colors 夜は冷えている。
昼間はこどもたちの賑やかな声が絶えないクラブハウスも、八時を過ぎればしんとしていた。ときおり耳をかすめるのは自分のめくる紙の音ばかり、日中は指導があるからとついついあとまわしにしてしまった書類がいま机上に山と積まれている。
事務室は広い。向かい合わせになった机がずらりと列をなした、その片隅に月島はいた。クラブの経営が苦しいわけではないけれど、数年の社会人生活で節電は身に染みついている。明かりは頭上の蛍光灯ひとつきり、ほかはひっそりとして暗い。薄闇にパソコンやプリンタの電源ランプがちいさく浮かんでいた。空調も切っているから、ジャージを羽織ったばかりの喉元が肌寒い。
残業ってガラでもないんだけどねえ、と肩をたたきつつ月島は立ちあがる。目処はまだつきそうになかった。コーヒーでも買いにいこうかなと上着のポケットを探る、と、そのときドアの開く音がした。
ふりかえる。そこにあるひとの姿に、月島は目をまるくした。
「あれ、珍しい」
帰ったんじゃないんですかと言いかけた、言葉はふいと途切れてしまう。
福田は黙ったまま、近づいてきてこちらの肩にもたれかかる。冷えた外の匂いがした。頬に触れる黒髪もひんやりとして、まるでひとのものではないような気がした。
福田の頭がつい鼻先にある。まるで抱き合うような格好となり、月島は目をぱちくりとさせる。
いままでどこにいたものか、その身はずいぶんと冷えていた。寒いから暖をとりにきたのだろうかなどと考えて、さすがにそれはないかと月島はひとり否定する。
しんとしたあたりにぼそりと低い声がした。
「花が俺の泣いてるとこ見てたって」
のしかかってくる身体を両手で抱えつつ、はあと月島は相槌を打つ。昔の話だと、それはしばらくしてから気がついた。そういえばいつだったか、花がそうしたことを口にしていたような気はする。
十年以上も昔の話を、福田はまるでつい最近のことのように言う。大きな手のひらがこちらの腰のあたりにある。
「……だれにもバレてないと思ってたんだけどな。しかも花かよって。かっこいい兄ちゃんでいたかったんだよ、俺は」
言う、声はやはりいつもより低い。
身長差のせいか福田はすこし身をかがめている。左足の重心がわずかにずれていた。
外気を纏ったままのその身体はやはりひんやりとしてつめたい。
引き戻されたのかなと月島はおもう。痛みは電気信号となって脳に伝わり化学物質の分泌を促進する。エンドルフィンだのドーパミンだの、過多な興奮物質の分泌はかえってネガティブを引きずりだす。
殴られ続けると頭ぼんやりして訳わかんなくなるみたいなものかと月島はひとり納得する。
整髪料の甘い香りに混じってふいとひとの匂いがした。
「浮気現場」
相手の首に腕をまわしつつそう言えば、呆れたような声が耳元でする。
「どっちのだよ」
「さあ?」
どっちでもいいんじゃないですかと返せば、仕返しのように力を込めて抱きしめられる。だいぶ参ってるなあとは口にはしないで、月島はぽんぽんと相手の背を叩いてみる。
「十年まえのことでしょ。かっこつけの業が深いなあ」
「うるさい」
萎れているくせに切り返しはにべもない。こちらの肩にぐりぐりと額を押しつけてくるさまなどまるで聞き分けのない子どものようだった。それこそ十年以上前の僕の憧れを返してほしいと、月島は相手の耳を引っ張ろうとしたけれどなけなしの慈悲でやめておくことにする。
福田サン、そう呼びかければしばらくしてなんだとかすれた返事がある。
「泣いたんだね」
「……おう」
格好をつけたがるくせに否定はしないから、月島はつい笑ってしまう。
「リハビリの現場ってさ、みんな元気じゃない? 骨の手術なんて工事みたいなものだからお医者さんも体力勝負だし、看護師さんも療法士さんも患者ひとりは抱えられて当然って感じにガッツがあるし、患者さんも特にスポーツ整形なんてみんなバリバリ体育会系だしさ」
こちこちという時計の音がふと耳についた。福田は黙ってこちらの話を聞いている。先ほどよりも触れ合うところが増えたせいか、たがいの熱がゆっくりと籠もってゆく。
「みんな元気で笑ってて、わかりやすく落ち込んでるなんてばかばかしいそんな暇あったらリハビリしようぜみたいな雰囲気あるよね整形外科って。特に重篤なひとほど、考えたってしょうがないよねって、そういう雰囲気に流されて元気にリハビリしてがんばった甲斐あって外に出られるようになって、ありがとうございましたこれからもお互いがんばりましょーなんてにこにこ笑って退院して、たいへんだったねって心配してくれる外のひとたちと病院の雰囲気のギャップにびっくりしたりして、大丈夫だよみんなわかってないなあなんて思ったりしてさ」
どこかで遠くクラクションの音がする。窓ガラスに赤い色が一瞬映って消えた。
「そうやってると頭のどこかが痺れたみたいになって、ドラマとかにあるような悲劇のヒロインっぽい湿っぽさなんてむしろ違和感があって、元気だよ大丈夫って」
腰にまわされたままの、福田の手がぴくりとする。素直なひとだなとそんなことを思った。その肩先に顔を埋めてみれば、馴染んだひとの匂いがする。
世間によくいるサッカー少年と同じように、子どものころからずっとこのひとに憧れていた。テレビの向こうで、スタンドから、フェンス越しに、その姿を追い続けた。なのにいつのまにか、自分はずいぶんこのひとの身近にいる。
ふしぎだなあと、これまでにももう何十回も繰り返したかわからないようなことを思いつつ、月島は腕の力をぎゅっと強めてみる。
「……なるよね」
だから、と月島は言葉を重ねる。
「泣けてよかったねと僕はおもいますよ、福田サン」
麻痺させたままにしないでちゃんと自分の傷に向き合えたってことでしょう、そうつけ加えれば、しばらくして耳元でふうと深いため息がした。
「おまえ励ましへただな」
「そうですかー?」
せっかく頑張って長々と喋ったというのに何たる言い草かと、月島は頬をふくらませる。可愛かないわとしかめ面をして、福田は大きな手でこちらの顎をつかんでくる。
「いやだって論点ずれてるもん。俺は花にださいとこ見せてたっていうとこに落ちこんでんの」
福田の手首を掴んでひきはがし、月島は小首をかしげた。
「だってそれは別にいまさらって言うか」
「えっ」
指摘してやれば、福田はがばりと身を起こす。かつて日本代表屈指のイケメンなどともてはやされた、その目はおおきく見開かれていた。どうやら本気で驚いてるらしいと、月島は呆れるよりいっそ感心してしまう。
「あとたぶん十年以上まえの若かりし日の涙より、三十なかばのいま深夜のクラブハウスで同僚の男性コーチ二十八歳と抱き合ってるってほうが百倍くらい花ちゃんにはショックだとおもいます」
うううという唸り声とともに福田が沈む。こちらの両肩に手を置き、いまさら距離をとろうとするところがおかしい。あんまり身近にいるっていうのもやっぱり考えものだなあと思いつつ、せめてもの賑やかしに月島はにっこりとしてみる。
「『元日本代表福田達也深夜の密会! お相手は年下男性ユースコーチ!?』」
「……言いなおさんでいいわ」
ため息とともにぽんと頭をひとつ叩かれた。子どものころはそうしてもらえるのがすごく嬉しかったなと思いだし、いまもそんなに変わらないかと月島は離れてゆく熱を手のひらで辿った。病膏肓とかそんなかなと、そう考えたことは秘密にしておくことにする。
福田は踵を返し、ドアの方向へと歩いていく。それを眺めているうち、胸のあたりがすうとした。あれっと小首をかしげつつ、月島は両手を軽くぐーぱーと握ってみる。先ほどまで確かにそこにあったはずのひとの熱は、瞬く間にあたりの寒気にまぎれてゆく。
「邪魔したな」
低い、けれども先ほどよりはすこし湿りをなくした、声がふいと耳をかすめた。
ほんとにねとは言わずにおいて、そのかわり、月島は相手の名前を呼んでみる。
「福田サン」
ドアノブにかけられた手が止まった。ふりかえらないところが依怙地なひとだなあと、そんなことをすこしばかり思った。
「麻痺しててもしてなくても、時間はちゃんと進むよ」
がちゃりとドアノブを回す音がする。
応えはなく、大きな手がひらりとあがってドアの向こうへと消えていく。
時計の針は八時をなかばも過ぎていた。
さてもうひと踏ん張りするか、そうひとり気合いを入れて、月島は書類仕事に戻る。
閉じられたドアのさき、去ってゆくひとが他人のために笑っていなければいいなと、そんなことをすこしばかり考えた。