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    MondLicht_725

    こちらはじゅじゅの夏五のみです

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    MondLicht_725

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    4/24完結


    夏五版ワンドロワンライのお題だったものの続きをのんびりと。

    記憶を失くした男と、その男に拾われた男の話。

    ※モブと付き合った(何もなし)表現があります。
    ※離反回避if、灰生存ifです。
    ※五条家の捏造設定があります。
    ※オリキャラいます。

    なんでも大丈夫な方のみどうぞ。

    #夏五
    GeGo

    【夏五?】白昼夢 ガサガサと、一歩踏み出すたびに右手に握りしめたビニール袋が鳴る。中身はペットボトルの水が1本と昆布、梅のおにぎり。1番近くにあるコンビニで調達した、いつもと変わらない傑の昼食メニューである。
     太陽がそろそろテッペンを通り過ぎようとしている時間に、この路地裏で誰かとすれ違ったことはない。2人ギリギリ通れるくらいの狭さで、左右に聳えるビルのせいで昼でも光は底まで届かない。見るからに治安が悪そうだからなのか、誰も近づかないのである。
     あともう数メートル少し進んだところに、傑の今の住居兼アルバイト先である半地下のバーがあった。今はまだ準備中の札がぶら下がっており、開店まではまだ6時間以上ある。行き場を無くした傑が住み込みで働くことを勧めてくれたオーナーは、きっとまだ夢の中だ。
     なんだってこんな目立たない場所に、と最初は思っていたが、開店と同時にそれなりに客は来る。大っぴらに商売できない事情も見え隠れしていたが、傑にとってはどうでもいいことだった。
     働く場所があって、そこそこ稼げて、衣食住も保証されている。それだけで十分。贅沢は言わない。

     つい昨日、付き合っていた恋人と別れた。というよりも、一方的にフラれたと言ったほうが正しい。
     開店直後、それでも数人の客がいる前で大声で告げられた理由は、一緒にいても「面白みがない」、「息苦しくなる」、である。
     ダメ押しに、「あなたは私を愛していないのよ」と締めくくり、カツカツ折れそうなほど高いヒールを鳴らして去っていった。
     一瞬の静寂ののち、店内は大爆笑、客から新たな客へ適当な伝言ゲームが続くものだから、結局閉店まで散々揶揄われる羽目になった。最後は尾ひれまでついて、壮絶な口論の末、傑が店のど真ん中で平手打ちされたことになっていた。
     他人事のように揶揄を受け入れて、一緒に笑った。昨日の別れは、傑の中でその程度でしかなかったということだ。
     付き合いをはじめてから、まだ一週間しか経っていなかった。キスどころか手を繋いですらいない。なぜ付き合うことになったのか、きっかけすらも曖昧だ。
     容姿には恵まれているらしい。皆が言うからそうなのだろう。鏡を見れば、確かに造詣が整っているなと思うがそれだけだ。ファッションだとか流行りのものには興味がなかった。
     ただ、接客業であるので、身だしなみには一応気をつけてはいた。最低限、客に不快感を与えなければそれでいい。社会人としてのマナーである、と今の傑はごく当たり前のように思っているのだが、昔もそうだったのかはわからない。

     目が覚めて、すべての記憶がない、なんて映画やドラマのような展開が己に降りかかる確率はどのくらいだろうか。
     そんな状態に、傑は陥った。
     半年前のことである。

     目が覚めたときに見えた真っ白な天井が、1番古い記憶だった。
     映画やドラマなんかで見る記憶喪失は大抵は自分のことが分からないことが多いのだが、医者に尋ねられたとき、「夏油傑」という名前だけはちゃんと口から出てきた。
     夏の油に傑作の傑。漢字まで完璧である。
     あとは日常の基本的なこともわかる。今は昼夜逆転の生活だが、世の中の大半の人は朝起きて夜寝るとか、基本的には3食食べるとか、そういうことだ。顔を洗って、歯を磨いて、シャワーを浴びる。箸も当たり前のように使える。
     ただ、「夏油傑」が何者でどんな生き方をしてきたのかという情報だけがぽっかりと欠けていた。どこに住んでいたのか、家族はいるのか、なにをしていたのか。
     隠しても仕方がないので素直に伝えると、医師も看護師も大層困った顔をしていた。それはそうだ。なぜ病院に運び込まれたのかも、連絡すべき相手もすべて忘れてしまったのだ。身分証明できるものは何一つ持っていなかった。そしてこの先どこへ行けばいいのかわからなかったのである。
     しばらくは病院で治療を受けながら、記憶が戻らないかと――主に周りが――期待していたが結局思い出すことはなく、怪我が回復したらいつまでも入院しているわけにもいかず、なにもわからない状態のまま退院することになった。
     行き場に困った傑を迎えにきてくれたのが、今働いているバーのオーナーである。最初に見舞いに来てくれた人でもあった。
     彼は、記憶がなくなる前の傑をよく知っていると言った。両親はすでに亡く、頼れる友人にも心当たりはない。しかし君の「才能」は素晴らしいのでぜひ家にと、なんとも胡散臭い顔で言った。
     本来ならば警戒すべきところなのだろう。そのくらいは、記憶が飛んでいてもわかる。
     それでも傑は差し出された手を取った。どうでもいいと投げやりになったのかと言われれば、そうかもしれない。
     あれから半年、なんだかんだ傑はまだ生きていた。連れてこられた店で、与えられた仕事をこなして、給金を貰い、生活できている。
     それだけで、十分である。
     「夏油傑」をよく知っているというオーナーは、そのわりになにも教えてくれなかった。しかし無理に聞き出そうとも思わない。無理に思い出そうとしても逆効果かもしれないと医者にも言わていたが、それ以前に傑に思い出そうという気がなかった。
     流されるままに生きた。
     言われるままに行動した。
     彼女とも、そんな感じで始まった。長く続くはずがない。わかっていても、また別の誰かに声を掛けられれば、流されるように付き合うのだろう。



     ふと足を止めた。半地下の階段を降りた先、バーの入り口を塞ぐように、誰かが座り込んでいるのだ。
     最初に目に入ったのは、だらりと垂れ下がった、長い黒髪だ。猫のように丸まった背中は完全に玄関扉に寄りかかっており、表情は俯いているため見えない。寝ているのかもしれないと思った。
     さて困った。
     心配よりめんどくさいが先立つ。退いてくれなければ中に入れない。回り込めば裏に勝手口があるのだが、ひと区画分回り込むのは億劫だ。そもそも、いつまでもここで寝られては迷惑だった。
    「おいあんた」
     仕方なく、声をかける。周囲に配慮はしたが、聞こえないほど小さな声ではないはずだ。しかし、相手に反応はない。やはり寝ているのか。酔っているのか。
    「なあ、起きろよ」
     今度は前にしゃがんで、肩を揺すってみた。長い髪が揺れ、その隙間から切長の目が覗いた。
     ばっちり、視線が交わる。傑は思わず手を引いた。寝ていると思ったので驚いたというのもあるが、それ以上に――妙な感覚だった。心臓を直接鷲掴みにされたかのような。
    「…寝てないよ」
     掠れた声が告げる。目を擦り、大きく両手を広げて伸びをした。
    「ならどいて。邪魔」
     奇妙な感覚を振り払うように立ち上がり、男の背後の扉を指差した。
    「君、ここの人?」
     傑の不機嫌などお構いなしに、男は尋ねた。そう、だから退いて。冷たく答えると、男の薄い唇が弧を描く。
    「ちょうどよかった。ねえ、何か食べるもの残ってない?同居人に逃げられて、全部持ってかれちゃったんだよね」
     それが人に物を頼む態度だろうか。傑は眉間をさらに寄せた。
    「あいにく何もないよ」
     他をあたってくれ。強引に男を押しのけ、中に入ろうとしたが、腕を掴まれる。振り払いたいのに男の力は意外にも強く、びくともしない。
    「ねえお願い。お腹空きすぎて死にそうなの」
     死にそうな人間はこんな怪力じゃない。言い返そうと思って、口を噤む。
     まただ。まっすぐに向けられた細い目の奥に潜む、なぜか咎めるような光に身体が竦む。動けない。
     なぜなのか、わからずに困惑する。
     男は笑った。
    「綺麗な髪だね。地毛かい?」
     遠慮のない手が、傑の髪を摘む。我に返って手を払い除け、睨んだ。
     傑は、白銀の髪をしている。
     目を覚ましたときから、そうだった。伸びても変わらないから、生まれつきそうなのだろう。
    「君、名前は?」
     傑の困惑などお構いなしに、ずかずかと内側に入ってこようとする男が怖いと思った。それなのに、逃げることもできない。
    「――夏油、傑」
     いつもなら、なんでお前に教えなきゃいけないんだと突き放しているところなのに、気づけば素直に答えていた。
     こんな、得体の知れない男に。
    「へぇ、奇遇だね。私もスグルっていうだよ」
     大きな手のひらが、目の前に差し出される。
    「よろしく、“夏油傑”くん」













    「――私だよ。接触した。本当に、何もわからないみたいだ。――うん、もう少し探ってみるよ。――ハハ、わかってる。今回は緊急事態だからね、貸し借りなしってことで。おっと戻ってくるから、また後で」

     家入硝子――通話終了。
     暗転。












     なんで、こうなったんだっけ。自問したところでもう遅い。
     ここは、傑に与えられた部屋である。店から続く住居スペースの最上階――3階の1番端だ。つまりはプライベートな空間である。
     そんな場所で、傑は小さなテーブルを挟みついさっき初めて会った男がカップラーメンを啜る姿を見物している。
     買ってきたおにぎりは袋に入ったまま、まだ手を付けられていない。さっさと食べて、夜からの仕事に備えてもう少し寝ておこうと思ったのに、隣室のベッドに入るのはもう少し先のことになりそうだ。
     自称・死にそうな男は、3階までの階段をしっかり自分の足でのぼりきり、さほど疲れた様子も見せずに中に入るなり無遠慮にきょろきょろと狭い部屋の中を見渡した。「怪しい」が服を着て歩いているようなこの「スグル」と名乗った男を、なぜ連れてきてしまったのだろうかと今更後悔する。

     言い訳じみた理由をあれこれ考える。
     腹が減ったと言うから――ひとつ通りに出れば、営業中のカフェやレストランは山ほど並んでいる。
     死にそうだと言うから――どう見てもピンピンしてる。
     傑を見つめる切れ長の目から逸らせなかったから――あの奇妙な感覚は、なんなのだろうか。

     しかし時間が経てば経つほど、まずい状況だと焦りが生まれる。もしこの男が強盗なら?そうじゃないとしても、なにか企んでいるのだとしたら?
     ここに住んでいるのは傑だけじゃない。恩あるオーナーや他の従業員数名も暮らしているのである。
     ぐるぐる考えている間に、謎の男――もうひとりのスグルは、たったひとつ残っていたカップラーメンを食べきり、ごちそうさまでしたと両手を合わせた。
    「君は、食べないのかい?」
     テーブルに乗ったままのビニール袋を指さして、スグルは首を傾げた。いやできることなら食べたいんだけど、食欲はすっかりどこかへ行ってしまった。
    「これ、好きなの?」
    「…なにが」
    「このカップ麺」
     空の容器を指さして言う。
    「別に――目についたから買っただけ」
     いまやカップラーメンも多種多様。スーパーに行けば陳列棚いっぱいに並んでいる。その中で、特に安売りしたわけでもないのになんとなく目に留まって買っていた。もしかしたら記憶を失う前から好きだったのかもしれない。
     でも、そんなことこの男には関係ないのだ。
    「私もこれ、1番好き」
    「あ、そ」
     相変わらず胡散臭い笑みで見上げてくる相手に、緊張は解けないままでいる。
    「食って満足しただろ。もう帰れよ」
    「あー……ねぇ、しばらくここに泊まらせてくれないかな。行く場所がないんだ」
    「はあ?」
     思わず、大きな声が出た。ここの壁はさほど厚くはないので慌てて口を抑えたが、絶対に傑のせいじゃない。
    「バカなことを言うな」
     やっぱり、同情して連れてきたのは間違いだった。こういうやつは、ひとつ親切にしてやると付け上がる。
     上目で伺ってくる姿は、己の端正な容姿を自覚した上でのことだろう。そうやって今まで、大勢のところに転がり込んだのだろうか。
     ――そう考えたら、なぜか腹が立った。
    「俺、夜仕事だから、早く食って寝たいんだけど。帰れよ」
    「ね、頼むよ。実は私、追われててね。命を狙われてるんだ」
    「もっとマシな嘘つけよ」
    「嘘じゃないんだけどな。追手が探し回ってて、ちょうどいい隠れ場所があったんで潜んでたわけ」
     今外に出たら見つかっちゃうかも。
     絶対に嘘だとわかっているのに、スグルの言葉には妙に説得力があって戸惑ってしまう。
     この、見かけのせいだろうか。それとも物怖じしそうにない態度のせいだろうか。
    「――誰に追われてんだよ」
    「ええ、それを知っちゃったら君も狙われるよ」
    「は?なんで」
    「相手は絶対に表に出てこない影の組織だからね。存在を知られただけで消そうとするのさ」
     にやりと、デカい口が笑みを作る。得体の知れない感情が、背筋を這い上る。
     だからどうしてこいつはこんなにも、説得力があるのか。
    「だったらなおさら出て行けよ。巻き込まれるのはごめんだ」
    「冷たいなぁ」
     文句を言いながら、一向に動こうとしない。傑はため息をついた。
    「あのな、俺はここに住まわせてもらってる身なんだ。ただの居候。お前を匿えるかどうかなんて、決められないの」
    「じゃあ、オーナーの許可貰えればいいんだね」
     いや、そういう問題じゃないだろう。という前に、立ち上がって玄関に向かおうとする。まさか、本気で?この男ならやりかねないと、なんとなく思った。
     傑は慌てて後を追った。
     自称・ヤバイ敵に追われている男を招き入れたとなれば、きっと傑も叱られる。もともと、見知らぬ相手とは話すなと言われていたのに。バレたら最悪、追い出されてしまうかもしれない。
     それは嫌だ。それは困る。ここを追い出されたら、記憶が戻る気配がない傑には行く場所なんてないのである。
     ぐるぐると考えること、約3秒。

    「わかった!ここから出ないって約束するなら、しばらく匿う」

     後ろから腕を掴むと、あっさり体が止まる。そうして振り向きざまににこりと笑った。
    「ありがとう、助かるよ」
     ――やられた。まさに計算通り、と言わんばかりの顔にまんまと嵌められたことに気づいたが、もう遅い。もうひとりのスグルはあっさり踵を返すと、我が物顔で隣室へ向かおうとする。
    「ベッド借りるね。あまり寝てなくてね」
     おやすみ、とひらひら振られた手をぽかんと見つめて数秒。そのベッドがひとつしかないのだと思い出して、傑は慌てて後を追った。
    「っざけんな!そこは俺の寝床だ!」














     最後の呪霊が跡形もなく消え去ったのを見届けて、七海建人はようやく呼吸を取り戻した。12体祓ったあたりから数えるのはやめたので、正確な数はわからない。とにかくあり得ないほど多かったということだけは言える。
     報告書には、無数だとか多数だとか書けば十分だろう。便利な日本語だ。こんな雑魚呪霊の正確な数を把握したがる者など、いかに面倒な上層部といえどもいないはず。
     そんな雑魚相手に、かなり手を焼いてしまったわけだが。
    「ようやく終わったぁ!」
    「そうですね」
     両の拳を天に突き上げた青年――元同級生の灰原雄は、大声で叫びながら清々しい笑みを浮かべた。先日無理やり付き合わされたゲームをクリアしたときの顔に似ている。かなり凝った作りだったがあっちはニセモノの世界で、残念ながら今は現実だ。
    「今度こそダメかと思った!」
    「…そうですね」
     1体だけならばなんてことのない雑魚でも、それが数百と集まれば話は別だ。まさに数の暴力である。ヤツラもそれがわかっているので、当然個体で襲ってくることはない。イワシが群れを作って大魚に見せかけるように、低級呪霊もひとつの大きな塊となって一斉に襲い掛かってきた。もちろん、イワシのように美しくもなんともない。ただただ鬱陶しいだけである。
     相手は数百、こっちは2人。比率がおかしいが、これ以上人手は回せないときっぱり告げられてしまったのだから仕方がない。
     ――そもそも私、呪術師辞めたはずなんですけど。
     高専は無事に――とは明言できないほどのメンタルだったが――卒業したものの、呪術師の道は選ばずに大学への入学を選んだ。そうして呪術界とはきっぱり縁を切って、ごく普通に就職し、稼ぐだけ稼いだら物価の安い国へ移住して悠々自適に一生を終えるプランだった。
     それがまさか、卒業して2年足らずで呼び戻されるとは思わなかった。
     とはいえ、事情が事情だけに、今回だけでは特別である。この界隈が万年人手不足であることは知っているが、単にそれだけの理由ならばこうして手伝うこともなかっただろう。
     今は誇張ではなく、ガチの緊急事態なのである。
     多少ブランクがあるとはいえ、呪霊が見えなくなるわけでも術式がなくなるわけでもない。数の上では圧倒的不利だが、もちろん負けるわけにもいかないので必死に祓って祓って祓いまくった。
     数をこなすうちに感覚も徐々に戻ってきた。灰原に背後から襲い掛かろうとした群れを断ち切り、その隙に向かってきた群れは灰原が蹴散らす。
     そうして協力して、なんとか無事に、生きている。
     生き延びた。とりあえず、今日は。
     祓除を始めた頃は、帳越しでもまだ太陽が高く昇っているのが確認できたのに、今はすっかり夜である。完全に、時間外労働だ。
     もう無理疲れた!ハイテンションでケラケラ笑ったまま、灰原は大の字に倒れこんだ。寝ころびはしないが、七海も隣に腰を下ろす。

    「やっぱ、あの2人がいないときついなぁ」

     灰原という男はいつも、誰もが思ってても口にしなかった現実をあっさりと突きつけてくる。
    「――本当に、一週間で戻ると、そう言ったんですよね?」
    「うん。だから、たぶん、絶対、大丈夫!」
    「そう願います」
     とはいえ、その一週間のうち、今はまだ2日目なのである。約束通り帰ってきたとしても、こちらがそれまで我慢できるかはまた別問題だ。すでにこの体たらくなのだから。
    「それで、次はどこですか」
    「はい先生!その前に、ラーメン食べる時間くらいはあると思います!」
     片手だけ上げた状態で、灰原が勢いよく起き上がった。七海に向けられた顔は、子供のように期待に満ちて輝いている。
     卒業して2年弱。呪術界を去ったとはいえ、友人の縁を切ったわけではない。灰原は何度も七海のアパートを訪れているし、一緒に食事に行くこともある。
     そうして毎度感じるのは、体はしっかり大人になっているのに、中身はあまり変わらない。20歳もとっくに通り過ぎたというのに。
    「誰が先生ですか。でも、そうですね。そのくらいなら、いいでしょう」
     思えば朝からなにも食べていなかったと、思い出した途端に七海の腹も空腹を訴えてくる。
    「やった!実は前から気になってたお店があるんだけど、ずっと行けてなかったんだよね」
    「あまり時間は取れませんよ」
     なにしろ、呪いは待ってはくれないのだ。
    「大丈夫!5分で食える」
     自信満々に胸を張る友人に、ため息をつく。ちゃんと味わってゆっくり食べなさい、と普段なら苦言を呈するところだが、今回だけは飲み込んでおいた。


     ――――五条悟が、失踪した。


     そのニュースは瞬く間に、さほど広くはない界隈に広まった。呪術師を辞めた七海の耳にまで入ってくるのだから、そこらに潜んでいる呪詛師たちも当然知っているのだろう。
     はじめはなにかの罠かと息をひそめていた彼らも、一週間経ち、1ヶ月経ち、半年経ってもまったく姿を現さない「最強の呪術師」に、もしや本当にいなくなったのではと期待し始め、動き始めた。
     結果が、この有様である。
     まず動いたのが一級呪詛師たちで、こそこそ隠れていた悪行を堂々と行うようになった。呼応するように他の呪詛師たちも真似し始め、さらには呪霊たちも騒ぎ始めたのである。
     生まれた瞬間に世界をざわつかせた男がいなくなったとしても、呪詛師も呪霊もきれいさっぱりいなくなるはずもない。
     おかげでもともと少なかった呪術師たちは今まで以上に東奔西走し、疲弊し、倒れていく。調子づいた敵はますます暴れる悪循環。ついには人手が足りなくなって引退したり辞めたはずの呪術師にまで声がかかった。
     だから七海がここにいるのである。
     もう自分には関係のないことだと突っぱねることもできたが、影響が会社の同僚、いつも立ち寄るお気に入りのパン屋等々、すぐ身近にまで広がりつつあるとなれば無視できない。
     コンビを組むのが唯一の同級生だった灰原だったことは不幸中の幸いだ。おそらくは今は学長となった夜蛾が配慮してくれたのだろう。
     それでも、つい3日前まではいくらかマシだった。七海と同じく高専の所属からは離れたが、フリーの呪術師として活動していた特級のひとり、夏油傑がいたからである。
     夏油は高専の1つ先輩だが、とある事件をきっかけに途中で自主退学していた。以来、高専を中心とした界隈からは距離を置き、独自のネットワークを築きながら活動していたはずだが、世界で3人しかいない特級のひとりであるという事実は変わらない。七海にさえ声がかかったのだから、夏油が呼び出されないはずはない。
     しかし主に夏油に託されたのは、五条悟の探索のようだった。

     五条悟という男は、夏油と同い年で1つ上の先輩だが、なにもかもが規格外で、やることなすことすべてが非常識だった。学生時代から突拍子もない言動で振り回されたことは数知れず。その度に吐き出した二酸化炭素も膨大な量である。
     それでも、実力は認めていた。
     あの男は、まさに最強だった。
     だからはじめは、呪詛師がそうであったように七海だって信じられなかったのだ。
     五条の生死はわかっていない。ただ、死んでいるにしても、囚われているのだとしても、そんなことができる者がこの世に存在するとは思えなかった。

     失踪当日、こちらは1つ後輩の伊地知潔高と一緒に、とある任務に向かったのだという。対象は、廃屋に潜む呪霊。伊地知の話では、特級になりかけの一級事案だったそうだ。こんなの他の術師に任せればいいじゃんと文句を言いながら、渋々伊地知が張った帳の中に消えていった。
     しかし待てど暮らせど出てこない。1時間経っても、半日経っても、1日経っても、出てこない。
     終わるまで動くなと言われていた伊地知もさすがに不安になり、とりあえず帳はそのままで夜蛾に連絡を入れた。その後駆け付けた夜蛾と数名の術師が帳の中を探索したが、呪霊はもちろん五条自身の姿もどこにもなかったのだという。
     一体なにがあったのか。高専では懸命に原因を探っているが、半年経った今もわかっていない。

     ―――いや、知らされていないだけか。

     夏油が最前線を離れて別に動いたのがその証拠だ。なにか、秘密裏にことが進んでいる。
     けれど七海は積極的に探ろうとは思わなかった。教えてもらっていないということは、必要ないということだ。
     ならば今は、灰原いわく、「自分ができることを精一杯やる」、だけである。

    「大丈夫!そんなに心配しなくても、五条さんは夏油さんが見つけてくれるよ」
     重い体を引きずるように並んで歩きながら灰原が言った。七海は思い切り眉間を寄せる。
    「――誰も心配なんてしてません」
    「そう?それならそれでいいけどね」
     んふふ、と何かしら含んだ笑いにさらに言い返そうとして、止める。今は無駄な体力を使うべきではない。ということにする。
     帳を上げても、ほとんど変わらない空が現れる。雲が厚いのか、星はもちろん月すら見えない。
     ラーメン、ラーメンと謎のメロディを付けながら、先に駆けていく背中に苦笑する。
    「道案内は任せましたよ」













     紙にポツリと落ちたインクが、ゆっくりと、けれど確実に広がっていくように、その「黒」は侵食してくる。
     いってらっしゃい、と背中を押す掠れた声だとか。
     おかえり、と真正面から覗き込んでくる笑顔だとか。
     コンビニやスーパーの惣菜の、アレが美味いコレは不味いと言い合いながら箸で突く食事だとか。
     ただ流しているだけのテレビに映るドラマやバラエティへの野次だとか。
     狭いベッドに無理やり入り込んで、嫌でも触れてしまう他人の体温だとか。
     何も覚えていないのに、どこか懐かしい。

     ――いや、俺は、知っている。
     確かに、知っていた、はずだった。










     日が暮れ始める頃、ベッドから抜け出して仕事の準備を始める。今日はいつもより早い時間に来てほしいと、昨日オーナーから言われていた。
     いつも通り制服に着替えて階下へ降りると、開店前のはずのカウンターに、オーナーと並んで見知らぬ若い男が座っていた。
     年は、傑よりもいくらか上くらいだろうか。まだ若い、けれどどこか唯ならぬ雰囲気がある。染めていない黒髪を後ろに撫でつけているので、涼しげな目元がはっきりわかる。イケメン、より色男という表現がしっくりくる、そんな男だった。
     さほど詳しくなくても、着ているスーツが上等なもので、手首のごつい腕時計もかなりの高級品だってことくらいはわかった。
     傑を見るなり、オーナーはにこにこ笑いながら男を紹介した。他の従業員の姿はまだない。今日は早めに来てほしいと言われたのは傑だけで、この男に会わせるためなのだとすぐに察した。
     男は、下之城と名乗った。ここから数百メートル離れたところにある違うバーのオーナーなのだという。バーの名前を聞いても、行動範囲がこの建物と徒歩圏内にあるコンビニ、スーパーだけの傑にはわからない。素直にそう伝えれば、下之城は気分を害した様子もなく、事情が事情だから仕方がないと整った顔に胡散臭い笑みを貼り付ける。傑がここで住み込みのバイトをすることになった経緯についてすべて知っているようだった。
     そうして折り入って頼みがあると伝えられた内容は、予想外のもので。
    「僕が、ですか」
    「そうだ」
     なんでも、以前この店に来たときに働く傑が気に入り、ぜひうちの店に来てほしいと言うのだ。戸惑いながら、オーナーを見る。視線が合うと、大きく頷いて見せた。
    「悪い話じゃないよ。ここよりも時給は上げてくれるそうだ」
     傑がそっちの店に移ることを歓迎するような口ぶりだった。ということは、すでに決定事項なのだろう。傑が嫌だと言ったところで覆ることがない。引き抜き、というよりは譲渡である。傑に断るという選択肢は用意されていない。
    「――僕は、住み込みで働けるならどこでも」
    「なら、決まりだ」
     案の定上機嫌に笑って、カウンター越しに肩を叩く。いやぁ彼は本当に優秀で――恥ずかしくなるほどの自分への賛辞の言葉を、聞き流す。
     正直に言えば、そんなにも褒められるほどの働きはしていないつもりだ。ただ、言われたことを言われたとおりにやってきただけ。他の従業員となにも変わらない。
     きっとそれ以外に理由があるのだろうが、傑は深く考えることを止めた。拾ってくれたオーナーがそうしろというのなら、それでよかった。
     半年暮らしてはいるが、この場所に特に愛着があるわけでもない。記憶が戻る様子はまったくない。だから傑を形成するのは、この半年間の出来事だけで、それだってひどく薄っぺらい。
    「じゃあ早速明日にでも引っ越すといい。すでに部屋の準備はできてるよ」
    「明日、ですか」
    「早い方がいいからね。大丈夫だろう?」
    「はぁ」
     やはり、最初から既定路線だったというわけだ。確かに、傑の部屋には私物がほとんどない。家具や制服は支給されたものだし、私服だってボストンひとつあればすべて収まってしまう。だから明日引っ越すことも可能だろう。
     そのままを答えようとして――今も部屋に居座ったままの男の存在をようやく思い出した。 
     けれどすでに下之城はオーナーと話を進めてしまい、今更嫌だと、せめてもう少し時間が欲しいと言える雰囲気ではない。
    「今日はもういいから、戻って準備しなさい。明日の朝、迎えに来てくれるそうだ」
    「…はい。わかりました」


    「ってわけだから、今すぐ出てって」
     引っ越し準備のために今日の労働を免除された傑は、未だ部屋に居座り続けている男――もう一人のスグルにきっぱりと告げた。
     部屋に戻ったときにちょうどポットの湯が湧いたところで、テーブルには昨日買ってきたカップ麺のひとつが蓋を開けている。仕事に降りていったはずの傑が30分と経たずにすぐに戻ってきたので、さすがに驚いたらしい。ほとんど感情を動かすことのないスグルが目を丸くしたので、少しだけ気分が良かった。

     スグルを部屋に匿ってから、なんだかんだ、ずるずると、3日が経過していた。

     言いつけを守って本当に一歩も部屋からは出ていないようで、仕事のときは行ってらっしゃいと見送られて、戻るとおかえりなさいと迎えられた。昼夜逆転の傑の生活に合わせているらしく、仕事をしている間は本や雑誌を読んで時間を潰し、朝傑が買ってきた弁当やカップ麺をふたり平らげ仕事の時間まで狭いベッドの中で眠る。
     ほんの数日いるだけの珍客のために布団一式を用意してやる親切心はないので、はじめは使っていない毛布を床に敷いて寝ていたのだが、どうにも気になって眠れなくなり、仕方なくベッドの半分を提供してやった。
     今日だけの辛抱だ、と言い聞かせてすでに3日。
     厄介事はさっさといなくなってほしいと言いながら、胸の内に浮かんだ奇妙な感情を無視し続けた。それでも消えないモヤモヤに、悩まされた。

     それも、今日で終わり。
     突然の展開に戸惑うばかりだが、いい機会だとポジティブに考える。

    「急な話だね」
    「オーナーがそうしろって言うから」
    「君の意志はいいのかい?」
    「俺の意志なんて、あってないようなものだよ」
     なにしろ、一度すべてリセットされてしまったのだ。覚えているのは名前だけ。困り果てたところに手を差し出してくれた恩がある。
    「俺は別に、どうでもいいんだよ。もともと死んでたようなもんだったし。ならお世話になってるオーナーの望みどおりにってね」
     そのくらいしか、報いる術がない。淡々と告げると、スグルは何か言いたげな顔をして、けれどその何かを飲み込んだ。代わりにため息をつく。
    「―――そう。わかった」
     予想外にあっさりと、スグルは頷いた。ここにいることを強引に迫ったときのようにもっとごねると思ったのに、拍子抜けである。
    「これだけ食べさせて。食べたらすぐに出るよ」
     沸いた湯を入れ、蓋を閉める。液体スープを乗せて、3分。2人とも好きなシリーズの、最後のひとつだった。今日食べようと思ったのに、という不満は、今は飲み込む。
    「…大丈夫なのかよ、狙われてんだろ」
    「ああ、まあなんとかするよ」
    「どっか行くあてあんの」
    「傑くん」
     男は、苦笑した。
    「出て行けって言ったのは君だろう?迷惑だったんじゃないのかい」
     指摘されて、ようやく自分の言葉の矛盾に気づく。そうだよ、なに言ってんだ、俺。誤魔化すようにそっぽを向いた。頬に、絶対ニヤついているだろう鬱陶しい視線が刺さる。
    「―――新しい職場、隣地区の“バー陽炎”と言ったね」
     オーナーは、下之城。下の名前は聞いていない。
    「言っとくけど、さすがにそこじゃ匿えねぇよ?」
    「わかってるさ、そこまで我儘は言わない。―――解決したら、会いにいってもいいかな」
     ぽん、と頭にでかい手のひらが乗る。まるで子供のような扱いに腹が立つのに――ああ、まただ。
     じわじわと侵食してくる、不可思議な感覚。前にもどこかで、と思い出そうとするともやがかかって消えてしまう。
    「…生きてたら、歓迎してやるよ」
     だから、手を振り払ってそっけなく返す事しかできなかった。

     そうしてスグルは宣言通り、カップ麺をあっという間に平らげた後、スマートフォンだけを持ってあっさりと傑の前から、消えたのだった。
















    「なるほど、ここがそうか」
    「…はい」
     なにもない、ただの草原と成り果てた土地の真ん中に、ソレはあった。
     旧■■村。かつては数十人程度が暮らす小さな集落があったそうだが、ある事件をきっかけにして村人は次々と去った。住人を失った家屋は朽ち果て、田畑は荒れ、ソレだけが残った。
     皮肉にも、村落が廃れた原因となったソレが、今ではここに人が住んでいた唯一の名残である。

    「――恨みの、井戸」

     田舎村落の中でも、ひとつだけぽつりと離れた場所。ここにはかつて、神社があったという。鳥居と、小さな社が建っていただけで住んでいた者はおらず、村の人々が協力して管理していたと、記録には残っていた。
     その境内に、古い井戸がひとつあった。かつては飲用水として利用されていたそうだがいつしか水は枯れ、井戸の形だけが残った。
     ここには古くから言い伝えがある。地の果てまで続いているような真っ黒な穴に向かって憎い相手の名前を叫べば、必ず不幸が襲う、というものだ。
     ありきたりな都市伝説ではあるが、ここの「呪い」の効果は覿面。いつしか「恨みの井戸」などと呼ばれ、村がなくなった今でも密かに訪れる者が後を絶たない、らしい。

     「恨みの井戸」の始まりは、こうだ。
     かつてこの村一番の家で奉公人として働いていた娘は、主の息子兄弟にいじめられていた。誰かに話せば働き口を失うし、そうなれば実家の父母にも迷惑がかかる。だから必死に我慢して過ごしていたけれども、腹にため込み続けるにはあまりにも辛かった。
     悩んだ末に考えついたのが、年に一度の祭りの日以外ほとんど誰も近寄らない神社の井戸に思いのたけをぶちまけるという方法だった。どんなひどい扱いを受けたのかを闇に訴え、最後に叫んだ。
    『お前なんか、川に流されて消えてしまえ!』
    『お前なんか、梁の下敷きになって潰れてしまえ!』
     すると数日後、兄の方は橋を渡っている途中で川に落ち、流されてそのまま行方不明となり、弟の方は隣家を訪ねているときに突然屋根が崩れ落ち、降ってきた梁の下敷きになって潰れてしまったのだった。
     突然の出来事に村人たちは戸惑い、狭い村落は大騒ぎになった。当然、1番驚いたのは娘である。2人とも叫んだ内容のままになるなんて、偶然とは思えない。
     娘はすぐに、神社の神様が願いを叶えてくれたのだと思った。恐怖を感じると同時に、喜びもまた湧きあがった。なにしろ、憎い2人に天罰が下ったのだから!
     だからその日の夜、こっそりと屋敷を抜け出して神社へお礼参りへ向かった。その行動を不審に思った同じ奉公人の男が後をつけた。着いた場所は、真っ暗な神社。一体こんなところに何の用がと、社の影に隠れて耳を潜めると、娘は手を合わせて言った。
    『おかげであの2人はいなくなりました。ありがとうございます』
     男は驚いて飛び出し、娘を問い詰めた。それで事の顛末が発覚したのである。
     実際に手を下したわけではないとはいえ呪詛を吐いたという事実は変わらず、娘は散々責め立てられて奉公先を追い出された。その後姿を見た者はいない――という、内容である。

     誰もいないはずの神社で娘が叫んだ内容が明記されているのでおそらくは創作だろうが、元となる事件はあったのだろう。
     資料を見たとき最初に頭に浮かんだのは、有名なイソップ寓話だった。王様の耳がロバの耳であることを知った床屋が、他言すれば命がないと言われ、それでも誰にも言えずに抱え続けることが苦痛で、穴の中に叫んだ。しかしそこから育った草木が口々に喋り出し、結局は国中の人々に知られてしまうという物語である。
     ――こっちはバッドエンドっぽいけど。
     娘の行いを非難しながらも、「願えば恨む相手を殺してくれる井戸」の存在は、魅力的であったらしい。
     その後も村のあちこちで不審な死を遂げる者が増え、そのたびに誰かが呪い殺したのではという疑心暗鬼が生まれた。隣人を疑い、親を疑い、子を疑う。そうして互いに信じられなくなり、その間にも犠牲者は増え、村という集団は崩壊した。
     実に、人間らしい物語である。
     もともと井戸に呪霊が潜んでいたのかどうかはわからない。しかしそこからどんどん溜まっていった「悪意」によって成長していったのは想像に難くない。そうして膨らんだ「呪い」は、現代にも被害をもたらした。
     持っていたタブレットに目を落とす。移動中の車の中で繰り返し目を通した内容は、すでに頭の中に入っていた。




    記録 20XX年7月X日
    ■■県旧■■村跡地


    7月X日、隣接する■■町■■高校の男性教員Aが職員室で昏睡状態に陥る。
    持病はなく、倒れた日もいつも通り出勤していた。病院で検査しても、原因は不明。
    ■■町では他3名が同様の状態で入院しているため、近隣の窓■■■■が確認したところ、全身に纏わりつく残穢を目視。
    ■■高校で聞き取りを行った結果、被害者Aが受け持つ学級の生徒3名が、Aが倒れる2日前に旧■■村の「恨みの井戸」を訪ねたと告白。生徒3名は頻繁にAと諍いを起こしていたとの証言あり。
    7月X日、なんらかの関連があるとして、■■■二級呪術師及び窓■■■■が旧■■村へ赴き調査を行ったところ、件の井戸に一級以上と思われる呪霊を確認した。





    「で、空いてる一級呪術師がいなかったから、悟がここに来たと、そういうわけだね?」
     ―――表向きは。
     半年前の日付が記された報告書は、そこで終わっている。というより、途中まで作成して止まっている状態だ。もちろん、忘れていたわけではない。
     作成者は今隣にいる、補助監督の後輩――伊地知潔高である。最後に五条悟と一緒にいた男でもあった。
    「悟が消えた本当の場所は、ここだった」
     今界隈で知られている、五条が失踪したとされる場所とは東西で全くの逆方向だった。つまり、伊地知はウソの報告をしていたわけである。
     なんらかの思惑が働いていることはわかっている。事実を知っていたのは、伊地知の他は元担任であり現学長の夜蛾だけだった。家入硝子ですら、なにも聞かされていないと言っていた。
    「ここには、何もいない。綺麗なものだ」
     砂埃が積もる縁を指で辿る。石を積み上げて作られた井戸は、ただ静かに真っ黒な口を開けているだけだった。かつてなにかしらの大物が棲んでいたのだろう痕跡はわずかに残っているが、それだけだ。
    「半年前、悟が来たときにはすでに、いなかったんじゃないの」
    「ええ、そうです」
     以前よりも窶れて見える後輩は、しかし真っ直ぐこちらの目を見たままきっぱりと答えた。
    「承知の上で、ここへ来ました」












    『お前、大変そうやなぁ』
     影が差す。頭半分大きい相手を、メンドクサイと思いながら見上げる。
    『代わったろうか?』
     男なのか女なのかもわからない。どこかで会ったような気もするが、どうでもいいと思いながら、視線を落とす。
    『――できるもんなら、そうしてくれよ』
     冗談半分、もう半分は、本気だったかもしれない。悟様、悟様どこです。遠くから、慌てた声が近づいてくる。ほとんど一日中ぴったりくっついている、使用人だ。
     ちょっとだけでもひとりになりたくて、隙を見て逃げ出したのがバレたらしい。
     小さく息をついた。正直、心配し過ぎだと思う。だってここは―――の中だというのに。
     影が、離れる。ひらひらと、手を振る。
     そういえばこいつ、どっから入ったんだろう。

    『――俺は本気や。またな、五条悟くん』












     夏油さんに協力をお願いしたいことがあるんです、と深刻な顔で告げられ連れてこられたのがこの場所だった。
     伊地知や夜蛾なにか隠していると気づいてはいたが、誓って脅すような真似はしていない。伊地知の方から声を掛けてきたのである。

     五条悟が失踪してから、きっちり半年後のことだった。

     気弱そうな見かけに反して、伊地知という男は芯が強く、口が硬い。どんなに脅されても、痛めつけられても、秘密は決して明かさない。
     短くはない付き合いだ、夏油もそれはわかっているので、初めから尋ねることはしなかった。
     そんな男が満を持して夏油に打ち明けたのは、予め半年を過ぎたらと五条と決めていたから、であるらしい。

    『もし半年経っても僕が戻らないようなら――』

     学生時代を思い出す。一週間の予定で組まれた任務を、2日あれば十分だろうと笑い、本当に実行するような男だ。だから、伊地知から聞いた話とはいえそんな弱気なことを口にしていたことにまず驚いた。
     イコール、それだけヤバい案件なのだと悟る。
     誰に、とまでは五条は指定していなかったという。冥や庵、灰原――今も高専の所属で動いている呪術師ではなく、フリーで気ままに動いている夏油をダメもとで選んだのは、伊地知自身だった。
    「それが1番最適だと、判断しました。五条さんも望んでいるだろう、と」
     なぜ、と尋ねた夏油に、伊地知は苦笑した。素直じゃない性格も十分すぎるほどに知っている。だから名前は出さなかったけれど、本当に協力してほしいのは貴方に違いない。夜蛾も、否とは言わなかったし、結局は貴方を信用しているんです。
     浮かんだのは、嬉しさよりも戸惑いだ。複雑な気分だった。学生時代、界隈を揺るがせたあんなことをしでかした自分にまだ信用なんてものを残していたのか。
     それでも、断ることはしなかった。

     五条の行方を探していたのは、夏油も同じだった。
     祓除中に失踪したと聞いたとき、さて誰を罠に掛けるのだろうかと最初に考えた。学生時代ならばともかく、今の五条悟をどうにかできる呪詛師や呪霊がいるはずがない。だから、なにかしらの計画のために自ら姿を消したと考えた。きっと、界隈のほとんどは夏油と同じ考えだったはず。
     けれど、1ヶ月経っても、2ヶ月経っても、半年経った今も、五条は戻ってこなかった。
     高専に問い合わせてみても、原因は全くの不明の一点張り。灰原や冥に尋ねても、答えは同じだった。もっとも、灰原たちは何かの作戦が動いているのだろうと察してはいたのだろうが、本当に知らなかったのだ。
     だから、独自に調査を始めた。フリーの呪術師とはいえ、自ら築き上げたネットワークがある。呪術師はもちろん呪詛師の一部とも繋がっており、高専では手に入れることが難しいだろう裏事情も把握することができる。
     けれど、それをフルに活用しても、有益な情報は入ってこなかった。
     死んだ、とは思わなかった。そんなことがあるはずはないと拒絶していただけなのかもしれないが、どこかで必ず生きていると信じていた。
     結論から言えばそれは、間違っていなかったわけだが。
    「それで、君たちの”敵”の正体は?」
     もう、わかっているんだろう?初めて、伊地知の目が揺れる。こんなところまで連れてきて、まだ少し迷いがあるらしい。けれどそれは、夏油に明かしていいのか、ではなく、巻き込んでいいのか、の方だとすぐにわかった。
     井戸の周りには、小さな帳が下りている。わざわざこんな田舎に連れてきたのも、可能な限り誰にも聞かれない環境で相談するためだ。
     数秒間の逡巡の後、伊地知はついに口にした。



    「―――五条家、です」



     予想外の名前に、目を瞬く。
     御三家のひとつ、五条家。現在の当主は、五条悟。言わずと知れた、呪術界での常識である。
     しかし、禪院家、加茂家とは少々異なる事情が存在した。古い血筋であることには違いないが、明確な嫡流というものが存在しない珍しい家系なのである。
     というのも、六眼は必ずしも、本家に生まれるわけではないからだ。すなわち、たとえ分家だろうと、五条の血を引いている家には六眼が生まれる可能性がある。六眼を授かった時点でその家が嫡流の扱いとなるのである。
    「ややこしいな」
     伊地知の話を聞きながら、親指で眉間を掻く。
     五条家について、夏油は詳細を聞いたことがなかった。五条自身があまり話がらなかったということもある。あの頃は、別に知る必要のないことだとも思っていた。
     五条悟という、自分と同い年の親友が隣にいる。それだけでよかった。それがすべてだった、青い時期が確かに夏油にもあった。
    「ええとつまり?悟が生まれるまでは悟の家は単なる分家に過ぎなくて?でも悟が生まれた瞬間に本家に昇格したと、そういうことかな」
    「それで、当ってるかと」
     自分も最初に聞いたときには上手く理解できなくて怒られたのだと、伊地知は苦笑した。なんでわかんないのと理不尽に咎める姿が容易に浮かぶ。
    「ご存じのとおり、五条家の相伝術式は無下限呪術です。それ自体持って生まれる人は珍しくないのですが、六眼との抱き合わせともなると話が違う」
     五条の血筋に生まれることは間違いない。けれどいつ、どこの家に生まれるのかはそれこそ天運である。
     五条家が御三家の中でも分家が多いのはそのせいだ。そして他のどの家系よりも、系図がしっかり残され、厳重に管理されている。
    「それまで本家だったのは前の六眼が生まれた家だったそうで、五条さんが生まれて数百年ぶりに交替した形になりますね」
     それが、五条家の慣例。1000年の昔から決められていたこと。
     京都にある五条の屋敷は本家のためにある。つまりはそれまで本家として暮らしていた家族たちが追い出される形になる。
     それが当たり前だと全員が受け入れられるわけではないだろう。当然のように、不満を持つ者もいるはずだ。
    「まさかその、追い出された家族の誰かが今回の件を画策したと?」
    「五条さんは、そう考えてました」
     なるほど、敵が五条家とはそういうことか。一種のお家騒動である。三竦状態とも言える御三家事情では、表沙汰にはできないだろう。もしかしたら、上層部にも息がかかった者がいるかもしれない。
    「――最初から、首謀者の目途はついてたってことだね」
    「ええ、その」
     伊地知はもう一度、目だけを動かして周囲を見渡した。夏油が下ろした帳の中は他に誰もいないし、侵入者がいればすぐにわかる。そんなことは承知の上でなお、不安になるのだろう。本当に、気が大きいんだか小さいんだかわからない男である。
    「――五条、聡。23年前まで五条家嫡流だった男です」
    「さとし、ね。それはまた」
     名前は一文字違い。けれど置かれた立場はまるで違う。とはいえ、それで五条を恨むのは、お門違いではある。
    「両親、妹と一緒に本家を出た後は東京に引っ越し、小学生の時から呪術師として両親の手伝いをしていたようですが、中学校入学と同時に行方を晦ましています。生きていれば、今年で26歳になるはずです」
     おそらくは、そのときから――いや、本家を追い出されたときからずっと準備を進めていたのだろう。
    「1年ほど前、五条さんが冗談めかして言ってたことがあるんです。昔、その”聡”さんと初めて会ったときの夢を見たのだ、と」

    ――今更出てくるって、行方不明になって10年以上経ってるし、生きてるならどっかで虎視眈々と僕を狙ってるのかもしれないね。

    「私たちが知らなかっただけで、五条さんはもしかしたらそのときには何か動きを察知していたのかもしれません。それで、罠だとわかっていて、ここに来た。向こうの思い通りになれば、コソコソ隠れている首謀者のところまでたどり着けるかもしれない、と」
    「――ここの任務は、どこから流れてきたの」
    「詳細はわかりませんが、上層部から依頼された件だそうで。ただ、五条さん失踪後、その報告書にある関係者全員が消えています」
    「それはまた、大がかりな仕掛けだ」
     今だから言えることですが、と伊地知は顔を顰めて、嘘の報告書の作成を強制したのは上層部なのだと告白した。一応形ばかりの抗議は夜蛾が行ったそうだが、当然却下された。
     しかしヤツらは、それすら予測していたことには気づかなかったのだろう。ついでに、伊地知と五条の絆も、甘く見ている。伊地知が、脅せばなんでも言うことを聞くと誤解している。
     なにもいなくなった井戸に腰を下ろし、中を覗き込む。そういえば昔、真っ黒な髪を振り乱して井戸から出てくる女の映画が話題になったことがあった。その年は類似の呪霊が大量に発生して忙しかったことを思い出す。
     ここで、この場所で、五条がどうやって浚われたのか。帳の外にいた伊地知は見ていないと言った。報告書のすべてが嘘というわけではなく、帳を下ろしてからの部分は、概ね事実だった。
     こんな大がかりな仕掛けをしてまで連れ去ったのだ。目的は命を奪うこと、ではないのだろう。
    「もちろん、連れていかれた場所はわかっていたんだろう?」
    「発信機を付けていましたので」
     相手が呪術師、または呪詛師ならば、呪霊や呪具の類は逆にすぐに見破られる。だからここは普通に文明の利器に頼った。反転術式で傷も塞げるため、左手に発信機付のチップを埋め込んだのだ。
    「ただ、■■区の病院に運ばれたところまではわかりましたが――その後、途絶えてしまって。おそらく発信機の存在がバレたのでしょう。私たちは五条さんからの連絡を待ったのですが一向になく、それで」
    「約束の半年を過ぎたから、私に声を掛けたということだね」
     発信機を想定している時点で、ある程度はこちらの動きもバレていたのかもしれない。それでも計画を実行したということは、よほど自信があるのだろう。
    「君のことだ、その病院も調査済みなんだろう?」
    「はい。聞き込みを行ったところ、確かに五条さんに似た男が運び込まれ入院していたそうです。しかし親戚だという男が現れて引き取ったらしく、それ以降は」
    「親戚の男――五条聡か」
    「それか、協力者でしょう。ただ妙なことに、確かに医者や看護師数人が、五条さんに似た患者のことは薄ぼんやりと覚えているのですが、誰一人として親戚の男の顔や名前の記憶がないのです」
     脳に作用する術式の持ち主。最初に浮かんだのはそれだ。
     術式は多種多様。五条の生徒のひとりである狗巻棘のように、言葉に呪いを乗せて現実化させる能力や、相手に触れて考えや過去を読み取ってしまうサイコメトリー的な能力もある。
     腐っても五条家の一員である。御三家の中では比較的マシな方だとはいえ、五条家だって一枚岩ではないはずだ。金も権力もあるのならば、そういう呪詛師の協力者も集まりやすい。
     とはいえ、どんなに変わった術式の持ち主でも、六眼の前では丸裸だ。仮に囚われたとしても、あの五条が影響を受けるとは考えにくい。
     小さく、息をつく。そうしてゆっくりと立ち上がった。
    「事情はわかった。私も――できる限りのことをしよう」
    「よろしく、お願いします」
     ようやく肩の緊張を解いた伊地知は、深々と頭を下げたのだった。


















     ふわふわと、宙に浮いているような、水の中を漂っているような、妙な気分だった。新しい職場へ移動する道すがら、聳えたつビルの群れをぼんやりと見上げて、あっさりと姿を消した男のことを考える。
     たった3日。されど3日。
     病院で目を覚ましてから、他人とあんなにも一緒にいたことはない。自称・恋人ですら、部屋に入ったことはなかったのだ。
     オーナーに、他人となるべく関わるなと言われていたこともあるが、それ以前に誰かが近くにいることが傑は苦手だった。店で働いているときも、客とは必要以上に接することはなかったし、プライベートはほぼ部屋に引きこもっていた。
     それなのに。
     初めて出会ったその日から一緒に食事をして、さらには同じベッドで眠るなんて。そんなことができた自分自身に、戸惑っていた。
     でも、それもおしまいだ。
     あの男は、もうひとりのスグルは、触れた熱の温かさだけを置いて消えてしまった。そしてもう、二度と会うことはない。
     心の奥にツキリと痛みが走るが、気づかないふりをする。これはきっと、知ってはならない感情だ。




    ―――まったく、しょうもないね。




    「え?」
    「ん?どうかしたかね」
     誰かの声が聞こえた。聞き覚えがあるような、ないような、そんな声。けれど半歩前を歩くオーナーは訝し気な顔をするだけだ。聞こえていたのは、どうやら傑だけらしい。それとも、気のせいだろうか。
    「いえ、なんでもありません」
    「そうか?ほら、もう着くぞ」
     店を出て歩き始めて10分ほどだろうか。結局一度も細い路地から出ることなく、目的地に到着したらしい。オーナーが指さす方向に3階建ての、文化財にでも指定されていそうな古いビルがあった。
     壁に打ち付けられた小さな看板に、「Bar陽炎」と書かれている。ここもまた、店自体は半地下にあった。
     こんなに近所なのに、初めて訪れる場所だった。私物を全部詰め込んだボストンバッグひとつぶら下げてオーナーの後に続いて階段をおりていく。Closeの看板がかけられた扉を開けて、中へ入る。そこには、新しい雇い主となる下之城が待っている、はずだった。
     昨日会ったばかりの下之城は、確かにいた。前の店よりも広いフロアの真ん中に立ち、両手を広げて傑を歓迎する。昨日とは打って変わって上下真っ黒な服を着た男は、随分と印象が違って見えた。
     音を立てて、扉が閉まる。鍵がかかる。驚いて振り向けば、閉められた扉を背にして出口を塞いでいたのはオーナーだった。
     その音が合図だったのか、奥の部屋から同じく上下黒い服の数人が出てきて、あっという間に傑を取り囲んだ。
     何か、変だ。
     そこでようやく違和感に気づく。
     店内には、テーブルも椅子もない。カウンターの向こう側、通常なら酒瓶が並んでいるはずの棚は空っぽである。
     くらりと、眩暈が強くなる。

    「ようこそ、夏油傑くん―――いや」
    「っ、なに」
    「五条、悟」

     気づけば下之城はすぐ目の前にいて、胸元を掴まれ、そのまま床に叩きつけられるように倒された。
     無防備なまま強かに背中を打ち付けて、一瞬呼吸が止まる。しかし男は容赦なく、さらの首を締め上げてくる。頭の中が混乱したまま、それでも必死に抵抗しようともがくが、びくともしない。
    「ひどいわぁ、俺のこと、忘れた?」
     下之城は傑の上で、それはもう楽し気に笑った。完全に、別人だ。紳士の顔は、今や見る影もない。
     何を言っているのか。さっぱり意味がわからない。
    「素晴らしい、素晴らしいよ■■さん!こんなことしてもアイツは出てこない」
    「ふん、当然だ。半年もかかったんだぞ。相手が相手だ、苦労したさ」
     顔を動かせないので見えないが、嘲笑のような声は間違いなくついさっきまで一緒だったオーナーのものである。

     なにがどうなってるんだ。オーナー?なんで俺は痛めつけられてる?
     ごじょう、さとるって、何なんだ。

     疑問がぐるぐると周るが、答えはくれそうにない。
     頭が痛い。ここに入った瞬間から、眩暈も頭痛も一層ひどくなっている。
    「君には一緒に来てもらうよ――俺の傀儡として」
    「かい、らい」
    「ハハ、いい気味や。最強の男が、聞いてあきれる」
     ときどき、関西の訛りが入り混じる。下之城が話す内容は、相変わらずさっぱり意味がわからない。
     ただわかるのは、傑は嵌められて囚われ、今まで優しかったオーナーもグルだったということだ。
    「にしても、記憶のない状態で名乗るのがあの男の名前とはな。おかげで、最初はお前の作戦かと疑った。まぁ、ただ最後まで覚えてたんがそれだけだったみたいやけど――キッショ」

     ゲトウ、スグル。
     ―――スグル。

     ああ、死ぬのかな、俺。薄れていく意識の中で浮かんだのは、なぜかあの男のことだ。
     意味がわからない。ただなんとなく―――死ぬ前にもう一度、アイツに会いたいと、そう思ったのだ。







    「ようやく見つけたよ、五条聡、くん?」






     大きな爆発音とともに、体が解放される。強い風が体の上を吹き抜けて、咄嗟に目を瞑った。うめき声が聞こえてもう一度開けたとき。すぐ目の前で下之城が巨大な龍にぐるぐるに巻かれて宙に浮いていた。
     そう、龍だ。寺院の天井に描かれていたり、御手水で水を吐き出してたりする、想像上の生き物。
     それが、目の前で、確かに存在して、動いている。大蛇よりも太い体に締め上げられて、下之城は苦悶の表情を浮かべていた。

    「っ、は、」

     解放された気管に一気に空気が入り込んだせいで咳き込みながら、傑は後ずさった。何度瞬いても、目を擦っても消えないのだから現実だ。
     首を摩りながら見渡せば、他の連中もいろんな形のバケモノに捕まり悲鳴を上げている。信じられない光景。
     それとも、これはすべて夢だろうか。
     下之城に痛めつけられたことも、わけのわからないことを言われたのも。

    「夢じゃないよ、夏油傑くん」

     とん、と腰を抜かしたまま後ずさる背中が何かにぶつかる。覚えのあるにおいに包まれる。目の端で、黒い髪が揺れる。



    「――いいや、違うね。夏油傑は、私の名前だ」



     肩を引かれて、後ろを見上げる。あの胡散臭い笑みが、傑を見つめていた。

    「そろそろ目を覚ましたらどうだい?―――悟」

     さとる、さとる。
     下之城もそう、呼んでいた。
     さとる。
     それが、おれの、ほんとうの、なまえ…?

     ぐわんぐわんと世界が回る。頭が、割れるように痛い。

     俺は―――僕は。

     目の前が真っ白に弾けて、そうして―――何も見えなくなった。










     




     誓って、すべてを投げ出してしまいたいとか、逃げ出してしまいたいとか、そんなこと考えたことはない。
     そりゃ、反転術式を会得する前は、目の使い過ぎで体調を崩したことも多くて、こんなものなくなっちゃえばいいのにと口にしたことはあるけれど。
     徐々に使いこなしていく過程は最高に楽しかったし、強い敵と戦う時は心が躍った。
     ひたすら前を――前だけを見て進んでいた。後ろを振り返ろうとは思わなかった。
     けれど、ふとした瞬間。ついつい立ち止まってしまったとき。満たされていると思っていた心に隙間が空いていることに気づくのだ。

     例えば、この手から零れ落ちていった命だとか。
     隣からいなくなってしまった、親友だとか。

     知らんぷりをして、放置して、隙間は塞がるどころか大きくなっていた。
     叫ぼうとした感情を、いつも飲み込んだ。
     そうして吐き出せなかった澱が、どんどん溜まっていたことにも、気づかないふりをした。





    「それとも、猿芝居は、そんなに快適かい?」





     明らかに挑発する声に、口角を上げる。
     それを、お前が言うのか。
     可笑しくて、堪えきれずに笑いそうになる。

     例えれば、小さな貸切の映画館で映像を見ている状態だった。
     観客は五条ひとり。
     たぶん、奴らの目論見としては、出入り口のないこの箱の中に永遠に閉じ込めて、外側に肉付けして作り上げた人格を新たな「五条悟」として利用したかったのだろう。操り人形でも、両目にはまっているのが本物の六眼ならば強い切り札となる。
     けれど、五条にとって四方の壁は存在しないようなものだった。指一本で壊すことができる。いつだって自由に出ていける。
     さっさと出ていってしまってもよかったが、それでは黒幕に辿り着けない。能力は大したことないのに、逃げ隠れだけは一級品だ。
     それに――流れてくる物語が意外にも面白くて。
     何も考えずにただ流されるまま、言われるままに、ただ生きているだけの自分の体を嘲りながらも、少しだけ、本当にちょっと、羨ましいと思ってしまった。
     図らずも、真正面から自分の「隙間」と向き合ってしまったのだ。

     玄関から、奥の部屋から、次々と人間が出てくる。性別年齢一切問わず。全員空な目をしてゾンビのように動き回る――非術師たちだ。どこから連れてきたのか、どんどん数が増えていく。
     操られているのだと、すぐにわかる。そんなことができる術師も、わかっている。
    「う、動くな!は、早く解放しろ!こいつらは非術師だぞ!呪術規定で、危害は加えられんことになってるはずだ!」
     〝オーナー〝役の男が叫んだ。
     ああ、バカだなぁと思う。この状況でそんな正論が通じるはずもない。
     もとより、この男相手に非術師を盾にするなんて。
     呪術界隈に身を置く者なら、呪詛師ならなおさらこの男のことを知っているはずなのに。
    「よくご存知で。ただ、そこには追記があってね――ただし、自己または他人の生命を守るためやむを得ない場合はこの限りではない。私にとっては、実に好都合」
     ここにいる者が全員いなくなれば、証言する者もいなくなる。
     さらに多くの呪霊が溢れてくる。悲鳴が上がる。自我のない非術師が彷徨く。
     半地下のフロアは、完全にカオスになった。

    「――もう、その辺にしとけよ」

     肩に置かれたままの手に、自分の手を重ねた。今にも暴れ出そうとしていた有象無象がぴたりと動きを止め、男の――夏油の中へと帰っていく。

    「おはよう。ようやく起きたね、悟」

     手を離すとすぐに強く腕を引っ張られて、立ち上がる。言葉にしなくても、感情は痛いくらいに伝わってくる。
     半年間まともに鍛えていないので、体は全体的にすっかり鈍っているというのに容赦がない男だ。相変わらず。
     少しだけ下にある、真っ黒な目と視線が交わる。こんな風にまともに顔を合わせるのは、かなり久しぶりだと気づく。
     できればもっとマシな状況で再会したかったが、マシな状況だと会う理由がない。
    「バ、バカな、なぜ」
     オーナーの、驚きと絶望に満ちた声。それはそうだろう。自分の力と成果に絶対の自信を持っていたのだろうから、この現実は受け入れ難いのかもしれない。
     もっとも、黒幕に近づくためにそう仕組んだんだけど。
     こいつの術式はなかなか珍しい。自らの呪力を注ぎ込むことで、他人を操ることができる。注ぎ込む量と時間が長ければ長いほどに、操れる期間も長くなる。
     任務と称して向かった廃村の井戸で待ち構えていたのは、この男だった。
     操られた哀れな非術師数名が五条に纏わりついてきて、身動き取れなくなったところで最初の一撃を打ち込まれた。
     ――もちろん、わざとである。無下限も解いておくサービス付きだ。
     そうして囚われて、茶番は始まった。
     実に面白いシナリオを考えたものである。
     まず連れていかれたのは病院。記憶を封じた「五条悟」に、意識不明の状態に陥って家族も他に頼るべき者もいないという設定を与える。困り果てた身寄りのない青年に、知人の顔をして近づき、なんだかんだと言いくるめてあの店に連れていく。
     もちろん、五条の体を、本人の意志で留めておくためだ。
     それから毎日毎日、食事や飲み物に混ぜたり、直接触れたりして呪力を注ぎ込み、半年かけて意のままになる操り人形に仕上げた。
     男の能力をもってすれば、並の術師では半年経てば一生自我は戻らないだろう。
     そうして男は、「依頼主」に出来上がった商品を渡したというわけだ。
     幸いにも、五条は「並の術師」ではなかったので。ただじっと、「傑」の内側に閉じこもって機会を窺っていたのだ。
     ―――夏油、傑、か。
     五条の意志と切り離した形になった体は、名前を聞かれて咄嗟にそう答えた。大真面目に答えた体に、五条は腹を抱えて笑った。
     お前、よりによってそれかよ!セルフツッコミのはずなのに殻に閉じこもった野次は外へは届かず、そのままずっと「夏油傑」と呼ばれる羽目になった。
     あいつらも、さぞかし戸惑ったことだろう。世界に3人しかいない特級のひとりの名前を知らないはずはない。
    「君に聞きたいことは山ほどあるけど、とりあえずはこっちを片付けようか」
    「――賛成」
     同時に視線を向けられて、さっきまで強気で威張っていた「下之城」の体が戸惑う。
     呪力量は多い。呪霊だって普通に視認できている。腐っても五条家の、かつての本家の跡取り息子だ。
     だからこそ、どうしようもできない圧倒的な力の差は理解できているはずだ。

    「―――あんときはさ、半分本気だったんだよ」


    『代わったろうか?』
    『――できるもんなら、そうしてくれよ』
     幼い頃、半ば自棄になって答えた言葉。


    「でも今は違う。やりたいことがあるからね、メンドクサイけど、六眼コレがないと困るんだ」
     だから、大人しく捕まってね。
     夏油が、一歩後ろに下がる。ぽん、と大きな手のひらが背中をたたいた。
     君の問題だろう?私は少しだけ手を貸しただけさ。
     言葉にしなくても、言いたいことはそれだけで伝わってくる。嫌になるくらいに。
     下之城とその手下どもを拘束していた呪霊もまた離れ、主人のもとへと戻っていく。解放されて我先にと逃げていく雑魚はとりあえず無視して、呆然とへたり込んだ男の前にしゃがみこんだ。
     印を組んだ右手を、眉間に当てる。

    「五条、聡。呪術規定、その他諸々に違反した疑いで拘束する一緒に来てもらうよ」

     ぱちりと、形のいい額に軽ーくデコピンをひとつ。それだけで、下之城――もとい五条聡は意識を失った。
     半年かけたわりには、呆気ない結末だった。












    「あれ、五条先生珍しいですね」
    「3回目」
    「え?」
    「同じこと聞かれたの」
     ついさっきは3年生、その前は1年生。今声をかけてきたのは2年生だ。
     確かにここ数日、五条は高専からほとんど出ていない。今までは数時間滞在できればいい方だったので、珍しがられるのも無理はないだろう。
    「グラウンド、あとで顔出すから、ちゃんとやっとくよーに」
    「はーい。みんなにも伝えときます」
     手を振って元気よく走っていく後姿に、自然と頬が緩む。順調にすくすくと育っている、卵のひとつである。


    「いつ見ても、君がちゃんと先生やってるの、変な感じだなぁ」


     笑いを含んだ声が、背後からかかる。もちろん、近づいていることには気づいていた。
    「揶揄いに来たんなら帰れよ」
    「そんなわけないだろう。学長に呼ばれたんでね」
     当たり前のように隣に並んで、校舎へ続く道を歩く。じわりと、右肩に男の呪力を強く感じる。
     あの日、こいつが退学するまでは当たり前だった日常。
     今は、失ったはずの。
     後で話をしようと言いながら、結局バタバタと忙しくて2人きりの時間など持てなかった。社交辞令であろうとも――内心ホッとしていたのに。
    「あのお坊ちゃん、姿消したんだって?」
    「耳が早いな」
    「協力者は、少なくないもので」


     五条悟失踪事件は、本人の帰還と首謀者、協力者の拘束によって一応の解決となった。五条悟の生還の情報は瞬く間に広がり、ここぞとばかりに暴れまくっていた呪詛師や呪霊はあっという間に鎮圧、もしくは逃亡したのである。
     一時的な協力者として働いてくれていたらしい七海もまた、大学生活へと戻った。文句のひとつでも言われるかと思ったが、人の顔を見るなり特大のため息だけをついた。まったく、相変わらず可愛げがない。
     それでもなにか言いたそうな顔をしていたので、何かあったらと連絡先を押し付けておいた。めちゃくちゃ顔を顰められたけれど、突き返されることはなかった。
     そうして、あらかたの呪詛師を捕え、呪霊を祓ったところで以前の光景が戻ったかに見えたとき。

     捕えたはずの「五条聡」が姿を消した。
     ほんの、3日前のことである。
     拘束して、確かに高専地下にある独房に入れたはずだった。ついでに、夜蛾や伊地知が今回の件で突き止めていた上層部の協力者もまとめて捕えたはずだった。
     それなのに3日前、担当が食事を運んでいったときには扉が開いており、当然、中に姿はなかったのである。
     あんな奥底から、たったひとりで逃げ出せるとは思えない。見落としていた仲間がいたのだ。伊地知は必死に謝ってきたけれど、あいつのせいじゃないことは明白である。ヤツラが1枚も2枚も上手で、狡猾だっただけのこと。
     現在五条家も協力して捜索にあたっているが、今のところ見つかってはいない。
     たぶんこれからも、見つからないだろうとなんとなくわかる。逃げるのと隠れるのだけは得意な男だ。きっとまた力を蓄えて、狙ってくるに違いない。
    「身内のことだから、お前が気にすることじゃないよ」
     そう、気にしなくていい。今回は伊地知が巻き込んじゃったみたいだけど、本来ならば五条だけで片が付いた案件だった。
     それは、反省した。長引かせてしまったせいで、あんなバカな真似をさせた。
     でも、今後一切、そんなことはない。
    「だから、」
     だから。お前は、お前の家族たちと、お前が望む道を行けばいい。
     そう、続けようと思ったのに。

    「悟」

     腕を掴まれて、自然と足は止まる。相変わらず容赦のない力に、痛いと文句を言っても放してくれない。
    「今度、一緒に食事に行かないかい?」
    「―――ナニソレ。下手なナンパかよ」
     言葉とは裏腹に、心は揺れ動いた。揺れ動く心が残っていたことに驚いた。
     けれどバレないように覆い隠して、鼻で笑う。
    「忙しいの、知ってるでしょ」
    「うん。でも1時間くらいなら大丈夫でしょ。生徒たちともよく食事に行ってるみたいだし」
    「お前…」
     本当に、なんでもご存じで。
     呆れて、掴んでいた手を振り払う。そうしてひとり、先に歩き出す。

    「私の番号もアドレスも、変わってないから」

     知ってると思うけど。確信とともに投げつけられた言葉に、内心舌打ちする。
     ああ、知ってるさ。
     なぜ伊地知が、簡単に連絡が取れたのか。会おうと思えば、連絡しようと思えば、連絡先に登録したままの名前をタップすればいいことも。
     思わずまた、振り向いた。振り向いてしまった。
     にっこりと、かつてとは違う笑みを浮かべている。どう見ても胡散臭いのに、なぜかみんな、コレに騙され絆されるのだ。
     風が吹く。高専にいたときよりも伸びた黒髪が、ふわりと揺れる。
     その髪型が、今は好きではなかった。
     あの日、理由も語らずに退学し、どんなに呼び止めても振り返ることがなかった姿と同じだからという、子供じみた感情だ。
     もちろん、そんなこと、本人には絶対に言わないけれど。
     五条は、答えなかった。そのまま、背を向けて歩く。少し遅れて、同じスピードで歩き始めた気配がした。
     どうせ、行き先は同じだ。五条もまた、夜蛾に呼ばれていたのだ。



     先日の一件で、危うく非術師まで巻き込むところだった「夏油傑」を上層部が危険視し、「五条悟」が監視担当に命じられたと聞かされるのは、数分先のこと。
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