居ても立っても居られない「ただいま〜おかえり〜」
家に響くブラッドリーの声。スーツケースのキャスターがころころと音を立て、やがて止まる。
「マーヴ、荷物は適当に置いといて」
妙にしっかりした彼の言葉が、なんだか可笑しい。
「何笑ってんの、マーヴ」
「……いや、なんでもない」
休暇を終え空港を出た僕たちは、少しずつ明るくなり始めた空の下、ゆったりと車を走らせ家路についた。上空でブラッドリーと共に過ごす誕生日は格別に幸せだった。だけど家に着いてしまえば、もう楽しかった休暇はおしまいだ。明日からは二人揃って操縦席に逆戻り。ブラッドリーは何も言わないが、きっと彼の心の中では休暇が終わる不満をぶつぶつこぼし続けているのだろう。背中が寂しそうに曲がっている。
空港でブラッドリーに貰ったバラのブーケをそっとキッチンカウンターへ置いた。ブーケとはいっても、バラを四本束ねた小さなもの。ブラッドリーはキッチンへ回り込み、棚をいくつか開けて花瓶を探した。
「ブラッドリー、たしかあっちに入れてあるはずだよ」
「ん〜……あ、あった」
バレンタインデーに貰った花を生けるために買った、透明なガラスの花瓶。空っぽだった花瓶に再び美しい赤い花が挿される。
「よし、これで完璧」
ブラッドリーはバラを挿した花瓶を僕のそばまで近づけ、今度は花瓶があったのとは別の戸棚を開けた。そしてグラスを取り出し、炭酸水を注ぎ僕に差し出した。
「お疲れ、他に何か欲しいものはある?」
「ありがとう、でも荷解きしないといけないから大丈夫だよ」
するとブラッドリーはわざとらしく僕の言葉がわからないふりをして両手を挙げた。
「荷解き? 俺がやるよ、マーヴは手伝わなくていいからね」
「手伝うも何も、僕の荷物でもあるんだぞ」
ブラッドリーはますますわからない様子で僕に微笑む。
「マーヴ、忘れたの? 今日はあなたの誕生日だよ、何もせず堂々と座っててよ」
「誕生日が何もしない理由にはならないよ」
誰か一人に面倒なことを任せっきりにできるほど、僕は図々しくはない。……たぶん。
「いいから、俺に任せて。マーヴは好きに過ごしてて」
そう言ってブラッドリーは僕をスツールに座らせて爽やかに片目を閉じ、スーツケースを置いた玄関へと向かっていった。好きにって……あえて言うなら荷解きこそが、今一番しておきたいことだ。だけどここでブラッドリーを追いかけてしまうと、ますます彼はスーツケースから僕を遠ざけるだろう。どうしてあの子はこんなに僕に甘いんだ……。
「ブラッドリー、水着は他の服と分けて置いておくんだぞ。帰る日に着て洗う暇がなかったから、まだビーチの砂がついているかもしれない」
自分でもわかるおせっかいな口を挟むと、ブラッドリーは遠くから曖昧に返事をした。
多くの旅行客にとって、行きよりも帰りの方が荷物の量も重さも増えるのは当然のことだろう。僕たちもそうだった。一人一つに割り当てられたスーツケースには、美しい景色や二人の笑顔でいっぱいのカメラ、帰る日にまで着た水着や大切なディナーに着て行く洒落た服、自分や誰かのためのお土産など、思い出と同じくらいたくさんの物で詰まっていた。それらを選別し、洗濯機やクローゼットに押し込み、あるいは家のどこかに置いておくのは、深夜のフライト後にはきっと疲れ果てるような作業のはず。
「本当にいいのかな、あの子に任せて……」
それでも湧き上がる心配を打ち消そうとするように、手の中の炭酸水がぱちぱちと小さな音を立てて弾けた。少し離れたところでは、赤いバラが僕に顔を向けている。カウンターに並ぶブラッドリーの好意と気遣いを目にして、疲労感から来るため息には浮かれた笑い声が混ざる。うん、きっと大丈夫だろう。大丈夫、大丈夫……。
「うわやべっ!」
自分を納得させるように数回頷いている間に、ブラッドリーの怪しい悲鳴と、何か固い物が二つか三つぶつかり合う音が響いた。……大丈夫では、ないかもしれない。いやでも、“任せて”と言ったのはブラッドリーだ。彼の言葉を信じていないのか、マーヴェリック? 悲鳴の内容からして無事ではなさそうだが、ここはじっと我慢だ。振り返ってはいけない。彼が僕を呼ぶまではまだ席を立つ時ではない。
「いっそ僕を呼んでくれ、ブラッドリー……」
グラスを握る手に力を込めた。きっと今彼の元へ行っても追い返されるだろう。それこそ、ブラッドリーを信じていないのと同じことだ。彼もいい歳をした大人なんだから──
「……マーヴ、手伝って」
絞り出すような小さな声が背後から聞こえた。思わず振り返ると、ブラッドリーが立っている。
ほらやっぱり。彼は僕を必要としていた。
「さっさと片付けてマーヴとゆっくりしたかったのに、全然終わらない! さっきはカメラの上に人に渡すお土産落としたし……」
ブラッドリーの疲労を表すように、彼の髪はくたくたになってへたっていた。彼はその髪を無造作にかき混ぜ、ため息をついた。
「全部聞こえてたよ、君の声も物音も」
「……居ても立っても居られなかったでしょ」
「ああ、その通りだよ。だけど僕がいるからにはもう安心だからな」
僕はカウンターのスツールを降り、ブラッドリーの背中を軽く叩いた。その拍子にブラッドリーの背筋が伸びる。
「僕たち二人の休暇なんだから、終わらせるのも二人一緒じゃなきゃ」
「マーヴはまたそうやって良いように言う……」
「ようやく僕の出番か」
「ちょっとマーヴ、一人で全部片付けようとしないでよ、ちゃんと俺も参加させてよ」
自然と綻ぶ頬に、ブラッドリーの視線と懇願にも思える忠告が刺さる。その言葉、しばらく前の君にそっくりそのまま返すよ。
やっぱり、誕生日は何もしない理由にはならないんだ。僕の手は君に貸すためにあるのだから、僕一人にゆっくりさせようったってそうはいかない。