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    鯖目ノス

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    鯖目ノス

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    6月中に書き上げたかった神様K暁の祝言話。
    名無しモブ男視点。
    気がついたら違う話が入ってきて話が逸れているのはいつも通り

    #K暁

    旅人語るところには*旅人語るところには

    しくじった、と男はじくじく痛む体を捩りながら土の上に転がった
    見上げた時に目に入ったのは、いくらかの枯れ木とその隙間から覗き見える大きな月のみ
    どうにか起き上がろうとして打ち付けた背中が悲鳴を上げるので、仕方なくまた転がる。先ほど痛みで目を覚ましてからずっと芋虫よろしく起き上がると転がるを繰り返していた。

    男は旅人である。と言っても明確に何か目的があるわけでもなくただただ流浪するだけの根無し草だ。
    まあ、もとを正せば働くわけでも田畑を起こすわけでもない男を郷の者たちが追い出したというだけなのだが
    さて、そんな彼であるがつい二刻ほど前まではもう少し真面な道を歩いていた。一応最後の温情で必要最低限の荷物を持たされていた男が焼いた芋片手にひょうひょうとした顔でふらついていたところ、何者かもわからない輩に衣類以外の荷物をはがされた挙句斜面に突き飛ばされ山中に転がされたわけだ。

    しかしこの男、運はなくとも悪運は強く、たまたま積み重なっていたふかふかの枯れ葉の上に落っこちたおかげでこうして命だけは助かっている。本当に命だけは。
    目を回して二刻ほど。ほんの少し前までは陽が落ちかけていたところだったはずなのにもうお月様が煌々と輝いている。これでは陽が上がってもしばらく誰も気づいてはくれないだろう。
    あーあ俺の人生ここまでか。などとそれらしいことを呟いてはみるものの状況は変わることもなく、むしろ夜風がうなじを冷やすばかりでいいことなんかありゃしない。
    このまま横になってればそのうち何かの神が拾うかもしれないなんて体を大の字に開いてやけっぱちに寝転びなおした。

    お天道様。俺はなんにもできんしなんにもやらんかったけど、今助けてくれるのなら生まれ変わったみたいに何かできる男になるよ。だから神様仏様、今日ばっかりは助けておくれ。

    そう口先八寸で述べた後男は広げていた両手をパチンと柏手よろしく打ち付けた。

    そしたらどうだろう。ばさばさと何か大きなものが羽音を立てて男の頭上に生えていた木の枝に降り立ったではないか。しかもふたつ。
    しめた、助かった!と男は喜んだ。夜目が薄っすら利いてきた男にはその二つの影が尼僧というべきか修験者のような恰好をしていたように見えたからだ。おそらく夜遅くに修業に来ていた師弟かなにかだろうと思い、思い切って声をかけようとして…止まった。

    「これはこれは人間ではないか」
    「死にかけの人間ではないか」

    羽音を立てて男の傍らに降り立った二つの影は顔を覗き込んでそんなことを言った。
    近づいてようやくその正体に気が付いた。いやいやこれは、妖怪烏天狗ではないかと。

    「このようなハレの日になんとも運が悪い奴」
    「荷物一つ持たずこの道に転がされるとはなんとも運のない奴」
    「そんなに可哀そうならここで食らうてやらねば」
    「こんな襤褸なら食らうて天に還してやらねば」

    があがあと耳障りな鳴き声を上げて頭上で喋るものだから肝が冷えた。
    命だけ助かったのにこんな鳥もどきについばまれて死んでしまうなんて。それならば斜面から転がされた時に多少痛くても岩か何かに頭を打ち付けて死にたかった。
    見下ろす烏の黒い目が恐ろしくて恐ろしくて呻く喉が震えて涙があふれてきた。

    「これ、そこの。何を遊んでいらっしゃる」

    騒ぐ三人の傍にまた別の声。聞くだけなら随分と若い声だった。
    痛む首を動かしてゆるゆるとそちらの方向を見やれば、男の腰ほどの影が腰に手を回したまま立っていた。

    「おや一つ目の。我々は遊んでなどおりません」
    「花嫁様の通られる道をお館様に言われるままに飛んで見回っていた次第」
    「お黙りなさい、烏天狗や。怖がる人の子でおちょくって遊んでいたくせに何を言いなさる」

    そう一喝されて二羽はぐうと押し黙る。どうやら小さな影は烏天狗よりも地位が高いらしい
    しかしこんな恐ろしい妖怪二羽を叱責できるだなんて一体どんな妖怪なのかと目を凝らしたところであっと声を上げた。

    「しかもまだきちんと生きていらっしゃる。死にぞこないなどではございませんよ」
    「一つ目の。我々一度も死にぞこないとは申しておりません」
    「死にかけとは言いましたけれど」
    「お黙りなさいな」

    ぴしゃりと言い放つ影は童の姿をしている。ぎょろりとにらみつける目は大きく顔の中央で大きく月の光を受けていた。
    ひ、一つ目小僧…と口角を痙攣させながら凝視していたら瞼で大きく弧を描く

    「貴方も災難でしたね。さあさ、私にお掴まりください」
    「あ、いや…あの」
    「もしや先ほどの冗談を真に受けていらっしゃる?はは、ご心配なく。私共人間は食いません」
    「ほ、本当に?」
    「ええ、たまにあるだけです」
    「たまにはあるのか!?」
    「ははは、冗談ですよう。私共こう見えてお館様の命で勝手がってに人を食うなと言われておりますので」

    あーうん…と曖昧な相槌でいなしながらどの辺が冗談なのかと戦慄した。
    いや、後ろの烏天狗二匹が腹を抱えて笑っているあたり妖怪的に定番のネタなのかもしれない。

    「それはそうと、ここにいられるのは良くない。そろそろ花嫁様を乗せた車がいらっしゃる頃合いですから」

    小さな体に見合わない力でよっこいしょと持ち上げられれば、否応なしに立ち上がらざるを得ない。正直なところ、全身の打ち付けた個所が各々悲鳴を上げている。

    「そういえば先ほどハレの日だとか花嫁だとか言ってらしたが、婚礼でもあるのだろうか」
    「ええ!ええ!まさしくその通り!」

    問えば一つ目小僧が喜色満面といった具合で頷く。その様から見るによほどの催しなのだろう。

    「この辺りをしろしめす御方がこの度ようやく、ようやく!お嫁様をお迎えになるのです!」
    「長かった…」
    「ああ永かった…」

    目尻(右目なのか左目なのかわからないからどっちが頭かもわからんが)に大粒の涙を浮かべる小僧の後ろで同じく嘆かわしそうに烏ががあと鳴いた。人間の身にはまるで理解できないが、おおよそとんでもない時間がかかったのだとだけわかる

    「そんなよき日に面倒ごとは起こしたくはないのです。なので、今日に限ってはどんな方へも恩赦を与えられています。例え領域を侵すよそ者であっても」

    途端に背筋を寒気が襲う。先ほどまで笑ったり泣いたりしていた者たちの顔からごっそりと感情が削げた。
    男は運が悪い代わりに悪運が強い。もしもこの場所に転がったのが今日この日この時でなければとっくの昔に誰かの胃袋の中だったのだろう。短い人生の中でも己の悪運にこれほど心から感謝したことはこの先ないだろう。

    「それでですね。貴方が寝転がっていた場所はちょうど花嫁行列の通る道になりまして。とどのつまり邪魔なので通り過ぎるまでで良いのでどいていてほしいのですよ」
    「はあ」
    「さらに体中血まみれなのもよくはない。折角何物にも染まらぬ白を花嫁様が纏っているというのに通りすがりに血の匂いを纏わすなど言語道断なのです」

    小僧がぱんぱんと手を叩くと、どこからともなく火の玉を共だった影がどこからともなく現れて男を囲った。
    まずは舌をだらんと伸ばした何かが男の全身を舐めまわす。小僧はそれをあかなめと呼んだ。
    続けて風に乗った獣が三匹男の周囲でびゅうびゅうと飛び回る。どうやら鎌鼬らしい。傷に軟膏を塗りつつついでとばかりにぼさぼさの髪やら髭やらも整えられた。
    あとはもう目まぐるしく何かが通り過ぎて行って誰が何をしていったかもよくわからなかったが、気が付けば顔に面布を結ばれたうえそれなりに上等な着物に着替えさせられていた。

    「しかしここで会ったのも何かの縁。折角なので貴方も花嫁行列の賑やかしに加わってくださいな」
    「はい!?」
    「ああ、大丈夫。皆甘露に酔っていますので貴方様が人間か妖かなんて見分けもつきませんよ。それに、今晩皆に振舞われるものは人間よりよっぽど旨いですから興味も持ちません」

    はあ、と生返事で相槌を打つしかない。話が急すぎやしないかと思ったが、それほどに急いでいるのか。しかしどこかに確認するでもなく、その場の思い付きで決定が下せるあたりこの小僧の立場がそれなりに上位だということに舌を巻いた。

    と、ここで少し遠くから鈴の音が聞こえた。
    今の今までニコニコとほほ笑みを浮かべていた妖怪一同がはっと顔を引き締める。
    ぼんやりと光を放つ手のひらほどの小さな人影が道の向こうからスッと躍り出てきた。

    「鈴彦姫殿」
    「…花嫁様がただいまお出でになります。皆々様方、ご準備を。行列に加わられる方はどうぞご無礼のないよう」

    ちりんと鈴の音が鳴ったと思えば、途端に光の人影が消える。
    しかしそれと同時にまた道向こうからたくさんの光が灯ったのが見えた

    かしゃん、かしゃん

    皆々様方首を垂れよ 花嫁様がお越しであるぞ
    東の山のそのまた向こう 狐のお山の中腹の 社に生まれし白狐
    龍神様に見初められし花嫁様が かのお方へと嫁がれる
    皆々様方首を上げよ そして加われこの祝い 花嫁行列高らかに
    さあ飲めや歌えや

    かしゃん、かしゃん

    先導する狐面の者数名の後に白い衣を纏った二人分の人影を乗せた車が続く。その後ろには人の足が生えた傘がとことこと車を追い、続いて嫁入り道具を乗せた車が数台。あとは見たこともないような姿の魑魅魍魎がえんやえんやらと騒ぎながら続いていた。

    「さあ、花嫁様が前を通られます。決して顔を上げないようお気を付けください」

    と小僧が男に声をかけると同時に烏天狗に頭を鷲掴みにされて強い力で押し込まれた。
    視界には暗い地面と自分の足が見えるだけ。その代わり、音だけが右から近寄り徐々にその距離を縮めていくのが聞こえた。

    かしゃん、かしゃん

    先導の杖が地面を打つ度、杖に付いた金属の飾りが上下に跳ねて音を立てる。この音が左へと通り過ぎたら顔を上げてもいいのだろう。
    しかしここで予想外のことが起きた。強い突風が行列を含めた一同に吹き付けたのである。
    顔を腕で覆って風をやり過ごそうとして押さえつけていた烏天狗の手が離れた。男も慌てて袖で顔を隠した。
    もともと面布で前が対して見えなかったところに頭上からずっしりと何かが覆いかぶさった。同時に行列側からどよめきの声が聞こえる。

    「ああ、お嫁様の衣が!」

    目を開けてみると、面布とは違う白が頭の上からずっしりと被さっていた
    肌ざわりからして質のいい絹を使っているのだろう。どこか女郎花のようなよい香りもしてくる
    いや、いや、それどころの話ではない。今男は自分にかかっているのが花嫁の被っていた衣装なのではないかと予感していた。でもなければ衣越しにこんなにも視線を感じるはずもない。途端に男の顔からごっそりと血の気が引く

    「あ、こらおにいちゃん!」

    可憐な少女の声に続いて先ほどよりも大きなどよめきが耳に降り注いだ
    おに…?もしかして鬼!?と混乱したまま固まっている男の前に誰かの気配。続いて細長いもののしっかりした指先が頬骨のあたりに触れた。

    「すみません、お怪我はありませんか?」

    若い男の声だった。それと同時に覆い被さっていた衣が取り払われる
    返事をしようとしたところで「あ」という声が出てしまった
    男の面布が衣を剥ぐ際に一緒にずれてしまい、慌てふためいたせいで顔を上げてしまったのだ

    男は二の句が告げなかった。
    隣で烏天狗や一つ目小僧の取り乱す声が聞こえるが視線を外すことができない

    とても綺麗な青年だ
    汚れ一つない真っ白な着物を着た姿はこの世の者とは思えない。
    それを歪に見せたのは、彼が鉢巻のような細長い布で目を覆い隠していたこと
    それから、彼の頭上に生えた白銀に輝く獣の耳だ。背中越しには後光のように見えていた光はまさしく狐の尾で間違いなかった
    嫁ぐ花嫁は白狐だと歌っていた。ならば彼こそがその花嫁に違いないのだろう
    あまりの神々しさに、一瞬だけ過った「花嫁なのに男なのか」という考えはどこかへと消えている

    呆け、と見上げていた男の襟首を何者かがぐいっと引っ張り思わず息の根が止まりかけた
    続いて強く押さえつけられる。先ほど首を垂れた時とは比べならないほどの力に五体投地の格好にならざるをえない。

    「申し訳ございません花嫁様!」
    「この者の大変無礼な振る舞い、心より謝罪申し上げます!」
    「ですが、この者を参列させたのは私共でございます!事情知らぬ者故どうか、どうか恩情をくださいませ!」

    地面に額をこすりつけられながら、必死に謝罪しているのが一つ目小僧と烏天狗たちであるとわかった
    こんなさっき出会ったばかりの根無し草のためにどうしてこんなにも一心不乱に容赦を求めてくれるのだろうと目尻からじんわりと涙が溢れた

    「わ、わ、僕なら大丈夫なんで顔を上げてください」

    目隠しをしているというのに見えているのか、青年の手が肩を叩いた。しかしここで言われるまま顔を上げてしまうのはまずい気がする。恥の上塗りで済めばよいのだが、最悪首が飛ぶ

    どうすればよいのかとどもる青年の後方から、うら若い少女の咳払いが聞こえた。それから何やらやり取りをしているようだが、もはや男の耳には届いていなかった。
    地面にこすりつけていた頭上が静かになる。と、青年のいた場所から気配が消えて違う足音が土を踏みしめた。

    「その者ら、顔を上げなさい」

    鈴の鳴るような声に自然と下げていた頭が上がった。
    見上げると、先ほどの青年はおらず代わりに千早を着た巫女衣装の少女が仁王立ちで見下ろしていた。

    「我らが花嫁様はこのよき日に血が流れるのを良しと思わない。よって我らからは恩赦を与えます」

    少女が少し震えた声で宣言すると、横にいた一つ目小僧と烏天狗は歓喜の声を上げた

    「しかし、その方らは婿様の手の者。我ら花嫁側から判断はできないと考え、沙汰は婿様に委ねることにいたします」

    左右から息をのむ声が聞こえた。ちらりと横の顔を見たら何か言いたげにパクパクと口を開けていた。あからさまに顔色が悪い。
    男にはあまり理解できていないが反応だけ見ればよほどのことなのだろう。
    動けずにいると後ろから布のような何かを被された。突然のことに気が動転していると、「連れて行きなさい」という声と共に何人もの気配に囲まれて担がれた。

    どこかへと運ばれていこうとするなか、青年の「あんなに堂々と指示が出せるなんてまりはすごいな」というのんきな声と少女の「お兄ちゃんがしっかりしないからでしょ!」という声が聞こえた。




    さて、ところかわりまして。
    あれから何者かに運ばれた男と妖怪たちはどこかの一室に座らされていた。

    「どうしてこうなった…」

    膝にやった手を握り締めて男は呻いた。横の妖怪が何か言いたげにしていたが、やはりどうにも言葉が紡げぬようで、やがて諦めて大きくため息を吐いた。

    しかし、何が彼らの法度に触れたのかわからない男は、顔を青通り越して白くしていた一つ目小僧に問うた。

    「…花嫁行列においてほとんどのことは無礼講として容赦されます。しかしその中でやってはいけないことがあるのです」

    小僧は語った。
    嫁ぐ花嫁はまっさらな存在。婚儀が始まるまでは何者にも染まってはいけない。なので白い衣を纏い白い被衣で顔を隠している。視界を遮り、花嫁が初めに目にするものは花婿だけに限られる。介添人だけが花嫁と言葉を交わし、その口からまろび出でる一言すら他者が聞き取ることは許されない。

    「ひとつ、花嫁の衣に触れてはならない」
    青年の衣が風に乗って男に被さった
    「ひとつ、花嫁の声を聞いてはならない」
    青年は彼らに「顔を上げろ」と声をかけた
    「ひとつ、花嫁の顔を見てはならない」
    青年の顔を反射的に覗き込んだ

    「御法度に触れまくってますね…」

    ガタガタと体を震わせながら、小僧は一つしかない目を両手で覆った。もはや状況は絶望的だということだ
    これから自分達はどうなるのかと男は震える口で問いかけた

    「おそらく、花婿様…我らが主人たる龍神様の下す沙汰を待つことになるでしょう」

    横の鴉天狗二羽がギャッと声を上げて慄いた。震えが床を伝って男にも伝播する。それだけでどれほど恐ろしいことなのか嫌と言うほどわかってしまう
    花嫁と呼ばれた青年は物腰柔らかな印象を受けた。
    では花婿の龍神とは如何なる人物…神物…?なのだろうか、となんとなく興味が湧いた
    断じて現実逃避というわけではない

    「…龍神様は、慈悲深くお優しい方です。我らはぐれものを受け入れ、仕事を与え居場所をくださった。少々言葉足らずなところはございますが、本当に懐の深い御方なのです」

    そういえば、男がこの地に至るまでに暴れ龍の噂を聞いた。
    この地において龍と呼ばれるものは暴れ龍しかいない。龍は近づく者全てを拒み、恐ろしい目に合わせるとも。
    まさかとは思いつつ彼らの言う龍神と己の聞いた暴れ龍の関係を確認してみたところ。

    「同じ方でございます…」

    と返されあんぐりと口を開けたまま戻らなくなってしまった
    曰く、人に奉りあげられ龍神へと成ったのだという

    「しかし、噂ほどに悪虐非道な御方ではございませんので誤解しないで頂きたい」
    「お館様は普段ならば慈悲深い御方でございます」
    「花嫁様が関わらなければお優しい御方でございます」

    空気が凍った
    先程よりも随分湧き上がった様子で捲し立てた妖怪達は最後の言葉で喉が絞まったように口を閉じた

    「花嫁様に危害がなければお優しい方なのですが…」
    「わかった、それはわかった」
    「むしろ花嫁様に何かがあれば烈火の如く怒りを露わにされる」
    「我ら身内の者のためにも拳を突き上げてくださるのだが、花嫁様に関しては顕著なほどお怒りになる」

    つまりつまり、とどのつまり
    知らなかったとは言えあの花嫁に無礼を働いた自分達はどうなるかなんて火を見るよりも明らかだ。
    途端に男の体が恐怖心で戦慄いた。
    一口で食われればまだ良いほうだ。永劫ともわからない苦痛を味あわされながら粉微塵になるまで八つ裂きにされ地獄のような恥辱と苦悶に塗れて死んでいくのやもしれないと考えるだけで怖気が背中を襲う

    「唯一救いがあるとすれば、その花嫁様側がお許しを与えてくださったことでしょう」
    「ああ、あれがなければ我らは既に姿形もこの世から消えていた」
    「ああ、でもあちらは龍神様に沙汰を預けると言われたから処されるまでの時が延びただけかもしらん」

    悲嘆に暮れる二羽目の烏天狗の頭を一羽目が殴った。一瞬見えた希望を後ろ向きな発言で潰されては怒るのも仕方がないだろう

    烏二羽が耳障りな羽音を立てて喧嘩しているのを薄らぼけた視界で見つめていると、襖の音が大きく鳴り響いた

    「いつまでもギャーギャーとうるせえ奴らだな」

    黒よりも暗い直黒の衣を纏う恰幅の良い男性が畳の上げる悲鳴も聞かずのしのしと部屋に入ってきた。
    同時に喧嘩していた烏天狗も絶望に打ちひしがれていた一つ目小僧も息をつめたような音を立ててその場に首を垂れて平伏す。
    その様子を見る限り彼が件の龍神ということで間違いがないのだろう
    畳に手を着いたままポカンと締まりのない口を開けている男に、龍神はぎろりと目線を移した
    その瞬間、男の体全体にずっしりと重みがのしかかる。威圧感、と言うべきか。
    のんべんだらりと生きてきた時間の中でこれほどまで息苦しいと感じる圧は初めてだ。精々、働かない男に腹を立てた母親が鍬片手に出ていけと凄んできた時ぐらい。当然龍神の醸し出す圧力はその比などでは到底ない
    皮が引き攣り肉が戦慄き骨が軋み内臓が圧縮される。自分が自分でいるのかすら考えも巡らず、頭にどんな思いも考えもその圧で押し潰されて浮かぶことも叶わない。己が矮小な存在であることをこれでもかというほどに思い知らされるような息苦しさに、思わず目尻に涙が溢れ口許には涎が垂れる
    これが永劫に身を喰らい尽くす苦痛なのか、そう男は回らない頭でどうにか言葉を浮かべた

    「『機嫌が悪いからと言ってあまり人にあたってはいかがなものだろうか』」

    突如、何者かの声だけが頭の中に鳴り響いた
    項垂れかけたまま霞む視界で見上げると、龍神を無感情な目で見つめる男性がいた。
    このあたりでは、というか男が今までの旅すがらですら見たことのない衣服を纏った男性は目の当たりを覆う奇妙な飾りを軽く押し上げるとこちらには目もくれずに壁にもたれかかった

    「…別に、機嫌がわるいわけでもあたっているわけでもない」
    「『そうか、それなら悪いことを言った。てっきり大して交流もない神々が外で宴会を広げていたりこれから彼らの前に出なきゃいけなかったりそもそも花嫁行列が遅い気がしたりこちらに向かっている花嫁に何かあったのか心配だったりがないまぜになってどうにも立ち行かない気持ちが吐き出せずに渦巻いているのが不快なだけなのかと思っていた』」
    「全部言ってんじゃねぇか!テメェ、オレの心を読んだな!」
    「『悪いが好き好んで読んでいるわけではない、と弁明しておく。君のことだからそう言っても納得はしないようだが』」

    男があれほど恐怖心を植え付けられた龍神に対して男性はただ淡々と言葉を返している。時折発せられる苛立ちの波動だけでこちらは卒倒しそうなほどなのに、風が通過しただけかのように飄々としているのがただ異様だった。
    そもそも龍神と対等に話すことができるこの男性は何者なのか。先程から会話をしているはずなのに一度だってその口が動いているところが見えない

    「『ふむ、KKの気に圧倒されている割には正気を保っているな。それどころか精神的にやられているというのに周りを観察する余裕は持ち合わせているようだ。KK、彼は案外肝が据わっているみたいだよ』」
    「んなもんにオレは興味ねぇよ」
    「『そうか、別に構わないが。それよりも彼の今の興味はKKではなくボクに移った。とはいえボクが説明したところでただの人間が理解できるとは思えない。気になるのならボクのことは隣の妖怪から聞くといい。その間君の命の保証はしてあげよう』」

    なんだか妙なことを最後に付け加えられた気がするが、とにかく与えられた権利は行使するに越したことはない
    男が隣で平伏していたままの一つ目小僧の肩を揺さぶると、震えながらもゆっくりと顔をあげた

    「あの方は外つ国の神の一柱でして、呼び名を“えど様“とおっしゃられます。海向こうの御方でして、普段は『でんわぼっくす』なる箱からのみお声を拝聴することを許されているのですが、このめでたき日にお姿を現しになられたようです。えど様の本質に関しては私共も存じ上げないのですが、今のところ『時にも縛られず、相手の心を読み、千里先の万物を見る』ということだけが伝えられています」

    そう一息でどうにか聞き取れる程度の声量で語った小僧はすぐに頭を床に擦りつけた
    とりあえず頭の中で何度か咀嚼してようやくわかったような気がする。それでもかなり無理矢理理解したにすぎない
    語られたエドなる神は目を合わせることもなく肩を一瞬すくめてみせた

    「『まあわからないなりにうまく説明したと言っておこう』」
    「はは、勿体なき御言葉痛み入ります!」

    これはなんの茶番だというのか
    ただじっと待たされ続けた龍神は苛立たしげに組んだ腕の上で人差し指をたんたんと叩いた

    「んで、偉大なるエド様はこんなとこまで何しに来たってんだよ」
    「『大した話ではない。これから君は彼らに沙汰を下すつもりのようだが、結果次第では暁人が落ち込むと助言しにきただけだ』」
    「あ?」

    ゆらゆらと揺れていた龍神の尾が一瞬ピタリと動きを止めた。しかし瞬きの間にまた機嫌が悪そうに揺れ始める

    「『別に彼らが塵芥に返されようが君が新婚早々口をきいてもらえなくなろうがボクには全く関係はないんだが、それでもよりマシな未来を選んだほうが面倒がなくていいだろうと踏んでの行動だ。とはいえ決めるのは全て君次第だからボクのことは気にしないでくれ』」
    「待て、待て待て。前半はいいが後半は聞き捨てならないぞ」
    「『安心してくれ、口をきいてくれないと言っても精々一瞬。現世の時間では一週間か誤差で一年ほどだろうね』」
    「十分長えわ!」
    「『君の感覚ではそうなのか。何にせよ、狐の社の者たちは情状酌量の余地ありと判断した。それを考慮した上で君の気が治る落とし所を探すべきじゃないかな』」

    苛立つ尾がついに床を打った。バシンとしなったのちもたげられた尾からは床だった残骸がハラハラと散る
    身をすくめた妖怪たちと身を寄せ合ってことの成り行きを見守ることしかできない男は、エドが龍神を落ち着かせたいのか煽りたいのかもわからない。一応便宜を図ってやろうという気概は感じるのだが。

    「『暁人のためにも君自身のためにも、下す沙汰は怒りに任せたものではなくきちんと考えられたものでなくてはいけないだろう。そのためにもボクがいる必要がある。文字通り客観視できるボクがね』」
    「はあ…ちゃっちゃと終わらせるつもりだったんだがな」
    「『ついでに言わせてもらうと、花嫁行列が到着するまでまだまだかかるから時間については気にしなくてもいい。今ちょうど行列の後方で酔った河童と山童が取っ組み合いを始めたところだからね』」
    「何!?あいつら…」
    「『暁人は後ろからの騒ぎ声を楽しんでいるし、麻里も呆れながらも止める気はないようだから安心するといい。少なくとも君が考えを巡らす余裕は十二分にある』」

    先程まで産毛が逆立つような殺気を隠す気もなかったというのに、それを聞いた途端怒気が徐に治まっていくのを感じた。どうやら苛立ちの元が一つ消えたらしい。かといって男らの処遇が決まったわけでもないので手放しに安堵することはできないのだが。
    目を閉じて少しばかり大きく呼吸を繰り返した龍神は瞼を開けてすぐ黒曜石の瞳を男に向けた

    「人間。知らなかったとはいえお前は法度に触れた。だからオレはお前たちに裁きを与えなければいけない。本当は今すぐ喉笛を食いちぎってもいいくらいなんだけどな」

    龍神は口角をギィと上げて笑ってみせる。しかし男を見つめる瞳に光はなく、まるで好意的な意志は感じられない。これには思わず口許を引き攣らせることしかできなかった

    「さて、これからいくつか質問をするが、端的に事実のみを答えろ。先に念を押しておくがこの場所には心を読めるエドがいる。それでなくともオレは心の中は読めないが嘘くらいは簡単に見抜ける。そのことを念頭に置いたうえで慎重に答えることだ。少しでも言い逃れの兆しがあれば狐が許そうともオレは瞬きの間に罰を与える。わかったか?」

    男の前にどっしりと胡座で座り込んだ龍神は肘をついてこちらを覗き見た。暗緑色の鱗に覆われた腕の先には鋭く尖った爪がぎらりと光る。歯を見せて笑った時に覗いた鋭利な牙は人間程度の皮や肉など豆腐を抉るより簡単に引き裂いてしまうだろう
    一瞬だけよぎった最悪の情景に身震いした男がガクガクと頭を縦に振ると、龍神はふんと鼻息一つ吹いた

    「さて、一応事のあらましは聞いている。まず、お前は花嫁行列が通る道に着のままで転がっていたところをそこの烏天狗たちと一つ目小僧に見つかった。間違いないな」
    「はっはい。誓って偽りはありません。旅すがら盗人に襲われ、あの場所に捨て置かれていました」
    「そうか。で、そいつらに薦められるまま行列の賑やかしに入ることになったと」

    男が首肯すると、龍神は顎にまばらに生えた髭を手のひらで撫でる。
    その間、ずっと左右に身を縮こませていた妖怪たちはガタガタと沙汰が降るのを待っている。まるで刑が執行されるのを刑場で待っている罪人のようだ

    「その際、花嫁が被っていた布が風で飛ばされたのを拾ったわけか。あの布は結構厚みがあるからちょっとした旋風程度なら飛ぶことはないんだがな」
    「『それに関しては、一つ明確な理由がある』」
    「なに?」
    「『簡単な話だ。花嫁行列の横を猛烈な勢いで通過した者がいた。それが妖怪や精霊の類ではなく神の一柱だっただけだ』」
    「神風か…それなら納得できるな。で、誰がやった?」
    「『暴風と雷雨の女神』」
    「凛子ぉーーーー!!!」

    龍神が吠えると周囲の壁や柱がびりびりと震えて揺れた。そのあまりの風圧に頭の中まで揺さぶられる。強い眩暈でおかしくなりそうだったが、ここで意識を手放して次に目を覚ましたら奈落の底など笑えない。腹の底に力を入れてグッと堪える。隣の妖怪たちは目を回したまま卒倒していた。

    「『凛子なら今手が離せないから呼んでも来ない。一応婚儀には間に合うだろうから文句ならその時に言えばいい』」
    「…ったく、あいつめ…はあ、まあいい。よく耐えたな人間、続けるぞ。」

    味方もいないまま事実確認の質疑は続く。もはや男の中には後悔という文字しか浮かんでこなかった。
    あの時顔を上げなければ。あの時賑やかしなどに興味を持たなければ。あの時妖怪に声をかけられなければ。あの時盗人に遭わなければ。あの時あの道を通らなければ。あの時この場所を訪れようと思わなければ。あの時旅に出なければ。あの時郷を追い出されなければ。あの時真面目に働いていれば。あの時、あの時。

    「『後悔はしなくてもいい。君は今人生の岐路に立っている。うまくいけば面白い生になるだろう』」

    頭の中で声が響く。しかしこの声に目の前の龍神はおろか卒倒したままの妖怪たちも反応を示さない
    もしや、今のこの声は自分だけにしか聞こえなかったのだろうか。後ろのエドを盗み見ると、龍神の死角で彼はうっすらと口角だけを上げて見せた
    一応味方と考えてもいいのだろうか。しかしそのような慈悲深さとは縁遠いようにも見えて、なおさら胡散臭く思えた。いっそ何かの意図すら感じる

    「それで、お前は顔を見たんだな」
    「…はい。面布が取れてしまいました」
    「声も聞いた」
    「声をかけられました」

    声が震えぬようにするのでもはや必死だ。これでは保身のために嘘を吐くなんてそもそも難しいのではないだろうか
    龍神は男の返答のあと、後方のエドに視線を投げた。念のため確認ということだろうか。しかし投げられたエドはというとこっくりと頷くものだから、龍神は呆れたように深くため息をついた

    「…なるほど、これは狐の一派が恩赦を与えるわけだな。布が飛んだのは凛子が横切った時の風圧。顔を見たのは被されていた面布が取れたせい。声は…暁人が気を抜いたせいってか。そりゃこいつ自身の過失はない。全ては偶然が引き起こした不可抗力なんだもんな」

    頭痛がするといった具合に額に手をやって頭を抱える。
    問う罪がなければかかる罰もない。事実が明らかになれば何のこともないことに拍子抜けしたのだろう。先程とは打って変わってゲンナリと下がった肩がいっそ痛々しい
    そんな姿に男は内心気分が上がっていた。これはもしや無罪放免なのではと。そもそも無礼を働いたとはいえ、全て意図したものでもないしほとんど事故のようなものなのだ。それで死をもって償えと言われてもやりきれない。
    そんなことを知ってか知らずか、顔を上げた龍神は一度閉口したあと少し逡巡した。

    「花嫁の目は見たか?」

    そんな問いに男は首を傾げた。
    目、と言われても顔を上げた時花嫁は目隠しをしていた。それなのに車を降りて男の前まで来れたものだと驚いたことを記憶している。
    否定の意味で首を横に振ると、龍神はそうかとだけ答えてまた深くため息を吐いた。これに一瞬びくりと肩を震わせたが、それが今までの呆れなどとは違う、どちらかというと安堵したようなもので…何とも不思議な気持ちが巡った。

    「さて最後の質問だ」

    男の背中に芯が入ったように背筋が伸びる。
    本能でわかった。ここが人生の岐路なのだと。
    異様なほどの真剣な眼差しに思わず生ぬるい汗が首筋と背中につたう

    「…なあ人間よ、オレの花嫁は綺麗だったか?」

    返事をしようとして開けた口がピタリと動きを止めた。

    これは、これはどう答えるのが正解なんだろうか
    緊張で溢れそうな唾をごくりと嚥下しながら額に浮き出る汗を袖で拭く。
    綺麗かどうかなんて本心から答えるのであれば容易い。全く飾られていないにも関わらず真っ白な衣に身を包んだ青年は魂を取られたのかと錯覚するほどに美しかった。天の使いと言っても過言でない、神の花嫁と呼ばれるに足る神々しさ。
    さあ、これを事実として目の前の神にまま伝えるべきなのだろうか。
    男が青ざめた顔で閉口する様を龍神は妙に楽しげに眺めていた。これは試されているのだろうか。それとも遊ばれているのだろうか。
    いっそ素直に本心からの言葉をぶちまけてやってもよかったのだが、相手はその花嫁を娶る神である。あまり褒めすぎて気があるのではと思われては瞬きの間に首が飛ぶ。むしろそれで済めば幸運で、悪ければ死なない程度に痛めつけられたのち花嫁を掠め取ろうとする不届者として野に晒され後世まで汚名を被りつづけることになるだろう。
    かといって嘘を吐くわけにもいかない。ここで自分可愛さに方便を垂れればそれはそれで怒りを買う。先程ご丁寧に嘘を吐いた場合の末路を教えられたところである。なので下手な嘘を吐くのは完全に選択肢から外すことになる。
    なるべく死にたくない。死ぬことが決まっているのならせめて穏やかに安らかに屠ってほしい。
    唇を噛み締めて考えを巡らし続ける男の姿に龍神は喉を鳴らして笑った。何だか先程までの不機嫌さが嘘のような清々しいほどの笑顔だった

    「いや、いやいや悪かったよ。意地の悪い質問だったな。お前さんがあんまりにも百面相で悩むものだからつい面白くなっちまった。これは単なる戯れだ。この回答によってお前の沙汰を決めるなんてことは誓ってしねぇから思ったまま好きなように答えてくれればいい」

    くっくっくと未だ治らない笑い声に一瞬呆気に取られたがそのうち乾いたような笑いがこぼれた。
    本当に戯れの類だったらしい。気にするなとバシバシ叩かれた肩が軋むように痛い。
    力を入れたままだった肩からごっそりと重みが消え、思わず腹の底からため息が漏れる。
    死ぬかと思ったと感じる経験は旅の道すがらいくらでもあったものだが、死んだと思ったのはこれが初めてだ。
    全身から力が抜けた状態で改めて龍神の姿を見た。
    堂々とした居住まいは貫禄があるものの、人を食ったような(言葉のあやである)表情には傍若無人とも取れる影が見え隠れしている。しかしそれは表面上のもので、品定めをする眼差しはあくまで凪いだものだ。さらに言えば刃物にも似た眼光の中には妖怪たちを治める長としての威厳と、守るものがいる者の精悍さも秘めている。それでも相変わらず顔は怖いが。
    とは言え、今はどこか焦りのようなものがあるのだろう。黒々とした瞳には「早く終わらせたい」という本音までが見えてしまっている。それはそうだ、そもそも彼は今宵の主役の一人。こんなどこの誰かもしれない人間に構っている暇なんか瞬き一つもありはしない。
    龍神の背後で腕を組んだ姿勢のまま口元を手で覆ったエドが先程から笑いを我慢しているように小刻みに震えていたが、気にせず男は口を開いた。

    結果から言えば上々。男が羅列する賛美の言葉は龍神とエドが驚嘆するほどであった。

    「穢れない、とはよく言ったもので一点の曇りないお姿は煌々と輝る月明かりにも劣らないものでした。自分の視界に入ったのは瞬く間のみではございましたが、しかしその刹那で十二分に刻まれております。貴方がたが分厚い布で隠されるお気持ちは烏滸がましくも理解できると感じました。美しいままで御迎えされるのはもちろん、そのお姿を目に止めてしまえばきっと誰をも己がいかに穢れたものだと否応なく気付かされその場に臥してしまうことでしょうから」

    時間にしておおよそ部屋二往復程度。きっと深く息を吸ってさらに深く吐くほどのものだっただろう。
    しかしそんな短い時間でも向かいの二柱を一驚させるに値するものであったのは間違いない。淡々とした語り口にはおべっかも太鼓持ちの片鱗もなく、強いていうのであれば台詞というより情景文にも近いものだった。

    「…なるほど、な」

    男が口を閉ざした一瞬の隙に龍神は遮るように言葉を挟み込んだ。
    これ以上喋らしては日が昇ると判断してのことだろう。エドもこの辺りのことは見ていなかったのか、驚きのまま徐に口角を上げつつどこかゲンナリと疲れた顔をしている。
    男もまだ話せると言いたげではあったが、十分だと言われてしまえば続けることもできずまま口を閉ざす。ここでさらに続けていらないことを言うべきではないと本能が告げていたからだ。
    しかし龍神の表情は思いのほか明るいものだった。それどころか期待に胸躍らせているようにも感じられる。

    「これ以上は自分の目で確認させてもらおう」
    「『ボクは割とお腹いっぱいだけど』」
    「掛け軸の餅で腹を膨らませるのは勿体無いだろ?もうちょっと付き合ってもらうぜ」
    「『やれやれ。興味本位で口を出すべきではなかったか』」

    龍神がのっそりと立ち上がる。黒々とした双眸に黄金色の鋭い眼光が走って消えた。

    「いいかげんこの茶番を終わらせるか。おい、そいつらも起こしてやれ」

    焦りながら男が横でひっくり返っている妖怪たちを揺さぶり起こそうとした。しかし龍神が柏手を二度叩いた途端手のひら程度の大きさの小鬼がワラワラと屋根裏やら柱やらから現れると集団で襲い掛かった

    「え、ちょっと何するんだ…!」
    「あー気にすんな。家鳴りに集られたくらいで死にゃしねぇ」

    慌てて追い払おうと手を伸ばしたところで制止される。しかし顔に登った奴や髪を引っ張る奴なんかもいて見る限りでは痛そうだ。
    そうして数える程度の時間が過ぎ、痺れを切らした家鳴りたちが口と鼻のあたりを塞いだあたりで一つ目小僧と烏天狗たちは家鳴りを跳ね飛ばす勢いで起きあがった。

    「沙汰を言い渡す。全員居住まいを正せ」

    涙混じりで無事な姿を分かち合う暇もなく、龍神が床をズンと音を立てて踏んだ。一瞬地面が揺れたのかと思うほどの衝撃に体が一寸ほど浮いた。思わず投げ出された足やら腕やらが綺麗に折り畳まれて自ずと正座の形に造られる。余韻も何もない。

    「さぁて誰からにするか」

    横目で見た妖怪たちは皆首が飛ぶのを青白い顔で待っているところだった。
    彼らが卒倒している間に男の中での恐怖心は随分と薄れたものだが、それでもギロリと見下ろされてしまえばやはり五臓六腑が縮んだような心持ちになる。

    「まずは烏天狗ども」
    「「はいっ!!」」

    俯いていた二羽の背筋が伸びた。その顔は苦痛を早く終わらせてほしいと書いてあるように息苦しい。毛穴が広がっているのか、羽の一枚一枚が逆立っているのを心配したような顔で一つ目小僧が覗き込んでいた。

    「お前たちは自分の仕事をした。花嫁行列に倒れていた人間をいち早く見つけ邪魔にならないよう接触した。多少遊んでたみたいだが、まあ今日くらいは多めに見てやる。そもそも法度に触れるようなことはしてないしな。よってお前らは無罪放免」
    「そ、そんな!」
    「我らは人間を誘い花嫁様のご尊顔を盗み見てしまいました!それでお咎めなしとは」
    「あーあーうるせえ。お前ら主人の決定に異を唱える気か?今回のは事故として処理してやるからとっとと持ち場に戻れ」

    耳に小指を突っ込み煩わしそうにする龍神にそれでも罰を与えろと烏天狗たちがガアガアと喚いた。事故とはいえよほど罪悪感に駆られていると見える。

    「わーかったから静かにしろ。ガアガアうるせえんだよ。はぁ、そうだな…お前らしばらくオレたちの足になれ」

    一瞬、うるさかった二羽にまるで喉を絞められたような静寂が訪れる。
    しかしそれも刹那のことで、その言葉を聞いた二羽はハラハラと黒い目から涙をこぼした

    「そ…そのようなお役目を仰せ付けられるなんて…」
    「我らに罰を…褒美ではなく罰をお与えくだしゃい…」
    「なんで泣くんだよ…ちょっとした遠出の時足場にすることのどこが褒美なんだ?呼ばれたらすぐ飛んでくるんだから立派な罰だろうがよ」
    「そんなことございませぬー!」
    「立派な大役にございますー!」
    「めんっどくせぇ!!早く戻れよ手が足りてねぇんだよ!」

    唸り声を上げた龍神に追い立てられるように烏天狗たちは窓から飛んでいってしまった。
    去り際、甲高い声で「頑張れよ人間!」「宴会場で待ってる!」などと嬉々とした様相のまま叫んだのは余計だったが。
    それを見送りつつ頭が痛そうにしている龍神は、今度は一つ目小僧に向き直った。小僧が目を閉じて自分の袴を握りしめたのを柔らかい眼差しで見つめている。

    「さて、一つ目小僧。お前にも沙汰を下す。心して聞け」
    「…はい」
    「お前は烏天狗たちへの指示役として指揮をとっていたはずだ。勝手にあいつらが遊ばないように諫めたとも聞いている。だが、お前はそこの人間を招き入れた。邪魔になるなら術なり使って麓の村の近く辺りに追い出すこともできたはずなのにだ。それは何故だ」
    「…主君に対し勝手ながら申し上げることをお許しください」
    「許す」

    「私は、この男があまりにも哀れに思えたのございます。郷を追われたのは彼の怠慢ではありますが、それでも居場所もなく旅と称しつつ流れる根無し草。さらに有金も荷物も全て奪われ死にかけていたこの男に同情いたしました。痛ましい姿を哀れに思い、せめて一夜だけでも夢のような楽しい時間を送らせてやりたかったと思ったのです。夢だと思われてもいい、少しでも彼の人生の糧になればと」
    「施しを与えたかったか。こいつ自身がどう思おうとか」
    「ええ、あまりにも憐れみを覚える姿をしておりましたから」

    徐に小僧を見ると、彼はひどく優しい顔をしている。それがなんとも慈悲を感じるもので…正直惨めに思えた。
    今まで何をも成し遂げてこれなかった男が、子供のような姿をした妖怪に同情されているなんてあまりにも悔しい。自分の人生にまるで意味を見出してこれなかった男が初めて己の生き様の痛ましさに気がついたのだ。
    ただ、何をしなくても生きることができると思っていた男にとってあまりあるほどの衝撃に頭が揺さぶられた。なんでそんなに優しくしてくれるのかとも思っていたが、こんなにも憐れまれていたとは。涙が出てくるのは悔しさからだろうか。

    「…オレとしても長く仕えてくれているお前を手放すのは心苦しい。というかお前に代わる才あるものを探すのが面倒くせぇ。よってお前にはしばらくの暇を与える。少し役目から離れて考え事に費やすといい。それからお前に与えた権限のいくつかを他の者に分配することにする。暇ののち、屋敷の門番に移動だ」
    「寛大な御心に感謝いたします」

    恭しく額を床に擦り付ける礼をした小僧は、男に向き直った。視線の合わない大きな目はどこか申し訳なさを感じさせる。

    「すみません。私は貴方に施しを与えることで己の優越感を満たしていたようです。…小僧の癖に煩悩に塗れた私こそ恥ずべきものです」
    「…あんたは俺を心内では嘲っていたのか」
    「いいえ!………いいえ、もしかしたら心のどこかで襤褸を着た貴方を嘲笑っていたのかもしれません。身の丈に合わぬ仕事を任されて思い上がっていた。ふふ、一つ目小僧のくせに天狗になるとは笑ってしまいますね」
    「そう、か。そうだな。俺は馬鹿だ。あんたを怒る権限なんかない。何をも為せていない、何からも逃げてきたくせに一丁前に自尊心を犯されたとは言えまい」

    「ならば何かを為せるようにしてやろうか?」

    ことの成り行きを見守っていた龍神が口を挟んできた
    一同の視線がまとめて彼に向かっていく。しかしあまり感情を乗せない瞳はそれらをまるで無視してただ男にだけ注視した。一瞬だけ灯った鋭利な光に男の心臓が凍る

    「これはきっかけに過ぎない。世間にお前さんの名が残るわけでもない。ただ何かを為したという結果が自分の中に残るだけだ。それでもいいと言うならこれから下す沙汰に従うといい」

    男の沙汰はまだ下っていない。しかし言葉尻は非情なものではないように思えた。
    それどころかどこか背中を押されているような。今までの生で出し渋っては諦めていた一歩を踏み出すための手のひらだ。

    「…以下様にも、従います」
    「よく言った」

    龍神は男の返答に満足したようニヤリと笑う

    「この騒動を引き起こした張本人だからな、他の者たちの様な扱いはできない。偶然の事故とは言え、お前が法度に触れた事実は変わらん。よってお前には相応の罰を与える」

    生ぬるい唾液を誰かがごくりと飲み込む音がした


    「人間よ、“お前は此度の婚儀の仔細を記憶し、人の世に間違いなく伝聞せよ”これを持ってお前の罰とする」


    「…………え?」

    頭を床に着くほど下げていた男が間の抜けたような声を上げて体を跳ね上げた
    見上げた先でエドが顔を伏せたまま肩を震わせている。その音が伝わったのか斜に構えたような立ち姿で見下ろす龍神が振り返った。

    「『KK…君、生け贄を追い返すのが面倒臭くなったね?』」
    「うるせえよ。いらねぇってんのに困るたびに若い娘を寄越してくる奴らが悪い」

    どういうことなのか。男だけがまるで話についていけない様子で周囲をキョロキョロと見回す。先程まで緊張していた小僧ですらなぜか楽しそうにしている。
    目を白黒させている男に訳知り顔の小僧が優しく説明してくれた

    「このあたりの風習で、龍神様の川に贄を出すと安寧に暮らせるというものがありまして。元々は雨を求めた人間たちの苦肉の策だったようですが、いつの間にか何か災がある度に若く麗しい娘を花嫁と称して供物として龍神様に捧げるようになってしまったのです。しかし龍神様にはもう生涯お一人とお決めになられた相手がいらっしゃいますのでいくら見目のいい女性をあてがわれたとしても怪我のないようお返しするしかございませんでした」
    「年々贄に出される娘の見た目の度合いが上がっていくのが余計に煩わしくてな。下手に帰すと人攫いに会うかもしれないうえに、奥まった場所だからそうなっても誰も気がつかない。妙な奴らにこの辺りを狩場にされても困るし、勘違いした人間に妙な因縁をつけられるわけにもいかんからな。いい加減けりをつけるべきだと思ったところだ」
    「『そう言いつつ新婚に水を刺されたくないというのが一番の理由だ。花嫁はその辺り甘いから部外者が立ち入って手を出さないとも限らない、と懸念している』」
    「おうエド、口が過ぎるとは思わないか?」
    「『おっと、これは失礼』」
    「失礼だと思ってねぇ口振りだな」

    頬をほんの少し赤らめた龍神がエドを睨みつける。本人は織り込み済みだったようでどこ吹く風だが。

    「お前さんのよく回る口を見込んでっつうこった。安心しな、ことが終わったら人里に送ってやる」

    つまるところ、今宵の婚儀の逸話をうまく作って下ろした人里で流せ、ということだろう。

    「広き御心からの沙汰に、従います」

    その場でグッと頭を下げた。
    男の肩からごっそりと力が抜けた。代わりに疲れがのしかかってくる。
    生きてる。ようやく全身から脱力した。こういう手合いが約束を違えるとは思えない。少なくとも己に課された沙汰を全うするまでは生きていることは許してもらえたらしい。むしろ死ぬことは許されないような気もするが。

    「おら、わかったらとっとと出てけ」
    「『他の妖たちに合流して祝いの宴に加わるといい』」
    「恩赦は与えたがあまりはめを外しすぎっと頭から食っちまうからな」
    「『うまい酒も食事もあるが明日に響くような飲み方はするなと周りにも言っておいてくれ』」
    「…自分に課せられた罰を忘れるなよ」
    「『今宵は俗世の憂も忘れて楽しんでいくといい』」
    「エド」
    「『オレの心の中を読むな、かい?』」
    「わかってんならお前もどっか行けよ」

    口振りからするにどうやら旧知の仲らしい。ぽんぽんと重なる言葉の応酬が心地よい。
    男は呆けとやりとりを見ていると、立ち上がった小僧に肩をぽんと叩かれた。
    こちらも先程のやりとりがあった故に少しばかり緊張したが、彼によくしてもらったというのも事実。口元を緩めてヘラりと笑みを返して足元のおぼつかないままに立ち上がった。

    「ところでエド」
    「『ああ、安心するといい。心から微笑み合う花嫁と君の未来が見えるよ』」
    「…そうかよ」

    部屋を後にする際、そんな会話が聞こえた。



    一つ目小僧に連れられた男が建物の外に出ると、そこは大きな社だということに気がついた。
    どうやらここはこの辺りで一番大きな山の神の社だそうだ。本当はあの龍神の社で花嫁を迎えたかったそうなのだが、いかんせん昔に作られた祠で小さいうえになかなかに古臭いそうだ。

    「お嫁様は気にしないとおっしゃられたらしいのですが、龍神様が渋いお顔をされまして。『嫁を迎えるってのにこんな社じゃ甲斐性なしみてぇじゃねぇか』などと不服そうにしていたため山神様に場所をお借りした、という具合です」
    「なるほど…俺が人里に今宵の話を伝えたら立派なお社を作るように働きかけよう。喜んでいただけると嬉しいのだが」
    「ええ、ええ。もちろん、お喜びになるはずです。特に祠のあたりはややあって土地が拓けてしまいましたものですから尚のこと」

    拓けた?と聞き返そうとしたものの、小僧はニコニコと嬉しげにするばかりで続きは聞くことはできなかった。

    石造りの参道には本殿まで続く赤い敷物が地面を染めている。ここは花嫁が介添人と通る道なのだそうだ。代わりにその端にはずらりと客用の宴会机が並べられている。机の上にはまだ婚儀前だというのに豪華な食事や酒が広げられていて、魑魅魍魎がどんちゃん騒ぎを始めていた。中には先ほどの烏天狗たちもいる。…手が足りないって話だったはずだが、もしやみんなここでもう始めているせいで足りていないのではないだろうか。

    小僧に手を引かれながら烏天狗たちの席へと行くと、元々赤っぽい頭がさらに真っ赤に出来上がっていた。

    「おう一つ目の!悪いが先に始めさせてもらっている!」
    「おう人の子の!悪いが先に飲ませてもらっている!」

    見ればわかる。

    「…烏天狗や。持ち場はもういいのですか?」
    「我らの見る場所はすでに行列が過ぎておった!」
    「でしょうねぇ」

    ほぼほぼ出来上がっていた烏天狗たちが上機嫌に羽をバサバサとばたつかせた。机の上を見やれば、酒が入っていたであろう徳利が空のままゴロゴロと転がっている。
    呆れたような声を上げた一つ目小僧が「私たちも始めましょうか。ほどほどにね」と席に着くよう促す。
    膳の上が乱雑になったままで誰かが座っていたと思われた席だったが、男が座ったところで小僧が手を一つ叩くとたちまち食いかけだったものが綺麗な御膳に変わった。男が目を白黒させていると、横にいた烏天狗たちがその反応に対して楽しげな声を上げながら手を叩いて喜んだ。妖怪の類は人の驚いた顔が面白くて仕方がないらしい。
    苦い顔をしつつも男がとりあえずと目の前の魚に手をつける。白身が口の中でほろほろと崩れ、程よい塩味と甘味が広がっていく。人生で一度として味わったことのない美味さに驚いた男が小僧に訪ねると、これは鯛という魚だと快く教えてくれた。
    旅人である男は旅すがら沿岸部に立ち寄ったこともしばしばある。しかし大した路銀を持つわけでもない男が鯛などと高級な魚に手が届くはずもなく、名を知るばかりのものであった。それがこれほど聞きしに勝る美味さとは。
    目を輝かせて食い始めた男に周りの妖たちも気を良くしたのか、これもこれもとどこからか小鉢を回してくるようになった。中には青白く輝きを放つ食い物もあったが、生きた人間が食べるものではないと即時に小僧によって返されていた。

    美味い飯に美味い酒。豪華な笑い声と囃し立てる声。飲めや歌えやどんちゃん騒ぎ。
    人の世ではおおよそ体験することできなかった宴の最中に男はいた。己に課された罰のためとはいえ、これほどに楽しいことがあっただろうか。自然とこぼした笑い声に、小僧や烏天狗たちもつられて大いに笑った。

    ちりん
    そんな中ふと美しい鈴の音が境内に鳴り響いた。

    その瞬間、全ての音が鳴りを潜め静寂が生まれた。

    あれだけ騒いでいた妖怪連中が水を打ったように静かになる。大きく笑っていた口が一様に閉じた。
    何事かと声をかけようとした男の口を隣にいた烏天狗が大きな手で塞ぐ。そのまま抗議しようとした男の声よりも先に鈴音の声色が広く響いた。

    「花嫁様がいらっしゃいます。皆、無礼のないように」

    小さな影が前を通る。ここにくる前の道中で見た鈴彦姫だった。可愛らしい顔がこちらを見とめた一瞬険しげに歪んだのが見えて、思わず申し訳なく肩を寄せた。無礼を二度も働くわけにはいかない。ここはなんとしても切り抜けねば。

    周りが頭を下げたのを真似て自分も下げる。頭と骨だけになった鯛と目があって少しばかり気まずい。
    そのうち、カランという下駄の音に隠れてペタ、ペタと裸足で歩く音が聞こえた。下駄のほうが間隔が短いところを考えれば花嫁の青年の方が裸足の音なのだろう。
    一歩、一歩と進める足は覚悟と共にしっかりと地面を踏む。どこか緊張感もありながらも少しばかりそわついている気がするところが、花嫁の心が浮ついていることを感じさせる。頭から被った白い布で表情はわからないが、きっと沈んではいないのだろう。

    自分の周りが頭を上げたと同時に自分も頭を徐に上げた。どうやら問題行動は起きなかったらしい。ほっと息を吐いたのち、参道をまっすぐ歩く後ろ姿をチラリと覗き見た。足首のあたりまで被った白い布に月の光が当たり、中の影がうっすらと見える。やはり足取りは軽い。
    その手を一歩前を進む巫女装束の少女が引いている。無礼を働いた花嫁行列で自分達に温情を与えると言った彼女がどうやら介添人だったようだ。腰の辺りから生えた狐の尾が月明かりを浴びて黄金色に煌めいている。

    本殿の前に着いた少女と花嫁が足を止めその場でかしずく。
    頭を下げたまま、可憐な少女の声色が静寂の中で響き渡る。

    「花嫁様を連れて参った。婿様は何処か」

    「ここだ」

    閉められていた本殿の入り口がギイと鳴って開く。灯籠に照らされて前に進み出たのは先ほど見た龍神と神主姿の老齢の男だ。
    その姿を見上げた少女が、少し躊躇したように花嫁の手をぎゅっと握るのが見えた。それを節のある花嫁の手がやんわりと握り返す。昔郷里で婚礼を挙げた娘の父親が惜しそうにしていたのをなんとなく思い出した。介添人は親族の場合が多い。彼女も花嫁の親族なのだろう。
    介添人の様子に何か思うところがあったのだろう。龍神が扉の前から二人のかしずく階下へと足を向けた。そのままのしのしと目の前まで降りていくと、徐にしゃがみこんで少女と目を合わせる。小さめの声だったが、男の席は比較的本殿に近い場所だったため音を拾うことはできた。

    「悪いな、お前の兄さんをとっちまって」
    「いいえ。貴方にとられなくともいつか来ることだったので」
    「…」
    「覚悟はできてたんです。でも、やっぱりここまで来ちゃうと…少し名残惜しいなって」
    「…なあ、麻里。約束する」
    「龍神様」
    「龍神の名に誓って、オレは必ず暁人を幸せにする。どんなことがあっても悲しませない。後悔させない」
    「…KKさん」
    「安心してくれ…って言っても難しいだろうな。だが、託してくれないか?」
    「…」
    「麻里」
    「…お兄ちゃんの事、泣かせたら許しませんからね!」
    「肝に銘じる」

    ふっと笑みを浮かべた龍神の掌に、少女が繋いでいた花嫁の手を置いた。
    ぎゅっと握られた両名の手を見届けて、少女がその場から数歩後ろ向きに下がった。背中越しで見えなかったが、白い袖で目許を拭っているようだ。健気な少女の姿に男の涙腺も緩みそうだった。

    花嫁の手を引いて龍神が本殿の舞台へと上がる。緊張しているのか足取りは少し覚束ない。布越しだが花嫁の肩が縦に揺れた。多分笑っている。
    老齢の神主───推測するに件の山神だろう───の前で龍神と花嫁が向き合う。左手は握手するように握られ、右手はその上で手を引いた時のまま添えられている。交差した両手は助け合う手と離れない手のように見えた。
    少し照れの入った龍神とその手を嬉しそうに握る花嫁の姿を交互に見た山神は静粛な場で口を開く。

    「花嫁殿、声は出さなくても良い。これから偽りなく我が問いに答えなさい」

    こくりと頭が縦に動いた

    「花嫁殿。其方はこれよりこれと契りを結ぶが、己の移ろいを捨てる覚悟はあるか」

    ピンと立てられた背筋が少し引き攣ったようだが布を被った頭が縦に振られる。

    「花嫁殿。其方はこれより契りによって神の伴侶となるが、己の繋いできた縁を見送る覚悟はあるか」

    龍神と握った手に力が入る。これも首肯で答えた。

    「花嫁殿。其方はこれより契りにてこの場所に縫いとめられるが、己の不変を受け入れる覚悟はあるか」

    大きな深呼吸。少し俯いたのち、凛と前を向きしっかりと頷いた。

    ちなみに、その間隣の龍神はソワソワと落ち着かない様子で向かいあった花嫁と問いかける山神を目だけでチラチラと交互に見ている。外面は先ほど見た威厳ある風態だがその視線からは不安と焦慮の感情がありありと読み取れた。思わず一つ目小僧を盗み見たが、こちらもまた随分と苦く微笑んでいる。

    花嫁の返答に満足したのか、山神は引き締めたままの顔を緩め優しげな表情を向けた。

    「なれば、この場における全ての者より祝福を授けよう。山神の名において其方を快く迎え入れる」

    未だ、誰をも口を開かず成り行きを見守るのみ。
    山神に促され、龍神は結んだ手を解くと花嫁の布に手をかけた。震える指先がいかに緊張しているかを物語る。
    意を決した手が強く布を捲ると、中から受け入れたように顔を伏せる青年が姿を表す。
    静謐を破ったのは誰だったのか。誰ともわからない感嘆の声が、方々から漏れて境内を彩る。
    男は布の中の青年の姿を見てしまっていたが、それでも感動のため息を禁じ得なかった。

    月の光に照らされた黒々とした髪は瑞々しく艶やか。白く浮かび上がる肌は絹の着物に負けないきめ細やかさ。風に靡く狐の耳と三又の尾は白銀の輝きを放ちまるで湖畔に揺れながら浮かぶ満月のよう。白と黒の中で鮮やかに彩られた唇は桃色に染まり嬉しげに弧を描いていた。
    未だ目隠しで塞がれた双眸は見えないが、きっとその瞼が開かれた様も美しいのだろうと期待してしまう。

    さて、遠目から見てもこれほどなのだが目の前で直に見ている龍神の心境は如何程だろうか。
    …いや、推し量るまでもないだろう。キツめの眼がこれでもかと言うほどに見開かれ、持ったままの布が強く握られている。先ほど見た鋭い眼光はなりを潜め、魂を抜かれたように呆けとしていた。
    そのまま微動だにしないものだから、痺れを切らした山神がごほんと咳をして肘打ちを脇腹に入れた。不意打ちだった龍神も我を取り戻したように被せていた布から手を離し、次は目隠しに手をかけた。
    一瞬指が戸惑ったようにまごついた気がしたが、難なく解かれる。
    するりと抜かれた目隠しを追いかけて、瞼が震え開かれた。
    今度は周囲からどよめきの声が上がる。布が開かれた時よりも大きな感嘆の声だった。

    「暁人」
    「…KK」

    少し眩しそうに細められた目は何度かの瞬きののち、パチリとしっかり開かれた。
    鷲の羽にも似た亜麻色は月の光を浴びて時折夜明けの太陽のように黄金に輝く。
    そんな顔につい見惚れてしまった。というか、この場にいる誰もがその美しさに心奪われている。
    一目で男だとわかる風態であるのに、そんなことも些細だと思うほどに綺麗だと誰もが思った。

    が、当の本人は時が止まったような周囲に少しばかり不満げである。

    「…え、なに。なんで止まってるの?え…KK?」
    「……あ、ああ。悪い」
    「しっかりしてよ、花婿様」
    「悪い…」

    おや、と男は思った。
    この世のものとは思えないとまで思ったものだが、少しばかり郷里の母あたりに通じるものを感じる。
    はて、なんでだと思考をずらしかけた男を置いて、婚儀は進んだ。
    傍から現れた童が薄い布のようなを膳に乗せてかしこまる。それを山神が両手で龍神に差し出した。

    「其方の羽衣の一端よ。それを花嫁が被りこの盃を飲み干せば契りは成る」

    先の童が龍神と花嫁の間に立ち陶器の徳利と盃を並べた膳を掲げる。
    龍神が覚束こともなくふわりと羽衣の薄布を花嫁の頭にかけると、青年もそれに応じ受け入れる。
    各々盃を手に取ると、山神が徳利から澄んだ液体を注ぐ。盃から立ち上ったのは螺鈿にも似た虹色の神酒の吐息。

    「…正直今の今まで逃げられてもおかしくないと思っていた」
    「KKから逃げるなんてことすると思う?やっとここまで来たのに」
    「いや、気にするな。オレが勝手に臆病風に吹かれてただけだ」
    「なにそれ。それとも結婚が不服?」
    「んなもん天地がひっくり返ってもありえねぇよ」
    「それは僕も同感だよ。だからさ」
    「ああ、わかってる。…幸せにする」
    「うん。これからはずっと一緒だよ」

    同時に盃を煽ると、東の空から木々を駆け抜ける雄風が吹いた。
    その風に巻かれるように、花嫁の姿が変わっていく。
    真っ白な着物の上には海向こうの国のような色鮮やかな衣装。浅葱、紅が白妙を染め上げる。
    七つに分かれた尾の上で金色の帯を春の蝶のように背後で結ぶと、見えない誰かが化粧を施しているように赤い隈取りが現れた。
    すぐにおさまった風に長い袖を振るいながら己の格好を確認した花嫁は、子供のように笑顔を浮かべる。


    「今宵ここに一組の夫婦が相なった。彼らの旅路を我ら一同宴にて祝おうではないか!」

    山神が一等大きな徳利を掲げると、今まで静かにしていた妖怪たちが地響きのような雄叫びをあげた。




    我慢していたのを一気に解き放ったかのように騒がしさを取り戻した宴会場は、神も妖怪も入り乱れて魍魎跋扈の大騒ぎだった。そこら中で酒をあおり歌い踊る声が轟く。周囲を見渡すと木端妖怪がどこぞの神と肩を組んでいるし、男も女もなく手を叩いて歌い上げる。時折どこからか飲めや歌えやと徳利片手に回ってくるが、こちらが飲み切る前に盃へ注がれるものだから飲んでも飲んでも減りやしない。
    そういえば先ほど髭を蓄えた大きな男が何かしらの食べ物を配っていた。蒸した芋をぐちゃぐちゃに崩して細切れ肉やら鼻がむず痒くなる粒やらを混ぜ込んだものをたくさんの種から絞った汁で煮る…揚げると言っただろうか。まあそんな感じのことを言っていた。黄金色の塊に初めこそ驚いたものだが、遠慮するなと言われ恐る恐る口にすれば、今まで食ったことのない味に思わず目を回した。こんなに旨いものがこの世に存在するのかと問えば、男はあっけらかんと「簡単に食べられるようになるのはまだ相当未来だ」と答えられてひどく落ち込んだ。この宴会が終わればもう自分の人生では二度と食うことはできないのだろう。そう思ってもう一つ配膳された…ろけぇ?ころけ?なるものを大事に咀嚼した。

    そうやってどんちゃん騒ぎと遠く見ていた時に、ふと視界に鮮やかな色彩が飛び込んできた。
    花嫁と呼ばれた白銀の狐が徳利片手にそこら中に酒を注ぎに行っている。隣にはいないが、少し離れた場所には龍神が別の神と会話している。時折花嫁のほうをチラチラと確認しているところを見るに気になって仕方ないと見える。そんなに気にかかるなら隣にいればいいのにと思いつつ見ていたら、花嫁にすらりとした女性が声をかけた。

    「結婚おめでとう暁人くん」
    「凛子さん、ありがとうございます。今日は絵梨佳ちゃんは一緒じゃないんですか?」
    「絵梨佳なら今麻里と一緒に裏でお茶飲んでるよ。『麻里ちゃん労ってくる!』ってさ」
    「そっか…じゃあ、任せちゃって問題ないですね」
    「そうだね。…ところで暁人くん。花嫁行列の際、あたしの風のせいで迷惑をかけてしまって申し訳なかった」
    「あ。あれ凛子さんでしたか。まあ取り返しのつかないことでもないですので」
    「いや、十分取り返しのつかないことだよ。事故とはいえ祝言の終わっていない花嫁の姿を花婿以外の前に出してしまうなんて」
    「いやぁ…元々そういったしきたりはKKも僕も疑問視していたところでもありますから。花嫁が穢れないためとはいえ、見るな聞くな話すなは結構堪えますよ。だからあまり気負わないでください」
    「それではあたしの気が済まない。何か償いをさせてもらえないだろうか」

    その言葉に花嫁の白く輝く耳がピクリと動いたのを男は見逃さなかった。
    その仕草にどこか引っかかりを感じたのだが、表情はおろか体勢一つ変わっていない。なのにどこか空気感が変わった。
    離れたところにいた龍神も気がついたのだろう。チラチラ見るだけだったのが凝視している。

    「償い、ですか」
    「ああ。あたしにできることならなんだって聞き入れるよ」

    話の流れを組む限り彼女も神様らしいが、少々暗愚というか…そんなに簡単に言ってしまってもいいのかという言葉を並べている。
    七つの尾のうちの一本が一度揺れた
    しかし対する女性の方は気がついていないのか、悩むような姿勢をとった花嫁に勇む視線を向けている。

    「…じゃあ、一つだけ」
    「なんでも言ってくれ」

    「うちの一族の祝い事の際は、雨の女神の祝福をください」

    伺い見るような視線を向けられ、凛子はキョトンと虚をつかれたような顔をした。

    「…なんだ君、そんなことでいいのか?」
    「古い神の祝福を頂けるのなら、それ以上の幸いなんてありませんよ。あ、それとも何か不都合でも…?」
    「いや、まあお安い御用だけど。あんまり申しわけなさそうに言うものだから何事かと思って肩透かしをくらったところだよ」

    はははと笑い声をあげ凛子が肩のところをぽんぽんと叩く。それを花嫁は笑みを浮かべながら受け止めていた。
    そんな和やかな空気感の中、声をあげたのは龍神である。

    「おいおい凛子。雨と風とそれに準ずるものの女神がそんな安請け合いしてよかったのか?」
    「…なんだKK。随分と含みのある言い方をするじゃないか」

    いつの間にか花嫁を挟み込む形で凛子の向かいに立った龍神がニヤニヤと笑いながら横槍を入れる。彼のそんな態度に訝しげな表情で片眉をあげた。

    「いや?お願い事はきちんと詳細まで聞かないと痛い目みるってお前が昔オレにいった言葉だったと記憶していただけだ」
    「回りくどい言い方をするな。貴方じゃあるまいし暁人くんが嵌めるようなことしないだろ」

    なあ?と視線を向けられても花嫁は意味深な微笑みをたたえるだけ。そこに援護するように龍神が続けた。

    「こいつの一族、月を祀る社の出だぜ?」

    ポカンと口を開ける。
    雨の神と月の神を比べたならば当然位としては月の神の方が上になる。そんな上の存在を祀っているのだから、祝い事の際も月の下だ。そこに古い神とはいえ、雲を呼んで月を覆いかくし雨を降らせるなんて下手を打てばお叱りを受けるだろう。ともなれば雲を呼ばずに雨を降らせるしかなくなる。雲という器に入れて雨を連れてくることは容易だが、その雲がないのはなかなかに重労働だ。

    口をぱくぱくと開閉する凛子に花嫁は笑いが堪えられないといった具合に袖で口元を隠していた。まるで悪戯に成功した子供のようだ。

    「ごめんなさい、困らせるつもりはなかったんです。でもあれで麻里も結構慌てたので、ちょっとした仕返しになればと思っただけで。それに、雨の祝福はいただけたら本当に嬉しいのでお願いしたんですよ。…あ、難しいなら撤回するので!」

    そんな様に毒気を抜かれた凛子は額に手を当てて大きくため息をつく。

    「…そんな言い方されたら断るわけにはいかないじゃない」
    「ふふ、ごめんなさい」

    袖から顔を上げて晴れた笑顔を向ける花嫁に凛子はもう一度ため息をついた。

    「KK…貴方の嫁、なかなか強かだわ。」
    「当たり前だろ。オレを選んだ奴だぜ?」

    なるほどと彼女は困ったように首を傾ける。しかしその表情はまんざらでもないようだ。

    「いいよ。貴方の一族の祝いの席には必ず雨の祝福を約束する」
    「ありがとうございます」
    「お礼はいいわ。とりあえずこれは前払いね」

    凛子がパチンと指を鳴らすと、月が煌々と照らす空にかかった雲が途端に姿を消した。驚いて見上げていたらはらはらと細かい水の粒が肌を叩いた。

    「清めの雨…」
    「みんな酒で熱くなってたころでしょ。頭冷やしてあげるから酒蔵空にする勢いで飲みましょう!」

    凛子が徳利を宙に掲げて周囲に宣言すれば、喜びの雄叫びが宴会場に響いた。中には悲痛な叫び声をあげる者もいたが、おそらく酒蔵の主と見える。
    川太郎の集団なんかは先ほどよりも元気な勢いで扇片手に舞い踊っていた。烏天狗や毛有毛現あたりは嫌がるかと思えば、そこまでささやかな雨であるからかむしろ気持ちよさそうに羽や毛をはらっていた。

    「お嫁様はとても美しい御方でいらっしゃいますが、ああ見えて龍神様と渡り合った御方です。初めてお会いした時なんか三日三晩龍神様と戦った末一つの山を窪地にしてしまいました。龍神様はそのようなところを気に入られたのですが、おかげでお社は未だに襤褸のままで修繕がなかなか捗りません」
    「…なんと」

    いつの間にか隣に戻ってきていた一つ目小僧が男に囁く。さっき聞きそびれた土地が拓けた理由とはあの夫婦の馴れ初めで拳を交えた際に周囲を焼き払い地面が抉れたからだったのか。あんなにも華やかな姿からはまるで想像のつかない理由に呆気に取られながら、内心『人界に戻った際は立派なお社を建てよう』と誓ったのだった。

    ちなみに、花嫁の一族は力ある狐の中でも一大勢力であり彼らが祝宴を挙げる度に晴れわたる空に雨を降らすことが恒例となることも、そのうち人間たちの間で天気雨が“狐の嫁入り”と呼ばれるようになることもこの時の凛子はまだ知らないことで、知っているのは離れたところで眉間を揉んでいるエドだけである。


    月の光を受けてキラキラと雨粒が水晶のように輝く。幻想的な風景だ。一瞬御膳まで濡れてしまうのではと思ったのだが、調整されているのか男の頭上あたりで雨粒が弾けて消えていく。おかげで舞い上がっていた熱気はちょうど良く冷やされ思いのほか爽やかな気分で酒盛りを続けられる。
    ふわふわと穏やかな気分だ。あちらそちらで楽しげに歌う魑魅魍魎を眺めながら酒をあおり肴をつまむ。まるで天上の宴。自分のような人間がこのような場にいて本当にいいのかと思うが、今はそんな憂いさえ思案する間も無く浮かれ騒ぎに消えていく。いいじゃないか。そう言って踊る川太郎たちの集団の歌うまま思考を放棄した。

    常世の憂いを全て忘れ、宴を楽しめ。そうして空いた頭に今宵の祝いの記憶を焼き付けろ。

    頭の中に響く低い声色に導かれながら、男は幸せに浮かれたまま意識を手放した。




    次に男が目を開けたのはとある集落の家の寝床だった。
    がばりと起き上がり周囲を見回して木や藁でできた質素な家屋に呆気に取られた。まるで見覚えのないその場所で、駆け寄ってきた見知らぬ女が声をかける。

    「今朝方家の前で倒れていたところを保護しました。どこか調子の悪い場所はありませんか」と。

    そこで自分の姿をようやく見下ろした。着ている衣服は昨晩捨て置かれていたものだが、その際に負った傷などは見られない。どころか体は健康そのもので服も破れていた場所など綺麗さっぱり消えている。
    はてなと男は首を傾げた。昨晩のことが夢なのか、そもそも襲われたこと自体が夢だったのか。
    女が持ってきた“倒れていた際にそばにあった荷物”も、盗人に取られて帰ってこないと思っていた物が全て収まっている。これはこれはどうして、己があの祝宴の場にいたという痕跡全てがないものになってしまった。

    落ち込む女が男の様子に戸惑っていると、荷物から転げた物に気がついた。

    「おやこれは…?」

    呆然とする男の手のひらに渡されたのは小さな巾着袋。このようなものは持っていなかったはずだがと恐る恐る開くと、中には小さな物がじゃらじゃらと入っていた。
    黒い烏の羽、翡翠の玉、猫じゃらし、稲穂色の種、白銀の石、直黒の鱗。
    まるで餞別だとそれらを見た男はただ思った。それからただただ涙が出た。

    『何も成せぬと嘆くなら、これから何か成すがいい』

    『貴方がそれを願うなら、我らはその想いに応えましょう』

    低い音と明るい音が続けて頭の中に響く。まるで天啓。それは神勅であると直感で悟った。
    ただ惰性で生きてきた男が何か成すために生きていく。男は約束したのだ。他でもない慈悲深き神と。
    動かない男を心配した女が恐る恐る顔を覗き込むと、弾かれたように顔を上げた男が女を凝視した。

    なんと言われるかはわからない。けれどまずはやってみよう。

    「なあ聞いておくれ。私はまことに稀有な体験をした。龍神様に会ったのだ」



    昔々、ある場所に龍神様がいらっしゃった。
    龍神様は白銀の毛並みが美しい狐のお嫁様を迎えられた。
    神々や魑魅魍魎に祝われた龍の夫婦は身を寄せ合って今もあまねく移ろう者たちを見守っている。

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    りんご

    DONEまじない、あるいは、のろい (ここまで読みがな)
    K暁デー「スーツ」
    お題的なこともあって結婚と葬送の話をどっちも書きたかっただけです。あっきーがバカ重い感じですが、その環境ゆえにうまく隠すことがうまかっただけで彼の本質はこうだろうなーとか思ったり。いつものごとく二人で喧嘩して、戦って、駆け抜ける話です。
    中の人本当にありがとうございました、お陰で細々と楽しくK暁を追いかけられました。
    呪い短くも長くもない人生を振り返るにあたり、その基準点は節目にある行事がほとんどだろう。かくいうKKも、自らのライフイベントがどうだったかを思い出しながら目の前の光景と類比させる。
    準備が整ったと思って、かつての自分は彼女に小さな箱を差し出した。元号さえ変わった今ではおとぎ話のようなものかもしれないが、それでもあの頃のKKは『給与三ヵ月分』の呪文を信じていたし、実際差し出した相手はうまく魔法にかかってくれたのだ。ここから始めていく。そのために、ここにいる隣の存在をずっと大事にしよう。そうして誓いまで交わして。
    まじないというのは古今東西、例外なく『有限』である。
    呪文の効力は時の流れに飲まれて薄れてゆき、魔法は解け、誓いは破られた。同じくしてまさか、まじないの根本に触れることになるだなんて思わなかった、ところまで回想していた意識を、誰かに強い力で引き戻される。
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