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    ぎねまる

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    ぎねまる

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    初登場前の、苛烈な時代の鯉登の話。わりと殺伐愛。
    過去話とはいえもういろいろ時期を逸した感がありますし、物語の肝心要の部分が思いつかず没にしてしまったのですが、色々調べて結構思い入れがあったし、書き始めてから一年近く熟成させてしまったので、供養です。「#####」で囲んであるところが、ネタが思いつかず飛ばした部分です。

    #月鯉
    Tsukishima/Koito

    月下の獣「鯉登は人を殺したことがあるぞ」

     それは鯉登が任官してほどない頃であった。
     鶴見は金平糖を茶うけに煎茶をすすり、鯉登の様子はどうだ馴染んだか、と部下を気にするふつうの・・・・上官のような風情で月島に尋ねていたが、月島が二言三言返すと、そうそう、と思い出したように、不穏な言葉を口にした。
    「は、」
     月島は一瞬言葉を失い、記憶をめぐらせる。かれの十六歳のときにはそんな話は聞かなかった。陸士入学で鶴見を訪ねてきたときも。であれば、陸士入学からのちになるが。
    「……それは……いつのことでしょうか」
    「地元でな──」
     鶴見は語る。
     士官学校が夏の休みの折、母の言いつけで鯉登は一人で地元鹿児島に帰省した。函館に赴任している間、主の居ない鯉登の家は昵懇じっこんの者が管理を任されているが、手紙だけでは解決できない問題が起こり、かつ鯉登少将は任務を離れられなかった。ちょうど休みの時期とも合ったため、未来の当主たる鯉登が東京から赴いたのだ。
     その折、拐かしが起きた。
     一つ山を超えた隣の村に農作業の手伝いに行った娘三人が、帰りに賊に攫われたのだ。その娘のうち一人の父親が、鯉登家に出入りしている庭師だった。
     娘たちと共に手伝いに行っていた老齢の男は賊に切りつけられ、傷を負いながらも町に戻り、庭師の元に駆けつけた。その場にたまたま鯉登が居た。
     鯉登は庭師に、急ぎ警察に助けを求めるよう言うと、家から刀を一振り持ち出して、馬に跳び乗ったという──。
    「まるで阿修羅のような面相で、だそうだ。元よりあの顔だ、さぞや恐ろしかったろうなぁ」
     その場に居た人間にしか形容できない表現で、一体どのような伝手で関係者から聞き取ったものなのか、相変わらず鶴見の情報網は計り知れない、と月島は思う。
     そして、鯉登の過去を知っている──携わっている月島には、鯉登の思いが容易に想像できる。
     かどわかされた娘たち。それは、自身の誘拐を思い出させ、鯉登を阿修羅のように憤怒させ、韋駄天ばりに走らせるのに十分だったろう。
    「それでな……」
     娘たちが拐われた場所から鯉登は追跡と聞き込みを行い、賊の住処に辿り着いた。そして近辺の住人に、庭師たちと警察への言伝てを頼むと、一人で突入した。
     結果、五人もの相手をすべて斬り伏せてしまったのだという。
    「では──そのときに?」
    「ああ。手足が落とされただけの者も居るが、一人死んだ。袈裟懸けに斬られてはらわたを見せて」
     手足が落とされた『だけ』というのも語弊があるが、戦場帰りを考えれば、命があるか、ないかだけが唯一にして絶対の違いなのだ。
     初めての殺人が──ある種の初陣が──五対一というのは、月島ですらちょっと驚くほどの胆力と武力だ。
    「娘たちは抵抗したときの少しの傷こそあれど、嬲りものにもされず、身体無事で保護された。警察でも正式な軍でもない、ただのいち士官学校生による救出劇だ。私人による殺人とみなされてもおかしくはなかったが、相手と状況が状況だから、やむを得ずとされた。とはいえ外には出せない話なので、表向きは警察が踏み込んだことにされ、鯉登の名は隠された」
     救われた娘たちには、鯉登が、鯉登にとっての鶴見のようにかがやいて見えたことは想像に難くない。
     口止めはされたというものの、鯉登の勇姿はひそやかに語られた。
    「戸から射す月の光を背に受けてばったばったと悪漢を斃すあの御方は、スサノオもかく有りやという、恐ろしいまでの美しさでございました……とな」
    「スサノオ……」
     神話に出てくる神の名前だということは知っているが、何をした神なのか、月島にはいまいち判らない。
    須佐之男命スサノオノミコト。イザナギイザナミの子で、アマテラスのきょうだいだ。アマテラスが岩戸に隠れる原因になった奴だな。凶暴で、なのに子供のようで、父から海を治めろと言われたにも関わらず、母のいる根の国に行きたいと泣き叫び、高天原から堕とされた。根の国とは、黄泉の国と同じく死者の魂の集う場所だな。地上でのスサノオは、ヤマタノオロチを退治し、英雄になった。
     ──ちょっとびっくりするくらい、言い得て妙という感じがしないか?」
     兄を戦場で喪い、
     船に乗れずに海を憂え、
     自らの死をも望み、
     だが、陸士では成績優秀を納め──。
     言われてみれば、できすぎなくらいの符丁である。
    「娘たちも口止めはされたが、だがどうしても礼をしたいと、けして裕福ではないが三人で金を出し合い、鯉登に櫛を贈ったらしい。陸士で当時は鯉登も坊主頭だったろうに。三人で一つの櫛とは、ふふ、さすが薩摩おごじょは情熱的だなあ。見立ても粋だ」
    「……というと?」
    「スサノオの妻は櫛名田比売クシナダヒメだ。ヤマタノオロチに食われるところだったが、スサノオが退治した。櫛に姿を変えスサノオの髪に挿し込まれてついていった。
     それに、櫛といえば薩摩だしな。『櫛になりたや薩摩の櫛に 諸国の娘の手に渡ろ』、だ」
     娘たちの行いも洒落ているが、すらすらとそれを説明する鶴見も相変わらずである。
    「ところで、スサノオは地上で英雄となったのち結局根の国にいくわけだが──根の国の場所は諸説あってな。地下とも海の先とも言われているが、の方角、つまり北の土地だという説もある」
     鶴見はこつこつと机を叩いた。
    第七師団ここだ」
     すべてがよくできた物語のように。
    「──という話でもしたら、また『運命ごわんなぁ』と言いそうだな、あの子は」
     あるいは、それすらも鶴見の手の内だというように。
    「恐れ入りますが──今の話は、すべて偶然の……?」
     鶴見は肩をすくめ首を振る。
    「当たり前だ。戦争中のことだぞ、さすがの私も彼の地からどうこうはできん。邪推が過ぎるぞぉ、月島」
     彼の地で、自分に「佐渡の者」という矢を放ったあなたが何を言うのです──
     喉元まででかかった言葉を、静かに飲み込んだ。
     鶴見は再び茶を啜る。
    「──つまりだな。
     お前が思っているよりずっと、あの子は『こちら側』だ。
     だから、もう、存分に『実戦』につれていけ。慣れさせろ。
     そこでお前は歴戦の軍曹として背中を見せ、憧れと信頼を獲得するんだ。飴と鞭で手なずけろ。鯉は登れば竜となるぞ」
     そこに落ち着く話であったかと月島は得心する。
     鶴見は武器が好きだ。機能的な武器が。美しい武器が。ただ獲物を殲滅するために洗練され昇華された武器が。
     鯉登はその父の戦力を得るための人質である。だが鯉登自身にも大いに武器としての素養がある。
     自分の役割は、あの一振の粗磨きの刀を研ぎ澄まし、鶴見好みの武器に仕立て上げることだ。
     承知しました、と月島は受ける。
    「ですが、飴は私よりも中尉殿のほうがよろしいのでは」
     鶴見はちょいちょいと月島を呼び寄せると、その手のひらに金平糖を落とした。 
    「たまの甘味のほうが刺激が強くて旨いんだぞぉ」
     

     
     鯉登は執務室にいなかった。当番兵に聞くと、将校集会所へ行ったという。帰るまで待ってもよかったが、鶴見からの「指示」は可及的速やかに、であったため、月島は営内の将校集会所へ向かった。
     入り口で取り次ぎを願うべく番のものに声をかけたとき、
    「──気分が悪い!」
     鯉登が踵の音も高らかに、将校集会所から出てきた。月島の顔を見て一瞬驚いた顔をする。
     何かを言いかけ、逡巡した。
    「何か用か」
    「ご報告がありますが、執務室ででもよろしいですか」
    「わかった。来い」

     鯉登の執務室に来ると、鯉登は「ちょっと待て」と言い、引き出しを開けた。
     取り出したのは手鏡と櫛。
     そして髪を整えはじめる。
     なんで人を待たせて髪を弄るのだと正直呆れたが、その表情を見るに、どうも気を落ち着かせるためにしているようだ。先程の将校集会所での何かのせいだろうか。もしかしたら、髪を振り乱すようななにかがあったのかもしれない。
     鯉登はよく髪を整えている。これまで気にしたこともなかったが、あの櫛が贈られたものなのだろうか。四寸ばかりの櫛で、よく見れば持ち手の部分に、素朴ではあるが鯉の意匠が描いてある。
    「柘植の櫛ですか」
    「おお。わかるか?」
    「いえ。薩摩といえば柘植の櫛かと思いまして。風情のある意匠ですが、ご家族から頂いたのですか」
     鯉登が片眉を上げる。月島がこのように自ら話題を広げることは珍しい。
    「おお……? まあ、家族というか、地元の者からの贈り物だ。──月島も欲しければ手配するぞ?」
     しげしげと櫛を眺める月島に何やら誤解をしたらしく、鯉登はそう問うた。
    「いえ、結構です。私は生まれてこの方櫛が必要になったことがないもので……」
    「生まれてこの方?!」
    「子供の頃からこの坊主頭ですよ。この短さですと虱取りすら手で十分なので」
    「キエッ」
     眉を顰めて猿叫する。鯉登はやや潔癖の質がある。虱の話題程度でこの反応とは、いざ戦場に連れて行った時、血肉の匂いの漂う中で、蝿にたかられながら飯など食えるのだろうかと心配になる。
     月島は改めて鯉登を眺めた。
     髪。爪。唇。肌。服。
     櫛を。爪やすりを。軟膏を。香油を。服箒を。
     よくよく見れば、鯉登はひとつひとつの手入れの道具を持っており、更にはその道具自体の手入れも欠かさない。多くを整えるには多くの道具が必要になる。富める者、持てる者にのみ可能な努力で、鯉登の外見は磨きをかけられている。
    「何だ?」
    「いえ。身だしなみによく気をつけておられるなと」
    「身なりを整えるのも士官たるものの努めだ。それにいつ何時鶴見中尉殿にお会いできるかわからんしな」
     後者が主な理由だろう。
    「──ところで、鶴見中尉殿からの伝言が」
    「何?! それを早く言わんか!!」
     人を待たせておいて喧嘩売ってんのか? と悪童が首をもたげかけた。一呼吸置いて月島は口を開く。
    美唄びばいの旧屯田兵村に、遺失していた資料の受け取りに向かえと」
    「美唄?」
     鯉登は北海道の地理を思い出すように頭を巡らせる。
    「空知郡の? あそこは札幌連隊区ではないか」
     第七師団の管轄は四つの連隊区に別れている。札幌連隊区、函館連隊区、釧路連隊区、そして鯉登たちのいるここ旭川を中心とした旭川連隊区だ。
    「はい。それは表向きで──囚人に関する調査です」
     鯉登は顔を輝かせた。
    「美唄には樺戸監獄があります」
    「樺戸監獄?」
     鯉登は聞き返す。月島は頷く。
     表向きには伏せられているが、この春に樺戸監獄で集団脱獄が発生した。そして最近、美唄周辺での森林で、しばしば賊が出るようになったのだ──と。
    「樺戸の囚人に、熊岸長庵という者が居ました。紙幣偽造の罪で終身刑で、外役中に逃亡を企て射殺されたことになっていますが、どうも他の脱獄囚たち同様、樺戸の典獄が自らの失態を隠すためについた嘘ではないかと」
    「は。網走といい樺戸といい、監獄の者たちは腐敗しきっているな」
     師団と監獄が犬猿の仲なのは昔からだ。賄賂と横領の蔓延した組織だと、鯉登も軽蔑の色を隠さない。
    「網走脱獄囚のひとり、白石由竹は過去に樺戸監獄に収監されていたことがあるのですが、その時代に親しくしていたのが熊岸です」
    「白石由竹とは?」
    「日本中の監獄を脱獄して、『脱獄王』と呼ばれていた男ですね。さらに言えば、土方歳三も、網走に移送される前は樺戸に収監されていました」
    「……成程? 土方が手引をし、『脱獄王』白石由竹が集団脱獄させ、絵や偽造に造詣の深い熊岸に暗号解読をさせようとしているのでは、ということか?」
    「──その可能性もあると、鶴見中尉殿は」
     奇行が目立つ鯉登だが、こういうときの頭の回転の速さは、月島は素直に感心する。
    「ふむ」
    「ただ、目撃されたものが脱獄囚との確証はありません。ただの一介の賊の可能性も」
    「成程。ひとまずとっ捕まえて、検分すれば良いのだな」
    「いきなり荒っぽくならないでください。まずは現地の聞き込みです。演習のときのように功を焦って突進しないで下さいね」
     鯉登は口を尖らせる。
    「功を求めて何が悪い」
    「悪いことなどありませんよ」
     望みであれば、疾く武器たれ。
     そう月島は思うだけだ。
    「ただ、御身お気をつけを」
     ふん、と荒ぶる隼人は鼻を鳴らした。 

     
     
     二人は北海道官設鉄道で美唄へと移動した。
     黒煙を吐きながらガタゴトゆれる車窓の眺めはいっそ長閑だ。距離や、休ませなければならないことを考えなければ、馬の方が余程早い。
    「鹿児島から函館まではどのくらいかかりましたか」
     ふと思いついて聞いてみた。
    「あのときは船で来たから二日程度か。陸路だと、青森から北海道までの船便合わせて一週間はかかったろうな」
    「船で?」
     当時既に鯉登は船が苦手ではなかったろうか。
    「──急ぎの用があったし、慣れるために出来得る限り乗るべきだったからな」
     まだ海城にいる頃だ。斜に構えながらも、地道な努力を続けていたのだろう。
     鯉登の出自も本人の華やかさも、月島には全くもって共感できるところは無いが、今の実力が本人の鍛錬ゆえであることについては、素直に、好ましい、と思う。であればこそ鶴見も鯉登に武器たれと望むのだろう。
    「食べるか?」
     鯉登は豆菓子を差し出す。
    「いつの間に買ったんですか……」
    「いいから。ホレ」 
     鯉登はむに、と月島の口に豆菓子を押しつけた。

     数時間ののち、二人は美唄の旧屯田兵村に居た。屯田兵の入植時代、美唄は騎兵の特科隊であった。開拓事業は十年ほど前に完了し、屯田兵制度自体は一九〇四年に廃止されている。村の兵たちは日清戦争時代は臨時の第七師団となり、終戦後は解散してそれぞれの兵村へ戻った。現在は民間の村である。
     表向きの理由──解散時に遺失されたとしていた軍関連資料が発見されたため、返却をしたいとの申し出を受けた──をちゃっちゃと対応し、月島は村で聞き込みをした。鯉登は、こういう仕事には目立ちすぎるので、村長と世間話をしていてもらった。
    「で?」
    「山の方へ。痕跡を探しに行きましょう。今は使われていない炭火焼小屋があるらしく、雨露をしのげるとしたらそこくらいだと」
    「賊は人数がわからんのだろう? 人手を呼んで山狩りするわけにはいかんかったのか」
    「一応隠密行動なんですよ。賊を捉えるという目的があるとはいえ、俺たちがここまで来ているのはあまりよろしくない。今回はあくまで偵察です。囚人たちでなければあとは警察の範疇ですし」

    #####
    不審な男と出会う二人
    #####

     鯉登の将校服は、来ているだけでその価値がある。脛に傷を持つものに対しては特に。軍に所属しているというだけでは勿論逮捕の権利などは無いが、犯罪者にとっては同じ権力の枠組に見えるし、無駄に抵抗すれば制圧されるのが目に見えている。だから後ろ暗いところのある人間は、鯉登が立っているだけで不審になる。
    「どうやって服をひっぺがす? それに熊岸某とかいうのは網走囚人ではないから刺青は無いのだろう? いっそ罠でも作って捕まえるか」
    「直接脅して脱がせるのと大差ないじゃないですか。仲間も網走囚人ばかりとは限らないですし……」
     
    #####
     不審者のところへ乗り込む算段をつける二人
    #####
     
     上川道路は、二十年ほど前に、樺戸監獄の囚人たちの労働によって開削された。「囚人道路」とも言われる、北海道の中央横断道路の一角だ。当時にしては驚くほどの短期間で行われたようで、昼夜問わず、獣も多い原生林での囚人たちの労働の過酷さは想像に固くない。
    「囚人労働はもはや開拓や工業化に欠かせないものになっているな。熊本の三池炭鉱もそうだ。三井に払い下げられて以来減ってはいるらしいが、まだまだ囚人の外役がなければ立ち行かん。……佐渡も金山はそうではないのか?」
     月島の出身を思い出して鯉登は問う。
    「政争に負けた者の流刑地だったのでそう思われやすいですが、実際は江戸の無宿人ふろうしゃだったらしいですよ」
    「そうなのか?」
    「──と鶴見中尉殿が仰っていました」
     なぜ鶴見が月島にその話をしたかと言うと、月島の出身とその過去を外野に揶揄されたためである。罪人の裔め、という言葉に、実際そうなので、と言うと、「歴史を正しく知らんのはいかんなぁ」と首を振りながら教えてくれた。
     一方で、事実をすべて語ることもない、とも言っていた。
     事実を知り、その上で取捨選択をして、情報を操るのだ、とも。
    「さすが鶴見中尉殿は博識であられるなぁ!!!」
     鯉登はうんうんと頷く。


    #####
    賊の隠れ家をみつける二人
    賊をおびき寄せることにする。鯉登の持っていた櫛を利用して罠をかけることを思いつく月島
    #####

     
    「少尉殿、櫛をお持ちでしたらいただいてもよろしいでしょうか。
     代わりのものは改めてこちらで用意いたしますので」
    「ん? おお」
     鯉登は鞄より櫛を取り出し手渡した。
    「構わん、やる。お前に手間をかけるつもりもない、好きに使え。だが何に使う?」

     
    #####
    櫛を使った罠が功を奏し、賊の制圧に成功する
    しかし網走囚人ではなかった
    #####
     

    「なるほど、イザナギの例に沿ったのか。洒落とるな月島」
    「……なんのことです?」
    伊耶那岐命イザナギノミコトは櫛を投げ、黄泉醜女ヨモツシコメを撒いたとか」
     月島はどきりとする。鶴見との会話を知らないはずなのに、全く同じ発想で、同じような喩えを持ち出す。
     士官とは皆そういったものなのだろうか。
     ……いや、そうではない。鶴見のような士官は他にいない。
     そして鯉登のような士官も。
     
     ──鶴見は鯉登を自分の後継に考えているのだろうか。
     ふと、そんな予感が月島の胸を捉えた。
     
     蝦夷共和国が成功したとして、鶴見の求心力もいずれ衰えるだろう。たとえば十年後や二十年後。そのとき鶴見の代わりに率いるのが鯉登だと──そう目論んでいるとしたら。

     若く荒削りで落ち着きがなく、短慮ではないのに体のほうが先に動き詰めが甘い。何より、根本のところに育ちの良さが目立ち、鶴見のような搦め手に向いていない。だが、判断の早さ、部下の能力を把握し引き立てる巧みさ、そして何より人を惹きつける華やかさ。
     蝦夷共和国が軌道に乗り、権謀術数より真っ当な政治が必要になった頃には、この青年は良き指導者になっているのではないだろうか。
     ──そのとき自分はどうしているのだろう。
     
     月島は鯉登を見上げる。
     鯉登を見上げる角度と、鶴見を見上げる角度は、殆ど同じなのだ。慣れた頭の位置、首の向きに、月島は不思議な感慨を覚える。
     そのときもこのように、鯉登を見上げているのだろうか。
     

    #####
     その場を去るふたり
     帰り道で賊の残党に襲われる
    #####
     

     そのとき月島にははっきりわかった。鯉登の見ているもの。鯉登の考え。弓手を愛刀の鞘にかけ足を踏み込む動き。その瞳に峻烈な光が灯り月島の肩の向こうを見据えている。
     鳥肌が立った。
    「頭を下げろ月島ぁッ!!!」
     あたまを、と言い終わる前に月島の体は動いていた。
     腰を落としその場にしゃがむ。その刹那、月島の頭上を一陣の風が切り裂いた。
     ばしゃり、と鉄臭い液体が地面に降り注いだ。
     背後で、重いものが地に伏す音がした。
     ──見上げると。
     帯赤茶褐色の軍衣を鮮血に染めた鯉登が豪然と立っていた。
     いつものふにゃりとした子供じみた表情はどこにもなかった。常に紅をさしたような隈取深い眦は、今や燃え盛る炎のように苛烈さを極めている。唇の隙間から見える、噛み締めた並びの良い齒は、なぜか獣の牙を思わせた。

     ああ、今、まさに獣を喰い千切ったのだ、この人は。
     
     月島が目を奪われているその隙に、鯉登は腕をひらめかせ血振るいし、舞のような所作で納刀する。
     その刹那、雲が流れ、切れ目から月の光がさした。
     月の光の下で、返り血を吸った服を身に纏う鯉登の姿は、完成された絵姿のようだった。
     月下の水面みなもに跳ねる錦鯉。

     ──ぞくりと、全身が泡立つのを感じた。
     
     立ち上がり振り向くと、かの男が右切上に切り裂かれ地面に倒れ込んでいた。鯉登の刃は骨をも断ち切り心の臓に届いたのか、血が吹き出すように流れ、どくどくと地面を濡らしていた。
    「……お見事です」
    「月島はすごいな!!」
    「えっ?」 
     ぱっとこちらを見た顔は素直な驚きで満ちていて、いつもの幼い表情に戻っている。
     一瞬で、獣のかおが消えていた。
    「私が言い終わる前に動いていた。私が後ろの奴をどう切ろうとしたのかわかったんだろう? 後ろに目がついてるみたいだ!」
     あなたを見ていたからだ──と思うが、口にはしない。まるで、それこそ、鯉登の望む「長年共にした戦友」のような、そんなことばが気恥ずかしかった。月島の優秀さ所以ゆえんだと思われたほうがましだ。
    「これはここに放置していいのか?」
    「構いません。今回弾も使っていませんし、隠さないといけないものはない。後ほど私が良きように通報しておきます。服が──目立ちますね。外套をお貸しするので羽織っていてください」
     鯉登は言われるがままに外套を羽織った。
    「──しかしなぁ、はなから返す気のないものを『お借りしてよろしいですか』とは何なのだ白々しい。くれ、よこせと言えば良いものを」
    「そうおねだりすれば頂けましたかね?」
    「賊を倒すためなら櫛くらいいくらでもくれてやる」
    「──地元のお方から頂いた、大切なものかと思いましたので」
    「別に?」
     きょとんとした顔で鯉登は返す。
    「任務のために必要ならば私の持つものは何を使っても構わない」
     必要ならば。鶴見中尉が望むならば。
     捧げることに躊躇がない。 
     ただ、己を武器とするために。
    「──左様ですか」
     鯉登はきっと、鶴見の望む、一振りの美しい武器になるだろう。
     先程その美しさに、稲妻に打たれたような心地がしたというのに、ただ鶴見のために、研ぎ澄まされた武器になっていく鯉登を見ていると、どこか、何か──
     胸の締め付けられるような思いが、した。

     


     美唄から戻った三日後、いつもの執務室で、月島の差し出したものを見て、鯉登は目をぱちぱちとしばたかせた。
    「ヤマザクラから作ったものだそうです。柘植の櫛でなくて申し訳ありません。このあたりでは薩摩柘植は手に入りづらく……」
     月島の手には櫛がある。
    「気にしていなかったのに。部下に買わせるわけにいかんだろう」
    「そういうわけにも参りません。材や形が気に入らなければ、交換してきますので、好みのものを教えて頂ければ」
    「いや、有り難い。有り難いのだが──その」
     鯉登は言い淀み──おかしむように、問いかけた。
    「櫛を贈るのは求婚の意味があるが?」
    「え? ──あっ」
     好いたおんなに櫛や鏡を贈る──世間ではごく普通のふるまいであり、月島もそれを知らぬわけではなかったが、『求婚』とまでの重い意味を持つとは思っていなかったし、何より、壊した櫛を弁償せねば、との考えが先に立ち、そこに籠められた意味まで考えていなかった。
     
     ──考えていなかった?
     
     いや。
     
     娘たちの贈った櫛で、毎日毎日髪を梳く鯉登のその姿に。
     
     ──言いようの無い、かすかな苛立ちを覚えてはいなかったか。
     
     あのときの心持ちを、月島は自分でも説明できない。ただ、無邪気な英雄と無邪気な被害者、それを繋ぐあの櫛が。
     目障りだと。
     思って。
    (あなたは自ら望んで『根の国死者の国』に来たんでしょう?)
     生者の国と繋がるものなど、捨ててしまえばいいのにと。
    「受け取るなら応否を答えねばならんが必要か?」
     鯉登はにやにやしながら櫛を振る。あからさまなからかいの言葉に、月島はハァ、と息をついた。
    「……それは失礼いたしました。無学ゆえ、無作法お許しください。──お返しいただいても結構です」
    「よかよか。
     鬼軍曹どのに求婚されるとは、甲斐性があるということだろう? 文字通りの『副官』だな」
     鯉登は愛おしむように櫛を見た。
    「大切にする」
     月島は虚をつかれる。
     思いのほか幼く素直な鯉登の顔を見て、何やら胸がざわめいた。
    「しかし、月島はまだら・・・だなあ。ときにやたらと学が深かったり風情があったりするのに、意外なところで抜けている」
    「育ちが悪いので襤褸ボロが出るのです。軍に入ってから知ったことが多くて……」
    「鶴見中尉殿のご鞭撻か?」
     すっと胸の奥が冷えていくような気がした。
     自覚はないが、きっと鶴見に教えられたものが役立っているのだろう。
     鶴見と共に過ごした十余年。
     鶴見に与えられたもので、この身は、もう。
     ──月島が答えずにいると、鯉登は自ら言葉を繋いだ。
    「ご自身があれだけお忙しいにもかかわらず、部下の教育にも気をはらわれているのだな。見習わねば」
    「──背中を見ているだけですよ。背中を見て学びたいと思われるような上官を目指せばよろしいかと」
     鯉登は情けない顔をする。
     こんなに目まぐるしく表情が変わる士官にも、月島は会ったことがない。
     いろんな意味で稀有な人間だ。
    「月島は厳しい。噂に違わぬ鬼軍曹だ」
    「ええ、鬼ですよ。鬼にならねば」
     生き残れなかった。
    「──少尉殿のご指導など、恐れ多くてできませんので」
    「しれっとそういう嫌味を言うな」
     鯉登は口をへの字に曲げた。

     
     
     さらにその数日後。
    「月島軍曹に意中のおんなができたと噂になっているぞ」
     鶴見が団子を食べながら月島に言う。
    「は?」
    「坊主頭で櫛を買うとは如何に、だそうだ」
     街で櫛を買うところを誰かに見られていたのだろう。やれやれとため息をつき、前回の報告で端折った、賊と鯉登の櫛の関わりを話した。
    「月島も薩摩おごじょ並に情熱的だったか」
     鶴見はお気に入りの花園団子の、実の無くなった串をふるふると揺らえる。
    「鬼軍曹が贈り物とは。そんな形の残るものは、私にもくれたことがないのに。なぁ?」
    「『飴』、ですよ」
    「うんうん」
    「……それに、中尉殿には命を捧げておりますので」
    「知ってるとも」
     うん、うんと頷いて、 鶴見は新たな団子の一本を手に取った。
    「お前にも褒美をやらんとな」
     そうして月島の方に差し出した。
     月島は一瞥すると、失礼します、と小さく言って、がぶりとその先に噛みついた。
     
     
     
     扉をあけると鯉登はまた鏡に向かい、髪を梳いている。
    「月島ァ。具合がいいぞこの櫛」
    「それはよろしかったですね。ですが日に何度も鏡に向かうものではないですよ」
    「貴様がくれたものだろうが」
    「適度というものがあるでしょう」
     鯉登はすっと櫛を布でひと拭きし、紺色の櫛入れに仕舞うと机の抽斗に丁寧に納めた。
    「……ひとつ聞きたいことがあるのだが」
    「はい」
    「月島はなぜ獣と揶揄される」
    「は──」
     唐突な問いに、月島は言葉を失う。
     ──美唄に行く前、鯉登が将校集会所から機嫌をそこねて出てきたことを思い出す。その場で何かを言われたのかもしれない。鶴見にもよく投げられた揶揄だ。親殺しの獣をよく子飼いできるものだ、と。
    「誰かに何か言われたのなら聞き流せばよろしいかと。私の悪評であり、少尉殿には何も咎はございません。──私のことが不愉快であれば──」
     鯉登は、す、と手を出して月島の言葉を遮った。
    「他人からの嫌味からかいなどどうでも良い。所詮妬み嫉みの類だ。だが月島が悪罵されるのは腹が立つ。その理由を、私だけが知らんのはもっと腹が立つ」
     ああ、ここでも『昔を知らぬ』自分への苛立ちか。
     ただひたすらに面倒くさかった。先日までは
     だが──今日の月島は少し、口が軽い。
    「──私はひとごろしの父を持つ人間で。
     そして私自身も父殺しで、死刑を待つ身として、陸軍監獄に入っていたことがあります。
     ……鶴見中尉殿のお導きで、いまこうしてこの場に居ることができますが」
     鯉登は月島をまっすぐに見ている。
     その表情は、静謐である。
    「ひとごろしの子はひとごろし。獣の子は獣。
     ただそれだけの話です。悪罵ではない。真実ですので」
     月島は鯉登を見返した。
     こんなに静かな眼差しもできるのだなと、いっとき月島はその光に呑まれる。
    「ならば私と同じだな」
    「……は?」
     月島は当惑する。
    「私と、あなたの、どこが」
     鯉登は顔を上げ。
    「──父上は」
     再び月島を見据える。
    「帝国海軍少将鯉登平二は、戦場で数多の敵を倒した。敵艦を一隻沈めれば数十から数百の敵兵が死ぬ。父上の戦歴であれば千を超えてもおかしくは無いな。
     目的はあった。国のため。同胞のため。故郷を、私達家族を守るため。父上はそのため一振りの刀となり敵を屠ったのだ。だが。
     人を殺したという事実には変わるまい」
     鯉登は目を眇めた。
     二十歳を超えたばかりの青年。その底冷えのする瞳の奥を覗くと、月島の背に鳥肌が立つ。
     それはけして寒さや恐ろしさではなく──
    「父上はいつも仰っていた。戦はクニとクニとの争いであり、ひとと文化の生き残りを賭けたものであると。だから私達は誇りを持って戦うのだ。でも忘れてはならぬ、私達の行いは、人の命を奪う行いであると。敵は鬼でも獣でもない。だからこそ戦いに酔ってはいけない、と。
     我々は人倫と誇りをただ大義にのみ依っている。だから大義を持たぬ戦いは道義にもとるのだ。
     だがな月島。
     ただただ目前の戦いにのみ絞れば、私達のおこないは所詮殺し合いだ。縄張りを守り、己の、子の餌を得るため、他者を屠る。獣と変わらん。
     お前が獣ならば、私も獣だ」

     冷たい炎の矢が月島を貫く。

     鯉登は、父殺しの理由を問わない。
     戦場でのひとごろしとは場も目的も異なるのだ。けしてそれを同一とはできないだろう。
     それでも。

    「私達は、きっとまとめて地獄行きだ。
     だが月島。
     それでも、お前は、己を誇っていい」
     
     鯉登は、月島を、否定しない。

    「お前は二度の戦を生き抜いた。敵を屠り、同胞を守り、中尉殿を守り、多くの部下に慕われている。
     お前は、お前を揶揄する凡百どもより、遥かに優れた獣だ」
     
     ──ああ、たしかにこの若者は。
     こちら側・・・・なのだ。
     弱いものは屠られるだけ。
     この若者は、とっくに戦場のことわりを知っている。
     そして。
     獣としての月島を、認めているのだ。

    「……戦場に赴くだけでも、まず誉れ。
     戦い戦功を挙げれば、勿論のこと。
     そして、生きて帰れば、尚の事だ」

     そして、悔しそうに唇を噛む。

    「……つまり今の私に誉れは何一つなく、月島軍曹の足元にも及ばない」
     それを吐露するのにこの若者はおのれの矜持をどれだけ削ったのだろう。幼い頃から、士官たれ、武人たれと邁進してきた根っからの選民エリートだ。尋常小学校すらようよう出た下士官に、私はお前に何一つ敵わないのだ、などと。
    「私はずっと月島が羨ましかったのだ。 
     鶴見中尉殿と過ごした時間。戦場の経験。 
     私がもっともっと早く生まれていれば、お前のように、鶴見中尉殿の横で、戦場を駆け抜けられたのに……」
     鯉登は再び月島を見た。
    「だが今は、鶴見中尉殿のことも羨ましく思う。
     ──月島を補佐とでき、その尽忠を受けられて……」
     
     どくりと、月島の心の臓が跳ねた。
     
     お前が羨ましい、ではない。
     
     お前の心がほしい、と。

     この若者は。そう。

    「──誰かを見上げるのではなく、部下を率いるという自覚が出てきたということでしょう。よろしいのではないでしょうか。鯉登少尉殿はこれから多くの兵を従え導く立場になるのですから」
    「──そうか」
     白い歯がひらめき、
     そのさまはひどく幼く──子供の笑みだ、と月島は思う。
     そうしてこの青年が弱冠二十歳を超えたばかりであることに思い至る。

     自分の教え。
     自分の与えたもの。
     それを素直に受け取り、染まっていく。
     自分は。
     この一振りの、刀を、研ぎ澄ますために。
     敵を殲滅せしめ、その血肉でできた道の上を歩ませるために。
     この青年を。
     
    『鯉は登れば竜となるぞ』
     

     ──上等だ。

     
     共に獣であるならば。
     自分が、爪と牙を砥いでやろう
     何者にも屠られぬ、獣の中の獣、美しき獣の王者を作りあげてやろう。
     それがこの輝ける青年を地獄へと引きずり込んだ、己のせめてもの贖罪である。
     

    「これからもよろしく頼む、月島軍曹」
     鯉登はかすかにはにかんで、月島を見た。
    「──微力ながら、尽力いたします」
     月島は静かに敬礼する。
     

     率いればいい。荒ぶる獣たちを導けばいい。あの叛逆の情報将校の足元に跪き、その寵愛を受ければいい。

     そして、その傍らに坐すのは自分である。
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    Replies from the creator

    ぎねまる

    MOURNING初登場前の、苛烈な時代の鯉登の話。わりと殺伐愛。
    過去話とはいえもういろいろ時期を逸した感がありますし、物語の肝心要の部分が思いつかず没にしてしまったのですが、色々調べて結構思い入れがあったし、書き始めてから一年近く熟成させてしまったので、供養です。「#####」で囲んであるところが、ネタが思いつかず飛ばした部分です。
    月下の獣「鯉登は人を殺したことがあるぞ」

     それは鯉登が任官してほどない頃であった。
     鶴見は金平糖を茶うけに煎茶をすすり、鯉登の様子はどうだ馴染んだか、と部下を気にするふつうの・・・・上官のような風情で月島に尋ねていたが、月島が二言三言返すと、そうそう、と思い出したように、不穏な言葉を口にした。
    「は、」
     月島は一瞬言葉を失い、記憶をめぐらせる。かれの十六歳のときにはそんな話は聞かなかった。陸士入学で鶴見を訪ねてきたときも。であれば、陸士入学からのちになるが。
    「……それは……いつのことでしょうか」
    「地元でな──」
     鶴見は語る。
     士官学校が夏の休みの折、母の言いつけで鯉登は一人で地元鹿児島に帰省した。函館に赴任している間、主の居ない鯉登の家は昵懇じっこんの者が管理を任されているが、手紙だけでは解決できない問題が起こり、かつ鯉登少将は任務を離れられなかった。ちょうど休みの時期とも合ったため、未来の当主たる鯉登が東京から赴いたのだ。
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