ラーハルトには夢があった。
それは、かの恋人にやきもちを焼かせる事であった。なにしろ彼、ヒュンケルと来たらこれっぽっちの悋気も見せてくれぬ奴なのである。
ただの朴念仁とは少々違う。
一度、ラーハルトがわざと可愛い女の子と親しげに喋って見せてやったことがあった。女の子と言っても人間である、本当はまるで関心など無かったが話しかけられたのを利用して恋人を煽ってやろうと考えたわけだ。
しかし結果として、ヒュンケルから温かい目で見守られてしまった。おまえが人と親しく話せるようになって良かったと喜ばれてしまった。その上、これからの社会では人間と魔族が等しく交わるこんな光景が日常となれば良いな、などと崇高な意見を述べられてしまっては、まさかおまえをやきもきさせたくて喋ってただけとは打ち明けられず、ああとかうんとか口ごもるしかなかった。
度量の違いだというのか。振り回されているのはラーハルトばかりであった。
ヒュンケルに近寄ってくる女たちや贈り物の数々に、いちいち目くじらを立てている己の狭量さが身に染みた。
言い寄られる数であればラーハルトとて後れを取ってはいなかったが、ヒュンケルはそれらに頓着などしない。いやもしかすると事の次第に因っては身を引かれてしまいそうな危うさすら感じた。以来ラーハルトはいたずらにヒュンケルを試すような行為は避けるようになった。
嫉妬されたいという思いは、実現不能であるがゆえにラーハルトの夢となった。
長年の夢であった。
ある日、ヒュンケルと二人、適当な店で、適当な店員の女に絡まれつつ、適当な酒を飲んだ夜の事だった。
同棲しているので帰り道は同じであった。酔っ払い二人は道幅いっぱいを蛇行していた。
それぞれに夜道の風を受けて心地よく歩いていると。
ニャー。
塀の上から真っ黒い猫が黄色い瞳でこちらを見つめていたので、ラーハルトは立ち止まって手を伸べた。
動物は良い。容姿で差別をしてこない。敵意さえ持たなければ邪険にはしない点で人間よりも優れている。
黒猫はラーハルトに殺気が無いのを正確に読み、手を嗅ぎに来た。
挨拶が成立したらしい。ひょいと肩に乗ってきた。想像以上に馴れ馴れしい奴だ。もしかすると飼い主に選ばれたのだろうか。小さな頭を掴むように撫でてやるとぐるぐる鳴いた。
「飼わないぞ」
思いがけず低い声が響いた。
ヒュンケルだ。先を歩いていた彼は止まって仁王立ちでこちらを見ていた。いや睨んでいた。
「コイツからじゃれて来ただけだ」
「ほう……おまえは向こうからじゃれて来たら撫でてやるのか。なるほどな」
苛立ちを孕んだ言葉使いと、突き刺さるような視線にラーハルトは目が点になった。
それは、先程の酒場の小娘がラーハルトの肩に手を掛けてきた際に発揮すべき怒気だったのではなかろうか。
「おまえ……対抗先がこっちだったんだな……」
「ごまかすな。ソイツが良いならオレは先に帰るから存分に撫でていろ」
ザリッと鋭く踵を返して大股に去って行くヒュンケルに、ラーハルトは口がニヤけるのを止められなかった。
ラーハルトは肩に居る猫に一言「感謝するぞ」と囁いて、疾風のように駆け出した。
一瞬にして足場を失った猫は何事も無かったように着地して、肩を組んで帰って行く二人連れの後ろ姿を見送り、やがて興味もなさげにスタスタと路地へ消えた。
2023.10.09. 13:55~14:55 SKR