サムシング・オールド「結婚式、だと?」
聴き慣れない単語を耳にして、ノヴァが淹れた茶を飲みながらロン・ベルクが聴き返した。思わず単語を強調してしまうほど、ロンにとっては縁のない言葉だ。
「はい。結婚式です」
「ジャンクから聴いたことがある……番いになる男女がする儀式みたいなものだろう? 儀式を完遂するために、ひとが大勢集まるやつだ」
ロンの認識だと、ちょっと殺伐としているような気がして、ノヴァは昼餉の後片付けをしながらクスクスと笑った。魔方陣でも描いて、まるで何かを召喚するようだ。ノヴァがなぜ笑っているのか分からぬまま、ロンは怪訝そうな表情をする。
「……誰の?」
「ボクの幼馴染みです。リンガイアの壊滅から奇跡的に生き延びていたんです。お互いの生死も分からなかったんですが、先日ベンガーナの王宮に父からの手紙が届いたんです。父がリンガイアで復興の活動をしている時に、ボクの幼馴染みが戻って来たそうなんです」
こぼれそうな笑顔で昼餉の後片付けをする愛弟子の姿を見やる。そういえば昼餉前にベンガーナから戻った途端、静かに自室に籠っていた。父親から届いた手紙を読んでいたことに思い至って納得する。
「もう、生きていないと思っていたんです。リンガイア襲撃の時に、彼女は王都にいましたから。探したんですが、探しきれなくて……」
やや自嘲気味の声音に気づいたロンは、話の方向を変えようと試みた。
「なんだ、幼馴染みって、女か」
「変な言い方しないで下さい。ほんの子供の頃からよく遊んだ幼馴染みなんです。ボクより少し年上ですけれど、きょうだいみたいな子なんです」
ノヴァは少し真面目な声音でその娘の事を語る。ロンの気遣いが功を奏して自嘲気味の雰囲気は溶けてなくなっていた。
「リンガイアから落ち延びて、しばらくベンガーナに身を寄せていたんだそうです。時期が合わなくてボクは彼女に会えませんでしたけれど」
テーブルに着くとノヴァも茶を口に含む。
「無事で良かった……」
「で、結婚式とは?」
「あ、そうそう。命からがらリンガイアから脱出して、そのときに一緒に生き延びた相手と結婚するそうなんです。彼女を命がけでモンスターから護ってくれたひとがお相手なんだそうです!」
嬉しそうに語るその顔は、友人の恋語りに目を輝かせる少年のそれだ。ノヴァの表情を見て、ロンの感情が和らぐ。ロンの与り知らぬノヴァの人生の登場人物に少なからずジェラシーを感じていたからだ。
「父からの手紙によると、一ヶ月後に結婚式を挙げるそうです。場所はリンガイアで。復興もままならないので、ベンガーナで挙式をする案もあったそうなんですが、やはり故郷で式を挙げよう、ということになったらしいです。林檎の木が残っているところに式場を作って、青空の下で式を挙げるそうです。リンガイアの復興期第一号の結婚式なので、皆大喜びだそうです。式が終わったらその跡地に新しい教会を建てるんですって」
ロンの顔を見て、ノヴァが幸せそうに微笑む。
「結婚式の時期、リンガイアは短い夏が始まって晴天が続きますし、林檎の花も盛りですごく綺麗だと思うんです」
「行ってこい」
「え?」
あまりにあっさりと告げられて、今度はノヴァが聴き返した。
「行ってこいって、先生……」
「オレならひとりで大丈夫だ。腕もご覧の通り、簡単な身の回りの事ならできるようになったしな……行ってこい。人間の大事な節目の儀式なんだろう?」
先ほどの魔の儀式が連想されて、ノヴァは小さく笑う。
「ええと……」
「なんだ? 『オレの傍から離れない』って泣いたことを気にしているのか?」
ノヴァはいつぞやロンの胸を借りて泣いたことを思い出し、顔を赤らめて反論する。
「ちょ、そこまでは言ってません」
「そうか? そんなような事を言っていた気がするがなぁ」
ロンの軽快な笑い声がノヴァの心を羽のように軽くした。
二週間もするとベンガーナの王宮にノヴァの晴れ着が届いた。リンガイアにいる父から晴れ着が贈られてきたのでそれを受け取りに行ったのだ。そういった報せはベンガーナの番所を通じて行っていた。
リンガイア壊滅の前に何着か持っていたノヴァの盛装のうちの一つだ。もちろんそのようなものは故郷が襲撃された日に全て焼け落ちてしまっていたが、在りし日の品々を懐かしんで父が再びあつらえてくれたのだ。こんな時だからこそ、伝統や美しいものを重んじようという事らしかった。
リンガイアは質実剛健を是とするお国柄のため、このような贅沢品をそうそう身に着けることは無いのだが、婚礼や宮中の行事だけは特別だった。このハレの日には普段のしかめつらしさから解き放たれて、華美なことには定評のあるベンガーナやパプニカまでもが目を見張る美しさに身を包む。慶事で世界の王族が集まる際には、リンガイアの瀟洒な美しさがひときわ目立って諸卿の目を潤わすのだ。
工房の自室に戻ると大きな箱をベッドの上に置いて丁寧に梱包を解く。厚紙の箱の中にゆったりと納められた盛装がノヴァの瞳に映った。
最後に採寸したのは数ヵ月前だ。その頃の採寸データが残っていること自体が驚きだが、それよりもノヴァの今の体格にフィットするか心配だ。結婚式の前に袖を通しておいた方が良さそうだと思った。
その夜入浴を済ませ汗が引くと、早速箱の中から盛装を取り出した。コート、ウェストコート、ブリーチズの三つ揃えはそれぞれアンカットヴェルヴェットの豪奢な生地で作られていた。小物のシャツは袖口にたっぷりと飾りレースがついており、同じく美しいクラヴァットが華やかな印象を与える。それから白い絹靴下に煌めく雅な靴。
王宮で慶事の度に身を包んできたスタイルにノヴァの心が浮き立つ。戦いに赴く装いとはまた違った高揚感があった。
皺にならぬよう丁寧に梱包されたコートをハンガーに掛ける。ややピンクがかったほんのりと光沢のある黒橡色の生地の前身ごろに刺繍がふんだんにあしらわれている。
モチーフは小花や蔦で、その豪奢な刺繍が襟からコートの裾までたっぷりとかがられており、所々に煌めく粒硝子や真珠が縫い付けられている。
「わぁ、可愛いな……」
よく見ると左の胸元に一羽の青い小鳥が刺繍してある。コートの全体を見回してみたが、小鳥の刺繍はその一羽だけだ。粋な遊び心にノヴァが思わず感嘆の声をあげる。
刺繍は深い茶色の生地とよく調和するように練色や亜麻色や暁鼠色でかがられており、時折ノヴァの髪の色を思わせる薄い水色の花蕾がステッチしてあった。
ウェストコートを見ると、こちらも嫌みにならぬ色合いで豪奢な刺繍がたっぷりと施されている。象牙色の生地に薄い枯葉色で蔦やハーブのモチーフが刺繍されており、コートに見え隠れする部分に金糸や銀糸でモチーフが縁取られている。
シャツにの袖口には驚くほど繊細なレースが取り付けられていた。目を凝らすと薄い桜色のレースに、ところどころ雪の結晶のモチーフが編み込まれている。
「父さん、こんなボクに……お金も労力も時間も……かけすぎですよ……」
ぽつりとつぶやくとノヴァは父から贈られた大切な品々をそっと抱きしめた。サイズが合うか心配になりおそるおそるシャツに袖を通す。別段きついという事もなく、ノヴァの身体によくフィットした。白い絹靴下を穿はくと、膝丈のブリーチズを重ね着する。贅沢なアンカットヴェルヴェットはとても柔らかく、ノヴァの動きを一切妨げることはなかった。
象牙色のウェストコートを纏まとって、その上にコートを羽織る。箱の中身をよく見ると同じ生地でできた藍色のリボンが添えられていた。どうやら髪を結ぶためのもののようだ。後ろでひとまとめにすると、綺麗な蝶結びで髪を結う。
仕上げに美しいクラヴァットを首に巻いて胸元に垂らし、大きめのカフスのついたコートの袖口からシャツのレースをしゃらりと引き出せば、どこから見てもノヴァは完璧な貴族の青年だ。
腕を伸ばし肘を曲げ、コートの裾を広げて回ってみる。そして、はたと気づく。
(この家には鏡がない……)
身だしなみに重要なアイテムが無い事に今更ながらに気づく。父が贈ってくれたアビ・ア・ラ・フランセーズはノヴァの身体にぴったりとフィットしているが、きちんと着こなせているのか、全く分からない。ノヴァは煌めく靴を履はくと部屋のランプを持ち出して、リビングに移動した。
居住区を大きく改造したため、窓ガラスもそれに応じてそれなりの大きさの物に取り替えてあった。基礎を打ち直して床板も張ったので快適に過ごせている。
ノヴァはリビングにあるランプにも灯りをともし、自室から持ってきたランプも光源にして、窓ガラスに自分の姿を映し出した。
外は暗闇に覆われているので、室内の明るさで窓ガラスが鏡のようにノヴァの姿を映し出す。自分の姿を見て、あまりの豪華さに心が痛むような、なんとも言えない感情に捕らわれた。
(素敵な三つ揃え……だけど、今の修行中の身でこんな贅沢をしていいのかな……)
ランプの灯りに照らされて、コートのビジューが夜空の星の如く煌めいている。未だ復興中の故郷を想うと、途端に罪悪感に苛まれる。
(いやいや!父さんがせっかく贈ってくれた三つ揃えだぞ。何を恩知らずな事を考えているんだ)
気を取り直して一周くるりと回転してみる。プリーツをとったコートの裾がふわりとなびき、普段は見えないウェストの金糸と銀糸の刺繍が煌めく。ダンスをすればさぞかし貴婦人や諸卿の目を惹くことだろう。
その瞬間、玄関が突然に開きロンが入ってきた。コートの裾が風を孕み美しい曲線を描いてる、正にその瞬間だった。
「!」
「!」
こんな格好をしているところを見られたという視線と、信じられないほど煌びやかなものを見たという視線が合わさる。ノヴァもロンも固まり、お互い声も出せずにいる。
「…………あ、あー、あの……」
ばつが悪そうにノヴァがやっとのことで声を上げる。ロンはノヴァから眼を離さずに室内に入る。いたたまれなくなって、ノヴァが視線を床に落とした。
(なんだ……この、恐ろしく綺麗なモノは……)
新鮮な夜気を吸いに外へ出て戻って来てみれば、なんだか見たことも無い不思議な生き物が自宅のリビングに生息していた。驚いて声も出せずにいると、その煌びやかなモノはノヴァの声で言葉にならぬ何かを呻いている。
柔らかそうだが重厚な生地でできた、見たこともない服装に身を包んでいる。そこら辺の街などではお目にかかれない雅な姿に、一瞬息を飲む。よく見るとコートには細部にまでこだわった繊細な刺繍がたっぷりと施され、それが胸元のレースや袖口のレースを際立たせている。
ノヴァの髪は普段と違って項うなじでまとめられ、藍色の美しいリボンで結われている。くるりと回った後だからか、髪がそよいで肩から胸まで柔らかく垂れている。白藍の柔らかな色合いが、ピンクがかった黒橡色のコートによく映えている。
ロンはノヴァから眼を離すこともできずにテーブルに着くと、お気に入りの椅子に腰掛けてまじまじとノヴァを眺めやった。
「先生…………あの、なんか言って下さいよ……」
ノヴァが視線を落としたままつぶやく。みると耳まで赤くなっている。
「どこのおとぎ話の王子かと思ったぞ」
それを聴くとふとノヴァが顔を上げる。
「先生、おとぎ話なんて読むんですか?」
ロンはこう見えてかなりの読書家だ。特に人界の辞典や風土記や伝説などがお気に入りだ。嫌なところを突かれてロンが眼を細める。
「似合っているじゃないか」
「そんな、心にもないこと……」
ノヴァがぶっきらぼうにつぶやく。ノヴァは腕を後ろに回して、煌めく靴で何もない床の上を、砂でも掻くような仕草をしている。要するに、照れている。ロンは今までノヴァにもらったいくつかの感情の意趣返しをしてやろうかと試みた。
「綺麗だよ」
無論、本心だ。
「!」
ノヴァは勢いよく顔を上げると、真っ赤な顔で、ああとか、ううとか唸っている。
「番の儀式の晴れ着か? 人間はいいな。そういう潤いが似合っている」
その言葉を聴いてノヴァがはた、と我に返ったような面持ちになる。
「先生も行きますか?」
「冗談じゃない」
今夜はとことんノヴァを照れさせてやろうかと思ったが、下手を打ったらしいと気づき、ロンはそっぽを向いて眼を閉じた。その表情を見て、何か思うところがあるのか、ノヴァはしばしロンの横顔を見つめた。
鍛冶師見習いとして修行に明け暮れるうちに、月日はあっという間に過ぎ去っていった。気づけば幼馴染みの婚礼の日が目前だ。ノヴァは自分のいない間にロンが困らないように彼の身の回りを整えると、挙式に参列する準備を始めた。
本当は結婚する幼馴染みの為に護り刀でも創って贈ってやりたかったが、まだそこまでの実力はノヴァにはない。早く成長したいという逸る気持ちを抑えて贈り物を考える。
昔、親族の結婚式に参列したとき、従姉妹たちがはしゃいでいたのを記憶の底から引き上げる。
(何か青色のものを花嫁に持たせるって、言ってたっけ)
従姉妹たちが花嫁のブーケに青い小花を挿しているのを思い出し、ノヴァはランカークスの村に飛んだ。
ノヴァが花を抱えて工房に戻ると、ロンが納屋から何かを持ち出しているところだった。ノヴァはロンが小脇に抱えている木箱の中身に興味深々だ。花を涼しい場所の桶に浸けると師の真横に陣取る。
ロンが木箱を開けると、そこには神々しいまでの輝きを纏う金属がひっそりと横たわっていた。
ロンはシルクのクッションから輝く金属を取り出すと、テーブルの上にそっと置いた。
「わぁ…………」
テーブルの上には銀の鞘に納められた美しい短剣が乗せられている。瀟洒な銀の鞘に小さな宝石が散りばめられている。
「大昔、魔界にいる頃に創ったものだ。自分で創った武具に未練はなかったから、全て魔界に置いてきたんだが、これだけは手元に置いておきたくてな。向こうを出奔する時に持って来たんだ」
「すごく……綺麗ですね。先生が創る剣とは、また違った趣ですね」
銀の鞘には細かい彫金がなされており、ロンのこのナイフに対する並々ならぬ熱意が窺えた。一体どのような経緯で創られた短剣なのだろう。それを問う前に、ロン自らがその出自を語った。
「人界の風土記を読むうちに、お前たち人間の護り刀ってやつに興味を惹かれたんだ。刀自体は攻撃力が高いものではない。むしろ短剣や小刀の部類に入るから、敵を屠るというものではない。見た目も瀟洒で華奢だ。それなのに持ち主を護るっていう発想が面白くてな。なにか……こう、人間の神に祈りを捧げるというか……運命の一部を短剣に委ねるというか……一種潔さみたいなものを感じたんだ。オレたち魔族にはあまり理解できない考え方だったもんでな……興味が湧いて打ってみた。打ってみたはいいが、護る相手がいない事に気がついた。誰かに譲渡する気にもなれなかった」
珍しく歯切れ悪く説明するロンに、ノヴァは驚きを隠せない。人界のものにそれほど興味をもって創ったとなると、この師の事なので徹底的に意味やあり方を研究したに違いない。そしてその一振りだけが捨てられず、こうやって人界まで共にやってきたというのだ。
「お前にやる」
「…………え?」
完全に不意を突かれた。
「オレが持っていても仕方がない。やるから、好きにしろ」
「え、あ、はい」
実に間抜けな返答しかノヴァの口からは出てこなかった。あまりに唐突すぎて、何をどう感じたら良いのか分からなかった。師はノヴァの顔も見ずに自室へと引き籠ってしまい、ノヴァはひとりぽつねんとリビングに取り残され、真剣な面持ちで短剣を眺めていた。
その晩、夕餉の後にノヴァはロンにひとつ願い事を申し出た。彼の長い黒髪を一筋譲ってほしい、と頼み込んだ。
「構わないが……不思議なものを欲しがるんだな」
ノヴァは入浴を済ませたロンの長い髪を乾かしながら、耳の後ろの髪をほんのひとすじ切り取って綺麗な盆に乗せた。人間とは面白い事をするものだな、とまじまじと言われてノヴァは自分の顔が赤らむのを感じた。
自室に戻るとランカークスで買い求めた金と銀のペンダントロケットを取り出した。ロンの艶めく黒髪を丁寧に編み込んで、掌に握りこめる程の大きさの、円形の銀のロケットの中に綺麗に納めた。ロケットの蓋は透かし彫りになっていて、外側からもほんのりと内側が見られるようにできている。
在りし日、宮廷での行事に参加した時には、青年将校や若い貴族たちがこぞって愛する者の品を身につけて競っていたのを覚えている。恋仲のネックレスやブレスレッド、レースのハンカチーフを大切に身につけており、中にはガーターベルトを懐に忍ばせる者さえいた。
馬鹿らしい、と感じていた当時のノヴァはまぎれもなく子供だったのだ。今ならあの者たちの奇行とも呼べる行為の意味も、その心も理解することができる。
愛する者のひと品を、かたときも離さずに身につけていたいのだ。
いささか感傷的に過ぎるとは分かっていたが、ノヴァの欲しいひと品はこれしかなかった。人間の愚かな習慣だということも分かっていた。ノヴァは自分の髪をひとすじ切りながら、恋とはなんと度し難く、なんと素敵なものなのかと、唄うように想った。
次の日の昼過ぎ、盛装と必要な荷物をまとめてリンガイアに一気に飛んだ。リンガイア近くの破壊を免れた村に立ち寄り、翌日に式に参列するつもりだ。久々に一人きりで過ごすことに、少なからず淋しさを感じる。村の宿屋のクローゼットに大切な盛装を仕舞い込むと、魔力を使って飛んだ身体を休ませるため、早々に床に就いた。
結婚式当日、自分の挙式ではないというのに不思議と緊張して、準備にも力が入る。髪を丁寧に梳って藍色のヴェルヴェットのリボンでひとまとめにする。白い絹の靴下を穿き、ブリーチズに脚を通す。美しい桜色のレースが付いたシャツを着込んで小さなボタンを嵌めていく。象牙色のウェストコートを着ると、胸が踊るような気持ちになる。煌めく雅な靴を履きコートを羽織って、ノヴァが姿見を覗き込むと、そこには風雅なリンガイアの青年貴族がすらりとした風情で佇んでいた。
師から譲り受けた銀の護り刀を腰に佩いてコートで隠す。なかなかお目にかかれない芸術品のような一品だったが、自慢するために衆目に晒すのは何となく気が引けた。
涼しい場所で保管した青い花を手に持つと、式場とされるリンガイアの土地に向かう馬車に乗り込んだ。
数ヵ月ぶりに父に会うと、たいそう喜んでノヴァを抱きしめて迎えてくれた。少し精悍な顔つきになったことを誉められて、面映ゆいような気持ちになる。父は紺色の軍の盛装を着込み、サーベルを腰に佩いている。堂々とした風情だ。
「ロン・ベルク殿はご健勝か? しっかりお仕えしているか?」
ノヴァの肩に腕を回してゆったりと散策しながらバウスンが愛息子に問う。
「はい、もちろんです。あの方から教えていただくことで頭がいっぱいになってしまう事もありますが、不自由を感じられないように身の回りのお世話をしています」
青空のもと、爽やかな広場にテーブルが出され、穏やかな風に白いテーブルクロスが柔らかくはためいている。
ノヴァとバウスンはウェルカムドリンクを飲みながら故郷の想い出話に花を咲かせる。その優雅な姿に、生き残りである新郎新婦の親族や友人たちが淡い感嘆のため息を漏らす。
師の下で行っている修行について語っていると、幼馴染みに呼ばれたため、ノヴァは花嫁の控え室代わりの白い瀟洒なテントを訪ねた。
金の髪の利発そうな幼馴染みは相変わらず元気で、命拾いした暗い経験など吹き飛ばす強さでもって応じてくれた。お互いの無事を喜び、ノヴァが世界の平和に尽力したことに対して、彼女が心の籠った感謝を述べる。
互いの近況を語り合い、心から笑い合う。ノヴァは持参した青い花を幼馴染みに贈った。幼馴染みはたいそう喜んで自分が持つブーケに挿すよう、付添人にお願いしている。
話し込んでいるうちに、彼女がノヴァの腰に下げた美しい御守りと銀の短剣に気づいた。黒く艶やかな輝きを持つものが、透かし彫りの瀟洒な銀のペンダントヘッドの中でひっそりと息づいている。
蓋を開ければ深い黒曜石のような煌めきがノヴァの眼を愉しませてくれる。それは、ロンの髪を編み込んで作ったこの世でただひとつのノヴァの御守りだ。
幼馴染みはノヴァの耳の後ろの髪がひと房無くなっている事に気づき、交換したのかと、ニコニコしながら問うてきた。
「うわさのノヴァの魔族の先生ね」
あまりの勘の良さにノヴァがしばし口を閉ざし真っ赤になると、いいじゃない、とさらりとした返答が来る。
「ね、もう愛の告白は済んだの?」
「う…………」
「どっちから愛の告白をしたの? ノヴァから? お相手から? もしかして御守りを交換しただけなの?」
「あ…………」
「お相手の髪を持っていたいなんて、相当の熱の入れようね! あなたの髪も彼に渡したんでしょう? ひとときも離れていたくないなんて、よっぽどだわ!」
これが花嫁ののたまう内容だろうか。相変わらず直球で捲し立てるような物言いにどぎまぎしていると、仲良くできているみたいね、顔を見れば分かるわ、などとからかいの言葉まで出てくる始末だ。
「もう! 君ときたら! ちっとも変わってないんだねぇ。ボクの髪も御守りにして色違いのロケットにしたけど……顔も見ずに置いてきたから、持ってくれているかは分からないよ」
真っ赤になって言い返すも、幼馴染みには全く響いていない様子だ。持っているに決まってるじゃない、と簡単に言い返された。
「幸せそうで良かったわ。私、あなたが酷く落ち込んでいるんじゃないかって、心配してたの。ただでさえ真面目で思い詰めるところがあったし、ちょっと無茶なことも平気でしちゃうところ、あったからね」
貴族の娘は全くそうは思われぬ言葉遣いでノヴァに告白する。幼馴染みからそんな風に思われていたのかと思うと、驚きを隠せない。しかも無鉄砲でお転婆な娘に言われると効果は倍増だ。彼女は二の句が告げないノヴァを見て、クスクスと笑って胸の前で指を組み合わせた。
「ノヴァ、お願いがあるの。親しいお友だちから、何かを借りて縁起を担ぎたいのだけれど、やっぱりそれは大切なお友だちのあなたしかいないと思うの。ノヴァのその短剣を式の間だけでいいから、貸してほしいの! お願い」
奇跡のタイミングに、ノヴァは二つ返事で銀の短剣を幼馴染みに貸した。
「素敵な意匠ね……もしかして、あなたの先生の作品かしら? 大切なものを、ありがとうね」
式が終わると、ささやかな宴が催された。初夏の爽やかな青空のもと、亡くした者を悼みながらも、新しい門出に飲んで食べて踊って、皆幸せそうにしている。林檎の花までもが楽しげに風に身躍らせている。
花嫁と花婿が参列してくれた客人たちひとりひとりに礼を述べて回っている。嬉しそうな二人のその横顔にノヴァの心も温かくなる。
花嫁がノヴァに近づき、銀の短剣をそっと返して他の誰にも聴こえぬ声音で囁いた。
「私はノヴァからサムシング・ブルーをもらって、サムシング・ボロウまで……二ついっぺんに欲張りすぎちゃった」
幼馴染みはノヴァの手を取ってそっと感謝の仕草をする。
「ノヴァはね、あなたの先生の短剣が、サムシング・オールドになると思うの。先祖じゃなく、相手からそういうものを受け継ぐっていうのも、ありなんじゃないかしら? ま、愛の赴くまま、自由にやればいいのよ」
パチッとウィンクして他の参列者の所へ行く。ノヴァは再び開いた口が塞がらず、そのまま近くにいたものに声を掛ける。
「あ、あの……サムシング・オールドって……」
「ああ、結婚式の験担ぎね。先祖から脈々と続く良きものを受け継いで、幸せになれるようにっていう願いを籠めるために、結婚式に何か古いものを持つのよ」
「サムシング・ボロウは?」
「幸せな生活を送っているひとから何か借りるのがサムシング・ボロウね。そのひとの幸せにあやかれるように」
「ボクの……幸せ……」
ノヴァはその言葉の意味を噛みしめる。尊敬する師に出逢い、毎日修行に明け暮れる。師の身の回りの世話もするので朝は早く、鍛冶師として学んだことの復習のため夜は遅い。至らないこともたくさんで、落ち込むことも多い。意見が合わず師と喧嘩をすることだってある。
(貴男が脈々と続くベルク流の名を受け継いで、それをボクが引き継いで……古いものから新しいものが生まれて……いつか循環して……そう、ボクは今、とても幸せだ)
リンガイアの爽やかな風がノヴァの瀟洒なコートの裾を巻き上げ、髪をふわりとなびかせた。ロンに捧げるために切り落としたひと房が耳の後ろではらりとそよぐ。
ノヴァから離れた場所で白い鳩が空に放たれ、客人から歓声が上がった。宴も佳境を迎えたようだ。ふと父を見やると、微笑みながらその様子を眺めている。
ノヴァは敬愛する父の下に参じた。自分をこの世に送り出してくれたことに対する感謝を述べる為に。母との想い出を語る為に。そして師の待つ奥深い森へと帰る為に。
父との穏やかな昔語りの後、暮れなずむ青空を仰ぎ見て、ロンの横顔を空想する。
(貴男はどんな風に笑っていたかな?)
たった一日と少し離れていただけなのに、ロンの渋みがかった低い声と穏やかな深い微笑み、温かな胸が恋しく思い出される。
(貴男と共に創って、暮らして、生きて、生き抜いて、そして……)
ノヴァは記憶の中のロンの淋しげな横顔に思い至った。気づくといつでもこちらを見つめていた、静かな、けれど燃えるような眼差しにも。
そんな風に見なくとも、どこにも行かないし、離れない。この世には切っても切れない善き縁えにしがある。それが自分と師だとノヴァは思う。
ノヴァは脳裏に閃く一筋の光を想像した。光は自分だ。この暮れなずむ蒼天を銀色の矢のように飛翔する。的はひとつしかない。
父に感謝の抱擁を贈って別れを告げる。淋しいと思った。家族だから当然だ。
でも、それに勝るとも劣らない大切なものができた。
ノヴァは腰につけた愛しい者の護りにそっと触れた。冷ややかな銀の鞘と黒髪の護りが指先に当たった。絶対に落とさないように胸の中に仕舞い込むと、魔力を集中させる。
古き善き者よ。どうかボクを導いて。
ノヴァは爪先から髪の毛のひとすじに至るまで魔力が満ち溢れるのを感じ取ると、激流に身を任せるように魔力を放出した。
想い描くは、ただひとり。
文字通りノヴァは天駆ける銀の矢となった。
―おわり―