息は酔い宵、帰りは 「やってしまった」という後悔と「やってしまえ」という欲望が耳元でがなり立てながら殴り合いをしている。
均整のとれた若い男の体が草臥れかけたソファでばらけて弛緩している、のを真上から覆いかぶさるかたちで見下ろしている。
取り乱してぐらぐらと揺れる視線で組伏した彼の肢体を眺めた。まだ成人して片手で数えられるほどの年しか重ねていない、成長期が終わった体躯は固すぎず柔軟な筋肉がついて引き締まっている。首筋を彩る血色のいい肌は上気して熟れた果実を思わせる。かぶりつきたいなんて言ったら即突き飛ばされる。それから一発殴られる…だけで済めばマシだろうな。
こんな子供に懸想しているなんて言ったら過去の自分は鼻で笑って軽蔑するだろう。あるいは昔馴染みの知り合いに通報するかもしれない。それだけ信じがたいことだが事実だった。
何をするにも他人といるよりは一人でしたほうが楽な性質だと自負している。気遣い気休めどれも不得意で、すぐに言い争いになって事態をややこしくする。過ぎるほどの不器用で取り繕うことができず周囲から敬遠されることもざらだ。こんな自分を誰も理解しない、だから誰に対しても隙を見せない。一人で酒をあおることに慣れ切っていた。
そんな自分の隙間を埋め、欠けた部分を補う存在が暁人。齢22の青臭いガキだ。素直に見えて強情で我慢強いように見せるのが上手い。人当たりがいいわりにやたら当たりの強いときもある。向上心と反骨精神で必死に食らいついてくる姿が可愛い奴だと思っていた。
「ね、たまには二人で飲まない?」
言ったあと慌ててよかったらなんだけど、なんて好きな相手から伺うような目で見られて断れる奴なんかいるだろうか。一も二もなく頷いた自分を今はしょっぴきたい。
初めこそ酒精漂う空気を楽しんでいた。あれが大変だった、あの動きがよかった。ささやかな宴席に花を添えたのは出会ってきた幽霊や妖怪の話。普通だったら引いてしまうような話だって彼は楽しそうに聞いてくれて、酒で滑る口はさらに調子づいた。他人と飲んでてこれほどに酒が旨いと感じたのは初めてで、つい飲む手が止まらなかったのだ。
会話の途中でふと沈黙が落ちた。話のタネがなくなったわけではなく、ほんの一瞬同じタイミングで口を閉じただけ。なのにその刹那の中、時間が止まった。
一脚しかないソファに体を寄せて酒を飲んでいたのだが、酔いが回った暁人が頭を揺らしたと思ったらその頭をこてっと頭に乗せてきた。止まった思考が戻って来たところで心臓がドッと跳ね上がる。ケツの青いガキでもないのに一丁前に緊張して。首から上に集まる血が頭の中でぐるぐると回って全身を冷や汗がどっと噴き出た。
心底惚れ込んだ相手の酔った姿を至近距離で見てまるで猛毒だと喉を鳴らす。普段緩やかな笑みを含む唇はふっくらと膨らんで食べごろの林檎を思わせた。アルコールで血色のいい肌はみずみずしく、切れ長の目元も水から上がったばかりのように潤っている。意志の強い眉から鼻先までの流れは見惚れるほど美しい。背を預け共に駆ける夜、横顔の美しさにどれだけ目を奪われたことだろう。
「ね、僕すごく幸せだ。こんなふうにグラスを並べて、KKとお酒を飲めて。本当に幸せ」
形のいい頭が動いてこちらを伺い見る瞳とかちあった瞬間、考える間もなく行動が始まっていた。
固い物が床を打つゴトンという重みのある音。空のグラスが力なく横たわっている。割れていないはずだが今はそっちに気を回せない。長く使いこんでヘたれたソファに横たえた彼を乗り上がる形で見下ろす。子供もいるし初めてというわけでもないくせにやたらと緊張していた。いくら唾を飲み込んでも喉は乾きっぱなし。たまに瞬きを忘れて思い出したように多く瞼を閉じる。まるで思春期真っ只中のガキだ。
笑えない。想いが通じ合ったわけでもないのにがっついている。初めはただ自分より報われればいいと思っていたはずだ。一皿を分け合うにも少し多めに分けたり、より温かいもの飲み物を渡したり。より身になるものを与え、悪いものを自分が飲み込みたい。そういう父性のような慈しみだったはずなのに。
頬を赤く染め破顔一笑する横顔に自分の中で燃え上がるものがあって、言葉が止まった。綺麗だとか可愛らしいとか、それだけじゃない感情の溶岩が喉の奥の空気を押し上げて肩周りからうなじにかけて鳥肌が立つ。飲み込みたい、飲み込まれたい。鬼の幻影がちらついて自分を取り繕っていた何もかもが剥がれ落ちた。
それで今このざまだ。本当にいつまで経っても救われない。いや、掬われてはいる。伊月暁人という青年にどん底から掬い上げられた時代遅れのちっぽけな人間だ。それがどうだ、今度はその相手に噛みついて。暁人は自分に恩義があると言うが、それを言うなら我武者羅で周りも見えていなかった己に光を見せてくれたのを彼じゃないか。そんな彼の喉笛を生臭い息を吐く情動が食いちぎろうとしている。
頭の上の冷え切った後悔と腹の下の煮えたぎった激情。背中を押す獣を言い訳で取り繕った自分がどうにか押しとどめて一歩だって動けない。いっそこの間に殴りかかるなり蹴り飛ばすなりしてくれれば己を律することだってできるのに。…ああ、また誰か頼みだ。違う、この場の主導権を彼に押し付けてはいけない。先に大人になったのはこちらのほうが何年も先なのだから何事も先陣を切るのも自分でなくては。
そう考えるほど口先だけで考えていた理性は力不足で、身体の大部分を仕切る本心が優先された結果若い身体のうえから動けずにいる。馬鹿だ馬鹿とは思っていたがこんなにも救いようのない愚か者だったとは。次の行動を決める脳みそは己を罰する言葉で溢れていてまるで使い物にならない。
汗ばむ掌の動きに合わせて革張りのソファがギシりと鳴いた。食いしばった奥歯もそのうち同じ音を立てるだろう。己が今どんな顔をしているかなんて知る由もない。LEDの強い光に照らされて潤む鳶色の瞳が押し倒すケダモノのシルエットを映すが、逆光に塗りつぶされた影でその表情は読み取ることはできない。押し倒された側はといえば先ほどからやたらと長い睫毛をばちばちと瞬かせて1ミリも動きゃしない。さっきはああ言ったがやはり逃げてほしいと思うのは親心ありきだからだ。オレみたいなのに捕まるんじゃないと、もはや祈りだった。
いろんなものに板挟みになっていて真っ暗になっていた視界にふと動くものが過る。
初めに届いたのは香りだ。直接嗅いだことはない。それでも記憶をくすぐるのは、これが彼の残り香と同じだからだろう。
次に体温。仄かに温かい肌が首回りに触れている。とうが立って久しい自分とは違い柔らかく包み込んで、汗で冷えた首筋に熱が伝播する。アルコールで熱せられた温度はいつぞやに風邪かもしれないと鼻を啜ったときを思わせた。
絡み合う視線に熱が灯る。澄んだ鳶色は温かい涙に濡れ山なりに弧を描いた。ただ悪戯をしたそうな笑みではなく何もかもを受け入れるような微笑み。相反して唇は蠱惑的に角度を上げて見せた。
「―――……僕、ずっとKKのこと、」
何か特別なフェロモンでも出ているのかと勘違いさせる香りと境界線を軽々と超えさせる魅惑の視線。そこに響く掠れた声は男のもので間違いないのに足元を簡単にぐらつかせる。揃う様はまさに誘蛾灯。惑わされ誘い込まれ、逃れることもできないまま電撃に貫かれ身を焦がす。それでもいいと思わせるから、仕方がない。誘い込まれるまま絡まる腕の主に顔を寄せた。
…すかー
距離にして残り数センチ。目と鼻の先で甘く熟れた声色を期待して誘われたのに、耳に届いたのは期待した告白でもなんでもなく健やかな寝息である。
「おいおい、ここまできてか」
がくっと力が抜けた。さすがに気が抜けて腕で体を支えたまま項垂れてしまう。体中張っていた緊張の糸が全て切れてしまった。何をやっているんだまったく。
体を起こし額を押さえた。許可もなく手を出そうとするなんて全く正気の沙汰じゃない。……許可があればいいのか?
指の間からちらりと盗み見ると仰向けに寝息を立てる暁人。酒に担ぎ上げられ嬉しそうに微笑んだ寝顔に脱力する。こっちの気も知らないで暢気なものだ。とはいえさっきの言葉は本当に酔いどれの世迷言だろうか。
『ずっとKKのこと』
その先に続く台詞を知らない。が少なくとも悪い言葉ではないだろう。そう信じたい。
両手で顔を覆って大きくため息を吐いた。この数分のうちにわかったことがたくさんある。そのうち最も大切なことはつまりもう戻れないということだ。
オレはオマエの父親じゃない。年の差の開いた友達ってわけでもない。二つに分かれたままでいられない片割れだ。それを再確認して、己に科した倫理の枷を開けるために最後の理性の鍵を握りこむ。
とりあえず明日からの身の振り方を考えることにして、眠る彼に保護者の顔で毛布をかけてやることにしよう。少なくとも今日が終わるまでは。
END.