18/36 冷房の効きすぎたターミナルでは、思い出と共に自国へ帰る人々や非日常への旅に胸を躍らせる地元の人々の話し声が混ざり合い、一つの大きな音を作り上げている。ベンチの右隣にはプリンセスのイラストがプリントされた小さなリュックとうさぎのぬいぐるみが、左隣では冷房の容赦ない風を避けるためにマーヴがフライトジャケットをブランケットのように被っている。
島は暑かった。それはもうとてつもなく暑かった。ごく小さな島々で構成される赤道直下の国はマーヴが住んでいた砂漠より暑かった。海はどこで見たよりも青く澄み、水平線には同じようにリゾートホテルがそのまま浮かんだような構成の島がいくつかぼんやりと見えるだけで、世界には俺とマーヴ………とホテルスタッフと他の宿泊客しかいないような感覚がした。
「マーヴ大丈夫?寒い?」
「ちょっと冷えるけど大丈夫。南国の屋内なら仕方ないよ」
「何か掛けるものでもあれば良かったんだけど…。あ、ホットコーヒーでも買ってくる、待ってて」
遠慮するマーヴをベンチに待たせて、コーヒースタンドに向かった。空港の浮き足だった雰囲気は行きも帰りも不思議な高揚感を与え、様々な国の人々が同じ場所で同じ飛行機を待っている光景は決して飽きがこない。
ホットコーヒーを2杯注文し、マーヴと座っていた搭乗ゲート近くのベンチへ戻る途中背後から声をかけられた。この可愛い声はマーヴに違いない。
「ブラッドリー、こっち」
「マーヴどうしたの…って、またぁ?」
「なにが?」
「搭乗案内見るの、もう何回目?」
「ちゃんと確認しておかないと、すでに前の便が遅れてるんだから」
そう言ってマーヴは様々な言語に変わる搭乗案内の表示を真剣な目で見上げた。光る彼の目には"心配性"の文字が浮かんでいる。
「搭乗ゲートのすぐ近くにいれば何かあってもすぐわかるよ」
「案内板なら前の便の確認もできるだろ」
それはわかるけど…と言う代わりにホットコーヒーを差し出した。マーヴはありがとうと片手でカップを受け取り、もう片方の手は腰にあててまだ案内板を見つめている。
「まあ、マーヴが安心できるなら何回でもチェックしようか」
ほとんど独り言のつもりで呟きふと周囲を見渡すと、マーヴと同じように案内板を真剣に見つめる人が結構いる。その大半が子どものいる家族連れの人たちで、彼らは両手を腰にあて仁王立ちしていたり、腕を組んでいたり、何か言いながら家族の座るベンチへ戻って行ったり、人種や言語は様々だが彼らの心配性な眼差しは共通している。他の共通点は、彼らにもマーヴにも子どもがいることだ。彼らには幼い子どもたちが、マーヴにはブラッドリー(30代半ば・一応恋人のつもり)が。みんな自分の便の予定が気になって仕方ないのだ。まあ、この光景だってうちに帰れば懐かしく思えるのかもしれない。
「…マーヴみたいな人結構いるね」
「そりゃそうだろう、飛行機の移動は失敗できないからね」
「もう少しゆったり構えようよ〜…」
「わかったわかった」
マーヴは先程から何も更新されていない案内板を読む作業をやめ、俺の肩をポンと叩き荷物と共に待合の空いたベンチに座った。冷房の風が当たらない場所に移動したので、マーヴも俺もゆっくりと背もたれに身を預けながら2人してあくびした。夜に島を出発し、スピードボートに数十分揺られ続けた疲れが今になって眠気として現れた。外の景色や滑走路を眺めながら美しいバカンスに別れを告げようにも、見えるのは真っ暗な海と誘導灯くらいしかない。
「俺今寝たら飛行機の中で寝られないかも」
「でも眠い?」
「うん…なんか喋ってていい?」
「どうぞ」
マーヴは眠気に強い。あくびをしても、眠気に負けたことはない。仮眠をとるため目を閉じることはあっても起きてるつもりで意識が飛ぶような寝方はあまりしない方だ。上手く説明できないが、マーヴはまだ起きていられるみたいだ。
とにかくまだ寝たくない俺は眠気覚ましに口を動かすことにした。ビーチで読もうと持って来た本は読破してしまったし、音楽も2人で散々聴いたのでやることがない。空港の売店ももう何周かした後だった。
「マーヴはこの旅行楽しかった?」
「すごく楽しかったよ」
「良かった。俺もだよ」
マーヴに向き直る形で背もたれに肘をついた。家に帰れば、冷房で冷やされたベンチのこの温度すら懐かしくなるのだろう。斜め上から見るマーヴの伏せたまつ毛、カップを掴みこそこそと動かす両手の指、力の抜けた両脚だって、この瞬間にしか見られない。ああもう、さっきからこんなことばかり考えて…。
「1週間あっという間だったなぁ」
「ほんとにね。1週間あって1回しか抱けなかった割にはあっという間だった」
「すまん…僕のせいで我慢させて…」
意地悪なことを言うつもりではなかったのだが、マーヴがシュンとしてしまったので慌ててフォローした。
「マーヴのせいじゃないよ、悪いのは過酷な自然だよ」
実際にマーヴが原因ではない。
「いやでも迂闊だったよ…ここの日光をなめてた」
「それは俺もだよ…マーヴの体なのに…。帰ったら病院で診てもらおう」
「病院に行くまでもないよ、そこの売店の塗り薬でだいぶマシになったし」
「いーや、とにかく病院には行くから」
駄々捏ねようが症状が改善してようが絶対連れて行くからな。そんな気配を感じ取ったのか、今度はマーヴから話題を提供した。
「また泊まりたいなぁ、あのホテル。次はビーチヴィラで、日焼け対策も抜かりなく」
「俺も…なんなら今からでも戻りたい」
「残念、うちに帰るよ。それに戻ったって病院もないしまだ僕を抱けないよ?」
「マーヴとはうちのベッドでする…でもまだ帰りたくない…」
頬杖をついていた頭をずるずるとマーヴの肩に落としもたれかけたのと同時に、床に足で挟んでいたバックパックが倒れた。まるで現実世界への帰還を拒否する俺のように、力もなくぐったりとした動きだった。
「ほらブラッドリー、写真の君はこんなに楽しそうじゃないか」
そう言って子どもを慰めるような優しい声でスマホ画面を俺に見せた。確かにその画面の中での俺は楽しそうに笑い、スマホを構えるマーヴに何か話しかけている。何と言っていたのかは記憶にないが、今日の午前中まで俺とマーヴは世界一のビーチにいて、白いパウダーサンドを踏みしめていた感触はまだ足の裏に残っている。
「その楽しそうなブラッドリーはもういません…」
「ははっ、そんなこと言うなって」
困ったように笑い俺の太ももを軽く叩くマーヴ。
「お家に帰るまでが遠足です、って先生に言われたことない?」
「ない…」
「なら僕との旅行も同じだから、覚えておきなさい」
「Yes, sir…」
三十何年も生きていれば、旅行自体にもその前後の準備などにも慣れている。いい大人が帰り道に少し寂しいと思うことはあっても、マーヴ以外の人間と行く旅行をここまで恋しく思ったことはない。
「あ〜…仕事戻りたくねえ〜…」
「仕事は君に戻ってきてほしいと思ってるかもよ」
「なにそれ」
「意味はないよ…君が嫌がるから励まそうとしたんだよ…」
あまりに渋る俺にさすがのマーヴも引き気味だ。
「帰ったら荷解きしないとな、ブラッドリー」
「そっか………そうか………」
もはやマーヴの方から家に着いた後の話をし始めてしまったので、いよいよ夢も覚める時だ。
「荷解きして、洗濯して、お土産も整理して…」
マーヴは"帰ったらやること"を指折り数えている。洗濯…なんて現実的な響き。
「家着くの何時?」
「さあ、何時だったかな?」
おもむろにマーヴは立ち上がって伸びをした後、どこかへ歩き始めた。
「マァ〜ヴ、また見に行く気?」
「違うよブラッドリー、そこで待ってて」
"ステイ"の手で腰を浮かしかけた俺を席に座らせにこりと笑ったマーヴは、明らかに人目を引いていた。声が大きかったのもあるが、夜の空港を照らすマーヴの微笑みがあまりに眩しくて、俺だけでなく周囲の人間全員の視線を釘付けにしたのだ。そんなことには気づきもしないマーヴはそのまま売店が集まる方へ歩いていった。
何しに行ったんだろう。コーヒーのお代わりなら俺が買いに行くのに。マッサージ屋にでも行った?なら俺を誘うか。俺を置いってったってことはすぐに戻ってくるのだろう。それにしてもあの人元気だな。俺は疲れたよ。今度は水上飛行機で行こう、スピードボートはもう十分。
半分寝ながら今すぐ考えなくてもいいようなことを考えていると、マーヴが戻ってきた。手には小さな袋を持っている。
「お待たせ」
「何か買ってきたの?」
「そう、これをブラッドリーに」
何も書かれていない、いかにも空港のお土産屋らしい白い袋。中身はもっと小さくて、触ってみるとふわふわしている。取り出すとそれは小さなテディベアだった。子どもの手のひらにも乗るサイズで、お土産屋では定番の地名が刺繍されたクマ。
「…マーヴ、俺もう子どもじゃないよ」
「こんなにこの旅を恋しがって帰りたがらないのに?」
マーヴは慈しみの目で俺を見ている。もう子どもじゃないとは何度も言ってきたけど、まさかクマちゃんを買ってくれるとは。
「今日からこの子は君の相棒だよ。君が仕事に戻りたくないっていうから、君についててくれるようにこの子に頼んだんだ」
クマを手に取りこちらに向けながら話すマーヴには、隣に座っているのがブラッドリーくん(3歳)に見えているのだろうか。それなら俺はだらだらと文句を垂れていたことを反省したい。30代半ばの働く人間としての自覚を持ちます。
「マーヴ、優しい気遣いはすごく嬉しいし可愛い相棒も気に入ったけど、仕事に戻りたくないのはマーヴと離れたくないからだよ。まあ、さすがにちゃんと仕事は行くけど」
「ならこの子を僕だと思ってくれ」
「そういうことなら、その子を服の胸元に入れて基地中を連れ回そっかな」
「…基地のロッカーにでも入れておいたら?」
服に小さなテディベアを入れて歩き回るブラッドリー(30代)を想像したマーヴは何とも言えない、嬉しいのかやめてほしいのか本人にもわかっていない微妙な表情でクマの置き場所を提案した。ほら、もう子どもじゃないんだってば。
さてこの子グマをどうしようかと考え中、あることを思いつきその勢いのまま立ち上がった。そして子グマを手にしたままベンチで目を丸くするマーヴを振り返り言った。
「その子の名前、ピートで決まりね」
「そ、それはそのまますぎないか?」
「だって俺の相棒だし」
困惑の表情が拭えないマーヴを背にお土産屋へ向かった。同じ小さなテディベアを買うために。名前はブラッドリー、今日からマーヴの相棒だ。俺の代わりにマーヴについててもらえるように頼むつもり。その子を俺だと思って。
クマのブラッドリーを連れてマーヴのもとへ戻る頃、搭乗案内板の表示が変わりひとつ前の便の搭乗が開始した。ターミナルに響き渡るアナウンスが、現実世界を連れて俺とマーヴに近づいてくる。夢のような1週間とこれから再開する現実世界の狭間にゆったりと居座っていられるのも、あと少しだ。