15戦目★朝起きて一番に見るのは君が良い目が覚めて一番初めに香るのはタバコの匂い。
それはなんて幸せな瞬間なのだろうと、目が覚めたピクは匂いの主である布団に頬を擦り付けた。
「……あれ」
眠っている間、手探りで探って触れた筈の人肌が見当たらない。ピクはがらんと空いた布団にさわさわと触れてみる。
余り温かくない、どうやらこの布団の主はピクが寝ている間に早々と布団を抜け出し外へ出たらしい。
寝起きの悪いアイツが僕より早く起きるなんて珍しい……外にいるであろうアイツを追ってテントを出ようとピクは酷く重い身体を起き上がらせる。
「これ、アイツのシャツじゃないか」
ゆらりと起き上がったピクが着ていたのはいつもの山吹色のロングシャツではなく若草色のワイシャツだった。
身動ぎを取るとふわりと香るタバコの匂い。
自分が好む甘いムスクではない、少しスパイスの効いた辛い香りが鼻腔をくすぐり、ピクはほわりと温かくなった頬を若草色の袖で隠す。
――そうか、匂いを強く感じたのはこんなにも好きな香りで包まれていたからだったのか。
自分のものでは無い見慣れたテントに安心する香りが染み付いた布団、そしてすこし大きな若草色のワイシャツ。幾重にも重なった愛しさがピクの心を目いっぱいに満たす。
「……ふふっ」
思わず零れた微笑みの声はなんて幸福に溢れているのだろう。
さっさと起き上がってアイツの顔を見てやろうとしたと同時にテントの入口がばさりと開く。
「お、起きたか。寝坊助め」
「君に言われたくないんだけど……今日はやけに早起きじゃないか」
「はは、まあ、そういう日だってあるさ」
そう言ってピクに背を向ける安原。
若草色のワイシャツはピクが羽織っている為、今の安原は上半身に何も羽織っていない。
惜しげも無く晒された広くしっかりと浮かび上がった肩甲骨に刻まれた六本の真新しい傷跡に、ピクは昨夜の熱を思い出す。
その六本の赤い引っ掻き傷を作ったのは紛れもない昨夜の自分なのだと、ピクは羞恥心に勝てずふいっと目を逸らした。
「どうした?」
「別に……」
「もしかして調子悪いのか?」
「違……っ、あっ」
膝をつき心配そうにピクの顔を覗き込む安原。安原の癖にそんな事しないでくれ!と理不尽な反論が喉元まで出てきたが、ふとそういえばとその反論は喉奥へと引き下がる。
自分の身体がやけにさっぱりとしていたのだ。まるで湖で身体を清めた後の様な爽快感にピクは小首を傾げる。
汗と熱を纏い情欲に塗れた身体のまま意識を失った、そこまでは覚えている。ならば自分はいつ身体を清めたのだろう。ピクは不思議そうにしていると心配げな表情の安原が口を開いた。
「お前が寝てる間に色々やらせて貰った。気になるならもう一度自分で洗いに行ったらいい」
「もしかして君が?」
「起きてぎゃあぎゃあ騒がれるのも面倒くさいしな」
「ふぅん……」
どうやらあの後のアフターケアはピクが眠っている間に全てやってくれたのだという。
眠りの浅いピクを起こさない様丁寧に慎重に、尚且つ手早く労ってくれたのかと、安原の気遣いの良さにピクは口ごもる。
……ありがと、そう言おうとした矢先、大きな手がピクの前髪をかき分けると、突如安原の端正な顔が至近距離へと近ずいてきた。
きゅっと目を閉じた途端、コツンと額に何か温かいものが当たる。
「熱は……ないみたいだな」
「っ……!」
くっついた額から伝わる安原の熱は昨晩の燃えるような熱ではなく、優しく穏やかで、まるで陽だまりの様な熱だった。
安原の無意識な不意打ちを真正面に受け、茹だつ様に顔を赤く染めてしまったピクは安原の匂いが染み付いた布団を頭から被る。
「おいおい、せっかく起きたのにまた寝るのか?」
「……今のは君が悪い」
「なにがだ?」
「分かんないならいいよぉだ」
無自覚って怖い……!一本取られ拗ねてしまったピクだったが、テントの入口から入ってきた食欲を唆る芳醇な香りにチラリと顔を覗かせる。
「今スープが出来上がった所だったんだ。お前も食べるだろう?」
「……たべる」
お腹の虫が大合唱を始めるまであと数秒、食欲を唆る匂いには抗えず、ピクはいそいそと安原の布団を脱いだ。
「立てるか?無理だったらここまで持ってくるが……」
よいしょと立ち上がった安原にそう聞かれ、ピクは自身の身体を前に少し考える。
その気になれば立てない事は無いが、全身を包む心地好い倦怠感を無くしてしまうのは何だか勿体ない気がしたのだ。
「んっ」
布団の上でペタンと座ったピクは安原に両手を伸ばし言葉の無い催促をする。
「……お前、立てるだろ?」
「こういう場面でそういう事聞いたらダメだろう……」
この場面で察っするという選択肢を選ばなかった安原にはぁ、とため息をつき、じどっとした目で安原を見上げ、次はうんと手を伸ばした。
「……甘えたいの。ダメ?」
そんなピクのおねだりに、ぐっ……と喉奥を鳴らし唸らせる安原。
自分の布団の上で自分のシャツを羽織り、うんと手を伸ばして可愛いわがままで甘えようとしてくるハニーのおねだりを無下にするダーリンがこの世に居る訳が無い。………
「……、仰せのままに」
「ふふっ、よろしい」
安原は微熱を纏うピクの身体に手を伸ばし、背中と膝の裏に触れるとひょいっとピクの身体を持ち上げ立ち上がった。
「ふぇあっ?!」
唐突に襲った浮遊感に驚いたピクは意図も簡単にピクの身体を抱え上げた安原をキッと睨む。
「ちょっとっ!僕は腕を掴ませて欲しかっただけなのにっなんでこんなっ」
「お姫様抱っこして欲しそうな顔してたから」
「してないよ?!」
さも当たり前の様にお姫様抱っこをしてのける安原に、逆にピクの方がしてやられる。
恥ずかしがる素振りもなくけろっとしている安原が余計に腹立だしい。
「そんなに騒ぐと落とすぞ」
「〜〜っ!!」
重力に逆らえずガクンと落ちた身体に驚いたピクは条件反射によりわざと手の力を抜いた安原の首に腕を回す。
ただでさえ動けない身体が更に動けなくなるのは困る、抗議しても意味は無いと悟ったピクは下唇を噛み締めなが安原の上半身に身を委ねた。
だがこの男、物は口だけ、落とす気などさらさらないのだが。
「全く、注文が多いお姫様だな」
そう口にしながら必死に首にしがみつく腕の中の可愛いお姫様をひょいと抱えてテントを出る。
意図も簡単に抱える事が出来たピクに羽の様に軽い、なんて小っ恥ずかしい事は言える訳がない。お姫様抱っこなんて気障な事は出来る癖に狙ってクサイ言葉をかけられない、それがこの男の気性なのだ。
日差し差し込むテントから出ると、挨拶がわりの日差しの眩しさに目が眩む。
太陽が昇って白い日差しになる頃に起きるなんていつぶりだろう……普段は朝日よりも先に起きているピクは眩んだ目を休ませる為に安原の広い胸に顔を埋める。
……あ、ドクドクいってる。
広く硬い胸に耳を立てると左胸で脈打つ命の鼓動が聞こえる。更にスリッ、と頬を合わせてみるとその鼓動は僅かに早足になる。
涼しい顔して澄ましているが鼓動は正直だ。ピクは広い胸に縋りながら暖かな体温を感じていた。
テントの目と鼻の先の焚き火に炊かれた鍋からはトマトのコク深い香りが漂い、ピクは焚き火の近くに置かれた椅子代わりの丸太に降ろされる。
「丁度温まった所だ。キノコとトマトと馬鈴薯……あと昨日貰ったミートボール」
「君にしてはオシャレなもの作ったんだ」
「お前がこの前作ってたやつが美味かったからな。流石に味は違うが保証はする」
「……ふぅん」
いつもなら"文句言うなら食うな!"と眉を釣りあげてそう言ってくる筈なのに、今日はその喧嘩腰のなりを潜めた上でピクの料理を褒めてくれたのだ。
いつもと様子の違う安原に不審感を抱くピクの隣でくつくつと煮立ったミネストローネをおたまで掬い、マグカップに注いだ。
「いただきます」
「火傷するなよ」
「君じゃあるまいし」
そう言って安原からマグカップを受け取ったピクは木製のスプーンでトマトスープをひとさじ掬い、ほわほわと湯立つスープにふぅ、と息をふきかけ頃合になった頃スープを一口啜った。
「……おいしい」
「だろ?」
スープを啜ったピクから息をする様にぽろっと出てきた素直な言葉に安原は得意げに笑う。
暖かなスープが掠れて痛む喉に良く染みる。溶け出す程に煮込まれた馬鈴薯がスープを掬う手を促してくる。
注がれたスープが半分程になった頃、ピクはスプーンの手を止めて気まずそうに隣に座る安原を見た。
「……気まずいんだけど」
「え、ああ、悪い」
スープを食べるピクをじっと眺めていた安原は無意識だったのだろう、ピクにそう指摘されて慌てて目をそらす。
気恥しそうに項を搔く安原はピクから目を逸らしたまま、ぽつりと呟いた。
「なんか、いいなって」
そう言って目頭に幸せそうな皺を刻み微笑む安原。
その声色が余りに柔らかくピクの鼓膜を甘やかすものだから、そのくすぐったさに気付かない様にマグカップの縁を唇で噛む。
「……君ってなんでそうなのかな」
「なにがだ?」
「どうして特定の人間にやたら甘いの?」
ピクの独り言をすかさず聞き取った安原が目を丸くしてそう聞き、ついでだと言わんばかりにピクはこう切り出した。
こう見えて安原は他人とは進んで関わろうとしない、そこは自由と孤独を愛するスナフキンらしいともいえる。
だが一度彼の心の扉を通ればたちまち親密になり、ぐんと距離感が近くなるのだ。
少し臆病だがかわいらしい親友が最たる例であり、ピクもまた例外では無かった。
「甘い?俺が?」
「ああ甘いね、自由と孤独を愛する君を知ってる人が見たら二度聞きしちゃう位に」
ピクにそう断言された安原はうーんと首を捻る。
これもまた自覚が無かった様だ。やっぱり無自覚って怖い……!と数分前のデジャブに見舞われたピクは空を見上げる安原を見上げ、そして見つめる。
ほんの少しの沈黙の後、まぁ、と沈黙を破ったのは安原は空からピクの視線へと目線を合わせる。
「特別な奴以外に優しくはしたくないだろう」
俺はそんな人間じゃないからな、と付け加え、安原はリュックの中からマグカップとスプーンを取り出す。
右から左へ流す様に、さも当たり前という顔で言った安原の横で、ピクはまるで鳩が豆鉄砲を食らったかの様な顔で安原の挙動を目で追っていた。
俺はそんな優しい奴じゃない、というだろうが、困っている人を見てしまえば放っておけない様な奴なのだ。
そんな無自覚に優しい男の数少ない"特別"に、自分が含まれている――そう、自惚れてもいいのだろうか?
「……へへっ」
「なんだよ急に笑って……」
「なんでもないよぉ」
胸の奥からぽかぽかと暖まるのはスープのお陰じゃない。
空になったマグカップを置き、若草色のシャツの袖をはにかむ口元に添える。
お気に入りの匂いと若草の色、温かいスープに朗らかな朝の日和。
そして隣にいてくれる愛しい人は困った様に眉尻を下げながら、穏やかで優しい笑みを浮かべている。
ああ、好きだな。大好き。
言葉で伝えなくても伝わるこの距離に、ピクの心は溢れんばかりに満たされていく。
……もし、今隣の厚い肩に頭を預けたら君はどんな顔をするのだろう?
精悍な顔を崩しうろたえるのか、はたまたその大きな手で優しく髪を梳いてくれるのだろうか。
「……人の顔をじろじろ見るな」
「いいじゃないか、減るもんじゃないんだし」
木の木陰で羽を休める小鳥の歌声さえ特別に思える。
今日はなんだか文句をつける気も挑発する気も起きない。
ただ単純に、素直に愛しい人に甘えたい気分なのだ。
……たまにはこんな日があったっていいじゃないか。
ピクは世界一幸せな朝の夢現に身を委ねた。
朝起きて一番に聞こえるおはようはやっぱり君が良い。
本日の勝負、甘い雰囲気に満たされ勝負無し。