せめて飴くらいは手元に置いとけばよかった!「ご飯? お風呂? それとも僕?」
「オマエ」
というわけでこの話は終わった。
「そんな訳ないでしょ! 何考えてんだよKK!!」
「いや何なんだよオマエ」
「こっちが何なんだよ だよ!」
「なんなんなんだよだよだよ」
「あああ呪文にするなよ…」
状況を整理するにしても、普通の生活を詳細に描写する程度のことしかできない。今回の依頼はKK単独の小さなものだったので、資料をまとめることで一日を過ごした暁人は、せめて疲れて帰ってくる相棒のためにと彼の自宅にてご飯や風呂の準備をしていた。合鍵を使って堂々と入り、勝手知ったる様子で冷蔵庫を確認し、風呂の栓を抜いておく。暁人があれこれ始めたことで多少は解消されたが、KKのズボラさは相変わらずだ。買うものの算段を付けて、流しに残っていた食器を洗い、一度外へ出る。必要なものを買い足して再び家へ戻り、手早く下ごしらえを始める。疲れている時はとにかく手軽さ手早さを重視したほうがいいだろう。あの面倒くさがりは手の込んだものを食べるくらいなら、そのまま寝かねない。炊飯器のスイッチを押して、玉ねぎと牛肉を切って皿に移しておく。冷蔵庫へいったん入れて、掃除するべく浴室へ向かった。そこからは家主の帰宅まで散らかったものを拾っておく作業だった。
あまりの甲斐甲斐しさに、妹をはじめとする関係者は皆口を揃えて『早くKKを嫁にもらってあげて』なんて言う始末だが、当のふたりにそんなつもりは一切ない。彼にしたって世話焼きが勝手にしてることだと思っているだろうし、暁人も今は亡き父親の代わりを埋めるごとく好きでやってることなのだ。KKはともかく、価値観に偏見のない暁人は周囲の言う意味が『そういうこと』だと分かっていたし、誤解されているなとも思ったが、あえて訂正していない。その方が互いに何かあった時に逐一教えてくれるだろうと踏んでのことだった。つまりは、どこまでも気は許しているが、いたって健全、下心無しの随分清らかなものだった。
――と、認識していたのは自分だけだったのか?
暁人は再度自問する。
すれ違いざま引きずられるようにして居間にたどり着き、万年床になり果てた黒いソファに引き倒されて至近距離で顔をのぞき込まれている。最近はからりと笑うことも増えた黒い瞳が、出会った頃の刃のような鋭利さを纏って暁人を見つめていた。そのまま近づいてくる男の影に腕を突っ張らせて均衡を取る。
『それとも僕?』なんて聞いたのはほんの出来心である。流れてくるカボチャとコウモリの飾りに、仮装してはしゃぐ顔も知らない同年代たちの映像。こんな日はむしろ本領発揮とばかりに仕事が増えたりするので、すっかり本来のイベントからは遠ざかっていた。だからと言って、まったく楽しまないわけではない。どうせならお決まりの口上ではなく少し斜め上のものにしよう、なんて閃くくらいには浮かれていた。たまには際どいジョークで相棒の焦った顔を見てみたいと思ったのも事実である。それが失敗しても、こっそり時期柄にパッケージされていたお菓子を二人で楽しんで、後はアジトに持っていってもいいかな、なんて考えていたのだ。
「おかしいだろ、だって、僕だよ?」
「オマエだな」
「僕と、KKだよ?」
必死に引き延ばそうとしている暁人の思惑など、KKにとってはむしろ他愛のないスパイスくらいに映っているのだろう。余裕を含みながらゆったりと笑みを剥き、それでも左手が暁人の顎をしっかりと持ち上げた。長いこと誰かの視線に晒されるのは、さすがに相手がKKでも恥ずかしい。
「うぅ…」
「どうした、暁人」
おまけに、なんだか動悸が激しい。分かっていたけど、KKは結構顔の造詣がいい。多分そのせいだ、一定のラインを超えた人と接すると妙な緊張感を生むあの現象。困り果ててそろ、と瞳を逸らしたが、相手は簡単には見逃してくれない。形ばかりは問う仕草だが、『ん?』と宥める息が首筋に当たってゾクゾクした。抵抗が僅かに緩み始める。
「な、んで」
「だってあんなこと聞くから」
「じょう、だん、」
「にしておいてやろうと思ったけど」
外した視線に再びKKが入り込んだ。
さっきよりもっと近くで、唇でも、触れ合いそうな。見ていられなくて思わず目を瞑ってしまった。
「オマエ、可愛かったんだな」
知らなかった、吐息交じりに耳元でささやかれる。来ると思った場所に衝撃は来ず、代わりのように額に柔いものが触れる感触がした。困惑に目蓋を開けると、さっきより少し身を起こした相棒がしたり顔でこちらを見ていた。いつものKKなのかな。あからさまに詰めていた息を吐いて落ち着かせる。次いで出した声音がまずかった。
「もう、いじめないでよぉ…」
「……終わりだと思ってもらっちゃ困る」
自分でもわかる、弱々しく震えて上擦った語尾。器用に片眉をあげたKKが、一拍遅れてそれまでとは違う雰囲気を纏った。今まで丁寧に引いていた境界を、ふたりして超えるのを肌で感じる。いつものことが、いつもではなくなる。混乱して途端にぼやけた視界をKKが包むように親指で拭い、涙の痕を慰めるようにキスを落としていく。ちゅ、ちゅ、と濡れた音が響くたび高められて、体が熱くて仕方ない。
「んっや、やだ…」
「聞けねえ」
そうして下へおりていたがとうとう同じ場所へたどり着いた。暁人は気付いていなかったが、息も絶えだえに否定の言葉を紡いでも逆効果だ。ハの字に下がった眉に潤んだ双眸は先を強請っているようにしか見えず、うっすら開かれた口元から覗く舌が艶めかしい。なのに紅潮した頬はあどけなく、すべてを一度に視界に収めるKKは飢餓感に唇を舐めた。
「一応、聞いといてやるよ――トリック・オア・トリート」
とどめとばかりに決め顔の相棒に、暁人の意図自体は理解していたと知る。やっぱりわかってただろう、僕がこっちなの? そう言うにはもう心臓が限界だった。僕だって知らなかった、KKがこんなに隙のない大人だったなんて!
ここまでされたのだ、最後まで責任を取ってもらおうと返す言葉は、甘ったるく落ちた。
「…優しくしてね?」
すぐさま降ってきた深いキスに、いつしか両手は縋りつくように掴んでいた。あからさまな欲を陶然と受け止めながら、それでも、と暁人は行いを振り返る。
せめて、――