Rain Drops「……ハァ」
レッスン室に入ると、橙真が窓の外を眺めて溜息をついていた。オメガ・コーポレーションの高層ビルの上階から見える空は、本日も灰色の雲で覆い尽くされている。
最近「梅雨入り」を果たしたばかりの人間界は、連日大雨に見舞われており、街を歩くチュッピ達の表情も心なしか暗かった。
「今日も早いね」
「ひゅーい……。来てたのか」
「うん、たった今ね。今日もすごい雨だねえ」
「ああ。雨もそうだけど、湿度がな……」
「湿度? 橙真、さらさらのストレートじゃない」
「いや、俺の髪じゃなくて……。湿度が高いとさ、飴を作るのが大変なんだ」
「へぇ」
橙真いわく、飴作りは湿気が天敵らしい。湿度が高いと、飴は大気中の水分を含んでべったりと形を崩してしまいやすいのだとか。
だから、梅雨の時期の飴作りは大変なんだ。そう言って再び溜息を溢す橙真を見て、僕はとある提案をした。
「うーん。じゃあ、今日は早めにレッスン終わらせようか」
「えっ、なんでだ?」
「だって、久しぶりに飴の話をしてるから。修行に行くつもりかと思ったんだけど……」
「あ……」
橙真は一瞬ハッとした顔をして、すぐに眉を下げて笑った。
「いや、いい。今日もここでレッスンするよ」
「……そっか。うん、わかった」
最近、橙真は飴作りの修行の方に顔を出していない。みゃむが「英吉が寂しがってたぞ」と言っていたくらいには、キャロルからも遠ざかっている。それもこれも、プリマジのレッスンに忙しいからだ。
TrutHを結成した当初、きっと橙真は飴作りとプリマジ、どちらも両立する予定だったはずだ。いや、今でもそうなのだろう。
けれど現状、橙真はプリマジのレッスンだけで手一杯で、毎日あれほど一生懸命に取り組んでいた飴作りの修行に時間を取れなくなっている。ましてや平日は学校に行き、宿題までこなしているのだから、もうスケジュールは満杯だった。
これらは全て、橙真が僕の手を取ってくれたことに起因していた。他でもない僕自身が、橙真のこれまでの日常を変えてしまった。
――飴作りだけに集中していいんだ。
どうしてもそう告げることができない自分が情けなく、罪悪感を感じては独りよがりに苦しくなるときがある。
飴作りの修行が満足に出来ないこの現状に、橙真が焦りを覚えていないはずがないのに。それでも橙真は、僕にそんな素振りを見せようとしないのだ。
ただでさえ色々な軋轢を抱えてしまった僕に、さらなる心労をかけまいとしてくれている。
僕は、そんな橙真の優しさにつけ込んでいるのかもしれない。
「ひゅーい?」
……それでも僕は、橙真がたまに誰もいない場所でひっそり「修行」していることを知っている。飴を作る感覚を忘れないよう、作業動画や記憶を掘り起こしながら、何度も空中で手の動きを繰り返しているのを知っている。
飴作りだけに集中していいよ、なんてやっぱり口が裂けても言えないけれど……それでも。
「――橙真。やっぱり次の休みはキャロルに行こう。僕も着いていくよ。久々に橙真の作った飴が食べたい」
「……いいのか? 祈瑠さんに叱られると思うけど……」
「いいのいいの! ほら、ちょっと悪いことするのも青春っぽいでしょ?」
「いや、でも」
「……もしかして、余計だった?」
すると、橙真は焦りを浮かべた表情で「違う!」と言った。
「その……季節的にもだけど、ちょっと腕が鈍ってるかもしれないから。……上手く出来なかったものを、あんたに食べさせることになるかもしれない」
……なるほど。橙真らしい心遣いに、思わず笑みが溢れた。でも。
「大丈夫だよ、きっと」
「……え?」
僕は知ってるんだ。橙真が教えてくれた。
「大好き」って気持ちがこもっていれば、飴は甘く、美味しいものが出来るってことを。
自惚れじゃなく、きっと僕達の絆は前よりずっと強く、深くなっているはずだから。多少不恰好な形だったとしても、きっと僕には何より美味しく感じられるだろう。
「どんなときでも、僕にとって橙真の飴は特別だから。勿論、今みたいな大雨が降っててもね」
「ひゅーい……」
橙真は目を見開いて、呟いた。
「……それ、ダジャレか?」
「えっ?………あっ。そう、なっちゃったけど、違うよ!?僕はほんとに――」
「ははっ、ごめん、わかってる。………ありがとな」
でも俺、ちゃんと納得のいく出来になるまで頑張りたい。
橙真はそう言うと、太陽のようにキラキラと笑った。
「うん」
――ごめんね、ありがとう。でも、橙真がそばにいてくれるから、僕はなんとかここに立っていられるんだ。
虹の麓くらい辿り着くのは難しいかもしれないけれど。マナマナとチュッピが笑い合えるような、そんなプリマジを実現したいから。橙真が僕のパートナーになってくれたみたいに。
ふと窓の外を見ると、遠い空の向こうに浮かんでいる分厚い雲の隙間から、一筋の光が差しているのが見えた。