「あ」
洗濯当番中のある晴れた五月某日。
次々と干されていく洗濯物の中に見つけた黒いパーカー。一目で分かってしまう、莇のパーカーだ。洗濯籠の前にしゃがみ込んでジャージの下にいつもあるそれを洗濯物の中から引っ張り出して広げてみたら意外に大きかった。細いのを気にして少し大きめのものを着ている、と小耳に挟んではいたから、あーなるほど、と微笑ましく思い空に掲げるようにして広げたそれをゆっくりと下げながらオレはきょろきょろと辺りを見回した。一緒に当番してる紬さんと綴さんがシーツの山と格闘しているのを確認してからオレは莇のパーカーに顔を埋めて匂いを吸い込んだ。最初にやってきたのは柔軟剤の香り。東さんが定期的に貰ってるって言うその柔軟剤は全然匂いがきつくなくて、仄かに石鹸みたいなさっぱりした香りがして万人受けするってこういうのなんだろうなあ、なんて思う。
「……うーん?」
何度か匂いを嗅いだオレはいつまで経ってもやってこない莇の匂いを不思議に思い、洗濯物を漁ってみた。見慣れた土筆高校のジャージをやっと見付けてさっきのパーカーと同じように引き摺り出し、それをじっと眺める。オレのジャージは年季が入っていて袖口の辺りが毛羽立っているし、土筆高校の刺繍だって綻びが出ているからまだ入ったばかりで真新しい莇のジャージとは比べてみたらどっちがどっちかなんて一目瞭然だった。今手にしているジャージは袖口もしっかりしてるし、何より毛羽立ちも毛玉も無い。このジャージは莇の方だ。
そうと分かれば、とオレはパーカーを洗濯物の山に戻して両手で広げたジャージにも顔を埋めて匂いを吸い込んだ。パーカーと同じ柔軟剤の香りが広がってくる。何度吸ってもそれは変わらなかった。
「……うーん……」
おかしい。
嗅いでも嗅いでも柔軟剤の香りしかしない。いつもならその後に莇の匂いがするのに一向に変わる気配がなかった。洗ったばかりだし、柔軟剤で莇の匂いが消えてしまったのかな?不思議に思いながらジャージの匂いを嗅ぎまくっていると後頭部に激しい衝撃を受けてオレは洗濯籠の中に顔を突っ込みそうになってしまい、慌てて腹筋に力を込めて何とかそれを回避した。じんじんと痛む後頭部に何事だと振り返ると呆れているような、怒っているような、よく分からない顔をした莇が突っ立っていた。その手は握り締められていて、小刻みに震えてるようにも見える。きっとその手でオレの頭を思い切り叩いたであろうことは分かった。
「何すんだよいきなり!」
「こっちのセリフだアホ!何やってんだお前は!それ俺のだろ、人の洗濯物に顔押し付けて…何度も何度も!」
「なんで莇のって分かんの、オレのかもしんかいじゃん」
「オメー、自分で学校に忘れたって騒いでたろーが!」
「…あ。そういえば」
「そういえば、じゃねーんだよ、何やってんだよマジで…!」
「匂い嗅いでたの!」
「だから何でそんなことやってんだっつってんだよ!」
言葉にしたからだろうな、莇の顔は段々と赤みが増してって耳まで赤くなっていった。張りのある艶やかな白い肌が徐々に染まっていくのは何回見ても気持ちが良い。そんな莇を見上げたまま叩かれた痛みも忘れてオレは気の抜けたように笑った。
「だって莇の匂いしないなって」
「当たり前だろ!洗濯したんだろ、それ!洗剤とか柔軟剤とかで匂いなんかなくなるに決まってんだろ!」
「え、やっぱりそうなの?!」
「はあ?俺が洗濯したくらいじゃ消えねーくらいの匂いしてるって言いてぇのかよ」
「違う違う!莇の匂い、ちょー好きだから吸ったら嗅げるかなって!」
オレの言葉でころころと表情を変えていく莇が面白くて可愛くて、頬が緩んだまま元に戻らなくなっていく。分かった、怒ってるでも呆れてるでもなくってこれは照れてるんだ。
「もういい、貸せ。オレが干す」
「これはオレが干すから手伝うなら別のにして」
居たたまれなくなっちゃったのか、オレの手の中にあるジャージを莇が奪おうと手を伸ばしてきた。その手を避けるように胸元にジャージを抱くようにして身体を捻ると莇の舌打ちが降ってきた。実はオレ、結構好きなんだよね莇の舌打ち。本人には言うつもりはないけど。
「分かったからそれ止めろ、シワになんだろ」
「ちゃんと伸ばして干すって」
出した腕を引っ込める莇の少しだけ前に立ち上がると胸に抱いたジャージを広げてシワを伸ばすように勢い良く振った。パン、パン、と小気味良い音が鳴って、その度に仄かに香る匂いはやっぱり柔軟剤の香りだ。もしかしたらオレの鼻はこの香りに支配されてしまって何を嗅いでもこの香りになる呪いでもかけられたんじゃ、と不意に心配になってしまう。そんなの無理、絶対嫌だ。
「……莇」
唐突に不安になっちゃって律儀にオレの言った通り別の洗濯物に手を伸ばしていた莇の方を向いて、厚みのない身体に腕を回して抱き締める。顎を引いて胸元の辺りに顔を埋めると柔軟剤の香りがして、それからすぐに莇の匂いがオレの鼻腔を擽った。間違いじゃない、確かに莇の匂いだ。何度吸っても莇の匂いがする。良かった、呪いじゃなかった。
「ちょ、な…っ、ば……っ」
「良かった…莇の匂いするよー…」
突然抱き締められた莇は腕の中で固まっちゃったけど今はごめん、安心感に浸らせて。