リングフィンガーの予約 リングマリィに出会ったのは、私達が十歳のときだった。
たまたま見つけた、かわいい背景とかっこいい背景が入り混じったプリ☆チャンのチャンネル。画面の中で仲良くお喋りしているお姉さん二人がとてもかわいくて、私は思わず見惚れた。ふと隣を見ると、幼馴染であるみっちゃんも瞳をキラキラさせていた。
「みっちゃん、みっちゃん! このお団子頭のお姉さんすごくかわいいね」
「ゆづはそっちの人が好きなの? アタシはこっちの黒髪の人が好き!」
みっちゃんが指差したのは、すずちゃんだった。
初めて会ったときから好みも趣味もバラバラで、なんで仲良しなのかわからないと言われ続けてきた私達。相変わらず分かれた「好き」がおかしくて、お互い顔を見合わせて笑った。
――そう。きっとこの瞬間、私達はリングマリィのファンになったんだ。私達みたいに、バラバラだけど仲良しな二人のお姉さんが、とびきり素敵に見えたから。
ウエディングコーデの真似をしてレースのカーテンに包まりながら、近所のおもちゃ屋さんで買った三百円の指輪をつけて、みっちゃんと二人でリングマリィごっこをしていた小学生時代。
思えば、このときが一番幸せだったのかもしれない。
中学生になって、他の趣味や、他のプリチャンアイドルに惹かれながらも、やっぱり私達はリングマリィのファンだった。
だって、私にとってはまりあちゃんが世界一……いや宇宙一かわいい女の子で、みっちゃんにとってはすずちゃんが一番かっこいい女の子だったから。
まあ、みっちゃんがたまにメルティックスターのさら様に熱い視線を送ってるのはバレバレだったけど、それでもみっちゃんがすずちゃんを誰よりも尊敬しているのは知っていたから、私は微笑ましく見ていた。むしろ、「あれ? またさら様見てるの?」なんて揶揄うと、慌てるみっちゃんがかわいくて愛おしかった。
そして、中学三年生のときだった。
高校受験の前にリングマリィに会いに行ってみたい、とみっちゃんが呟いたのは。
そのときすでに、私達は違う高校に行くことが決まっていた。みっちゃんはスポーツ推薦でテニスの強豪校に進学が決まっていて、私は地元のごくごくフツーレベルの高校を目指していた。
私はみっちゃんの提案に、一も二もなく頷いた。それから私達は、すぐさまリングマリィの次のライブ予定を調べて、キラ宿にあるプリ☆チャンランドでのライブを観に行くことに決めた。電車にだって数回しか乗ったことのない田舎者の私達は、キラ宿に行くだけでそれはもう緊張した。けれど私は、それ以上にワクワクしていた。リングマリィを生で見られることがうれしいのは勿論だけど、みっちゃんと遠出できることが何よりうれしかったのだ。
後日、電車を何本も乗り継いでようやく到着したキラ宿は、ピカピカの都会だった。田舎にはない高層ビルがいくつもあって、歩いているだけで圧倒されたけれど、街中の至る所にあるミラクルキラッツやメルティックスターのポスターや看板を見ていたら、自然と胸が躍った。彼女達が育った街に来れたことが、純粋にうれしかったのだ。
「みっちゃん! キラ宿すごいね!」
「うん、アタシさっきから写真撮る手が止まんない……」
「ね!たくさん撮ろ!」
ライブ開始までの時間、私達はリングマリィが雑誌やテレビでオススメしていたスポットをいくつか回り、写真を撮ったり食べたりして楽しんだ。そして少し遅めのお昼を食べようとカフェに入ると、そこでとんでもない奇跡が起きた。
なんと私達は、たまたま入ったカフェで、リングマリィの二人を見つけてしまったのだ……!
まりあちゃんが雑誌で行きつけのお店だと紹介していたから、キラ宿でランチをするならこのカフェに行こうと決めていたけれど、まさか本当に会えるなんて! 私達は一気にパニックになった。混雑時を過ぎていたからか、店内に人はあまり居ない。話しかけるのは簡単だった。
二人は窓際の席で楽しそうにお話をしていたから声を掛けるか迷ったけれど、こんなチャンスは二度とないかもしれない。タイミングを見計らいつつ、私とみっちゃんは勇気を振り絞って話しかけた。
「あのっ! こんにちは! えっと、わ、わたしたち、リングマリィのファンで……!」
「アタシと、こっちの、ゆづと二人で、ずっと応援してました!」
声が震えている。みっちゃんは夏にあったテニスの県大会の準決勝のときより、遥かに緊張していた。そういう私もガチガチで、みっちゃんをフォローする余裕がない。
私達が緊張で汗をかいていると、そこにふわふわのわたあめみたいな甘い声が優しく響いた。
「すずちゃん、すずちゃんっ! 聞きましたか!? こ〜んなにかわいいお二人がまりあ達のファンだそうですよ! ちょ〜かわいいっ」
「きゃあっ?!」
「わあ!?」
「聞いてる聞いてる……というかストップストーップ! かわいいシール貼りすぎ!! ごめんね? うちのまりあが……。大丈夫?」
「は、はい……」
ちら、と横を見ると、みっちゃんは顔を真っ赤にしてすずちゃんをポーっと見つめていた。頬や肩には、まりあちゃんのかわいいシールが何枚も貼られている。私は自分のおでこを触り、そこに貼られていることを確認した。
すずちゃんはまりあちゃんからかわいいシールを預かると、私達に話しかけてくれた。
「二人とも、いつもすず達を応援してくれてありがとう。あっ、もしかしてこの後のライブ来てくれるの?」
「はっ、はい!」
「まあっ、超かわいいライブにしますから、かわいくお楽しみにしていてください!」
そう言って私の手を取ったまりあちゃんは、私の指を見て「あら?」と呟いた。
「これは、お二人でお揃いですか?」
「あっ!」
すっかり忘れていた。私達は今日、お揃いの指輪をつけてきていたのだ。たった三百円の指輪。昔は薬指にはめていたけど、今は小指につけていた。
私達にとっては大切な思い出の詰まったものだけど、リングマリィからしたらきっと幼いおもちゃのはずだ。私は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。けれど。
「とーってもかわいいです! 大切なものなんですね」
「え……? は、はい!」
うれしかった。まりあちゃんが、私の宝物を宝物として見てくれたことが。まりあちゃんは、見た目だけじゃなくて心まで綺麗でかわいくて、まるで天使みたいだった。
それからも少しお話をしたけれど、これ以上リングマリィの時間を邪魔するわけにもいかない。会話となると緊張で「はい」しか言えなかったけれど、最後、私は頑張って伝えた。
「あの、私達、これからもずっとずっとリングマリィのファンでいます!」
すると、まりあちゃんとすずちゃんは私達の顔を見て、にこっと柔らかく微笑んだ。
「ふふ、ありがとうございます。まりあもすずちゃんも、とびきりかわいい言葉をもらえてうれしくてかわいいです」
「うん。よく見てて、これからもたくさんかっこいいところを見せるよ」
その後、プリ☆チャンランドにて行われたリングマリィのライブは、それはもう最高だった。
配信で眺めるのと、現地で眺めるのはやっぱり違う。配信には配信の良いところがいっぱいあるけれど、生で見る二人は格別だった。
大好きなインディビジュアル・ジュエルに、コトバ・ブーケ。何年経っても色褪せることのないリングマリィの代表曲に、ここ数年ブロードウェイにて発表された曲や、ドラマのタイアップ曲。それらを軽やかに歌い、くるりと手を取り合ってターンを決めるリングマリィ。二人の作り出す世界のすべてが優しくてキラキラしていて、かわいくてかっこよくて、最高に魅力的だった。
この夢みたいなステージのあと、私達の興奮がいつまでも落ち着かず、何日経ってもおしゃべりが止まらなくて大変だったことを、私は今でもお母さんに揶揄われている。
そして。高校生となった私とみっちゃんは、予定通り離れ離れなった。みっちゃんは少し遠いテニスの名門校に、私は同じ中学から何人も進学している地元の高校に入学した。
高校生活は楽しかった。みっちゃんはまあまあ人見知りだったけれど、私は元々人と話すのが好きだったから、友だちはすぐ出来た。放課後はカラオケに行ったり、たまに追試で泣きべそをかいたり、制服のままテーマパークに出かけたりして、高校生を十分謳歌した。
みっちゃんはというとテニス漬けの毎日を送っているらしく、これまでほぼ毎日会っていた私達は、入学して半年経つ頃には一緒に遊びに行くことさえ月に一度だけになってしまった。メッセージを送るにも、みっちゃんの負担になったら嫌だからなかなか送ることができない。金曜の夜に数行送ることで我慢していた。みっちゃんは自分から送ってくれることは滅多にないけれど、返信は丁寧だから、一言で答えられるような文章にして。
「はぁ〜〜〜………」
私は、猛烈に寂しかった。みっちゃんが全然足りないのだ。
高校で仲良くなった友だちは「恋でもすればいいじゃん」とか「幼馴染離れすれば?」とか言うけれど、そんなの無理だった。
他の誰も、みっちゃんの代わりになるはずがないのだ。たとえ異国の王子様だって、石油王だって代わりにはならない。眼中にも入らない。だって、この宇宙に存在するみっちゃんは、みっちゃんただ一人なのだから。王子様でも石油王でも、それがみっちゃんじゃなければ意味がなかった。
充実はしているはずなのにどこかぽっかり穴が空いたような日々を送る中、いつしか私はリングマリィの配信を見ることがなくなっていた。いつもみっちゃんと一緒に見ていたから、その習慣がなくなって、自然と離れてしまっていたのだ。そのことに気づいたのは、クラスメイトがまりあちゃんがアップしたコスメ動画の話題を出したからだった。
家に帰ってベッドに寝転がる。手元の画面には、相変わらず天使みたいにかわいいまりあちゃんの姿が映っていた。
「配信、久しぶりに見たなあ」
まりあちゃんのお気に入りコスメを紹介するこの動画には、度々すずちゃんも映り込んでいた。まりあちゃんのお気に入りのコーラルピンクのリップの隣には、すずちゃんにプレゼントしたというオレンジのリップが置かれていて、まりあちゃんが手招きをするとすずちゃんが恥ずかしそうに入り込む。まりあちゃんが手ずからすずちゃんの小さな唇に色をのせて、二人で楽しそうに笑い合っていた。
……いいなあ、と思う。
まりあちゃんとすずちゃんは、昔からずっと一緒だ。私が小学生の頃から見てるから、もう七年ほど二人は一緒にいることになる。
数年前、二人は配信部屋も兼ねてキラ宿に小さな家を買ったと報告していたから、きっと生活も共にしているのだろう。ブロードウェイでも同じ屋根の下で過ごしているはずだけど、それでもまだまだ一緒にいたいのだろう。
……私も。私も、みっちゃんと一緒に生活できたら。学校が離れ離れになっても、毎日家で会えたら。昔みたいに、みっちゃんとこの先も楽しく過ごせたら。でも、今は無理だ。お金もないし、私達はまだ子どもだから。
それでも今、私は少しでも特別な繋がりがほしかった。離れていたって磁石みたいに私とみっちゃんをくっつけてしまう繋がりがほしかった。鎖みたいに頑丈で、一筋縄では取り外せない繋がりがほしかった。まりあちゃんとすずちゃんみたいに、強い繋がりがほしかった。
そんなことを考えながら、ぼうっとまりあちゃんの配信動画を見ていると、ふと『あるもの』が目に入った。
「……そうだ」
その瞬間、私は思い出していた。昔、みっちゃんに苦笑いで言われたことを。「ゆづはこうと決めたら曲げないところが、まりあちゃんに似てるかも」と。
一週間後、私は人生で初めてのアルバイトを始めていた。ファミリーレストランのホール要員。制服がかわいかったので、後先考えずにここにした。
要領があまり良くない私は、最初の二週間ほどは先輩に注意されてばかりだったけれど、一ヶ月経った頃にはなんとかある程度の作業は一人でできるようになっていた。合う人、合わない人、それぞれいるけれど、人間関係も決して悪くはない。初めてもらったバイト代は、毎月のお小遣いの何倍もあってびっくりしたけれど、頑張った成果が形になったみたいでうれしかった。
――私が決めた「あること」。
それは、プレゼントだった。みっちゃんにサプライズプレゼントするのだ。お揃いのペアリングを。昔はめていた三百円の指輪は、もう指には入らない。それどころが、宝箱のなかでもう錆び付いてしまっていた。けれど、また新しいものをプレゼントすれば。そうすれば、私達は離れていてもきっとお互いに特別な繋がりを感じられる。私はそう考えた。
最初はそんなに高価なものは買えないかもしれないと思っていたけれど、気合いを入れてシフトに入れば目標金額はすぐに現実味を帯びてくる。お給料日を指折り数えながら、私は連日張り切って接客に打ち込んでいた。
そんななか、バイトを初めて二ヶ月が経ったある日のことだった。
「いらっしゃいませー! 何名様で――」
「……ゆづ?」
「みっちゃん!?」
なんと、バイト先にみっちゃんが来たのだ。みっちゃんの周りには五、六人の女の子達がいて、全員知らない子達だった。皆こんがりと肌が日焼けしていたから、おそらく高校のテニス部の友だちなのだろうとアタリをつけた。
「え……ゆづ、バイトしてたの?」
「うん! あっ、たくさん食べてってね!」
「あはは、頑張る」
みっちゃん達を席に案内して、すぐさま別の席に注文を伺いに行く。お昼時でそこそこ混んでいたから、仕事が盛りだくさんで忙しない。
しかし、バタバタとフロアを動き回りながらも、私はこっそりみっちゃんを眺めた。
みっちゃんは友だちに囲まれながら、ずっと楽しそうに笑っていた。みっちゃんの交友関係なら大抵把握していたはずの私が、全く知らない人達と。現在のみっちゃんの周りには、私の知らない友だちがたくさんいた。
足元がぐらついて、お盆に載せていたグラスが倒れた。中の氷が散らばって、冷や汗をかく。回収したばかりのグラスで良かったと安堵しながら、私は一気に怖くなった。
今の私とみっちゃんは、月に一度連絡を取るくらいの関係で。私にとっては、それでもみっちゃんがオンリーワンでナンバーワンだけど、みっちゃんもそうとは限らない。
みっちゃんはすでに新しい交友関係のなかで特別な存在を作っているかもしれなかった。スポーツが好きなみっちゃんと気の合う友だちを。
もしかしたら、私だけが、みっちゃんを特別視しているのかもしれない。今の今まで、そんな当然の懸念にも気づかなかった。
……指輪を贈っても、意味がないかもしれない。
そう思ったら、目標額まで貯めるつもりだったお金も、やりがいを感じてきていたアルバイトも、なんだかどうでもよくなってきた。
「……辞めよう」
もう来月分のシフトは入れていたから、それが終わったら辞めよう。私はそう決めた。
それから一ヶ月後、私の初バイトはたった三ヶ月で終わった。ファミレスのバイトは回転率が早い。すぐ辞める人がいて、またすぐに人員が補充される。店長には困ったような顔をされたけれど、引き止められることはなかった。
そして、手元にはバイト代の十万円だけが残った。迷ったけれど、私はそのまま手をつけず貯金箱に入れて、ついには高校卒業しても使うことはなかった。
そして、みっちゃんとはそれきり一度も連絡を取らなかった。
季節が一巡し、専門学生になった私は、都会に出ていた。
キラ宿に電車で三十分ほどの場所が、この地での私の住処。かつて電車をいくつも乗り継いで、たっぷり時間をかけてキラ宿に向かっていたのが嘘みたいに近かった。あの頃と違って、みっちゃんはもう隣にいない。
私は、みっちゃんに何も言わずこの地に来ていた。みっちゃんが私から段々と離れていくのをただ眺めるくらいなら、私から離れたかったから。
地元と違って、ここには娯楽がたくさんあった。遊びに使うお金はどれだけあっても足りない。それでも何故か、私はあの十万円の入った貯金箱に手をつける気にならなかった。これは、おそらく未練だった。
学校に行って、バイトに行って、課題をこなして、友だちと遊んで。たまに付き合いでコンパに出向いて。そんな毎日を送っている折、私の元に思いがけないニュースが入った。
近々私の住んでる町に、大型ショッピングモールが新設される。その開店イベントの特別ゲストとして招かれたのが、なんとリングマリィらしいのだ。リングマリィは依然として……ううん、昔よりずっと注目度の高い、世界で人気を誇るスターになっていた。
私はもう彼女達の配信をほとんど見ることはなくなっていたけれど、少しだけ、ほんの少しだけ、後ろ髪を引かれる思いがした。それは、かつて大好きだった幼馴染に起因するものなのか、あまり考えたくなかったけれど。
リングマリィの人気ゆえか、イベントを観覧するためには抽選でチケットを取る必要があった。きっとかなりの倍率になるだろう。私はダメ元で応募してみたのだが、このときばかりは神様はしっかりと私を見ていたらしい。不思議なくらいあっさり当選してしまった。
開店イベント当日。私はイベント開始二時間前に現地に到着していた。開店セールが行われているショッピングモール内は、至る所で人がごった返している。私は人波をすり抜けながら、にぎわっている店を順々に見て回っていた。
私は今日、みっちゃんへの未練を断ち切って、彼女との思い出を全て過去にするつもりだった。
厚手のトートバッグのなかには、かつて稼いだバイト代を押し込んだ貯金箱をそのまま入れてきた。ここにある十万円。今日、この場所で全て使い切るつもりだった。
ブランド物のバッグやワンピースを買うのも良いし、宅配を利用して家具を買ったっていい。とにかく私は、みっちゃんとの未来を夢見て行動したこの証拠の十万円を、さっさと手元から失くしたかった。
それだけじゃない。私は今日のイベントを最後に、リングマリィともお別れするつもりだった。まりあちゃんもすずちゃんも変わらず大好きだ。けれど、リングマリィを応援しているとき、毎回隣にみっちゃんがいない喪失感を味わうのはつらかった。だからもう、お別れをしたかった。
……そう、覚悟してきたのだけれど。ふらふらとモールの中を歩き回って、目を惹かれたアクセサリーやスカート、靴を見ても、いざこのお金を使うんだと思ったら躊躇ってしまう。結局、まだ一円も使えていない。
途方に暮れながらあてもなく足を動かしていると、いつの間にかジュエリーショップに辿り着いていた。そっと中に入り、お店の真ん中に位置するガラスケースのなかを覗くと、そこにはシトリンやトルマリン、ダイヤモンド、サファイア、トパーズなど、様々な種類の宝石のついた指輪が置いてあり、私は吸い寄せられるように顔を近づけた。
「綺麗………」
だんだんと視界がぼやけていく。照明の光を吸収してキラキラ輝く指輪が眩しいせいか、と思ったけれど、そうではなかった。ガラスケースの上にポトリと水滴が落ちたのが見えたからだ。ああ、こんなにピカピカなケースなのに汚してしまった……! 謝ろうと思ってレジにいた店員さんに声をかけようとしたけれど、店員のお姉さんは私を見るなり、ケースには目もくれず心配そうな顔で駆け寄ってきてくれた。
「……お客様、いかがいたしましたか?」
「あの、すみません、ケース。私、汚しちゃって……」
「このガラスケースはきちんと役割を果たしているだけですので、お気になさらないでください」
真っ白で綺麗なハンカチまで手渡してくれたお姉さんの優しさに感謝しながら、それでも申し訳なくて、自分がみっともなくて、じりじりと後退していると、背後にいた人にドンとぶつかってしまった。
「ッわ、」
「きゃっ!? すっ、すみません!」
急いで頭を下げて謝罪する。
……ああ、今日は人に迷惑をかけてばかりだ。こんなことなら家に閉じこもっていたら良かった。頭のなかでぐるぐると渦巻く後悔に苛まれながら、頭をゆっくり上げる。
怒っているのか、帽子を目深にかぶって俯いている相手から反応はない。
「あの……? 私の不注意で、ほ、ほんとにごめんなさい……」
「ゆづ」
「え?」
目の前の女性は、帽子をサッと取り外した。
「やっと会えた……」
「み、っちゃん………?」
驚きのあまり、私は固まった。なんで、と口から声が溢れる。
「ゆづなら、ここにくると思ったから」
私の混乱を余所に、みっちゃんは種明かしをするかのように話し出した。
私と同様に、みっちゃんも大学進学でこっちに出てきたこと。小学校の体育の先生を目指して教職課程を履修中であること。私が地元を離れて都会に出てきたことも、どの町に住んでいるかも、住所すら私のお母さんに聞いていたこと。けれど、私の家に訪問する勇気がなかったこと。今日ここでリングマリィのイベントがあると知って、もしかして私がくるかもしれないと思い、チケットを取ったこと。
「でもね、アタシ、こっち来てから連絡したんだよ。何度も何度も。なのに、ゆづ、全然返事くれなくて……」
「え?! 無視なんてするはず………って、ああ!」
そういえば。私は春頃の失態を思い出した。
「ご、ごめんなさい。一人暮らしで浮かれてたら、お風呂でケータイ水没させちゃって……そのときうまくデータの引き継ぎができなくて、たぶん、繋がらなかったのはそのせい……」
――そして、私がみっちゃんに連絡先を聞く勇気がなかったせい。
中学までの友だちはほとんど疎遠になってしまっていたけれど、みっちゃんの連絡先ならばいくらでも教えてもらえる伝手はあった。でも、私は動かなかった。
私がみっちゃんを諦めようと思わなければ、きっともっと早く、私達はこっちで会えていたのだ。そう思ったら、なんだか悔しくてまた涙腺が緩んできた。
私の顔をじっと見つめていたみっちゃんが、はぁ、と溜息を吐く。安堵を纏った笑顔を浮かべていたけれど、吐き出した息は、少し震えていた。
「……嫌われてたらどうしようかと思った」
そんな「ありえない仮定」を呟いたみっちゃんに、私は今までとてつもない思い違いをしていたんじゃないかと気づいた。
みっちゃんにとっていつか私は過去の人になって、特別でもなんでもない存在になってしまうのだと、そう思い込んでいた。ならば、ダメージが最小限に収まるように私からこの繋がりを断ち切るのだと。みっちゃんを一方的に特別視している私から、離れることを選んだ。……けれど、もし。
みっちゃんにとって、私の存在が今もなおずっと特別で、これからも私との未来を夢見ていてくれたのだとしたら。
……私は、とんでもない過ちを犯してしまったのではないだろうか。みっちゃんをものすごく傷付けてしまうようなことを。
そう思い至ると同時に、私の口は勝手に動いていた。
「みっちゃん」
「ん?」
「私とお揃いの指輪つけて!!」
「…………へ?」
みっちゃんの腕をガッと掴んで、ツカツカとジュエリーショップの中に再び入る。レジに戻っていた店員のお姉さんに、私はまた話しかけた。
「先程はお世話になりました! あの、良かったら、さっきのガラスケースの中にあった指輪、見せてほしいです。ペアリングになっていて、一つ五万円以内のものだと助かります」
店先で話し込んでしまった私達を、何も言わずに見守ってくれていた店員のお姉さんは、一瞬驚きを顔に浮かべると、すぐに綺麗な笑みを形作った。赤い唇の端がキュッと上がって、なんだか嬉しそうだ。
「喜んで! 少々お待ちください」
ケースの方へと向かった店員さんを見送っていると、背後に立つみっちゃんが不安そうに私に話しかけた。
「あの、ゆづ。アタシ今日財布に全然お金ないんだけど……。下ろしてきていい?」
「大丈夫! 私が持ってるし私が払うから」
「いや、でも」
「お願い。このためにずっと貯めてたものだから」
「え?」
するとそこへ、店員さんが戻ってきた。
「お待たせいたしました。こちらのラインナップは如何でしょう? 素材はどれもプラチナになります。宝石は右から順に、アクアマリン、ローズクオーツ、ダイヤモンド、トルマリン、サファイア。他にも種類はございますが――」
「これ……」
「こちらのダイヤモンドのリングでございますか?」
「はい……。これが良いです」
ダイヤモンド。その輝きを見て、私は十年前に行われた『ジュエルコレクション』という大会において、ミラクルキラッツやメルティックスター、だいあちゃん、アンジュさん、そしてリングマリィなど、何人ものプリ☆チャンアイドル達が目指した優勝者の称号が『ダイヤモンドアイドル』だったことを思い出した。優勝者はみらいちゃんだったけれど、ダイヤモンドアイドルを目指すアイドル達はみんな宝石みたいにキラキラで、眩しくて、とても綺麗で。
小学生だった私とみっちゃんは、夢中になって見ていた。
「みっちゃん、これでいい?」
「うん、アタシもこれがいいと思ってた」
「では試着して、サイズを確認しましょう」
そうして私達は指輪を試しに着けてみて、自分にぴったりのサイズを確認した。そしてお会計で、私はようやく貯金箱の底の蓋を開けた。中にはちょっと折れ曲がった一万円札十枚がそのまま入っていて、あのときどういう気持ちでここにお金を突っ込んだのかを思い出して、少し苦笑いが溢れた。
宝石が小さいものだったこともあり、リングは一つで三万円、ペアなので六万円だった。全額は使い切ることなく、手元には四万円も残ってしまったけれど、なんだか私の気分は晴れやかだった。
かつて三百円のおもちゃの指輪を着けていた私達が、その百倍の値段がする指輪をジュエリーショップで買っている。ああ、大人になったんだなあ、と実感した。
「ご来店ありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました!」
店を出てショッピングモールの電子時計を見ると、すでにイベント開始までは三十分をきっていた。整理番号順に呼ばれるはずだから、急がないといけない。私は幸運なことに、かなり前の方だったから。
そして、ギリギリ整理列に間に合い、ステージ前へと着席すると、何故かみっちゃんも隣にいた。
「えっ、みっちゃんなんで隣にいるの? 間違って着いてきちゃった?」
「いや、ゆづこそ」
「……もしかして私達、整理番号隣だった?」
「そうみたい、だね」
「マジかあ」
奇跡に愕然としていると、いつの間にか開演時間が差し迫っていたらしい。
落ち着いたクラシックが流れていたスピーカーから、ポップで明るい音楽が流れ始めた。場の雰囲気が一気に高揚する。そして、舞台袖から出てきた司会進行の人が、澄んだ声で彼女達の名前を呼んだ。
リングマリィの金森まりあさんと、黒川すずさんです、と。
次の瞬間、袖から純白のウエディングコーデを身に纏った二人が出てきた。
「みなさーん! 今日はかわいいお天気のなか、まりあ達に会いに来てくれてありがとうございます! とーってもかわいい思い出を作りましょうね!」
「開店おめでとう! ということで、お祝いを込めて、ライブしちゃうよ! かっこいいすず達を見ていってね!」
流れ始めたイントロに、この曲が何なのかすぐわかった。
「コトバ・ブーケだ……」
すぐ隣で、ぽつりとみっちゃんが呟いた。
コトバ・ブーケ。
すずちゃんのお兄さんの結婚式で、サプライズ発表されたというこの曲。これまでの感謝とともに未来への期待に満ちた歌詞が、心にじんわりと沁み込んでくる。交わした言葉が花束みたいになって、私達の人生を祝ってくれているみたいに。二人が着ているウエディングコーデも、ウエディングを祝福する天使をイメージしたコーデ。なんだか私達を祝福してくれているみたいで、胸が熱くなった。
みっちゃんの手をそっと握った。みっちゃんが息を呑んだ気配がして、私はギュッと力を込めた。すぐに同じ強さで握り返されて、私達は固く手を繋ぎあった。
ステージの上で、まりあちゃんとすずちゃんが見つめ合う。昔から変わらず、優しくてあたたかい眼差しだった。見た目も好みも趣味もバラバラな二人が、バラバラのまま認め合っている。そんなリングマリィだからこそ、私もみっちゃんも惹かれたのだ。私とみっちゃんも、バラバラな二人だったから。
私達が離れていたときも、リングマリィはずっと一緒だった。薬指にお揃いの指輪をはめていた。リングマリィはいつだって私達のずっと前を歩いてくれていた。ちぐはぐでバラバラだけど、仲良くなれること。ずっと共にいられること。女の子二人でも一緒に生きていけること。ずっとそんな姿を、私達に……ううん、リングマリィを好きな世界中の人達に示してくれていた。
……もし。もし、この十年のうちに、リングマリィの道が分かれて、まりあちゃんとすずちゃんが別々の道に進んでいたとしたら。
私とみっちゃんは今日この場所で再会することなく、これから一生繋がることはできなかったかもしれない。今、私のバッグに入っているダイヤモンドのペアリングは、見知らぬ誰かのものになっていたかもしれない。
「良かった……」
今日、ここに来られて良かった。リングマリィに会えて良かった。またみっちゃんと一緒にリングマリィに会いに来られて良かった。
私達はギュッと手を繋いだまま、リングマリィのかっこよくてかわいいステージを必死に目に焼き付けていた。
ライブが終わると、リングマリィのお話し会兼握手会が始まった。来たときは参加するつもりがなかったけれど、今はもうどうしてもリングマリィに会いたくて、私とみっちゃんは一緒に列に並んだ。
「き、緊張するね」
「何年ぶりかな……中三のとき以来?」
「じゃあ、五年ぶりか」
「あのときみっちゃんガチガチだったよね」
「ゆづこそ緊張して噛みまくってたよ」
「………私達のこと覚えて……は、ないよね。さすがに」
「まあね、リングマリィは大人気だし。……でもさ、これからいくらでも会いに来ようよ。一緒にさ」
「みっちゃん……! あ、そうだ!」
私はバッグからリングケースを取り出すと、小粒のダイヤモンドのついた指輪を取り出した。私達の指のサイズは一緒で、ペアリングは形も同じだから、きっと大丈夫なはず。
「みっちゃん。左手、出して」
不思議そうな顔をしているみっちゃんの左手を取って、私は手に持っていた指輪をゆっくりその薬指にはめた。光り輝くダイヤモンドが、みっちゃんの手の甲に綺麗なプリズムを描いている。
「うん! かわいいよ、みっちゃん」
「………」
呆然とした様子のみっちゃんが面白くてくすくす笑っていると、みっちゃんはなんだか泣き笑いみたいな表情をした。
そうしてバッグからペアリングのもう片方を取り出すと、今度はみっちゃんが私の左手を取って、同じように薬指にはめた。
「ふふ、みっちゃんにはめてもらっちゃった! やった」
「……かっこいいな、ゆづは。ずっと昔から」
「……? えへへ、ありがとう!」
そうこう話しているうちに、とうとう私達の順番が来た。ここにきて話す内容を考えていなかったことに気づいて焦ったけれど、もう時間がない。
ええい、どうとでもなれ!と、みっちゃんと一緒に勢いのままブースの内側に足を踏み入れると、まりあちゃんとすずちゃんがにこにこの笑顔でこちらを見ていた。
衝撃で頭が沸騰しつつ、初めまして、と言おうとしたけれど。
「まあっ!お久しぶりですね!」
「……え?」
まりあちゃんの口から出た「お久しぶりですね」で、私達は固まった。
「ん? えーっと、ああっ、ほんとだ! 大きくなったね!」
「すずさん……お、覚えててくれたんですか?」
「まりあの反応みて、今思い出したよ! カフェで話しかけてくれた二人でしょう?」
私もみっちゃんも、ものすごく動揺した。まさか、覚えててくれたなんて。だって、あの頃中学生だった私達は、もうすでに「大人」にカウントされる年齢になっていた。
私達よりちょっとだけお姉さんのまりあちゃんとすずちゃんだって、世界中を巡って、たくさんの人と出会って、私達と同じ分だけ素敵に年を重ねてきたはずだ。
「わ、私達、リングマリィに会ったのは随分前なのに……」
「うふふ、かわいい指輪をして来てくれたかわいいお二人のこと、忘れたりしませんよ! 言ってくれた通り、まりあとすずちゃんのことずっと好きでいてくれたんですね。うれしくてかわいいです!」
「まりあちゃん……」
じわりと瞼の裏が熱くなってくる。すると、目の前に白くてほっそりとした綺麗な手が差し出された。
「じゃあ、かわいく握手しましょう!」
「は、はいっ」
手を前に差し出すと、まりあちゃんは優しく私の手を包み込んでくれた。そして、ぱちぱちと長いまつ毛を上下させると、透明度の高い海みたいな美しい瞳をきらりと輝かせた。
「わあっ、かわいい指輪! これもペアリングですか?」
「これ、かっこいいね! ペアリング?」
すずちゃんと握手していたみっちゃんも、隣で同じことを尋ねられているのが聞こえてきた。私とみっちゃんは一瞬目を見合わせると、向き直って言った。
「はい!」
「そうです!」
リングマリィは笑った。
「すごくかっこいいね!」
「すっごくかわいいです!」
すずちゃんとも握手して、そろそろ時間です、と言われた私達は、ブースから出る前にリングマリィに向かって告げた。
「あの、アタシ達……これからも二人で一緒にリングマリィのこと応援します!」
「私にとって、まりあちゃんとすずちゃんは憧れだから! だから……ずっと仲良しでいてください」
二人は目を細めて微笑みながら、力強く頷いてくれた。
「もちろん! ね、まりあ?」
「はい! まりあとすずちゃんはずっとずーーっと仲良しです!」
その姿は、昔からずっと変わらなくて。私は込み上げてくる感謝や、喜びや、嬉しさを噛み締めながら、リングマリィが好きで良かったと心から思った。
「じゃあね、また来てね!」
「っはい! また来ます。絶対に!」
ブースから出ると、私達はホッと息を吐いた。
「……覚えてて、くれたね」
「うん……すごいね、さすがリングマリィ」
「指輪、かっこいいって」
「かわいいって」
「うれしいね」
「……うん、うれしい」
気づいたら、私はぼろぼろ泣いていた。
たぶん今日は、人生で一番泣き虫になった日だろう。
奇跡みたいなことが連続で起こったおかげで、大好きなものとお別れをするはずの日が、大好きなものをこの先も好きでいられる日になってしまったのだ。とてつもなくラッキーで、幸せで、その幸せが形になった涙だった。
みっちゃんの指が近づいて、頬に流れ落ちた私の涙を拭う。ちょっと強引で、でも優しくて、不器用なみっちゃんらしかった。
「ねえ、ゆづ。やっぱりアタシの指輪の分のお金は返すよ」
「……え」
「いや、勘違いしないで。ゆづの思いを無下にしたいわけじゃいんだ。ただ、お願いがあって」
「お願い?」
みっちゃんは数度口を開いては閉じてを繰り返すと、覚悟を決めたような顔つきで口を開いた。肌がわずかに赤らんでいる。
「アタシもこっちに出てきたって言ったでしょ? それで……えっと、だから、もしゆづが良かったら、来年からルームシェアしない? って、言おうとおもって……」
「…………」
「だから、あの、指輪のために貯金してくれてた残りと、アタシが返す指輪代、そのための資金にしてくれない? アタシがお金を返したところで結局半分はアタシのためのものになっちゃうんだけど、二人でこつこつ貯めれば……」
「………いいの?」
「え? う、うん。そっちこそ、いいの?」
そんなの、答えは一つしかなかった。
「もちろん、いいに決まってるでしょ!!」
みっちゃんと一緒に暮らすのが、私の夢だったんだから。……でも。
「あの、それっていつまで? みっちゃん大学生でしょ? それに、教職課程だし……。私専門だから、来年からはどうなるかわからない……」
「……できれば」
ずっと一緒がいい――みっちゃんはそう言った。
「これから先、卒業して、就職したりしても、ずっと一緒がいい。アタシ、ゆづの隣にいられるように、なるべく頑張るから」
……これは、夢だろうか? あまりにも私に都合が良すぎて眩暈がしてきた。みっちゃんが世界一好きで良かった! と、今すぐここで叫びたい。
出会ったときからかわいくて、いじらしいみっちゃん。このかわいい女の子のことを、これからもずっと傍で見守っていたかった。そのための権利がもらえるなら、私はそれをありがたく受け取ろう。
「私も頑張る! 私ね、他の人を好きになれるよう頑張ってみたけど、やっぱりみっちゃんより大事な人はいなかったんだ。ふふ、重いでしょ?」
みっちゃんはまあるく目を見開いた後、ぼそりと小さく呟いた。
「はは、そんなの、あたしの方がずっと重いよ……」
「え?」
「……ううん。じゃあ、約束。これからもずっと一緒にいようね」
「うん……!」
――その一年後。
私とみっちゃんは同じ屋根の下で暮らすようになり、リングマリィの主演ミュージカルを観に、ブロードウェイまで行く計画を立て始めるのは、また別のお話。