逆さまの世界に、僕はまさか「わっ」
四限の途中でにわか雨が降ったせいで、放課後校舎の外に出ると、あちこちに水溜まりができていた。足を踏み入れないよう慎重に歩きながら、待ち合わせ場所である裏門へと向かう。
スマホで時刻を確認すると、パトロールの開始予定時刻はとうに過ぎていた。矢後さんには何度もしつこく連絡したから、恐らく来てはくれるだろうが、しかし何分後になるかわからない。
いつ来るかもわからない矢後さんの到着を待つこの時間がどうにも暇で、僕はなんとなく近くにあった水溜まりを覗き込んだ。アメンボがすいすいと水面を滑っており、なんだか気持ち良さそうだ。ぼんやりとその様を眺めていると、ふいに僕の脳裏に小学生の頃の記憶が浮かんだ。
◇
小学校時代、僕の登下校は大抵一人だった。
学校側は防犯も兼ねて、子どもたちは固まって下校するよう呼びかけていたけれど、残念ながら僕はその要望に応えることはできなかった。いつからか誰からも距離を置いた交流をしていたせいで、気づけばどの輪からも遠ざかっていたのだ。
それに、いつの間にかうっすらと広まっていた僕に纏わる不気味な噂も手伝って、積極的に僕に近づく人はいなかった。無視をされるわけでもなく、言葉を交わせばまあまあ会話は続くけれど、それでも腫れ物に触れるような扱いをされる存在――それが僕だった。
当然、雨の日もそうだ。傘を差して下を向いて歩きながら、僕はお喋りをする友人がいない代わりに、いつも水溜りに浮かぶ僕と睨めっこをしていた。
一人でいるのはまあ楽だが、暇なのだ。ゲーム機がなければ、ただぼうっと無心で過ごすか、頭の中でひたすら何か考えたり、空想するくらいしかやることがない。
だから僕はいつも、水溜りの中の僕を見てはとある想像を膨らませていた。いや、これは妄想と呼ぶべきだろうか。
――もし、水溜まりの向こうの世界に生きている僕が、未来視を持っていなかったら。
水溜まりの、「逆さまの世界」にいる僕……未来視能力のない僕は、一体どんな生活を送っているんだろう。それが、僕が雨の日によく考えていたことだった。
僕が考えていた「逆さまの世界の僕」はこんな感じだ。不気味な噂もなく、教室に行けば挨拶を交わす友達がいて、学校が終われば友達の家に遊びに行くこともある。ゲームだって、協力プレイで遊んでいるかも。……ああ、お母さんとお父さんだってギクシャクすることなくずっと仲良しのままだったかもしれない。僕も、家にいて居心地の悪さを感じなかったかも。
しかしそんな姿を想像しても、現実を生きる僕は、家に帰ればすぐ部屋に閉じ籠り、夕飯までに宿題を消化して、あとはただゲームをして。そんな変わり映えしない日常を送り続けていた。つい昨年まで、ずっとだ。……ああ、でも。
「最近はああいう妄想しなくなったかも……」
「もーそー?」
「うっ、うわああ!?!?」
「げ、うるさ……」
首を左に九十度曲げると、すぐ傍に矢後さんが立っていた。スマホのロック画面を確認すると、予定時刻は二十分も過ぎている。大遅刻だが、悲しいかな、いつも通りでもあった。
「や、矢後さん。来てたんですね……」
「は?来いっつって何回もデンワしたのお前だろーが」
「まあ、そうですけど……」
寝起きなのか、妙に目つきが鋭い矢後さんを見て、もし自分がもっと幼かったら泣いていたかもしれない、と思う。何せこの人は、悪名高い不良校のトップなのだから。何故こんな人が今では一番身近にいる存在なのか、何故僕はこの人の睨みに慣れてしまったのか。考え出すと意味がわからない。しかも僕は、その悪名高い不良校の副長らしかった。一体、どうしてこんなことになってしまったのか。
……ううん、それだけじゃない。キラキラした人達――白星やラ・クロワの皆さんも、浅桐さんや倫理くんみたいな「普通」に過ごしていたら出会わなかっただろう人達も、崖縁の人達だって、今では全員が僕の日常を形作っている。
「おい、めんどくせーからさっさと終わらせて帰んぞ」
……「帰る」、か。それは西エリアにある実家でも、現在一人暮らしをしている寮でもなくて、ALIVEの訓練施設に、だけれど。
「……はい!」
足元の水溜りには、僕の姿が浮かんでいた。あの頃想像していた「逆さまの世界」にいる自分と、今の自分はなかなか近い位置にいるのではないだろうか。
教室では「舎弟」を名乗る人達から野太い声で挨拶をされて、帰ったらゲームを共にプレイする先輩や後輩がいて。想像していたのとは少しだけ……いや、かなり違う環境に身を置いてしまった気はするけれど――まさか、こんな未来に辿り着こうとは。
水溜まりに映る僕を眺める。
クラスメイトでもないし、友人でもない。何とも言い表わせない変な先輩と、僕は共に帰路につこうとしていた。
もう、下を向いて歩く必要はなかった。