恋人同士という状況にヒュンケルは舞い上がっていた。
体を求められればすぐさま承諾の返事をした。
宿を取り、ラーハルトと二人、大きなベッドの前でいよいよ、というとき。
「身を清めてくるが、準備はしておく方がいいか?」
ヒュンケルは丁寧に相手の要望を伺おうとしたのだが。
「え?」
ラーハルトは怪訝そうに目を眇めた。
「だから、後ろの準備だ。すぐに突っ込みたがる者もいれば、自分で開きたがる者もいたからな。統計的には前者が多かったが、おまえはどちらがいい?」
みるみる顔を強張らせたラーハルトが低く問うてくる。
「……聞くが、ヒュンケル。おまえ今までどれほどの人数を相手にしてきた?」
数えたことなどないが。
「百人くらいだろうか」
答えたら、ラーハルトは苦虫をかみつぶしたような顔になった。この部屋に入ったときの甘い空気など完全に消し飛んでいた。
なぜ彼は怒ったのだろう。
いやこの表情は怒りではなく軽蔑なのか。
「ラーハ……」
呼びかけようにも目線で制されて喉が詰まった。ラーハルトは顎を引いてヒュンケルを見据えたまま後退った。
「汚らわしい」
彼はそのまま部屋を出ていった。
ヒュンケルは何が起きたのかもわからず、取り残された。
翌日からは雨だった。
どうして、と、いくら考えようにもどこに落ち度があったのかが分からない。ただラーハルトから失望されたということだけは、あの目を見れば瞭然だった。
理由が知りたい。
しかし、元よりヒュンケルがラーハルトに会えるのは十日に一度だった。ラーハルトの仕事の都合上、ヒュンケルがどう頑張った所でしばらくは訳を聞く機会は持てない。
あの宿で交わした会話。ラーハルトが去る切っ掛けとなったヒュンケルの最後の台詞は『百人くらい』だった。
百。それくらいだと思う。嘘はついていない。数日に一度のペースで誰かと寝ていたけれど、月に一度は新顔が来ていたような気がするから。
いちいち顔などは記憶していない。誘われたときに自分も溜まってたら組むという、それだけだった。
精通を迎えた頃に、体を組み合わせて欲を抜く手ほどきしてくれた者が居たのが発端だったと思う。よく覚えていないがおそらく魔族だった。若いヤツは柔らかくて入れやすい、というソイツの言と、その後に何人を相手にしても全員がヒュンケルに入れて来たので、若い方が受け手を務めるものなのだと理解した。
あれらはみな魔族や魔物である。ならば半分が人間のラーハルトには通用しない生態だったのかもしれない。
ヒュンケルは人間の性生活を学ぼうと、図書館へ出向いた。
館内通路の案内に従い、書棚の見出しを頼りに選んだのは、性描写を主題とした様々な恋愛小説であった。並の者ならば抱えられぬほどの冊数を借りて、冷えた雨に濡れぬよう大事に持ち帰った。
疎まれたまま幾日も会えない、その不安を埋めるようにヒュンケルは少女達が主人公の恋物語に没頭した。
好きな男に対して素直になれない少女がエンディングで初めて彼と結ばれたときには、うれしくて微笑んだ。
また違う一冊では、恋破れても前を向いて生きていこうとする少女が主人公であった。その作品では、性描写はずっと少女に片思いをしていた男性とのものであった。初恋とは違う人と一線を越えることに躊躇をする少女の葛藤が綴られていた。
何日も、何冊も。
ストーリーの中では、婦人たちは夫以外の者との関係が明るみに出るなり社会的な地位を失っていたし、たとえ未婚でも、恋人の不貞はやはり忌み嫌われて即刻に別れの要件を満たすもののようだった。心ない登場人物たちは出戻りの女を"使い古し"と呼んだりした。簡単に体を許すような女にはもっと酷く"便所"などという蔑称が当てられていることすらあった。
性風俗を取り上げた一冊もあった。若くして娼婦に身を窶した少女は大層な性技を持ちながらも、不特定多数に身を許すふしだら者であるとして蔑まれていた。娼婦自身ですら己を蔑んでいた。
読み終わった本が積みかさなる。
夜の雨はしとしとと続いていて、弱いながらも止む気配は無い。
蝋燭の明かりで文字を辿る。湿った空気の陰鬱はヒュンケルを重い思考の底に陥れる。
今ひらいているこの本は、前半には、愛する男に振り向いてもらうためにお洒落を覚えて、料理を練習して、結婚に夢を膨らませている無邪気な息女が描かれていた。しかし彼女は可憐であったため、どこの誰とも知れぬ男に無理矢理に押さえつけられて、たった一度きりの純潔を無残に散らされてしまうのだ。
彼女は絶望のあまり泣き叫んだ。穢された身を嘆き、彼に相応しくなくなってしまったことを嘆いた。
ヒュンケルも泣いた。
愛を告げるには自分はあまりにも汚い存在であったことに、今更に気付いて泣いた。
私は傷物になってしまった。もう嫁げない。死んでしまいたい。
少女が泣けば泣くほど、ヒュンケルの涙も止まらなかった。頁に手を置いて震えた。
一途な人間とはどういうものなのか分かった。そしてラーハルトの嫌悪の眼差しの意味も。
ヒュンケルは蝋燭の灯る台へと、閉じた本を置いた。
椅子からずり落ちるように天井を仰ぎ、脱力した。
違うんだ。信じてくれ。好きになったのは、おまえだけだ。
そんなことはもう言えそうにない。彼と共に在るための相応しさを疾うの昔に失い果てていたのだと知ってしまったからには。それに、汚らわしいと誹られてなお、これ以上の不快を煽って嫌われたくもなかった。
終わった。いや終わっていたのだ。
乾いた涙の痒さと、瞼のほてりを感じながら、告げられない想いを唇の内側に固く閉じ込めた。
と、ささやかな雨音が少しだけ大きくなった。雨脚が強くなったのではなく玄関が開いたからだった。
湿度の匂いを伴って、一人の男が入ってくる。
椅子に沈んだヒュンケルは、歩いてきた男が濡れたマントのフードを頭から降ろすのを、腫れた瞼でぼんやりと眺めていた。
十日には些か足りない。このラーハルトは幻なのではないのか。
しかし幻にしては大きすぎる音で、男は突然ヒュンケルの椅子の前に、ダンッと両膝を突いた。
「このオレがこんなっ。なんという屈辱だ!」
男は床へ吐き捨てるように吠えた。
戸惑って身を起こしたヒュンケルは、顔を上げた男に左の手首を掴まれてギョッとした。
ラーハルトの顔は、あの宿と変わらぬ苦虫をかみつぶしたような様相であった。ならばぶつけられるのはどんな非難なのか、それとも拳なのか。身構える体が引けた。そうしたら手首をもっと強い握力で引き留められた。
両膝で立つラーハルトはまるで必殺の気迫で見上げてきた。
「オレは今から敗北宣言をするっ」
だがギラつく目とは裏腹にラーハルトはいきなり負けを認めた。しかしながらそれに続く言葉は、罵倒にしか聞こえなかった。
「おまえがそんなに気の多い男だとは思いも寄らなかった! オレにはおまえ唯一人だというのに、おまえがそうではない事がたまらなく不愉快だ! だってそうだろうがっ。おまえがオレに飽きた後も、オレはおまえを思い続けるのだと想像したら胸糞が悪くて……はらわたが煮えくりかえりそうだ! そうはいくか! オレを馬鹿にするなよ! それなのに! それでも! ……それでも、やはりおまえを手放せんっ。これほど屈辱的なことがあるか!? ああっ、畜生! クソッタレ!」
声をひっくり返らせながら散々に罵ってくるラーハルトに、ヒュンケルは硬直した。
言わんとしていることが、よくわからない。つまり彼は? ヒュンケルのことを、どうなのだ?
やがてラーハルトは大きく息を吐いて呼吸を落ち着け、動けないヒュンケルの左手をそっと両手で持ち上げると、祈りを捧げるように額を付けた。
ラーハルトは苦杯を喫する恥辱に耐えるかのように掠れた声で囁いた。
「百人の男の内のひとりで構わない。オレを受け入れてくれ」
狂おしい敗北宣言を聞き終えたヒュンケルは感激に打ち震えた。
すべてのプライドを投げ打ってくれた。そこまでしてくれた。
椅子から前のめりに転げ落ちるようにラーハルトの胸に抱きついた。ともすれば後ろに素っ飛ぶくらいに強く飛び込んだが、彼はしかと受け止めてくれた。逸る心を告げたくて、けれどこの数日は一言も話していなかった喉がカラカラで、すぐには声が出なくて、出ない唾を何度も飲み込んだ。
言いたい。百人の内のひとりなどではない。
「違うんだ。信じてくれ。好きになったのは……」
驚き見つめてくるラーハルトに、ヒュンケルは、唇の内側に固く閉じ込めていた想いを解き放つ。
SKR