カラン、と氷が溶けるような涼しげな音のベルが鳴った。全てを俺の好きなもので満たしたこのバーはほとんど趣味でやっているようなもので、開けたばかりに来客なんて珍しいことだ。
顔を上げて視界に飛び込んできた紫に、俺は目を見開いた。彼が何かを発する前に瞬きひとつで表情を戻す。
「こんばんは」
「あ……、こんばんは。えっと……」
「お一人ですか。カウンターへご案内しても?」
「……はい」
少し前にシュウの店を手伝った時にいた子だ。あの時より控えめな化粧は、むしろ彼の美しさを際立たせているように思えた。高いヒールを静かに鳴らしてカウンター席へ座った彼は、チラッと俺を上目遣いで見て困ったように視線を彷徨わせた。
たまたま、か? 通りを一本入った細い路地にあるこの店に一人でフラッと入ってくる客はほとんどいない。だが酒を飲み慣れているようだったし色々なバーに行くタイプなのかもしれない、誰かの紹介という可能性もあるだろう。なんにせよ、もう一度会えるとは思っていなかったから。
「何か飲みますか?」
「……オススメは?」
「……良いウィスキーがある」
「じゃあ、それであなたの好きなものを」
「……、甘めで?」
「……うん、甘いのが好き」
キュッと唇の端が上がる笑い方。色っぽい猫目が柔らかく細められるのが可愛らしかった。俺だけじゃなく、むこうも俺のことを覚えてくれているみたいだ。
サーブしたカクテルを一口飲んで、彼は俺のことをジッと見つめた。他の客もいないし今すぐやらなきゃいけないことも思いつかず、ただ彼の視線を受け止める。本当は探せばいくらでもやることなんてあるのだけれど、彼の行動の理由が知りたかった。
「お兄さんは」
「ファルガーと呼んでください。お兄さんなんて柄じゃない」
「ファルガー……だから、ふーちゃん……?」
「……? どこかで俺のことを?」
「あ、いえ、……ファルガーさんは、一人でこのお店をやってるんですか?」
「はい、そうですよ。……あなたはどうして」
「浮奇です。よければ名前で」
「……浮奇さんは、どうして一人でこんなところに?」
「……たまたま、かな。お酒を飲みたい気分だったから」
一瞬、彼の視線が逸らされた。どうやら何か嘘をついたらしい。たまたまここに来たということ? それとも、お酒を飲みたい気分だということ? どちらにせよ言いたくないのなら深掘りなんてしないのがバーテンダーの仕事だ。
「それはお口に合いましたか?」
「もちろん! とっても美味しいです。この前いただいたのも、綺麗で美味しくて、夢みたいだった……」
「あなたみたいな美しい人にそんなことを言っていただけるなんて光栄です」
「……お世辞はいらないですよ」
「お世辞は苦手です。堅っ苦しいとそう聞こえるかな。本当に、浮奇に気に入ってもらえて嬉しいよ。もっとうまい酒を飲ませてやりたくなる」
「……そんなこと言われたら、飲ませてほしくなる」
期待の込められた瞳はキラキラと輝いていた。星空を思わせるそれは見つめ合うには綺麗すぎて、俺は逃げるように目を逸らす。
無意識で作ったのは自分がいつも飲んでいるゴッドファーザーで、これは彼の口には合わないかもしれないと思った。グラスをカウンターに出すことなく自分のそばに置き、何か他のものを。
「それは? ファルガーさんも一緒に飲んでくれるの?」
「……あー、そういうつもりじゃなかったけど、……浮奇が良いなら」
「うん、大歓迎。一人で飲むのは寂しいと思ってたんだ。他にお客さんが来たら怒られちゃう?」
「どうかな。来たとしても馴染みの客が多いし問題ないと思う。なんならもう看板を下げてもいいし」
「ふふ、こんな素敵なお店とファルガーさんのこと独り占めできちゃうなんてめちゃくちゃ贅沢だ」
「……」
この前のパーティーだって遊び慣れてる連中の集まりだった。彼の言葉にいちいち揺さぶられていたら痛い目を見るに決まってる。俺のことをお兄さんと呼ぶような若い子相手に何を考えているんだか。
「それじゃあ、誰かに咎められたらそこまでにしよう」
「やった。素敵な夜に、乾杯」
「ああ、素敵な夜に」
グラスのぶつかる高い音が心地良い。浮奇の笑みが無邪気に見えるのは俺がそう見たいと思っているからだろうか。飲み慣れているはずのカクテルがいつもより甘く感じて、自分の腕と味覚、どっちを疑うべきか悩んだ。