな」
「そういえば綾風さん遅いですね」
ふと腕の小型端末の時計に目をやってみると、思いがけず時間が経っていることに気が付いた。長々と話し込んだつもりはなかったのだが、時計の表示はざっと3、40分は経過している。物を取りに行くだけでこんなにも時間がかかることなんてあるのだろうか
「…おい、白無垢は今どこに保管している」
「奥の部屋です。それほど遠くはないはずなのですが…」
「よし、案内してくれ」
どこか忙しないKKの姿に暁人を含めた全員がざわめく。
「僕が見てくる」
「いやお前はここにいろ。姉のほうはそこまで行く元気ねぇだろ。こっちにも異変が起こらないか見てる奴がいる」
「だったらKKが残ってよ。真魚花さんに異変が起こっても僕だけじゃ対処できない」
「大元を叩けなきゃ意味ねぇだろ。それならここで流れてきた邪気を祓ってくれ」
「KKは僕が力不足だって言うの?」
「奴さんは人間の精気を腹いっぱい溜め込んでんだ。お前さんにはまだ荷が重い」
「様子を見に行くだけでしょ。ちょっとは信用してよ」
「信頼はしてんだよ。だが心配しないわけじゃない。万が一の適材適所ってもんがある」
ため息を吐きながら向けられた言葉に胸の辺りが痛む。何か細くて鋭利な物に刺されたようなじくじくとした痛みだ。
どうして任せてくれないのか。どうして預けてくれないのか。どうして自分だけで何とかしようとするのか。どうして、隣に立たせてくれないのか。
まるで何かに心の奥にしまった物を無理やり掘り起こされているような、気味の悪い不快感が胸中に渦巻く。こんな風に言うつもりなんてなかったのに。屋敷の中の空気がそれをさせるのかはわからないけれど、口からもろび出でる言葉が止められない。心の切れ端から漏れた言葉が堰を切ったように溢れてくる。暁人の中で何かが後押しするように少しだけだったささくれが抉れて大きく傷を作った。言わなくてもいいことなのに、そんなつもりはないのに、疑念の言葉が洪水のように溢れて体の中に満ちてくる。溢れて、溢れて、自分の生み出した言葉で溺れてしまいそうだった
「ッ…相棒だって、KKが言ったんじゃないか」
「暁人?」
KKの呼ぶ声に困惑が混じる。
あの夜が終わった今でも、魂が深く繋がった二人はまだ混じる場所がある。その部分を通じて稀にお互いの強い感情が伝わってくることがあった。何を思っているかはわからなくともKKには暁人の中で湧いて噴き出る熱さに気が付いているはずだ。
お互いの見られたくない場所をさらけ出した間柄でも、相手の抱く感情まではわからない。言いたいことは言わなければ伝わらないなんて、わかっていたはずなのに。
「もういい、ダメだって言われたって行くから。飛鳥さん、案内して」
「は、はい」
感情の濁流に押し流されるように襖の前まで進んでいった暁人を引き留めようとKKが手を伸ばす
その瞬間、二人の身体が同時にビタリと止まった
「伊月さん…?」
その様子に小さく声を上げた飛鳥を、暁人がシー…と人差し指を口元に当てて諫めた
「…KK」
「構えろ暁人。おいでなすったようだぜ」
襖に耳を当てるように立つ暁人の隣にKKも並ぶ。未だ状況もわかっていない姉妹にハンドサインで下がらせると、二人は神経を尖らせて臨戦態勢に入った
痛いほどの沈黙に動くのもはばかられる。自分の呼吸音さえ今は煩わしい。しばらくじっとしていると襖の向こうからようやく捉えられるほどの音が部屋まで流れ込んできた。
――――――ッ―――—――ス―――—――スッ――――――スッ――――――
小さく、冷たく響く音に奥で真魚花に寄り添っていた飛鳥の顔が青白く変化する。妹の変化に真魚花は困惑した声をあげた
「飛鳥?」
「ぁ…あ…」
「飛鳥さん、落ち着いて。あの音で間違いない?」
「あ…あの、あの音…あの音です…」
「ありがとう。後は僕たちが引き受けるから、無理なら耳を塞いでて」
言われるままに両手で耳を塞いだ飛鳥の姿を一瞥して、KKと目を合わせる。彼はその間に霊視を終えたようで、硬い顔をさらに険しく歪めていた
「どう?」
「ああ、間違いねぇな。精気をたっぷり食ったせいで想定よりも強くなってやがる。今は襖があるが、開けた途端漏れ出た穢れがこっちまで流れ込んでくるぞ」
続いて左手を地面に向けた暁人が霊視を試みる。空気ばかり重くなって息をするのすら苦しくて、頭が重たい。
水滴の落ちる音とともに視界が黒く染まり全てが青白い輪郭だけになる。その中で異質なほどに赤黒く淀んだ存在がそこにあった。
それは、小さく響く衣擦れの音共に一歩、一歩と確実にその歩みを進めていく。時折響く廊下の軋む音がさらに神経を逆なでた。
「いるね。でも、襖が開けられない状態でどうすれば」
「暁人、弓を出せ」
「弓?」
すぐに出せるよう腰につけた弓を言われるままに展開する。しかしこんな室内で、まして一枚隔てた相手に弓が何をできると言うのだろう
「矢は出さなくてもいい。そのままいつも通り射るつもりで弓を引け。合図はオレが出す」
矢がないまま弓を弾いて何があるのか。説明はないがKKが真剣な眼差しで言うのだからと、言われたとおり姿勢を作る。3歩ほど後ろに下がり音もなく息を吐く。左手で宙に固定した弓の弦を呼吸とともに引く。乱れた心では正しく弓は引けない。射抜くということだけを考えて星と月が描かれた襖を見つめる。獲物に向ける矢はないけれど、じっと注視するうちになにか細いものが右手の指に触れた気がした。それは紛れもなく、いつも手にしている魔を討ち取る矢の感触そのものだった
「いけるよ、KK」
「よし。少し待てよ」
そう言っている間にも衣擦れの音はもう間近まで迫っていた。仕切られた空間だというのに威圧感が肌を刺激する。それは奥で成り行きを見守っている真魚花と飛鳥も同じようで、硬い表情が恐怖に引き攣っていた。
衣擦れと、廊下の軋みと、呼吸音と、弦の軋む音、あとは高鳴る暁人の心音。
喧騒に混じるKKの霊視の雫でその全ての音がずっと遠くへと消えていった。今はもう波紋の音が広がって消えていくだけ
「カウントするぞ」
暁人が声も出さずこくっと頷くのだけを見届けて、そのまま視線を襖の向こうへと戻した
3
2
1
「「行け」」
パンッ
重なる二人の声に呼応するように、弓は音を立てて爆ぜた
それと同時に、右手で掴んでいた細い感触も手を離れて襖へと真っ直ぐ飛んでいく
詰めていた息がひゅッと音を立てて口から漏れた。弓を中心に清らかな空気が、肩にのしかかっていた重い空気を押しのけて音と共に霧散する。さっきまでの息苦しさと心の重さが嘘のように綺麗になっていた。
自分の身に起こったことに気を取られていると、襖の向こうから重みのあるドシャッと言う音が聞こえてきた。
「なに…?」
「暁人!」
「え…あ、うん!」
気がそぞろになって一歩出遅れた暁人をKKが叱責する。今はそれに気を取られている場合じゃないのだ。
開くなと言っていた襖を遠慮もなくスパンと開くと、廊下に躍り出る。
「綾風さん!」
地面に崩れ落ちた白無垢姿の女性に一瞬肝を冷やしつつよくよく注意しつつ顔を覗き込むと、やはりと言うべきか家政婦の綾風が白い顔で床に伏していた。暁人の声に部屋の奥で震えていた姉妹も襖のあたりまで走ってきた。今にも駆け寄ろうとする二人を手で制しながら綾風を見下ろすKKの行動を待つ。
右手で印を結ぼうと近寄ると、白い生地に赤黒い染みがジワリと広がった。染みは一滴かと思えば瞬きの間に全身へと広がり、黒々とモヤのように人の形へと変わりこちらをじっと見上げてくる
伏したままの綾風に覆いかぶさるような体勢でのそりと立ち上がろうと機会を伺っているようにも見えた
「チッ起き上がってくんなよ」
舌打ち一発、口慰みに打って手早く印を結ぶ。
ほどなくして黒いモヤは布を切り裂くような甲高い悲鳴を上げながら綾風の身体から飛び出し、何度か震えたあとぶわっと広がってどこかに消えた
その様子に納得がいっていない様子のKKが廊下を辿ってモヤの欠片を追うように走り出した
暁人はというと、そっちのことはKKに任せてもいいと考え、倒れたままの綾風を起こしに駆け寄る
ずっと制止されていた真魚花と飛鳥も、許しが出たのだと判断して傍まで行って顔を覗き込んだ
「大丈夫ですか?しっかりしてください!」
うつ伏せだと苦しいだろうと手を伸ばした暁人
布地に触れたその瞬間、左手の小指に痛みが走った
「いっ…!?」
『――――――ぁ…――――――ぃ……―――――――――』
「え…?」
まるでそこにだけ強い電流を流されたような強い痛みに顔が歪む。小指だけ何者かに強く握られたような、うめき声すら上げてしまいたくなるような強い痛み。
その瞬間、耳元で何かの声が聞こえたような気がした。
それでも、息を飲んだ頃にはきれいさっぱりなくなっていて、なんだったのかと首を傾げた。
「ぅっ…」
抱き上げた腕の中で綾風の口から小さく声が漏れ出た。顔色は悪いものの、大事には至っていないらしい。薄く目を開けてぼんやりとしている彼女に、囲んでいた三人は同じ息を吐いた。
「ったく…逃げ足のはえぇこと」
「KK、どうだった?」
「ダメだ。完全に逃げられた」
「ってことはまだ」
「ああ。だいぶ削ぐことはできたが、まだ動けるだけの力はあるらしい。奴さん、諦めるつもりはなさそうだぜ」
これは長丁場になりそうだ、と半ば諦めのようなため息を吐く。少なくとも、今日中に岐路に着くことはできそうにない。
「どうしようか」
「まあ、またどうせ夜になったら動き出すだろ。オレたちはそれまで待機だな」
「でしたら!」
一度家に帰って立て直そうかと言ったところで、飛鳥が声を上げた。緊張しているのか、少し声が裏返っている
「今晩うちに泊まられてはどうでしょう!」
「はぁ?」
目に強く光を得た少女が渇いた口でどうにか言葉にすると、訝し気な顔でKKが威圧するような返事をした
剣呑な視線を返すKKに一瞬たじろいだ飛鳥だったが、めげずに泊まってほしいと懇願する
「いやでも、急に泊まるのはご迷惑がかかると思うから」
「うちには空き部屋がありますし、お客人二人くらいならおもてなしもできるかと」
「本調子じゃないのにもてなしてもらうのはちょっと…」
明らかに断りたい暁人。女性三人、絶不調の二人と意識のない一人がいる状態の家に上がり込んだまま夜までのんびりできるほど暁人の肝は座っていない。
しかし飛鳥のすがるような目を見てしまえば拒否もしづらい。毎夜の怪現象に拍車をかけるような今回の騒ぎに、被害を受け続けてきた彼女の精神も疲弊しきっているのだろう。どうにか断る術はないだろうかと、綾風の傍に座ったままの真魚花に視線を投げる。しかし、彼女もまた飛鳥に甘い人物であった。
「飛鳥もこう言っております。どうぞ、よろしければ泊まっていってくださいませ」
「え、えぇ~…と…でも、ほら…」
「私のことでしたらおかげさまで少しですが体調も戻ってきておりますから。それに、綾風さんがこのような状態です。細腕の女だけではいささか心細いものですから、男手は歓迎しますよ」
「うーん…あ、綾風さんを病院に連れて行かないといけないのでは?真魚花さんも体調が戻ったとはいえ無理するのはよくないです。なので」
「でしたら余計に誰かが飛鳥の傍に必要ですね?」
にっこりとすがすがしいほどの圧力を持った笑顔に暁人の口角は引きつった。どうにか逃げ道を探すが、頑強な意思にどこも塞がれてしまう。妹のおかげでこうなった相手に対して折れる以外の選択肢がないことをよく知っていた
「モテる男はつらいねぇ、暁人くん」
「KK!!!」
事の成り行きを見守っていたKKはのんびりと他人事のようにへらへらと笑う。それがまた暁人の琴線に引っかかり苛立ったような声色で吠えた。KKも初めこそ助け船を出してやるつもりだったが、そんな態度を返されると気も逸れてしまう。おーこわいこわいと、客室に残していた自分の荷物だけ取りに行ってしまった。
「ちょっとKK!?」
「ちっと煙草吸ってくらぁ。ついでにモテモテの暁人君のためにお泊りセット持ってきてやるよ」
暁人の制止を気に留めることもなく、KKは気だるげにさっさと出て行ってしまう。
残された暁人は声を失ったように少し背中を丸めた後ろ姿を呆然と眺めることしかできなかった。