食べ方の綺麗な人だと思った。調理の仕事をしているのだから当然と言えば当然かもしれないが、それでも綺麗に食べる人はそれだけで気持ちが良くなる。
見つめた視線に気が付いたのか彼が顔を上げて俺を見た。視線が絡まり、ふわりと目を細めて微笑む表情が胸をつく。
「どうかした?」
「……いいや、なんでも」
「ふふ、そう? なんでも言ってくれていいよ? なんでも聞きたい」
「……浮奇は、……食べるのが綺麗だな」
「え。……えぇ、そういう……ふ、ふふ、もう……。そうかな? ありがとう」
くすくす笑って首を傾げる仕草が可愛らしい。ほんのわずか彼に見惚れ、それを誤魔化すために顔を伏せて食事に手をつけた。ここの店の料理はどれも美味しくて勉強になるのに、それよりも目の前の彼に意識が向いてしまってさっきから食事にはあまり集中できていなかった。
視界の隅で彼を見て、彼がこちらを向きそうになるとさりげなく目を逸らす。そんなことを繰り返していたら突然彼がプッと吹き出し、カトラリーを置いて口元を手で覆い隠した。
「ふふふ、あは、ねえ、そんなふうにしなくても、遠慮なく見てくれていいんだけど」
「う……悪い、気が散るよな」
「そうじゃなくて、まっすぐに見つめてくれた方が嬉しいから、もっと俺のことだけ見てて?」
「……」
「うん。やっぱりかっこいい。ここの料理はどう? 俺のお気に入りの店なんだ」
「……すごくおいしい、と、思う」
「?」
「……正直に言うとあまり食事に集中できていない」
「……あぁ、俺が気になっちゃって?」
揶揄う口調のくせに、浮奇は嬉しそうに表情を緩めていた。直視したそれに時が止まり瞬きもせず彼を見つめる。「ふーちゃん?」と甘い音で紡がれた呼びかけに、俺はハッとして、それから首を傾げた。
「ふーちゃんってなんだ?」
「だってファルガーって、名前もかっこよすぎて呼ぼうとするだけでドキドキしちゃうんだもん。だからあだ名つけちゃった。だめ?」
「……だめじゃない」
「よかった。俺にも何かあだ名をつける?」
「……でも、浮奇って、綺麗な名前だから」
今はそのまま呼びたいかも、と呟くように小さく返すと、浮奇はぷくっと頬を膨らませて拗ねた顔で俺を見つめた。可愛らしい表情に、今度は俺が笑みを浮かべる。
「そういえば浮奇は、パティシエ? 料理はあまりしないのか?」
「……料理もするよ。甘いものが好きだし盛り付けも楽しいから今はデザートメインだけど」
「そうか。確かに浮奇のデザートはとても可愛くておいしかった。俺はお菓子はあまり得意じゃないから尊敬するよ」
「ありがと。デザートは俺が作ってあげるからふーちゃんは作れなくてもいいよ」
「……ん、じゃあ、俺はうまい料理を作らないと。甘いもの以外に好きな食べ物は?」
「オムライスとか、エッグベネディクトとか、卵料理が好きで自分でもよく作るかな。ここのオムレツもおいしいからオススメ」
「卵料理か……了解」
「作ってくれるの?」
「機会があれば。とりあえず練習はする」
「……えへへ、やった」
浮奇の微笑みがとろけてまた見惚れそうになり、俺は慌ててグラスを取り口をつけた。ドリンクは二人ともノンアルコールで、熱を持った頬は酔ったからなんて言い訳ができない。冷たい炭酸が口の中でパチパチ弾ける感覚も今日は特別に感じた。
「そうだ、この後さ、まだ時間あったら一杯飲んでいかない?」
「……俺は良いけど、浮奇は仕事帰りで疲れてるだろう? 夜が遅くなったら明日つらくないか?」
「……気を遣ってくれてるのか、遠回しに断ってるのか、まだ分かるほどあなたのことを知らないから、正解を教えてもらってもいい?」
つんと唇を尖らせてそう言う浮奇に俺は目を見開きふっと息を吐くように笑った。余計に可愛らしく拗ねる表情にやわらかく首を振る。
「断ってないよ。本当におまえのことを心配しただけだ。酒を飲んだら、一杯で帰してやれるか分からない」
「……明日、仕事は」
「俺は午後からだから。……ええと、……浮奇、朝早いんだったか」
「明日はやすみ」
浮奇の唇の動きが脳に焼き付く。心臓の音がドクドクとうるさかった。
「それじゃあ決まりだね。俺、あんまりバーとか詳しくないんだ。オススメのお店はある?」
「……ああ」
「ふふ、まだ緊張してる?」
「……してない、と言いたいところだが、……本当のところ緊張してる。こういうの、初めてなんだ」
「こういうのって?」
俯いていた顔を上げるとニヤリと意地悪く笑う浮奇と目が合った。すぐに頬に熱が集まり視線を逸らす。くすくす笑った浮奇が「ごめんね」と言い、俺ははぁっと熱い息を吐き出した。
「もう食べ終わってるな? そろそろ出よう」
「へへ、はぁい。あ、お手洗い行っておきたい。ちょっとだけ待ってて」
「ごゆっくり」
小さなポーチを持って席を立った浮奇を見送り、店員を呼んで会計を済ませる。それから俺は次の店を探すためにスマホを取り出しマップを開いた。このあたりはあまり来ないけれど、一駅先に一度行ったことのある落ち着いた雰囲気のバーがあった。俺の店の方に行けば気に入ってるバーがあるけれど、あまり移動に時間がかかっても……夜風に当たって熱が冷めてしまうのが、すこし怖いから。俺の考えを鈍らせる高い体温はもう少し冷めてもいいけれど。
「ごめんね、おまたせ」
「ああ。……あ、」
「うん?」
「……本当は一番最初に言うべきだったかもしれない」
「え。……なに?」
「昨日も素敵だったけれど、今日も、とても綺麗だ」
「……な、ん、……あり、がと」
「うん。……行こうか」
浮奇の照れた様子を見て満足し、俺は席を立った。出口に向かう俺の隣にすぐ並んだ浮奇がちょんと服を引き俺を見上げる。
「ふーちゃん」
「うん? どうした?」
「ここ、俺が払うから、」
「あ、悪い、もう払った」
「え? ……えー……かっこいいな、もう」
「ふふ。それはよかった」
不満げにそう言ったくせに、目元を赤く染めた浮奇はゆるむ口元を誤魔化すようにむにむにと唇を動かしていた。可愛い、と口の中だけで呟いて浮奇には笑みを向ける。
俺たちが退店することに気がつき近づいてきた店員を手で制して、俺は浮奇のために扉を開けた。差し出した手のひらには浮奇の手が重なり、先に外に出た浮奇に引っ張られるようにして俺も店を出る。ヒールのある靴でくるりと器用に振り返った浮奇はとても楽しそうに笑っていた。
「次、どこに連れて行ってくれるの?」
ああ、だめだ、行こうと思っていたバーでは物足りない。ぎゅっと手を握り、俺は告白するみたいな真面目さで「少し遠くてもいいか?」と質問をした。パチパチと瞬きをした浮奇はわずかに首を傾げる。
「もちろん。ふーちゃんのお家にでも連れて行ってくれるの?」
「……ちがう。……ちがうって」
くすくすと笑う浮奇から目を逸らす。下を向けば繋がった手が見えてそれをぎゅっと握り直した。
「……俺の行きつけのバーに行こう。うちの店の近くだから少し遠いんだけど」
「ん、オーケー。今日は夜でも気持ちのいい天気だし、二人でいられる時間が伸びるなら大歓迎。どこまででも一緒に行くよ」
「ありがとう。でも一日中仕事をした後だろう、無理はしないでくれ。駅から少し遠いしタクシーにするか」
「どっちでも大丈夫。でも、そうだね、タクシーならずっと手を繋いでいてくれる?」
「……」
「なーんて」
冗談で流そうとしてくれた浮奇の手を、俺は一層強く握った。浮奇の声がぴたりと止まってしまったから顔を上げ、薄暗い中でも分かるくらいに照れて、困っている浮奇の顔を見つめた。
「離さなくていいよ。このままでいい」
「……もう酔ってる?」
「まだ一滴も飲んでない。……浮奇こそ、昨日は酔っていただろう。シラフでも俺なんかで良いのか?」
「ふーちゃんが良いんだよ」
見つめ合って、二人同時に目を逸らして、小さな声で「行こうか」「うん」とやりとりをして歩き出す。どちらも照れていたらからかって笑うこともできやしない。それでも手は離さないまま、タクシーに乗って目的地を告げた。
早く着いてほしいような、いつまでも着いてほしくないような気持ちで、運転手に聞かれても問題ないような当たり障りのない会話を交わす。俺たちの手は真ん中で繋がれたまま、言葉の合間に指をさすったり、絡めたりと、どちらからともなくずっと触れ合っていた。
店の前でタクシーを降り、地下まで階段を下りていく。扉を開けると平日のど真ん中だったのが幸いしたのか飲んでいる人は少なく、顔馴染みのマスターが珍しく人と連れ立って来た俺を見てお?と表情を緩めた。
「どうも」
「いらっしゃい。……あぁ。カウンターにするか? テーブル席も空いてるよ」
「どっちがいい?」
「隣がいい」
「……ん。じゃあカウンターで」
マスターはいつもより楽しそうに俺たちに酒を出し、ごゆっくりと言ってそばを離れた。声は聞こえているだろうが、親しみやすくも余計に突っ込んできたりはしない人だ。俺は浮奇にだけ意識を向けて、カクテルグラスに口をつける横顔をじっと見つめた。一口飲んでおいしいと呟き、笑みを浮かべた浮奇がこちらを向く。
「うん?」
「……綺麗だと、思って」
「……ん、ふふ、ありがと。ふーちゃんもかっこいい」
「いや、俺は別に」
「だめだよ、俺にも褒めさせて。お酒のセンスも良いし素敵なお店も知ってる。それに気が使えて優しくて可愛い」
「うっ……やめてくれ……」
「褒められるのは嫌い?」
「……俺にそんな価値はない。それより浮奇の良いところを話さないか?」
「俺の話をしたってつまらないよ」
「もっと浮奇のことを知りたい」
「俺だってもっとふーちゃんのことを知りたい」
酒を飲むために離したはずの手をカウンターの上でまたくっつけて、カウンターの下では膝もぶつけて、俺たちは視線を甘く絡ませた。まだ一杯を飲み切ってすらいないのに熱のこもった浮奇の瞳に真面目な顔した俺が映っている。たぶん、俺の瞳も同じように熱っぽい。
甘くて飲みやすいけれど度数の高いカクテルを煽るように飲んだ浮奇はマスターに俺と同じものを頼んだ。カランと涼しい音を立てて俺のグラスに当て、一口飲んだ後には笑みを浮かべる。甘いもの以外も意外といけるらしい。
「俺、お酒は好きなんだけど酔うと眠くなっちゃうんだ。飲み過ぎないように気をつけないと」
「ちゃんと家まで送って行くよ。ここは良いのが揃ってるから気になるものを色々飲んでみるといい」
「ありがと。でも、……送ってくれるだけ?」
「……もう酔ってるみたいだな」
質問には答えないまま、あいている手で浮奇の頬をさらりと撫でた。照明を絞った店内でもそこが淡く色付いているのは分かって、俺が触れると余計に熱くなふ。ふっくらした唇を尖らせてまだ酔ってないよと拗ねてみせる浮奇を笑い、俺もグラスを空けて追加を頼んだ。
好きな酒を頼んで、味見と言ってお互いのグラスにも口をつけ、濡れた唇を指先でぬぐい、火照った頬をそっと撫でる。甘い空気の中で俺はもたれかかってくる浮奇の腰を抱いた。何杯飲んだのか、言っていた通り酔った浮奇はとても眠たそうだった。ゆっくり瞼を閉じてのんびり目を開くまばたきをじっと見ていたら場所も考えずにキスをしてしまいそうで危なかった。
二人のグラスがちょうどよく空になりかけている。俺はトントンと指先で浮奇の腰を叩いて「浮奇」と名前を呼んだ。のろのろとした動きで肩のところから俺を見上げた浮奇は今にも寝そうなくらいとろけた瞳をしている。
「そろそろ帰ろうか、浮奇」
「んん……やだ……まだ一緒がいいもん……」
「家まで送るよ」
「やだ……」
まだ、俺といて。ハチミツのように甘ったるい声でそう言い、浮奇は俺のことをぎゅっと抱きしめた。肩に擦り寄る頬と、服に触れてしまいそうな唇を見て、ぐらぐらと心が揺れる。
「……浮奇、俺はおまえとこれっきりの関係にはなりたくない」
「俺だってそんなのいやだよ。……まだ、いっしょにいたい。いいでしょ?」
言葉は強引なのに瞳は不安で揺れていて、潤んだ星空を笑顔で輝かせてやりたかった俺は自分のためにそっと口を開いた。
「……俺の家、来るか?」
「うん、つれてって」
瞬き一回で笑みが溢れる。ああもう、こんなの最初から勝てっこない。アルコールのせいにできないくらい、バカみたいに胸が高鳴っていた。