誰がために鐘は鳴る 続き きんこんかんとチャイムが鳴る。
四限目の終わりを告げる鐘とともに、生徒たちがわれがちに食堂へと駆けてゆく。ヌーの草原大移動もかくやという勢いに、ところどころ流されつつも環は屋上へと向かった。
昇降口の扉を開けたとたん、まっしろい陽の光が目を刺した。ううとうなりつつ、環はしばしばと瞬きをする。
あたりはがらんとしていた。
空は晴れわたっていて、真っ青ななかに鳥の影がぽつんと落ちている。陽は中天にあって、コンクリートの地面のうえ昇降口の影がくっきりと刻まれていた。
影のなかにはミリオがいた。その隣にはねじれがいて、こちらを認めるなりやっほーとかわいらしく手をふってくれる。ねじれのスカートの上にも、地面に敷いたピンク色のハンカチの上にも菓子パンがいくつも置かれている。
登校途中パン屋であれこれ買いすぎたからお裾分けすると今朝方ねじれに言われた。ミリオが飲み物を用意するというので、環は購買部で買ったヨーグルトを持参した。
昇降口の裏手、日陰になったところで三人車座になる。じゃんけんで勝ったものからすきなパンを選びます、とねじれが神妙に告げるのに、環は最後でいいからと辞退しようとしたがミリオが強引に巻き込んでくる。
結局勝負は3回戦までもつれこみ、ねじれ、ミリオ、自分の順になったので環は内心ほっとした。
「召し上がれー」
「楽しみだね!」
ねじれとミリオの笑顔は溌剌としてまぶしい。
もとより明るいふたり、とはいえ今日はさらにその輝きが増しているようで、環はつい手庇をつくってしまう。
そんなこちらをどう見たか、ねじれはあれっと小首を傾げた。
「天喰くん、楽しみじゃない? あと最近ちょっとぼんやりしてる? なんで?」
「たしかに最近環はぼんやりしてるね」
はやばやとピザパンにかぶりつきつつミリオが言う。さすが雄英のビッグ3の目はごまかせないものだとうなだれれば、口にしてもいないのに、環もだよ!とミリオが朗らかに言いはなつ。
知らないうちに自分の心が洩れる個性を得てしまったのか、それとも個性事故に遭ったのかと狼狽ていると、ぜんぶ顔に出てるよーとねじれから笑顔でとどめを刺されてしまう。
どちらにせよ心配させていることに変わりはないのだと、環は意を決し口を開いた。
「箱があるんだ」
「箱」
「箱?」
異口同音に、ミリオとねじれは顔を見合わせる。律儀にも食事の手を止め、ふたりは箱ねえ箱だってとくりかえす。
はこ、はこ、はこーと、なぜだかだんだん節つきになっていくふたりの言葉を聞きつつ、環は胸元あたりで両手をかかげた。
「そう、箱があるんだ……直径30センチくらいの……正方形の箱で……その箱になんかこうもやっとしたものをないないされてしまって……」
「ないない」
「ないないってなに?」
「あ、内々?」
「うちうち? 内密ってこと?」
ミリオとねじれが揃って小首をかしげる。
自分がいつのまにやら大阪弁ナイズされていることに気づき、環はあわてて訂正する。
「しまわれたんだ」
わかっているのかいないのか、はあ、とふたりが気の抜けた声をあげた。
「要するに、環は何者かに直径30センチの正方形の箱になんだかもやっとしたものをしまわれてしまったので最近ぼんやりしてるんだね」
ミリオが復唱し、朗らかな笑顔で言った。
「なんだそれ?」
混乱しているらしい、笑顔のままフリーズしているミリオの横で、ねじれがうーんと眉間を寄せる。困ったような仕草がかわいいなとおもい、こんなかわいさならよかったんだろうかとつい考えてしまって環はふたたびがくりとうなだれる。よかったってなんだとか、いったい俺はどうしたいんだとか、ぶつぶつつぶやく環のことなど気にもとめず、ねじれはきっぱりと言いきった。
「なにもないよ」
え、と意表をつかれて環は瞬く。かかげたままの両手、そのあいだをねじれはひょいとのぞきこむ。
「箱なんてないよー。ねえ、どうしてそんなこと言うの?」
「あ、やっぱりないよねー。俺だけ箱が見えなくなる個性にかかったかとおもっちゃったよ!」
あーよかったびっくりした、とミリオが胸を撫でおろす。
ない、と環はふたりの言葉を復唱した。
「箱はない」
「ないよー」
「ないよね!」
ふたりがうんうんとおおきく頷く。
箱はない、ともう一度繰り返して、環はがばりと立ちあがった。
「箱なんてないよな!!」
両の拳を握り、環は咆哮する。
「ないよー」
「なんだかわからないけど、ないよー」
両手を万歳のかたちにし、ふたりはにこにこと環の言葉に賛同する。
よしとおおきくひとつ頷いて、環はその場から駆けだした。
「行ってくる!」
昇降口に消えてゆく制服の背中を見送り、ミリオとねじれはいってらっしゃーいと両手をふる。
「で、どこに?」
「さあ? ところで環のぶんのジュースとヨーグルトどうする?」
「ファット!!」
事務所のドアを勢いよく開ければ、ファットガムがおっと声をあげた。
広々としたデスクにたこ焼きの箱をつみあげて、ファットガムはいままさに爪楊枝にさしたひとつをほおばろうとしているところだった。応接用のテーブルやソファにも、白いビニール袋がいくつも置かれている。青のりとソースの香ばしい匂いがあたりには満ちていた。
「なんや環、今日インターンの日やっけ? ちゃうか土曜日やもんな、なに? 学校休みか? たこ焼き食いにきたんか、なんや鼻ええな、あ、いま差し入れもうてんけど自分輪中とくるると川ちゃんとどれがいい? 俺のおすすめは輪中の塩でな、輪中の塩いうたら長居スタジアム限定の桜塩っていうのがあるんやけど」
立ちあがり、ファットガムはいそいそとビニール袋のなかみを開陳しようとする。さすがプロヒーローというべきか、来客馴れしているらしく突然の訪問にもいやな顔ひとつ見せない。そんなことにちょっとほっとしつつ、環はぶんぶんと大きくかぶりをふった。
「違う、たこ焼き食べに来たんじゃなくて、あの、そうじゃなくて、……箱が」
そう言えば、ファットガムはビニール袋を漁る手をふいと止めた。
先日のインターンのときよりもその身はいっそう痩せたようだった。ニュースサイトはチェックしていたつもりだけれども報道されないところでなにか大きな事件があったのかと、胸の底がひやりとする。
ファットガムはこちらの意など知らぬげに、ビニール袋をまとめながらあーあれかと言った。そのさまはいつもどおり呑気で、がさがさというビニールの触れ合う音もまた平和そのものだった。
「あれかじゃない」
ファットガムのとぼけたそぶりに、ここ数日の自分の葛藤まで蔑ろにされたような気がして、環は精いっぱい声を張りあげる。
「あれかなんてそんな、俺は毎日ずっと考えて、箱とか、ないのにファットがあるって言うから、わかんなくてそれで、……俺には見えないだけでもしかしてあるのかもしれないって思ってたらミリオも波動さんもないって言うし」
「いや言うたんかい」
しどろもどろのこちらの言葉を拾い、ファットガムが真顔でつっこんでくる。ご丁寧にも右手をツッコミのかたちにし、ビシッとさしだしてきた。言ったらだめなことだったのかと環はちょっとあわててしまう。
「え、ぜんぶ言ったわけじゃないしたまたまだけど、ミリオの個性もあるしもしかしてって」
そのさき続く言葉を見つけられずに環はううと口ごもる。なんや自分で信憑性持たせてんのちょっとおもろいな、という声がぼそりとしたような気がしたけれども、そんなことに構っている余裕もなかった。
うつむく、耳にちいさなため息がとどく。
「まだ昼まえやで。朝イチで来たんか」
「……ほんとは昨日の昼来たかったけど授業もあるし外出許可出さないといけないし、いろいろしてたら今日になった、……んです。このあいだ帰るときファット、今週末は溜まった事務やっつけるって言ってたからいると思ったし」
「まじめか」
その口ぶりには笑みがあって、環は気恥ずかしさのあまりいっそその場にしゃがみこみたくなった。箱がどうだとか、結局のところファットガムにとってはただの冗談だったのかもしれなかった。それを真に受けて、インターン先の上司とはいえプロヒーロー相手にアポイントメントもとらずに大阪まで押しかけてきてしまった。大仰に考えていたここ数日の自分がみっともなかった。ヒーローのコスチュームならフードで顔を隠せるけれども、いまは私服だからどうすることもできない。
環はぎゅっと両の拳を握りしめた。
せやなあ、と肩をこきこき鳴らしつつファットガムは所長席に着く。痩せたその身に革張りの椅子はずいぶんと大きい。
窓辺から陽が射して、金の髪がきらきらとする。綺麗だなと、そんな場合でもないのにちょっと見惚れてしまう。どきりとちいさく心臓が跳ねて、やっぱり箱なんかにしまえないじゃないかとそんなことを頭の隅で思った。
たこ焼きの箱を隅に寄せ、ファットガムはデスクに頬杖をつく。
「環はまじめやろ」
念押しのようにくりかえされる。なんだかこども扱いされているようで、環としてはうううと唸ることしかできない。それをどう見たか、ファットガムはちいさく口の端をあげた。
「まじめでな、ちょっとネガティブで後ろ向きやけど、かっこよくて男前で将来最有望株のスーパーヒーローや」
いきなりの賛辞ラッシュに環は目をみはる。いや、とか、その、とか、あわてふためくこちらをおもしろげに眺めつつ、ファットガムはさらにと先を続ける。
「へなちょこのくせにいざというときの腹の据わり方はすごいしな、曲がったこともせんし、正義感も強い。ほんまちゃんとしてるわ」
「……ファット」
もうこれ以上はと音をあげかけた環に、ファットは笑ってせやからなと言った。
「預かりもんの大切な子に、しかも未成年にな、十二個も上のおっさんで上司でプロヒーローが手ェだすとかコラーッてなるやろ。まあ環は優しいから、事情があればしゃあないとかってほだされそうやけども」
耳にしたことが信じられず、羞恥心もわすれて環は相手を凝視した。
デスクを挟んで向いあうさき、ファットガムは両手を胸元に掲げてみせる。30センチくらいの幅をとり、箱がなと言った。
「こんくらいの箱があって、そこにな、毎日いろいろほりこんどるわけや」
ぱんと両手を景気よく打ち合わせ、ファットガムはにっかりと笑う。
闊達な笑顔はいつもと変わらない。けれどその目のなかにひっそりと、見たことのない熱があるのに環は気づく。
ゆっくりと首筋に血がのぼってゆく。頬も耳も、皮膚の薄いところがじりじりと痛い。耳の底が鳴るようで、どうしたらいいのかわからず環は立ちつくす。
そんなこちらをどう見てか、ファットガムはふたたび机に頬杖をつく。そのおもてにはうっすらと、環のつけた火傷の跡が残っている。
しばらくして低い声が耳にした。
「堪忍したってや。いま俺な、はたちの環に好きになってもらえるよう頑張っとるとこやねん」
金の瞳がまっすぐに、心臓を撃ち抜いた気がした。
「……いつから」
どうにかこうにか絞りだした声に、ファットガムは頬杖をついたままにっかりと笑う。
「ナイショ」
見事なまでにあしらわれていると、わかっていてもどうすることもできずに環はうつむいた。耳の皮膚が熱くて痛い。のばした髪でも隠しきれない、ひとより尖った耳がいまは恨めしかった。
「ほりこんどる中身はな、ま、はたちになったら見せたるわ」
うううと唸るほかないこちらに、ファットガムはのんびりととどめを刺してくる。おおきな手がその胸元で箱のかたちをつくり、ギーバタンと擬音つきで蓋を閉めるふりをした。
「はい、きょうの午前中の分もないないしました。昼からの環の働きに期待やな。さあてどんだけ溜まるかなー」
飄々と言ってファットガムは立ちあがる。にっと笑みかけられて、堪えきれずに環はその場にしゃがみこんだ。
「もうやめてくれ……」
抱えた膝に顔を埋めれば、ファファファとまるで好々爺かというような笑い声が降ってくる。
「せっかく来たんやし、なんかうまいもん食いに行こか。たこ焼きはあとで食べたらええやろ。環なんか食いたいもんあるか?」
呑気なもの言いがいっそ腹立たしい。
自分ばかりがふりまわされているのがどうにも癪で、組んだ腕から環は目ばかりをのぞかせた。正面切って戦う根性はまだないものの、せめて一矢報いてやろうと声を張りあげる。
「……くじら!」
まっかな顔で睨みつける、そのさきファットガムがきょとんとする。そうして破顔一笑した。
自分はどうしたって子どもで、ファットガムにはまだまだとうてい追いつけない。とはいえ太陽のようなその笑顔をこれから先もずっとそばで見ていていいのなら、子どもでいるのもそう悪いことでもないかもしれないなと、まだ立ちあがる勇気はないまま環はこっそり思う。
おでんかなーはりはり鍋もええなー刺身はハードル高いかなーと謎の歌を編みだしつつ、ファットガムはいそいそと上着を着込んでいる。
そんな光景をぼんやりと眺めつつ、箱のなかみを見るのが待ち遠しいなと思ったことは、せめてもの意趣返しで秘密にしておくことにした。