サマー・タスク「ねえ、もう夏終わるよ!」
ブランチが並ぶダイナーのテーブルで、マーヴは何の前置きもなくそう口にした俺の声に目を丸くした。そのまま彼は周囲のテーブルに視線を巡らせ、他の客に俺の渾身の叫びが聞こえていないかと確認して曖昧に答えた。
「そうだね……いや、そうかな?」
「どっち?」
「そうかな、の方」
それから片手にフォークを持ち、サーモンのサラダを飲み込みながら窓の外を指し示す。
「ブラッドリー、外を見て。こんなに暑いんだ、まだ終わったりしないよ」
「そんなこと言ってたら知らないうちに置いてかれるよ」
「誰に?」
「夏に」
マーヴは口を薄く開け、わけがわからないとでも言いたげな視線を俺に向けた。そういう人が一番夏に置いていかれちゃうんだよ。
「それを"夏の終わり"と呼ぶんじゃないのか? 僕たちを置いて去る時を」
「だから、置いてかれる前に一緒に過ごさないと」
「誰と?」
「夏と」
今度のマーヴの視線は、理解することを諦めた人間のそれになっていた。そしてサラダに視線を落とし、黙ってルッコラにフォークを刺した。俺の真剣さに気づいていないみたいだ。
「つまり、夏にやり残したことはないかってこと」
「やり残したこと? 特に思いつかないけどなぁ…」
マーヴは答えながら軽い音を立てて咀嚼した。マグカップから離れた温かい彼の指先がこちらに伸びてくる。何かと思えば、彼は俺の皿にのったフレンチフライを一本取って食べた。口に入れる時、彼の目は俺を見て光っていた。これは何か思うことがあるんだな。
「例えを言ってくれたら一緒に考えるよ」
ほらきた、マーヴも案外夏を惜しんでいるんだ。
「考えるだけ?」
「ものによっては実行する」
にやりと笑うマーヴにスイッチを押され、俺の頭がフル回転し始めた。
「じゃあまずは…海に行く」
「チェック、行ったね」
マーヴは人差し指で空中にチェックマークを描いた。
「海で泳ぐ」
「そんなに細かく分けるの? ならそれもやったよ。君はずっと仰向けで浮かんでるだけだったけど」
「砂浜でくつろぐ」
「もちろん、それも"済み"だ」
彼は今度はコーヒーのマグカップを目線の高さで掲げて、チェックの代わりにした。
「あとは……あ、ちょっと待って、書くから」
テーブルのナプキンを一枚取り、店員からボールペンを借りた。今までの夏の風物詩を書き並べ、チェックマークをつけていく。
「海でしょ、砂浜でしょ…よし、次は? プールで泳ぐ、は?」
「それは海と一緒にしてしまっていいんじゃないか?」
「別物だよ」
はいはい、とマーヴは適当に返事をした。"pool"の文字の隣にチェックをつけ、さらに考える。
「マーヴも思いついたら言って。やったことでもまだやってないことでもいいけど、やったことを書いていけば自ずとやり残したことが浮かんでくるよ」
「うーん…。日焼け、とか?」
「それそれ、そういうの。肩が真っ赤になってしばらくマーヴに触れられるのも痛かったんだよね……うん、それも夏だね」
こちらが大きく頷いている様子を見て、マーヴはほんの少しの呆れを滲ませて笑った。
「あとは…星空を眺める」
そう言ってマーヴを見ると、彼は窓の外の眩い青空を見上げていた。
「綺麗だったなぁ、君と見る天の川」
「厳密には夏限定のものではないんだけどね」
「厳しいな」
マーヴはまた笑った。その笑顔を見ていると、潮風が混じる夏の夜の匂いを思い出す。
「あとは?」
「もう僕に丸投げ?」
「違うよ、マーヴにも夏を振り返ってほしいだけ」
「えっと…じゃあ、外でシェイブドアイスを食べて、舌をカラフルなシロップの色に染める」
それだ!とマーヴを指差すと、彼はコーヒーを啜りながら親指を立てた。それは正真正銘の夏だ!
「乗ってきたね、マーヴ」
「君が乗せたんだよ。……ああ、すみません、コーヒーのおかわりを…」
マーヴは俺に微笑み、店員を呼び止めた。ありがとう、と店員を見上げるマーヴの上向くまつげがちらりと光った。
「マーヴ、これは? タンクトップで外に出る」
「それは君だけだろう」
マーヴは毎日しっかり肩を隠していた。そのおかげで彼の両肩は痛々しく焼けたりしていない。
「そうだよね…あ、わかった、触れ合うと日焼け止めの匂いがする」
「ああ、それもアリか」
言いながらマーヴは自分の腕に鼻を近づけ、肩をすくめた。これもチェックの代わりだ。
「マーヴの夏の匂い、たまんないわぁ」
「そうやって独り言みたいに言うけど、その音量はあえて僕に聞かせてるんだよね?」
「うん」
夏が作り出すマーヴの匂いがどうしても好きだ。汗と日焼け止めが肌に滲み、身体が暑さに反応している時の匂い。
俺がリストにチェックを入れたのを見計らい、マーヴが口を開いた。座っても変わらない身長差が彼を上目遣いにさせる。
「それなら僕も言わせて」
「もちろん、どーぞ」
「君のべたつく肌の感触も、夏らしさの一つだと思うよ。君は昔から汗っかきだから、身体中に汗が滲んでべたべたするんだ。でも君は僕に肌を触れさせるのをやめない。そうだろう?」
「そうです」
マーヴは満足げに頷く。
「クーラーも君の汗には意味がない」
「夏は仕方ないよね」
「君の腕や首や背中はもちろん汗で濡れているし、ふくらはぎまでべたついてる」
テーブル越しに足元を指差すマーヴの話を聞きながら、静かにフォークを置いた。それから右手を氷水が入ったグラスの結露で冷たく濡らし、その手でマーヴの空いた左手を握った。
「じゃあ俺の手はどう?」
「うわっ!」
マーヴの無防備な手を握ると、彼は大袈裟に驚いて笑った。
「びっくりした、本当に手汗かと思った」
「そんなわけないでしょ、さすがに」
「握ったボールペンに水滴がついていたことは?」
「…あるけど」
ほらね、とマーヴは眉を上げ、ペン先が出しっぱなしのボールペンとリストが完成途中のナプキンを手に取った。くるりと指先でペンを回し、何か書き始める。
「君の汗のことも書いておいてあげるよ」
「それはどうも…」
その後も"ひんやりしたモールで涼む"だの、"食材が傷む前に急いで食べ切る"だの、ネタ切れとしか思えない風物詩を出し合い、気づけば2人で4杯ずつコーヒーを飲んでいた。
マーヴは指先でペンを弄びながらナプキン2枚に渡る"この夏やったことリスト"を眺め、最後にようやくペン先を戻した。
「君は結局何か思いついた? やり残したこと」
「えー…うーん…」
「言い出しっぺは君だろ」
マーヴは軽い調子で笑った。それにしても、よくこんなにもたくさん夏らしい体験をする余裕があったものだ。俺もマーヴも、もしかしたら暇なのかもしれないな。
「そんなに夏が終わるのが悲しい?」
「悲しいというか…寂しいって感じ」
俺がテーブルに乗り出し頬杖をつくと、マーヴはゆったりと背もたれに身体を預けた。
「秋や冬には同じことは思わない?」
「うーん…ほら、夏って日が長いし、やろうと思い立てばどんなこともできる気がしない? だけど夏が終わると途端に日が短くなって、思い立って使える時間がどんどん減っていくでしょ」
マーヴは組み立て切れないこちらの考えを察するため、じっと耳を傾けていた。
「…とは言ってもこんなに色々やったら、次の夏にやることなくなっちゃうよね」
そう言ってマーヴが寄越したリストを読み顔を上げた。マーヴは口に運びかけたマグカップを空中で止め、きょとんとした表情で俺を見ていた。
「そんなの、次の夏だって同じように楽しめばいいだろう? 毎年新しいことをする必要はないよ」
「まあ…それもいいのか…」
「いいに決まってる」
マーヴは俺の口調を真似て答えた。
「僕は来年も同じビーチで過ごしたいし、同じプールで泳ぎたいよ」
「…そう?」
「ああ。君と一緒にいれば、次もいい夏になりそうな気がするんだ。君さえいれば夏が去るのも惜しくないよ。たとえ日が落ちるのが早くなっても、少なくとも君と僕は同じ24時間を共有しているんだから」
「…なんか今日のマーヴ、俺っぽいこと言うね」
そうかな、とマーヴは笑う。
「それに、僕と過ごす秋は楽しみじゃないの? 僕は君と一緒の秋にもわくわくするけどなぁ」
笑った後はほんの少し意地悪な顔を見せる。俺の答えなんかわかりきってるくせに。
「そんなの、楽しみに決まってる」
ついさっきマーヴが真似たばかりの口調で答えた。マーヴは自分の物真似があまり似ていなかったことに気がつき、恥ずかしそうにはにかんだ。
マーヴの指摘通りのべたつく肌が、腕を乗せたダイナーのテーブルに冷やされていく。ぬるくなったコーヒーは香りも立たないが、代わりにエアコンの機械的な匂いが漂っている。店に入ってくる客は皆涼しさにほっとした様子で息をつく。入道雲は見えないが、太陽はまだまだ手加減しない。だけどこちらは夏に別れを告げる準備ができた。夏の終わりの焦燥感を、少しずつ景色がくすんでゆく寂しさを、マーヴだけが取り去ってくれる。