私には弟と妹が11人いた。正確には妹が3人、腹違いの弟と妹が8人だ。いわゆる妾の子というヤツである。
我が家は、時代が時代であればこの地を納める武士の家柄であった。廃藩置県後、無駄に土地だけを持て余した唯の一般人になったが、幸いにも先代が優秀な人で、土地と人脈を活かした産業に目を付け、今も代々残る立地な屋敷と土地と資金を有した名家のままであった。
その事を鼻にかけていた親父はそれはそれは酷い女遊びをしては余所で子を作っていたロクデナシだった。
「俺は武家の出なんだ。時代が時代なら側室を迎えて妻が何人いても良かったんだ。」
これが親父の言い分である。そう、時代が時代ならば良いだろう。しかし、今は大正。しかも武士としての権限は剥奪されているし、なんなら親父は刀を握った事すらない。
勘違いも甚だしい話だ。
職人としては優秀だった親父がこんななもんだから、いつ事業が傾いても不思議では無かったが、母が人格者であったが為に我が家は潰れる事は無かった。
母は妾の子達を全て引き取り、別け隔てなく育てているとんでもない人だった。
一度だけ「なぜ他所の子を引き取るの?」と聞いたことがある。すると母は
「せっかくこの世に生まれたのに、衣食住の心配をしながら生きていくなんて辛いだろう幸い、ここはお金だけはあるからね…それにね、お父さんの子だから余所の子じゃないの。私達は小さな繋がりがあるのよ。ほんの少しでも出来た繋がりなんだから、それだけでも引き取る理由には十分でしょ?」
と照れくさいに言っていたのを覚えている。つまりは、惚れた弱み、あんなクソ親父の血を引いてりゃ余所で作った子でも構わないという。
とんだ変わり者でお人好しだ。だからつけあがって親父が女遊びをやめないんだ。
反吐が出る。
あの日もそうだった。
親父が女を連れ込んできたのだ。
母が妊娠中だというのにだ。
呆れて物も言えない。住み込みで働いている職人さん達も白い目で見ている。
酒臭さをまとう親父に女がまとわりついていた。恐ろしく美しい女だった。肌が白く、口の大きな女。
親父と女はゲラゲラと笑いながら離れに入っていった。
母は慣れたもんだと言わんばかりに、そんな事に目もくれず、弟と妹達が食べた夕飯の片付けをしていた。
その晩。番頭の鉄さんらしき人の叫び声がして目が覚めた。
鉄さんは爺さんの代から家で働いている職人さんだ。曲がった事が大嫌いな人で、何度も親父とぶつかっていた。女を連れ込んできた事に腹を立て、また親父と喧嘩をしているのかもしれない。あちこちで怒声も聞こえる。すると今度は安さんの叫び声がした。
流石に大人二人の叫び声となっては只事では無い。
同室の弟と妹達も目覚めてしまった。
「ねぇちゃん…」
「大丈夫。待ってな。姉ちゃんが見てくるから。」
いつもは母がいさめに行く所だが、母は今、身重だ。わざわざ心労を増やしに行く必要も無い。
「大丈夫かい」
「母さん、私が見てくるよ。子供達と一緒にいな。」
「でも…」
「大丈夫、大丈夫。何かあったら職人さん達が助けてくれるし。」
「お父さんと喧嘩しちゃ駄目よ。」
「はいはい。」
こんなんでも親父を庇う母が理解できない。
早く自立して親父を追い出したい。母はそれを許してくれるだろうかまた繋がりがなんだと説くのだろうか世の中には捨てた方が良い繋がりだって存在するはずだ。
親父が女を連れ込んだ離れは、本来は住み込みで働く職人さん達の為にある。主に若手の人達が住んでいるが、独り身の職人さんも何人かいた。住んでいるのは皆男の人ばかりだ。
よくそんな所に女なんかを連れて行くもんだ。行く方も行く方だ。
とにかく、今日は女もろともを親父を追い出す。本当に迷惑な奴だ。あんな大人には絶対にならない。なりたくない。
母屋から離れに繋がる廊下に差し掛かった頃、また叫び声がした。
「…えっ。」
近くに来て分かった事だが、明らかに言い争いをしているような声では無い。
耳をつんざくような声。これは恐怖から来る叫び声だ。喧嘩をする怒号なんかじゃない。
思わず足がすくんでしまう。
叫び声は1人2人だけじゃない。どんどん何人もの叫び声が響きあっていた。こころなしか血生臭さも感じる。
これは危険だと体が発している。冷や汗が背中を伝って、やたらと心臓の音がうるさく聞こえた。足が動かない。
何かが起きてる。喧嘩なんかじゃない、大の大人が叫び声を上げるほどの事が、今、目の前の離れで起きている。
どれほど動けなくなっていただろうか。気がつくとあれ程の叫び声がピタリと止んだ。
静寂が響き渡る。いつも聞こえるはずの虫の声すら聞こえない。どうしよう…どうしたらいい?離れに向かって様子を見に行くべきか…。でも足が動かない。ただ気持ち悪い風が頬を撫でる。
「きゃあぁぁああぁ」
すると今度は母屋から叫び声がした。
この声は…子供達、妹達の声だ。
急いで自室に走っる。
子供達が、母が、襲われている。
何者かに襲われている。
助けなきゃ。早く。
行かなくては
やっとの思いでついた自室の戸を勢いよく開ける。
「ひっ⁉」
目の前に広がるのは異常だった。
床には血の海が広がっていた。四方八方に血飛沫が飛び散り部屋一面が真っ赤に染まっている。子供達と母の姿はどこにも見当たらない。しかし、この血の量からして明らかに無事では無い事が予想できる。
「な、なんで…どうして…」
どうしたら良い?子供達は?母は?何をどうすればこんな血溜まりができるんだ?どうすれば天井から血が滴り落ちるんだ?
私はどうしたら良い?
逃げるべきなのか?
どこに逃げれば良い?
誰に助けを求めたら良い?
一体何が起きている?
恐怖で涙をボロボロ流しながら、必死に考えを巡らせたが答えが出てこない。
「アハハハハ」
誰かの笑い声がする。こんな状況で笑える人間なぞ、この惨劇の犯人やもしれない。
とにかく逃げなきゃならない。屋敷から出なくちゃならい。
逃げて助けを求めなくちゃいけない。
恐る恐る部屋の外を確認する。相変わらず恐ろしい程の静寂が響き渡る。この屋敷には少なくとも30人の人間が生活していたはずなのに。
何も聞こえない。
闇夜を一目散に駆け出した。門までの道のりなんてたかが知れてるはずなのに、酷く遠くに感じてしまう。恐怖でいつも当たり前にある木々ですら恐ろしく見えてしまう。
門だ。とにかく門の外にさえ出られれば助かるかもしれない。
誰かに助けを求めれば助かるかもしれない。
きっと助かる。
助かりたい
助けてほしい
しかし、やっとの思いでついた門には絶望が待っていた。
「っ…」
必死の思いで辿り着いた門の前には、今まで存在しなかった山ができていた。
肉塊の山だ。
首や四肢はもげ、誰のものかも分からない臓物だらけの山ができあがっている。
「うっ」
恐怖と匂いで胃にある物を全て吐き出した。
こんな事をできる人間がいるものか。
化け物だ。
化け物がやったに違いない。
「アハハハハハアハハハ」
またあの笑い声がする。それも近い。
肉塊の山のせいで門を開く事が出来ない。裏門に行こうにも、今動けば声の主に見つかってしまうだろう。
逃げなければ。この場から離れなければ。
でもどこに声が近い。
呼吸が荒くなる。嫌だ。怖い。逃げ場がない。いや、一つだけある。しかし、こんな所に隠れたくない。でも、今隠れなきゃ殺される。
「アハハハハハ」
やれ行くんだ生き残れ生き残れ生き残るんだ私生き残るために覚悟を決めろ
意を決し生温い臓物を掻き分け、山の中で息を潜める。
少しでも気を緩めてしまえば発狂したくなる。
ぬるぬると粘着く油と血の感触が酷く気持ち悪い。
むせ返るほどの鉄の匂いが肺にまで入ってくる。
震える手を強く握り、カタカタとなる歯の音を抑える為に唇を強く噛んだ。
肉塊の隙間から、今だ高笑いする声の主が見えた。
女?
あれは、女なのか?
しかし、女にしては恐ろしく大きい。そしてケラケラと笑う口元は血でベットリと赤く染まっており、月明かりに尖った牙や爪が見える。
あの女…あれは父が連れ込んだ女た。あれは人間じゃない。
化け物だ。
化け物は手に何かを持っており、それを眺めてはケラケラと笑っている。
あれは
あれは、弟と妹達の首だ。
もう片方の手には何かヒモが巻き付い小さな人型の…あれは赤子…まだ生まれるには早すぎる赤子だ。ヒモだと思われたのは、赤子のヘソからでているへその緒だった。
出したのか
母の腹から引きずり出したのか
私の可愛い弟と妹を
この化け物は皆殺しにしたのか
「あぁ、やっぱり子供の血肉って最高あの男の言う通り、子供が沢山いたわぁ。赤子は丸々と肥えてからのが美味だが、まぁこれだけ食えるんだから良しとするかね。…ふふ、アハハハハハ」
ひとしきり笑った化け物は、大きな口を開けて弟と妹達の頭をバキバキと食べていく。そして最後に赤子をつるんと丸呑みにしてしまった。
「はぁああ…。力がみなぎるわぁ…。
まだ子供の匂いがする…。」
化け物の眼が妖しく光る。獲物を狙うかの様に鋭く殺気だった。
「どこ…。どこに行った?食ってやる。1人残らず、指一歩残さず、食い尽くしてくれるわアハハハハハ」
高らかに叫ぶ化け物。
今度は私が殺される。
私もと子供達と同じ様に食われる。
「アハハハハハアハハハハハアハハハ、ぁ⁉」
狂った様に化け物が笑っていた瞬間、今度は化け物の首が高らかに飛んだ。
ゴトリと落ちた首は目を見開きパクパクと口を上下させている。
刀だ。
炎を纏った刀が見える。
次から次へと奇っ怪な物ばかりおきる。
恐怖心で心を埋め尽くされた。それに耐える事ができず、私の意識はここで途絶えた。
※※※
「炎柱様…生き残った住民はいないようです。」
「…そうか。」
炎柱、煉獄槇寿郎は目の前に広がる肉塊の山に手を合わせた。
なんと酷い有様だ。この鬼はこの辺りの民家を襲っていた鬼だった。子供を狙って食う鬼で、それ以外の大人は鬼の玩具になり、見るも無惨な姿にされていた。この屋敷の大人達も全て四肢をもがれ、腸を引きずり出された挙げ句山積みにされていた。
助けに来るのが遅くなってしまった事を心の底から詫る他なかった。しかし、どんなに詫ても目の前の命が還るわけではない。
「手厚く供養してやってくれ。」
「…はい。わかりま…あぁ」
驚きの声を見せる陰の隊員の方を見ると、肉塊の山から小さな手が見えた。その小さな手は微かにだがピクピクと動いている。
「まさか⁉」
槇寿郎が肉塊を掻き分けると、まだ幼い少女が埋もれていた。
頭の先から爪先まで血でベッタリ濡れており、小刻みに震えていた。
話しかけても返事は無く、目の焦点も合わない。
まさか、鬼から逃げる為にこの中に隠れていたというのか。見た所、息子の杏寿郎と差して違わない年齢に見える。
「なんて事だおい救護班至急こっちに来い急患だ」
極度の緊張状態が続いた為か呼吸も荒く不規則で、ガタガタと震えながら時々ピクピクと痙攣をおこしている。
「もう大丈夫だ安心しろおい」
槇寿郎の声も虚しく、少女は震えながら虚無を見つめていた。
※※※
「急な話で済まない。」
「いえ、問題ありません。一番辛いのは本人でしょうから。」
少女を助けてから数ヶ月。変わらず少女は虚無の中をさまよっている。
目を見開き、焦点の合わない眼で何処かを見つめていた。そして夜になると狂った様に叫びだす、完全に狂人と成り果てていた。
食事もほとんど手を付けず、みるみる痩せ細ってしまった少女は、明日をも生きられない程に憔悴しきっている。
一族を皆食われてしまった彼女の引き取り手など無く、ましてやこんな状態で誰かに引き渡すわけにもいかず…
医者もこのままでは半年もつか分からないと告げていた。
早く助けてあげられなかった自責の念から、槇寿郎はしばし少女を預かる事にした。
最後くらい、彼女を看取ってやれればと思っての事だった。
「それと…」
「杏寿郎の事ですか?大丈夫です。私がよく言って聞かせますから。」
「あぁ。頼んだ。」
息子からすれば、突然あの様な少女を連れてこられて困惑してしまう事だろう。
しかし鬼を狩る一族として、このような場面に遭遇する事は珍しくもない。
「引き受けてきて申し訳ないが、すぐに立たねばならない。身重の君に無理ばかりですまない…」
「お任せください。槇寿郎さんは、任務に専念してください。」
「あぁ。」
妻の瑠火は臨月に差し掛かったばかりである。
そんな彼女に家の事だけでなく、こんなに弱りきった娘の介護まで頼むのは、非常に心苦しいものであった。
「母上」
はつらつとした声がひびく。
杏寿郎は外で稽古をしてきたのか、額には汗が滲んだ跡があった。
「父上はどうされましたか?」
「父はまた任務に行かれました。杏寿郎、そこに座りなさい。大切な話があります。」
「はい」
いそいそと母の前に座り、母からの話しを今か今かと待つ。
そんな杏寿郎の姿に、瑠火はクスリと微笑んだが、すぐに真剣な眼差しを杏寿郎に向けた。
「今、客間で女の子寝ております。訳合って、しばらく我が家で見る事になりました。ちょうど貴方ぐらいの年齢の子です。」
「本当ですかならば、今すぐ挨拶をしてきます」
「あっ、杏寿郎待ちなさい」
杏寿郎は少し浮かれてしまった。
自分の住む家の付近には、自分と近しい年齢の子供が居なかったからだ。
もしかしたら友達になれるかもしれない。
そんな淡い気持ちで客間へ向かったのだった。
しかし客間を開けてみれば、そこに居たのは枯れ果てた花の様にくたびれた女の子が、「あぁ」や「うぅ」とこれまた枯れ果てた声で呻いていたのだった。
なんだこれは
杏寿郎が初めて彼女を見た感想である。
これは人なのか
同じ子供なのか
人とは、こんなにも枯れ果ててしまう事が出来るものなのか
同じ年頃の女の子と聞いていたのに、目の前にいるのは得体の知れない何かだ。
気持ち悪い
子供故の素直な気持ちが全身を駆け巡った。
「これ…杏寿郎…こちらに来なさい。」
母の言葉にハッとする。
今、母が居てくれて良かったと心底思う。
「は、母上…」
「彼女は、心も身体も疲れているのです。そっとして差し上げなさい。」
「………はい。」
そして、母の言葉に安堵した。
もし、この気持ち悪い少女の面倒を見ろと言われたらひとたまりもないと思ったからだ。
“そっとしておく…”つまり“関わらなくて良い”のだと安心したのだった。
しかし、杏寿郎の安心はつかの間だった。
深夜、突然の叫び声が家中に響く。
何事かと目が覚めれば、隣で寝ていたはずの母が居ない。
あの叫び声は母のものなのかと声の元にむかえば、それはあの気持ち悪い少女のものだった。
断末魔
そんな声をひたすら上げ、のたうち回っている。
そんな少女に身重の母が「大丈夫、大丈夫」と声をかけているのだった。
杏寿郎としては、気が気じゃない光景だ。
もし、あの少女が母に何かしたらどうしてくれる
もうすぐ生まれるはずの可愛い可愛い兄弟に何かあったらどうしてくれる
杏寿郎にとって、少女は気持ち悪い存在から嫌な存在に変わっていった。
思わず眉間にシワがよってしまう。
母は自分が守らなくては…
あの少女が何かしたらタダじゃおかないと、静かに少女を睨みつけるのだった。
結局、少女の叫びは朝日が登るまで続いた。
母は座りながらコクリコクリと船を漕いでいる。
しかし、杏寿郎はひたすら少女を睨みつけた。
少女はまた枯れ果てたように萎れ、低い声で呻いている。
杏寿郎は少女が許せなかった。
そんな日々が何日も続く。
必ずと言って良いほど、少女は夜になると叫びだす。
そして、それを母がなだめる。
重いお腹を抱えながら、ほとんど寝る事も出来ずに少女を看病するのは辛い事だろう。
殊更に杏寿郎は少女が許せず、そして大嫌いだった。
そんなある日の事
日に日に疲れが目に見えて出ている母が倒れたのだ。
急いで母に近寄って見れば、足元が濡れている。
破水したのだ。
更に母が苦しそうに呻いている。
「は、母上」
「きょ、杏寿郎…お、落ち着きなさい…とにかく…うぅ…」
「母上」
今日も父は不在だ。
手伝いの者も家に帰ってしまった。
産気づいた母に、杏寿郎はどうしたら良いのか分からず混乱してしまった。
「あぁあああぁあぁああぁぁ」
そして、こんな時に少女の断末魔だ。
杏寿郎の不安を更に煽る。
「母上母上」
「杏寿郎…は、はやく…いしゃ…を、うぅ」
そうだ医者だ
医者を呼べば良い
杏寿郎は走り出した。
がむしゃらに走って玄関に向かった所で、何かにつまずいて転んだ。
見れば、断末魔を上げ、のたうち回っている少女だった。
今日は母が居なかったから、部屋から飛び出してしまったのだろう。
「いい加減にしてくれ」
力の限り叫んだが、断末魔を上げる少女には届かない。
早くしなければ
早くしなければ、母が、兄弟が、赤ちゃんが
込み上げてくる沢山の気持ちに思わず涙が出だ。
「母上が赤ちゃんが産まれれそうなんだだから邪魔をするなっ」
するとピタリと少女の声が止まった。
あの枯れ果てた顔についた濁った目が杏寿郎を見ている。
「あ…か、ちゃん…」
「そうだ今すぐ医者を呼ばなきゃならないんだだから邪魔をしないでくれ」
「ちがう…」
少女の目がカッと見開く。
「産婆さんを呼んで…」
「さんば……あぁ、そうか」
混乱していた為、医者だ、医者だと焦っていたが、母はいつも近くの産婆さんに見てもらっていたのだ。
杏寿郎は、少女の事には目もくれず、急いで近くの産婆さんの元に走った。
「早く母上が死んでしまう」
「ぼ、坊っちゃんその前に私が死にますぅ」
産婆さんの手を引き、全速力で走る。
やっとの事でついた母の部屋に入れば、目を疑う光景が広がっていた。
「うぅ、う………」
「………」
あの少女が母に水を飲ませ、ひたすら腰をさすっていたのだ。
今にも折れてしまいそうな骨と皮だけの手で、ただひたすら、力強くさすっていた。
信じられない光景に、言葉が出ない。
「ぼ、坊っちゃんとにかく、沢山のお湯を沸かしてください」
「あ、っ、はい」
そうだ。
母は産気づいているのだ。
急がなければと走って台所に向かう。
「湧いてる……」
そこには、既に沸かされた湯がゴポゴポと音を立てて煮立っていた。
これも、あの少女がやったのか
あの少女は慣れているのか
いつの間にやったんだ
様々な疑問が脳裏をよぎる。
「ねぇ…」
思わずドキリと肩が跳ねた。
振り返ってみれば少女が立っている。
いつの間に後ろを取られたのか…
何も出来ていない事と、あっさりと後ろを取られた事で自分が情けなく感じた。
しかし、少女は全くそんな事を気にしていない。
濁った目で杏寿郎を捕らえている。
「手拭い…」
「え」
「綺麗な手拭いを沢山用意して…後、ご近所の奥さん達にも手伝ってもらえるか、聞いてきて…」
「わ、わかった」
あんなにも大嫌いだった少女の言葉が、今はとても頼もしく感じる。
杏寿郎は素直に従うしかなかった。
少女のいう通りに、近所の女性達に声をかければ、後はあっという間だ。
あちらこちらで女性が動き回り、女性が仕切り、あんなにも不安だったのが嘘のように全てが上手く回っている。
そんな中でも少女は的確に動き回り、誰に指図されるわけでも無く仕事をこなしていた。
「坊っちゃん、あの子、大丈夫なのかい」
「え…うん…」
皆、口々に少女の事を話している。
そりゃあそうだ。あんな枝の様に細く、薄汚れた身なりなのだから仕方がない。
しかし、何故だろうか
少女の悪口だけは聞きたくない。
そんな気分だった。
「彼女が全部指示してくれたんだ。彼女が居なかったら、今頃大変な事になってた。だから、彼女は赤ちゃんと母上の恩人だ」
「……そうかい良かったねそれじゃ、あの子に感謝だね」
その言葉に思わず笑顔で頷いてしまうのだった。
それからしばらくして、母の辛そうな声が響いた後に、大きな、そして可愛らしい産声が響いた。
母の部屋からは「おめでとう」やら「頑張ったね」やらの声が聞こえ、皆嬉しそうに笑っていた。
杏寿郎の心には沢山の暖かい気持ちが溢れた。
良かった、良かったと涙した。
そして、一言彼女に感謝の気持ちを述べようと彼女を探せば、まだ彼女はせかせかと大人に混じって動き回り、母の部屋に湯を運んでいた。
「君産まれた産まれたぞ」
「……」
「ありがとうありがとう君のおかげだ」
「……」
「ほら、一緒に赤ちゃんを見に行こう」
湯がこぼれてしまいそうな事などお構いなに、彼女の手を引っ張って母の部屋に向かった。
部屋にむかえばバタバタと人が出入りしている。
母と赤ちゃんに会いたい一心で部屋の前で大声で母を呼ぶと「お入りなさい」と優しい母の声が聞こえた。
嬉しさのあまり、部屋の戸を勢いよく開ければ、小さな赤ちゃんを抱いた母の姿があった。
駄目だと分かっていても、思わず走って近寄ってしまう。
母は、そんな杏寿郎をいさめる事はせず、ただ笑顔でむかい入れるのだった。
「ほら、杏寿郎。貴方の弟ですよ。」
「わぁぁぁ」
小さく、しわくちゃで、ただただ泣くばかりの赤ん坊だったが、杏寿郎にはとびきり可愛らしい存在に思えた。
「君、見てくれ俺の弟だっ」
隣に控える少女を見れば、静かに小さな赤ん坊をジッと見つめていた。
あんなにも必死になって手伝っていたのだから、てっきり喜ぶと思っていたのに…
そんな彼女に気づいた母は、彼女に手招きする。
彼女がゆっくりと母に近寄ると、母は彼女の手を取って嬉しそうに笑った。
「ありがとう。貴方には感謝してもしきれません。
陣痛に苦しむ私の腰をさすってくれて、ありがとう。
大丈夫、大丈夫と沢山声をかけてくれて、ありがとう。
沢山の湯や手拭いを用意してくれて、ありがとう。
どうか、この子抱いてやってはくれないからしら」
母が小さな赤ん坊を彼女に差し出す。
彼女は少し戸惑った表情を見せたが、おずおずとしながら赤ん坊を受け取った。
「やっぱり抱き方が上手ですね。慣れてます…杏寿郎、よく見ておきなさい。このように抱くのですよ。」
「はい」
彼女はジッと赤ん坊を見つめる。
すると、ぽたぽたと大粒の涙を流し始めた。
そして小さく微笑むと「良かったね、良かったね。産まれてこれて幸せだね。」と赤ん坊に語りかけるのだった。
あんなにも大嫌いな存在だった彼女が、なんだかとても優しくて美しい存在に見えた瞬間だった。
***
それから、彼女はどんどん回復していった。
あの虚ろで小汚い彼女はどこにも居ない。
少しずつ食事をとるようになり、風呂に入り、身なりを整えるようになり…
まだ頬は痩けているが、それでも以前よりもずっとましで、元々は可愛らしいどこにでも居る普通の女の子なのだと思えるようになった。
弟は千寿郎と名付けられた。母はまだ産まれたばかりの弟の育児に悪戦苦闘している。
そこでも彼女はあの時と同じ様にテキパキと動くのだった。
母の授乳が終われば千寿郎の背を叩いてゲップをさせ
吐き戻してしまえば、綺麗に身体を吹いてから新しい服に着替えさせてやり
汚れたおしめを何度も洗う
そして母には、産後にはこれを食べろ、母乳にはこれが良い等、到底子供が知り得ないような知識を披露しては、甲斐甲斐しく世話をやくのだった。
「君は赤ちゃんが好きなんだな」
なんとなく、なんとなくだ。
ただ、思った事を口にした。
すると彼女はスッと動きを止めたのだ。
「違うの…ただ、兄弟が多かったから…母の役に立ちたくたくて…
でも、そうね。赤ちゃんに会えるのは楽しみだったな…
会いたかったな……」
なんだかそれ以上は聞いてはいけない気がしてしまい、上手く会話を続ける事が出来なかった。
彼女のおかげで母の体調は、少しずつだが戻りつつあった。
任務から帰ってきた父も、彼女の回復した姿に度肝を抜かしたものだ。
そして母から事のあらましを聞き、「ありがとう、ありがとう」と感謝の言葉を述べるのだった。
それからの数ヶ月
千寿郎はハイハイをして前に進めるようになった。
母は、まだ体調が優れないようだが、それでも顔色は良い。
父は変わらず任務を頑張っている。
彼女は…
彼女はずいぶんと回復して、あの枝のように細かった身体はずいぶんとふっくらと丸みをおび
ボサボサだった髪には艶が戻り
あの濁った目は、キラキラと輝く綺麗な眼になった
千寿郎も彼女に良く懐いている。
母も何かあれば彼女に頼る事が増えた。
ただ、まだ夜は怖いらしく、寝るときは杏寿郎と同じ布団で寝ていた。
杏寿郎は同じ年頃の女の子と同じ布団で寝る事に抵抗があったが、ぶるぶると震えながら泣く彼女を前に「駄目だ」と言う事が出来ずにいた。
それどころか、彼女が怖くないように強く強く布団の中で彼女を抱きしめて寝るようになった。
もう生活の中に彼女がいた。
あんなにも大嫌いな存在だった彼女は、今や大切な存在だ。
杏寿郎は彼女に淡い恋心を抱きはじめていた。
そんなある日
久しぶりに帰ってきた父と母に呼ばれた。「大切な話がある」との事だった。
「杏寿郎、お前に話がある。あの子の事だ。」
「はい」
父の神妙な面持ちに、ただならぬ事態であると察した。
「もう、あの子は我が家にとってもかけがえのない存在になっている。分かるな」
「はい」
そんな事は分かっている。
杏寿郎にとっても
母にとっても
千寿郎にとっても
彼女無しの生活など考えられない程、密接に過ごしている。
今や当たり前の存在だ。
そして、この時、杏寿郎は淡い期待をしていた。
年齢も近く、我が家にとっても必要な存在
となれば、もしかしたら彼女を杏寿郎の将来の嫁にと、許嫁にと、両親は考えているのでは無いかと思ったからだ。
元々、彼女は良家の出身らしいし、家柄としても申し分ない。
それでいて幼いながらも器量の良い彼女の事を酷く気に入った両親が、今更手放すとも思えなかったからだ。
杏寿郎は、内心、喜びと羞恥心で舞い上がっていた。
「もう、あの子は我が家の家族の一員と言っても良い。そこでだ
あの子を我が家の養女として迎え入れる事にした。喜べお前に姉ができたぞ」
「え」
杏寿郎の心は一気に奈落まで落とされた。