きみはいいこ「阿久津がね」
平がそう言うのを、福田は黙って聞く。
空は晴れていた。寮舎に添い生えた木々が、風にさやかに揺れていた。
監督をまえにして、平はもう自分の話をすることはない。その顔はすっきりとして、けれどどこかにサッカーへの未練を残している。あるかなきかの、それを辿れなくなったなら自分は監督として終わりだなとそんなことを頭の隅で考えた。
「阿久津が寮に入ってきてしばらくして、フリールームにごきぶりが出たんですよ」
ごきぶり、と鸚鵡返しにすれば、平はハイとどこか得意げに笑う。苦手ですかと続けて聞かれたのは自分の顔がゆがんでいたせいかと、福田はつるりと頬をなでる。
「まあ、すきではないな」
「俺もです」
平は笑ってそう言った。
「そのときもみんなワーッてなって、義経とか秋山とかがぎゃーぎゃー大騒ぎして、桐木が気にしないふりしてでもすごい意識してるのまるわかりで、まあ大の男がそろいもそろってごきぶり一匹にって話なんですけど、それでそのごきぶりが阿久津のまえを通ったんですよね」
過去を懐かしむように、平はすこし言葉を切る。しばらくしてから、それで、と穏やかな声がした。
「阿久津は気にしなかったんです。足元をごきぶりが走っても何にも気にしなかった。それでだれだったかが阿久津おまえ強いなとかなんかそんなこと言って、そしたら阿久津はね、ぽかんとしたんです。いっつもひとを睨むとか怒鳴るとかそんな、こわもてのやつがほんとに、何を言われたのかわからないって顔をして」
一瞬でしたけど、と平は言葉を継ぐ。
「それ以来ごきぶりが出たら阿久津は避けようとするようになりました。あ、いや、そんなに頻繁に出てるわけじゃないですけどね。結構きれいにしてますよ、男所帯にしては。まあそれはともかくなんですけど、ごきぶりが出てみんながわーわー騒ぐとね、阿久津は避けるんですけど、でもちょっとね、俺たちみたいにごきぶりいやだーとか無邪気に騒ぐんじゃなくて、毎回、あれは避けなきゃいけないもんなんだって頭で考えて動くっていうか、……なんにも知らないちっちゃいこどもみたいだなってたまに思ってました」
本人には絶対言えないですけどねーと平はほがらかに笑う。その勘の良さとやさしさとを福田はあらためて惜しんだけれど、それを口にすることはできなかった。
「それでまあ、いまの一年が入ってしばらくしてからまたフリールームにごきぶりが出て」
なんかすごいごきぶりばっかり出てるみたいでいやですねと笑いつつ、平は先を続ける。
「出た瞬間、青井がすごい勢いでたたきつぶしたんですよ。そのへんにあったチラシかなんかで。ほんと瞬殺でしたね。そんで秋山かだれかが、おまえすごいなって言ったら青井が、あいつは飲食店の敵だ!見たら殲滅! て堂々とね、ふんぞりかえって」
光景をおもいだしたらしい、平はくくと喉を鳴らす。
「……そのときね、阿久津がほっとした顔をしたんです。たぶんずっとあいつは、俺たちがごきぶりにきゃーきゃー騒ぐ意味がわかんなかったんだと思います。たぶんそういうのとか細かいとこで俺たちはあいつのまえにずっと線を引いてて、俺たちだって自分の意思じゃないしできたら消したいけどでも消せない消し方もわからないままきっとずっとあいつのまえに線を引いてて、そんでたぶん阿久津はそういうのに、本人も気づいてるか気づいてないかわからないけどそれでもちょっとずつ傷ついてた」
風が吹いて、平のすこしのびた髪を揺らす。笑みを浮かべたままのしろい横顔が妙に目に残った。
「たぶん青井も阿久津とおんなじとかぜんぶわかるってわけじゃないと思うんです。でも、青井は阿久津に理由をやれるんだなってそんとき俺は思いました。なんかこう、世界にチューニングを合わせられるためのはっきりした道筋っていうか。ごきぶりは飲食店の敵だからだめ、サッカーはひとりでぜんぶ背負うもんじゃない、どんなにきついもの言いをしても言葉のとげにふりまわされずになかみをしっかり受け止めるやつは絶対にいる」
うんとのびをして平はふりかえる。
「俺はあのとき、ああよかったっておもいました。……だからね、大丈夫です」
大丈夫なんですよとくりかえし、平はにっこりとする。
その笑みに、福田もゆっくりと口元をあげる。そうしながら、青少年のようにさわやかにはいかないな、と内心おもう。
「太鼓判いたみいるよ」
そう言えば、平はふたたび得意げに笑う。そうして一礼し、お時間ありがとうございましたと言い置いて寮舎へと去っていく。
あとしばらくでこの地を離れる、その背を福田はしばらくながめた。
空は晴れている。すっきりとしたその青が、こどもたちの上にいつまでもあればいいとそんなことをすこし思った。