ヒュンケルの一年日記帳は、固い革張りの366頁仕立ての本だった。
『ラーハルトとの生活2日目。ラーハルトは自分で言っていた通り生活力のある男のようだ。炊事洗濯はもちろん畑仕事の経験まであるらしく、やってくるなり家の周りの手入れをし始めた。頼もしいことだ』
『3日目。今日は二人の分担を決める相談をした。これから先どちらかが病気になることもあるだろうから、役割を固定して不得意分野が生じるのは良くない。料理も洗濯もそれぞれ交代制とした』
『4日目。すでに同居を始めているので遅いが、どうしてこの男はオレと住むことにしたのだろう。そこは考えないほうが良いのだろうか』
『5日目。ちょっとした口論になった。昨日の疑問を口に出したら、ラーハルトが急に不機嫌になったのだ。やはりそこは考えたほうが良かったのだろうか』
『6日目。喧嘩はしていても生活はある。畑の水やりは当番日をまだ決めていないから、もう水を撒いのたかは尋ねなければならなかった。雰囲気が悪くて話しづらかった』
『7日目。会話がほとんどない一日だった。どうしてそこまで怒っているのだろうかと悩んだ末に、オレはようやく思い至った。彼が、ではなく、オレ自身がどうしてこの男と住むことにしたのかを分かっていなかったのだ』
『8日目。無言の食事はもう嫌だった。食べる前にオレは、ラーハルトが好きだから一緒に住みたく思ったのだと、それに昨日やっと気付いたのだと正直に打ち明けた。ラーハルトは機嫌を直してくれた』
『9日目。先日オレは好きだと告白したのだが、彼からの返事を求めてはいけないのか? 共に暮らしているのにそこを曖昧にはできないのではなかろうか。今のところオレたちは親友としての付き合いである』
『10日目。二人で釣りに行こうと誘われた。食事当番が交互だったので連れ立って食材調達にゆくなどなかったが、やってみると楽しい物だな』
『11日目。昨日の釣りの道すがらに見かけた山菜のスポットに行った。二人とも籠一杯に採ったので多すぎた。塩漬けにでもするしかない』
『12日目。今日は雑談しながら洗濯物を干した。おかしいな、役割は交代制だったのに、いつの間にか何もかもを二人で一緒にやっている』
『13日目。二人で同一行動を取る暮らしになりつつある。しかし風呂が一緒なのはさすがに抵抗があった。共に湧かしたのにどちらかが先に入るのは不公平だという話の流れだったのだが、ここは改めるべきか』
『14日目。よく考えると、この暮らしにはひとつ不便がある。いつも一緒に居るので男の生理現象を収めるタイミングがない』
『15日目。今夜は共風呂は断った。理由は昨日の通りである』
『16日目。非常にまずい。これは恋人になるか出て行ってもらうかの二択しかないのではなかろうか。しかしそれをどう伝えれば良いか分からず、オレはラーハルトに、ダブルベッドに興味はないかと尋ねてしまった。色々と素っ飛ばしてしまった。ラーハルトは返事をしなかった』
『17日目。段々と開き直ってきた。オレはいままで、ラーハルトの心など分からないがために遠慮をしていたのだ。しかしこれは所詮はオレの心次第の話なのだから、だったらオレの望むように、好きにやれば良い。いざとなったら燃やせば良いのだ』
『18日目。オレは完全に方針を変えた。ラーハルトに無断でダブルベッドを部屋に入れた。寝室を見るなり彼は激怒したが、出て行きはしなかった。夜には諦めて一緒に眠ってくれた。よし、もっとだ。明日からはもっと積極的に行こう』
ハラリと、細い紙が日記帳から滑り落ちた。
「私が読んだのは、そのしおりを挟んだ頁までです。それ以上は私が知るべきではないと判断しました。なので貴方に託します」
ラーハルトは、受け取ったまま読みふけっていた本を閉じて、足下のしおりを拾った。
「……このしおりは貴方の物か?」
「はい」
「ではお返しする」
エンボス加工された優雅なしおりをアバンに手渡す間も、ラーハルトは心ここに在らずといった風情で、半ば呆けていた。
ラーハルトがアバンのルーラに連れられて、山間に建ったヒュンケルの住まいを訪れたのは形見分けの為であった。
もらう物はもらった。
「ではこれで」
「他にも、なにか……」
「必要ない。ペンダントは当然に貴方の物だろうし、かさばるものはオレも持て余す。この本だけで十分だ」
「けれどこの部屋、なにかと二つずつあるんですよ。……ベッドだけは、一つですが」
初めて見るヒュンケルの住まいは、質素であるが食器類やクッションなどは必ず二つセットになっていた。その片方にだけ使用感があった。枕が二つあるベッドも左半分だけ綿が沈み込んでいた。
見回すアバンの目にうっすらと溜まっている涙を、ラーハルトは見ない振りをした。
家主は事故死であった。この近くの谷に転落しているのをアバンが発見した。足を滑らせたとみられる。やはり戦後の傷んだ体では険しい山道を行き来するには不十分だったのだろう。
「失礼する」
ラーハルトは踵を返した。アバンももう引き留めなかった。
ラーハルトにとってヒュンケルは友であった。それも、かけがえのない友であった。
しばし喪に服すことを、ラーハルトの仕える主君も当然のこととして認めてくれた。
ラーハルトは自分のねぐらに戻って、椅子に座り、小さな机の上でヒュンケルの日記帳を最初の頁を捲った。
『ここに住み始めてしばらくが経ったが、暇で暇で仕方がない。起きてから寝るまでに何もないのでは昨日と今日の記憶が同じで、日にちすら分からなくなる。なので日記を付けることにした。だがこの生活は毎日が同じで特に書く事もない。よって次頁からは“もしもラーハルトと一緒に暮らし始めたとしたら”を題材に綴る。一年間の無聊の慰めになれば良い』
馬鹿な男だ。
アバンのリリルーラで住処を発見されたヒュンケルは、自らの所在を口止めしたというが。そこまで暇なのならラーハルトに居場所を教えれば良かったのだ。足繁く通ってやったのに。
読み進めると、18日目にダブルベッドが設置されて以降、ヒュンケルからの熱烈なアプローチが始まった。
彼が、方針を変えて積極的にゆくと記したのはシナリオの台詞ではなく、書き手としての心持ちだったのだろう。19日目からはラーハルトの様子がたくさん描かれるようになった。実在の人物の捏造への躊躇を捨てて書くことにしたのだろう。
『19日目。よく眠れたか聞いてみたら、眠れなかったらしくて舌打ちされた。今夜はもっとくっついてやろう』
『20日目。ちょっと良い酒が手に入ったから、酔った拍子の振りをしてキスを仕掛けてみたら、おまえはそんな阿婆擦れみたいな奴だったのかと説教をされた。それでも出て行かないくせに』
ヒュンケルの想像のラーハルトは、概ね現実のラーハルトの思考言動と同じだ。よく分かってるじゃないかと口の端を上げる。
だがそこから雲行きが怪しくなってきた。
『25日目。生活は順調だが、ラーハルトはつれない。思い切って、オレのことが好きだから一緒に住み始めたのではないのか? と詰め寄ってみたら、おまえのことは好きだがそういう意味ではないと突っぱねられた。それでも、あいつが出て行かれない限りオレは諦めない。あいつがオレに触ってくれる日を』
ヒュンケルは、出て行かない限りは脈があるのだと解釈しているが、それはそうだろう。ヒュンケルが好きに書いている出来事なのだから、ヒュンケルがそう決めない限りはラーハルトは出て行かない。
段々と小説でも読んでいる感覚になってきて、ラーハルトは微笑みながら、次は? 次は? と頁を捲る。
しかし思った以上にヒュンケルの自己評価は低かった。
『42日目。すっかり警戒されているようだ。味見だと言って口へ持って行ったのに、そこに置けと言われた。さすがに鬱陶しいだろうか、可愛くもない男が飽きもせずに迫ってくるのは。オレにもっと魅力があれば違った反応が得られたのだろうか』
ラーハルトは、ラーハルトに違和感を覚え始めていた。自分ならば、例え恋愛感情は持てなくとも絶対にヒュンケルの顔を曇らせるような真似はしなかったと自負できる。堂々と指ごと食ってやればよいではないか。
しかし驚くべき事に、想像上のラーハルトは三ヶ月も経たないとキスひとつしない男だった。それも、ただ避けないというだけの話だった。
『92日目。もどかしくて焦れて、オレが泣いてしまったからラーハルトが肩を抱いて慰めてくれた。同情してくれている今ならと唇を近付けたら、動かずに待っていてくれた。初めて許された口付けは暖かくて、この思い出だけでも一生を生き抜けるだけの価値が有ると思った』
そんな動きもしないケチな男に感激をしているヒュンケルが悔しい。自分ならしっかりと首の後ろを支えて深く噛みつくくらいはしてやれたろう。
『93日目。相変わらず家事なんかは楽しくやっているけれども、いざ恋人の距離まで近付こうとするとラーハルトはオレたちは友だぞと念を押してくる。付け入る隙がない。そういえば彼はどこで男の生理現象を収めているのだ? そこが突破口にならないだろうか』
『94日目。街に遠出して粘性の高い油を買ってきた。体をひらく練習をしよう。この身を道具にするのは卑怯かも知れないが、もしも一度でもラーハルトを得ることができたならばこの上ない喜びに違いない。がんばろう』
そこからは自らの体をなぶる彼の変化についても随時、記載があった。中の感触や油の使用量などが具体的なので、これは実際にやっていたことの記述なのかもしれない。そう思うと胸が騒いだ。
『137日目。気付かれないよう、川に行く日だけ行っているのでなかなか進捗しないが、やっと指が三本入るようになってきた。一回ずつけっこうな時間が掛かるが、これは身が竦むくらい水が冷たいので上手く行かない節もある。ベッドでならまた違う結果になるとおもう』
『138日目。昼飯のパエリアが最高だった。おまえはなんでも上手いなと料理を褒めがてらキスをしたら、避けられないばかりか得意気に頭を撫でてきた。今ならば行為を求めても断られないのではなかろうか。今夜、頼んでみよう』
いよいよかと、ラーハルトは次の139日目に期待をして頁を捲った。だがそこにはこれまでとさほど変わらぬ日常が描かれていた。
その次も、その次も、恋は一向に進もうとしない。度々ベッドでよい雰囲気になるが、しかしそのまま眠る展開にしかならないのだ。何故だ。
と、急に文面の勢いが削がれた。
『150日目。もうやめよう。それがどんなに嬉しいことなのか、どんなに心地よいことなのかを、オレは知らない。これは愛されずして書けることではなかったのだ。ラーハルトとの毎日は楽しい。それだけでいいじゃないか』
この日ばかりは架空の日記ではなく、現実のヒュンケルの言葉であるようだった。
つまり性行為の経験がないため描写ができず断念したのか。
彼ならば、愛されようとおもえば、いくらでも愛されることができたものを。
そこからの日記は、友人同士が和気藹々と暮らすような内容ばかりになった。
『166日目。この間の街で見た雑貨屋にラーハルトを誘ったら、人間の街など気が進まんなと不満げながらついてきてくれた。クッションはお互いに好きな色を選んだ』
これは彼の部屋にあった、あのダークグレーとレッドのクッションのことなのだろうか。
ヒュンケルが選ぶとは考えづらいレッドのがラーハルトのチョイスという想定だったのだろうが、残念だ。ラーハルトは自分の服色と同じ物品は埋もれるので選ばない。そう教えてやりたかった。
そこからも、街で二人分のカップを買ったり、畑の手入れをしたりと日常が綴られた。おそらくは現実にはヒュンケルが一人で行ったことが、日記では二人でしたこととして書かれているのだろう。
頁を捲ると唐突に、
『寂しくて死にそうだ』
日付の記載のない一文が現れて心臓が跳ねた。
その次の頁からはまた架空の日記が続いている。
ラーハルトは唇を噛んだ。
干している魚が雨に濡れそうになったのを慌てて流れ作業で軒の下へ運ぶ日や、一緒に大量の薪割りをする日などが延々描かれるが、現実にはそれらはヒュンケルだけでやったのだ。死ぬ日まで。
『200日目。今朝は寒くて目が覚めた。このベッドに二人で眠るようになって久しい。そろそろ布団の替え時か。最近は少々寒くなってきたからな』
ラーハルトはこの本の向こうに入ってゆけない事に理不尽を覚えた。
本当に、真実として二人で眠っていたならば決して寒くはなかった筈なのだ。肩が冷たくならぬようにラーハルトの体温を分けてやることだって出来たのだから。
日記の内側に居る中途半端なラーハルトの偶像に歯噛みした。ラーハルトという名の男が居るのに、ヒュンケルを嘆かせるなどあってはならないことである。
おまえは、こんなに思ってくれるおまえを少しも満たそうとせぬ、こんな男をよすがにしながら孤独な日々に耐えていたのか。
小さな机に爪を立てているうちに外はもう暗くなっていた。
窓からの月光で照らされる次の頁は、ついに白紙となった。
「……」
葬儀の際にはなるべく身綺麗に整えられていたが。
発見されたときの彼は冷たい谷底で、落下時に岩に打ち付けたろう頭が割れており死後一日は経過していたと聞いている。助かるはずはなかった。
諦めきれずに日記帳の白紙をパラ、パラ、と捲り続けた。
最終頁に文字を見つけて、ラーハルトは手を止めた。
ヒュンケルは、戦いから遠ざかった穏やかな日常にまさかそんなにも唐突な死が訪れるとは夢にも思っていなかったのだろう。本の366頁目には、大きな殴り書きで『すべて書いたら必ず燃やすこと』と記されていた。
とことん運の無い男だ。ラーハルトにだけは知られたくなかっただろうに。
ラーハルトは厚い裏表紙を閉じると、机からそっと持ち上げて抱きしめた。ぎゅうと、そうできなかった代わりのように抱きしめた。
そうして一晩、日記帳を抱いて、泣いて泣きつくし。
朝、その本を焼いてやった。
2024.12.08. 13:10~17:50
SKR