ほんとのきもち 窓の外はとっぷりと暗い。八時をすぎて、まだ寝るには早いかと寮内をぶらついていたところ、談話室のソファにひと影をみつけた。
見慣れた背中だったから、ジャージのポケットに手をつっこんだまま秋山はぶらぶらと近づいてみる。
ソファに浅く腰かけて、小早川はひとりテーブルに置いたタブレットに見入っていた。音声は切られていて、あたりにほかにひとはいないというのに律儀なことだと感心する。
背中越しにひょいと画面をのぞきこんでみれば、ひとりの選手がロングボールを投げているところだった。何の試合かとながめているうち、山形のユニフォームが大写しになる。
「熱心ですね」
そう言いながら、秋山はソファの肘掛けあたりまでまわりこむ。なんとなし拗ねているような口つきになってしまったから、これはよくないと咳ばらいにまぎらせた。
小早川が山形行きを決めてしばらくが経つ。律儀でまじめな性分は、タブレットの画面の隅、山形戦で埋められた動画履歴にもあらわれている。
小早川が顔をあげた。
こちらを認めるなり、いいところに来たなと言う。
「いいところ?」
首を傾げれば、小早川は画面の左上、後半35分と記されたあたりをしめしてみせた。
「もうすぐGKのヘディング」
「伝説の試合じゃないですか」
一部昇格をかけたプレーオフ準決勝、大一番でのGKの決勝弾は秋山も動画で観たことがあった。
「あれ血ィ湧きますよね」
秋山はいそいそと小早川のとなりに陣取る。そのさまがおかしかったか、小早川は苦笑しつつこちらが見やすいようにとタブレットの位置を調整してくれた。
「好きだろうと思った」
「いや、あれはもうこの世のすべてのGKの夢なんで」
「話でかいな」
小早川が音声のスイッチを入れる。解説や選手の声、スタジアムに響くチャントが入り混じり、静かなあたりにざらざらと流れてゆく。
軽口も途切らせたまま、小早川は選手たちの一挙手一投足を真剣にみつめている。春からの自分の姿をそこに重ねているのだろうと、気づけば胸の底がひやりとした。
む、と秋山は顔をしかめる。
最近、よくこうした気分になることがある。その理由はわかっていたから、いかんいかんと隣のひとには気づかれないようにこっそりかぶりをふった。
山形からの誘いがきたとき、小早川は大学進学を天秤にかけなかった。福田監督の方針によるものか、小早川自身の意志か、結局のところ秋山にはわからないまま、長らく守備をともにした先輩は春になれば遠くにいく。
ソファにもたれかかり、秋山は頭のうしろで腕を組む。
ちいさいころから見続けた、この背中が自分のまえからいなくなることがどうしても想像できない。考えようとすると寂しくなってしまって、ときどきどうにもそれをやり過ごすことができなくなる。
こどもか俺はと心中こっそりぼやいていると、かたわらで小早川が口を開いた。
「最近はセンターライン割って守備全体を押し上げてくるGKも多いだろ。11人目のストライカーなんて、かっこいいなってちょっと憧れてたんだけどな」
攻撃的プレーで知られる国内外のGKの名をいくつかあげ、小早川はふふと笑う。こちらを見あげ、なにやらおもわせぶりに拳で口元をおさえる。
「何スか」
先輩相手とはいえ長年の気安さで、じろりと睨みをくれてやれば、小早川は悪い悪いとかぶりをふった。
「ほら、おまえ怖いって言ってたからさ」
は、と目をまるくするこちらに、小早川はなおもからかうような笑みを向けてくる。
「センターライン割ってあがってくるGKって堂々としててさ、見てる分にはかっこよくて憧れてたけど、実際やったらそりゃ怖いよなって、おまえのおかげでよくわかった」
青森戦のことを言うらしい。やっぱり見るとするとじゃ大違いなんだよなあなどと感心したように、その目がふたたびタブレットに向けられる。
小早川は何もかもを貪欲に吸収して先をいく。その横顔を秋山はただぼんやりとみつめる。
空調がぶんとおおきく音をたてた。
夜も更けて、蛍光灯のあかりが妙にひらべったい。かたわらにいるひとの姿がしろっぽく目に残った。
「なんで山形いこうと思ったんですか」
欧州を基準にすれば10代でプロになるべきだという福田の考えはおそらく正しい。会見での言葉には秋山も興奮したし、自分も高校卒業後、もしくは在学中に絶対トップにあがると逸ったものだった。けれども一方で、小早川の選択にはふしぎにおもうところもある。小早川は賢いから、自分よりもずっとたくさんの選択肢があるような気がしていた。
つい口からこぼれた、その言葉を小早川は丁寧に拾ってくれる。
「プロになるのがいまの目標だから」
答えはシンプルで、いっさいの迷いもない。
自分の幼稚な寂しさなど歯牙にもかけられていないのだと、秋山はこっそり反省する。
「そりゃそうですよね」
そう言えば、そりゃそうだよと笑って返された。
こちらの感傷を見澄ますように、小早川はふいと顔をのぞきこんでくる。
「俺のうしろにはいつもおまえがいるから」
秋山の腕のあたりをとんと軽く拳でたたき、小早川はにっこりとした。
「先輩としては、かっこいい背中をみせたいっていうのはあるな」
その笑みをみつめるうち、寂しさとは別のなにかが胸の底に湧きあがる。
それって、と言えば、小早川はなんだと小首をかしげてみせた。
「一生ふりむいてもらえないってことスか」
口にしてみてから、なんだいまの、と秋山は眉をひそめる。自分でも思ってもみなかった言葉だった。目向かうさき、小早川もきょとんとしている。
自分はいったいなにを言ってしまったのか、我がことながらさっぱりわからずに秋山は腕組みをする。この話を続ければいいものか、ごまかすべきかそれともと考えこんでいると、小早川がふいと口元をほころばせた。
「俺がおまえのほうをふりむくのってそれ絶対相手に攻められてるときだろ。まあそのときはそのときで凌ぐけどさ、頼れる背中アピールしてるんだからたとえ話でくらいかっこつけさせろよ」
ふたたび拳で、さきほどよりも強く腕を叩かれる。その顔はあっけらかんとしているから、秋山もつい毒気を抜かれてしまう。
「あー、そうだ、そうですよね。そうだそうだ、そりゃ大ピンチだ。すみません、いい話になんか訳わかんないこと言いました」
素直に謝れば、小早川はなんだそれとまた笑う。
その笑みが妙に眩しいようで、秋山は目をすがめてみる。電球が切れかけてるのかと見あげる、そのさき蛍光灯はただしらじらとして明るかった。
「あ、そろそろGKのヘディングシュートだぞ」
話は済んだとばかり、小早川はふたたびタブレットに見入る。
GKにとって最高のシーンを見られるとわかっていながら、けれどもなんとはなし集中できず、秋山はソファの背にどさりと身を投げだした。
さきほどから胸の底をじわりと満たすものがある。妙に明るいような、そわそわするような、それをこっそり手のひらで押さえてみる。
「……なんだこれ?」