電話「あざ、」
まだまだ夜風は冷たく感じる二十時。莇を探して向かったバルコニーでその後ろ姿をやっと発見したオレは嬉々として声を掛けようとした。
…した、んだけど、オレの気配に振り返った莇の耳元にはスマホが押し宛てられていて、電話中だと直ぐに気付いたオレは慌てて自分の口を両手で塞いだ。そんなオレを見ながら人差し指を唇に当てる莇の黒髪が冷たい夜風に撫でられてさらりと流れる。静かにしろ、と声が無くてもその仕草が何を示しているかなんて一目瞭然、オレはうんうんと口を塞いだまま頷いた。
「……、」
そんなオレを見て莇は綺麗な瞳の端っこをほんのり細めて、艶々の唇をちょこっとだけ笑った形に変えて指を離した。あ、悪い何だっけ。なんて直ぐにその視線はオレとは反対方向に向かっちゃったけど、オレの心臓はどきどき煩くなっちゃって聞こえてないか心配になるくらいだった。オレにだけ向けられた秘密を共有してるみたいな笑い顔が凄く綺麗で可愛くって、何だか電話口の先のオレの知らない人に勝ったみたいな気持ちになっちゃうとか意味の分からない充足感を噛み締めていると唐突に莇からおっきな笑い声が上がった。
あ、電話の相手、分かったかも知れない。
そう思ったらさっきまで満たされていた気持ちが一気に萎んでくのが分かった。我ながら嫌な奴だ、莇の大事な友達なのに妬いちゃうなんて。
「……っはは、なんだよそれ」
聞こえた莇の笑い声に口許を覆っていた手をゆっくりと離してオレに向けられている背中に左手を伸ばす。そんで腰にその手を巻き付けて抱き寄せると顔を後頭部に押し付けてやった。背中も艶々の髪の毛も冷たくて、どのくらい此処で話してんだよ、ってまた嫌な気持ちが積み重なってしまった。
『…っばか!』
慌てた莇がオレの髪を掴んで軽く引っ張ってきた。顔を離すと口をぱくぱくして抗議してくる。そりゃそうか、オレに引っ付かれてるところ誰かに見られたら困るもんね。でも離してやらない。やれない。
「……はぁ。…あーごめん、聞いてなかった」
暫く睨めっこ状態が続いたんだけど、離れようとしないオレに呆れたような息を吐いて莇はまた前へと顔を向けた。好きにしろ、って事だこれ。それなら、と、もう片方の腕も莇に巻き付けてしっかりと抱き締めてやった。ぴったり背中に張り付いて風が吹く度に泳ぐ髪が顔を擽ってもお構いなしに密着すると、莇が話す度に声が震動になってオレに響いてくる。何か味わったことのない感覚だけど、これは嫌いじゃないかもしれない。
「……お前なぁ」
どれくらいそうしてたかは分からないけど電話を終えた莇から盛大な溜め息と共に回してた腕を叩かれた。意外に痛い。結構力込めて叩いただろ莇。もう一度叩かれて腕の拘束を解いてやったらまた莇は大きく深く溜め息を溢してオレの方へと身体の向きを変えてくれた。
「いいじゃん、誰も来なかったし」
「そういう問題じゃねぇ」
「暖かかったろ、オレ」
「そういう問題でもねぇ」
「でも嫌じゃなかったでしょ」
「…知らね」
耳に宛てていたスマホをポケットに捩じ込みながら少しだけ視線を横へと逃されちゃったら図星だ、って言ってるのと同じだと思うけどそれは教えないでいてあげよう。
「で?俺の事探してたんじゃねーの」
「あ、そうだった。こないだ言ってたメイクの練習、今なら時間あるからやる?ってLIMEしたのに返事ないから探しに来たんだった」
「マジ?わり、電話してて気付いてなかった」
そうでしょうね。
自分のポケットに入れてたスマホを取り出してアプリを開くとまだ送ったメッセージは未読のまんまだった。ちょっとだけまたモヤモヤしたものが顔を覗かせそうになったけど、メイクの話を出した途端に目を輝かせる莇が可愛かったからすぐに引っ込んだ。
莇って案外分かりやすい、メイクが絡めば特に。そしてオレは現金、莇が絡めば特に。
「っし、じゃあ練習台な九門」
「うん」
画面にあった時間は二十時十分、多分何とかタイムは過ぎる未来がオレには見える気がする。でもほら、そこは莇が電話してて気付くの遅くなっちゃったんだし怒られたら突っ込んでやろう。積み重なった嫌な気持ちがすっかりなくなっている事に気付かないままオレはご機嫌な声にスマホをポケットに押し込んだ。