ラブソング・レター『――貴方への恋を過ちにするはずがありません』
寒空の下。かじかむ指先を固く握りしめながらそう口にしたあの子の表情を、今でも僕は鮮明に覚えている。
◇
目の前にある真っ白なテーブルの上には、色とりどりのマニキュアが並んでいる。
パステルカラーやダークカラーの入り混じった色彩豊かな並びは、見ていると気分が上昇してくる。パッと華やいだ色を爪先に塗ると気持ちが明るくなるし、落ち着いた色を塗ればリラックスできる。もう何年も変わらないこの習慣はいつしかおまじないのようになって、生活のなかに根付いていた。
現在紫音の爪を彩る色は、夏に愛用ブランドから新しく発売されたばかりの新色、シャインイエローだ。これから会う人物のことを考えて自然と手に取った色。真っ直ぐで輝かしい、そんな表現がぴったりの色彩が宿った爪は、紫音のほっそりとした白い指によく映えた。
昨夜のうちに塗っておいたそれは、よれることなく綺麗に仕上がっている。塗り直す必要がないことを確認して、紫音は鏡台の前へと移動した。溢れんばかりのメイク用品が所狭しと置かれているが、迷うことなくお気に入りを手に取っていく。
丁寧に化粧をして、仕上げに髪をブラッシングすれば、紫音の愛する「自分」になった。
クローゼットから何着かお気に入りの衣服を取り出して姿見の前に立つ。なめらかな生地にきめ細やかなレースがあしらわれたワンピースを身に纏って、その場でくるっと回る。うん、ひらひらとしたスカートがとても可愛い。
――そして、今日は特別な日だから。
紫音はクローゼットから箱を取り出した。蓋を開くと、そこにはかつて母が履いていた、美しい飾り石のついた靴が丁寧に仕舞われていた。
東雲学園に在籍時、友だちであったシュペットという猫がカラスから取り戻してくれた飾り石。それは今でも光を目一杯吸収して、キラキラと繊細に煌めいていた。
箱から靴を丁寧に取り出して、足を差し込む。サイズはちょうどぴったりだ。これから紫音が会いに行く「あの子」が度々大きさを調整してくれるから、この靴に足を踏み入れることを恐れる必要はもうなかった。
美しかった母をよりいっそう美人に飾り立ててくれた、思い出の靴。これを履くと、「私」はどこへだって行けるような、そんな気持ちになれた。この靴がとびきり素敵な場所へと連れて行ってくれる……そんな気がするから。
ステップを踏むように軽やかに、紫音は歩き出した。そのまま、外の世界へと繋がるドアを開く。
そこに、自由があると信じて。
「三毛門先輩……!!」
鏡面のようにキラキラと太陽光が反射する湖の傍には、すでに待ち人が佇んでいた。
早朝の人通りのない時間帯だが、その人物は周りにバレないよう、深々と帽子を被って黒縁の眼鏡をかけている。何せ、この国の次期トップとも噂される男だ。知名度はそこらの俳優よりずっとある。
しかし。此方を見るにつけ、まるで飼い主を見つけた忠犬のようにぶんぶんと手を振られては、目立つことこの上なかった。出会った頃に比べたらずっとスマートな紳士になったはずなのに、格好つけきれないところがやはりこの男だ。まあ、そこがほんの少しだけ可愛いと思わなくもないのだけれど。
「ごめん。待たせちゃった? 藤次」
「いいえ、これっぽっちも! 先輩こそ、足がお疲れではありませんか?」
「ううん、平気」
これっぽっちも、と本人は言っているが、その額には玉のような汗が数滴伝っていた。
現在は夏真っ只中。朝といえども、じりじりと太陽が地面を照りつけている。おそらくこの様子だと、藤次は少なくともここで三十分以上は待っていたのだろう。それを見越して、こちらも待ち合わせより幾分か早めに到着したというのに、一体どれだけ早起きしたんだか。
ふぅ、とひとつ溜息を吐いて、紫音はミニバックから白いレースのハンカチを取り出した。コロンを一振りしたそれは、ふんわりと甘い香りを纏っている。
「ぶ、っ!?………な、ぁえ!?!」
ハンカチを、藤次の肌に当てて滑らせた。汗の粒がどんどん布地に吸収されていくと同時に、藤次の肌もだんだんと赤く染まっていく。まるで林檎のようになるものだから、紫音は小さく笑った。
目の前から、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえる。
「ア、あ、あああのッッッ!!!」
「ん?」
「せ……せんぱいの豊かで芳しき薫りを放つハンケチーフを、わ、私めの汗なんかを拭うために使用させてしまって、も、も、申し訳ございません!!!!」
「気にしなくていいよ。使うために携帯してるものだから」
「は、はひ……」
水分をいくらか含んだ表面を内側にしてハンカチを畳むと、再びバッグに仕舞い込んだ。それから顔を上げて、正面から藤次に向き合う。「それより、」
ぶつかった視線が、熱を帯びて交わる。
「新譜。出来たんでしょう?早く聴かせて」
「……っはい、勿論!」
屋根付きの休憩スペースに横並びで腰掛け、藤次がケースからギターを取り出す。紫音はそれを静かに眺めていた。
すぅ、はぁ、と藤次が幾度か深呼吸を繰り返す。僅かに触れた剥き出しの肌から、藤次の心臓が弾けそうなほどの緊張が伝わってきた。紫音の鼓動も共鳴するように速まる。
「……では、いきます」
こくり、と紫音が小さく頷く。
瞬間、藤次の指が、弦を弾いた。
一本のギターで奏でられるメロディーは、至ってシンプルで。余計なものをすべて削ぎ落として、藤次の素直な心を音として映し出す。紫音は瞼を閉じて、その音色に耳を澄ませた。
ときたま口ずさまれるハミングと細切れのフレーズの一音一音が、震えるような覚悟の上で歌われていることを、紫音は知っている。だが、藤次の歌声はぶれない。その声はただただ真っ直ぐに、広々とした世界に向かって伸びていく。
……藤次の歌は、とても自由だった。
耳から入り込んでくる旋律を聴きながら、紫音の瞼の裏には「とある記憶」が浮かび上がっていた。
それは、東雲学園の二年生だったときのこと。濃い学園生活のなかでも、特に思い出深い年だった。そう、紫音が藤次と「ペア」になった年だ。
「あの」針宮の嫡男。
紫音は、針宮藤次のことが苦手だった。
針宮家当主・針宮藤一郎をトレースするかのごとく、規則や規範、常識に縛られる頭の堅いその少年が。藤次の言動のひとつひとつが、紫音の神経を逆撫でした。
しかし、それは自然な成り行きだった。
紫音の考え方や趣味嗜好は、紫音の本来の好みであると同時に、針宮の方針に逆らうようにして獲得されてきたものだったから。
まだ何も知らなかった頃、紫音は自分の好きなものを、小さくて、可愛くて、綺麗なアクセサリーや服を、好きなように身に纏えるものだと思っていた。だが、それをあの家の人間の常識は……周りの目は、忌避した。
彼らが紫音の「好き」を否定する考えを持っていることを知ったとき、その事実が胸が張り裂けるほどに悲しかった。
しかし、同じ年代の少女達には当たり前のように与えられるキラキラでかわいいものたちが自分から遠ざけられるようになっても、紫音はその輝きに手を伸ばすことをやめられなかった。自分の嗜好が「間違い」なのだと、良くないものなのだと思い込もうとした時期も、結局目の前にある煌めきを諦めることはできなかった。
自分の「好き」を貫けないのは、紫音にとっては死んでいるのと同じだった。
だから、「あの男」――針宮藤一郎によく似た、藤次の価値観の押し売りのような振る舞いには酷く辟易した。偉そうに高説を垂れるくせに自分というものがなくて、一言目には必ず「チチウエ」の話を持ち出す主体性のなさが嫌いだった。
……だから、冷たく当たってしまった。
初めてのゆめライブで勝手に心を覗き見て、ときには嘘を吐いて。何度も何度も傷つけた。十代の、余裕のなさからくる過ち。「幼いから」で過ちが正当化される行動ではないけれど、あの頃の紫音は自分の心を守るために必死だった。
しかしそれは紫音だけではない。おそらく藤次も、自らの存在意義である「正しさ」を証明するために必死だった。
きっとあのとき、紫音と藤次は、針宮の良しとする価値観の外側と内側で苦しむ鏡合わせのような存在だったのだろう。
「大人」になった今思い返すと、十代だった藤次が曲を作っていた理由は、おそらく自由への渇望だったのだと思う。
格式と伝統のクラシックではない音楽。即興が魅力のジャズや、反体制的なロックのような、そういった自由だったり反抗だったりを叫ぶ音楽への憧れ。それはまさに、藤次の憧れた魂の在り方でもあったのだ。
だが藤次は、その「好き」の気持ちを誰にも知られないようひた隠しにしていた。
その隠されていたはずの楽譜を、同室だった紫音が偶然見つけて。とても素敵なメロディーだと感じたのに、そう伝えるやいなや、その音楽をまるで「良くないもの」のように扱い始めた藤次に、紫音は随分と腹を立てたものだった。
しかし、「素敵」と感じたものを否定される悲しみを知っている紫音なら、理解できるはずだった。自罰的に「好き」を閉じ込めることの辛さを。
けれど、他でもない藤次を前に、そこまでの余裕はなかった。悪い子ではない……むしろ「良い子」であることはわかっていたけれど、正しいとされる振る舞いが誰しもにとって「良い」わけではない。ましてや「正しさ」など、時代が変われば変化していくものだ。その点で、違う価値観を持つ紫音と藤次の相性はやはり良くなかった。だから長らく、その苦しみを顧みることができなかった。
しかし、あの日。東雲学園解体の危機をなんとか乗り越えたあとの、年越し間近の冬の日。きっと、紫音と藤次の関係はあのとき大きく変わった。「私のために曲を作って」と頼んだ紫音に向けて、藤次が初めて自作の曲を演奏した、あのときから。
紫音は、あのときの音色を今でもよく覚えていた。耳から入り込んだあの旋律は、今でも紫音の胸のなかで音を奏でている。
ピンと張り詰めた冷たい空気と、そこに滲んだあたたかく優しい時間も。紫音が初めて心を覆っていた硬い殻を溶かした瞬間も。全てが美しい輝きを放つ宝石のような、大切な思い出だった。
『……もっと好きになってしまう、……ので』
『そんなの、藤次の自由だよ』
あのやりとりの先には、確かに今この瞬間が存在していた。
すでに片手の指では数え足りないほどの年月が二人の間を通り過ぎて行ったけれど、それでもあのとき見つけた「自由」は、決してなくなったりはしなかった。
その胸をくすぐるような幸福を噛み締めながら、紫音は藤次の奏でる音を静かに耳で辿った。
◇
数分間にわたる演奏が終わった。
蝉の鳴き声と木々のざわめきが響く中、二人は穏やかな沈黙に包まれていた。緊張感から解放された藤次の口元に小さな笑みが浮かんだのを、横目で視認する。
そして、紫音は深く息を吸った。その動作に気づいた藤次の肩肘が、再び緊張で固まるのがわかる。
たった今、一度だけ聴いたメロディーを脳裏に思い浮かべながら、紫音は同じ曲を歌いはじめた。
所々記憶から零れ落ちてしまった音には、アレンジを加えて補う。好きなフレーズはそのままに。藤次がハミングで埋めていた部分には、新しい言葉を載せて。そうして、自分らしい音楽を奏でていく。
ステージでジャズを歌っていた母の面影を追いかけたわけではないけれど、紫音は学園卒業後、東雲大学在学中に出身地であるニューヨークでの音楽留学を経て、現在は都内のジャズバーでシンガーとして歌い続けていた。たまに、大きなステージに立つこともある。
歌うことは、紫音にとって呼吸に等しい。
まるで藤次への返歌のようなこの歌は、紫音の気持ちを言葉よりも雄弁に語った。
紫音が歌うのは、美しく、自由な旋律だ。自由という概念に「過ぎる」なんてことがないように、紫音の歌声も、藤次の作ったメロディーに載せてどこまでも広がっていくようだった。
――それでも、今は。今だけは。
すぐそばに座る、たったひとりの隣人にだけ届けば良かった。
紫音は身体を藤次のいる方へと向けた。
学園時代より幾分か低くなってしまった歌声を、それでも藤次はいつまでも変わらずに顔を赤らめて聴いている。ポーッと酔いしれているようなその表情は、紫音の心を十分に満たしてくれた。
ぐっと握りしめられた藤次の拳を解くように、その指の隙間へと自分の指を滑り込ませる。ちらりと見える紫音の爪には、藤次を思い浮かべながら塗られたイエローが輝いていた。紫音の身体の一部には、すでに藤次がいた。
まだ青臭さの残る学生時代に紫音の元に渡ってしまった藤次の恋心は、幾年経っても紫音の元にある。それだけは不思議なほど変わらなかった。
……いつも、いつも。
誰に対しても平等に降りかかるはずの時の流れは、紫音には速すぎて。
いつかそのまま置いていかれるかもしれない、ひとりぼっちで取り残されてしまうかもしれない、そんな不安で満たされて眠れない日さえあった。次々と巡りゆく季節が、とめどなく流れていく時間が、ずっとずっと怖かった。
人は時の進みに抗えない。どんなに紫音が恐れても、時間の経過に比例するように背は伸び、肩幅は広がり、声は低くなった。成長期が過ぎて、もうこれ以上は伸びないとわかっているけれど、紫音の思考の隅にはいつだって歳を重ねることへの不安が渦巻いている。
すでに、諦めかけていたのだ。
お気に入りの衣服や、共に昼寝をした大切な友人との別れ。束の間の安寧や、幸福な思い出の消失……。自分の人生は、そういった悲しみを繰り返していくだけの人生なのだと。
そのなかでも、藤次との出会いは「思い出」にもなりようがない、いつか消えゆく記憶のひとつになるはずだった。
しかしおかしなことに、運命の悪戯は……否、紫音自身の意思が、紫音が手のなかへと降りてきてしまった藤次の淡い恋心が。
紫音と藤次とのつながりを繋ぎ止めた。
あの何年も前の冬の日。藤次の告白を「無理」だと切り捨てた、あの瞬間。
紫音は、藤次が目指す「完璧」な人生に傷をつけてしまったと思って、これですべてが「おしまい」かもしれないと自嘲した。
これまでと同じように、正しくない存在とされて、置いてかれる。ただ、「それだけ」のことだと考えようとした。
けれど、藤次は紫音への告白を自身の傷にはしなかった。
紫音に向ける眼差しを、感情を、「失敗」や「間違い」として切り捨てることをしなかった。あのとき確かに感じた、喉の奥の焼けるような熱さを、紫音は一生忘れないだろう。
紫音には、まだ藤次に告げていないいくつもの秘密があった。それを明かしたら、藤次が真実を知るときがきたら、この関係は壊れてしまうかもしれないのに。いつ脆く崩れ去るかもわからないのに。
それでも紫音は、藤次に手を差し出した。
きっとこの選択を後悔することはない。今はそう信じている。
歌い終わって、ふ、と息を吐き出す。
目の前の藤次の透き通った眼には、キラキラと光るものが浮かんでいた。興奮で耳や首元まで赤く染まった藤次を、素直に「愛しい」と感じる。
高校一年生のときよりさらに十センチは背丈の伸びた目の前の男は、この瞬間まるで幼く無垢な子どものようだった。
「……この曲」
「は、はい」
「とても素敵だった。……私、好きだよ」
大きく見開かれる目から、涙が零れ落ちてしまいそう。紫音はそんな風に思ったけれど、実際には藤次の目元から一粒も落ちたりはしなかった。
泣いてもいいのに。美しい、純粋な煌めきの粒を、ハンカチじゃなくて指で拭ってあげても良かったのに。自分は可愛くて、綺麗なものが好きだから。手に取って愛でてあげたかった。
「ありがとう……ございます」
「うん」
「俺も、先輩の……。先輩のことが、好きです」
「うん。知ってる」
何回したのかもうわからないこのやりとりを、それでも紫音と藤次は何年もの間、繰り返していた。
「好き」と呟く対象が違うことは、お互いにわかっている。それでも紫音はそれを訂正することはしないし、藤次も細かく突くような真似はしない。
紫音から藤次に向かう気持ちは、藤次が紫音に寄せる気持ちと同じではない。とてもよく似ているけれど、やっぱり少し違うのだ。
それでも、紫音は藤次が好きだった。
ペアになって、卒業して、別々の道を歩んで。少なくない年月を共に生きてきた。互いに多忙な身であるためあまり会うことはできないけれど、藤次が新しく曲を作るたび、紫音はどんな予定が入っていてもそれを聴くことを優先した。年に数回しかないこの機会を、何よりも大切にしていた。
もう、藤次の告げる愛に応えたっていいのだ。
紫音の心は紫音だけのものだけれど、しかし少しばかりは藤次に渡したって構わない。そう、本気で思っている。藤次の切なる想いに、願いに、愛に、くるまれたっていいと。
同じ種類の愛ではない。けれど全く別物の愛でもない。重なる部分だってあるはずだ。
それに、この広大な世界のなかで、愛の種類に価値の貴賎なんて……きっとない。
藤次の奏でる自由な旋律が好き。
そして、藤次のことを愛している。
この事実があれば、藤次の求める愛に、寄り添ったって構わない。
しかし、藤次はそれを許さないだろう。
誰かに合わせて生きる紫音よりも、紫音らしく在ることを心から望んでいるのは、他でもない藤次なのだから。
紫音も、藤次のそんな愚直な優しさが好きだった。二人の気持ちは混ざり合ってすべてが同じものになりはしないけれど、互いを思い遣る愛情は、世界中のどの愛のあり方よりも自分たちらしいと、胸を張っていえるから。
だから、音楽で愛を交歓するのだ。
同じ種類の愛をもたずとも、共に寄り添って歌える愛があること伝えたいから。
あなたを愛していると、知ってほしいから。
藤次が再びギターを抱えた。
トン、トン、とカウントをとる音に合わせて、二人は同時に息を吸い込む。
今、紫音はこの世界で生きている。
ひらひらしたスカートと、飾り石のついた靴と、色付いた指先を手放さないまま。
隣には藤次がいた。同じ時を生きていた。
……確かに「私」は、ここにいる。
果ての見えない世界へ向けて、紫音と藤次は歌を重ねた。
そのユニゾンは、どこまでも広がっていく。