野生の尾形 売り言葉に買い言葉だった。
「お前の顔なんて見たくない!」
その前に何と言ったのかなんて、頭に血が上っていた月島は殆ど覚えていなかった。
ただ、こう言い捨てるように口にしてしまったのだけははっきり覚えている。
言われた尾形が弾かれるようにびくんと肩を震わせたからだ。先程までしっかりと月島の言葉に反論するように嫌味を返し、文句を言っていたその言葉を止めた。表情が抜け落ちたように消え真っ黒な目が月島を見ていた。
言い過ぎた、と思って口を開こうとした直後。
「そう、かよ」
「……っ、おが」
絞り出すような声で言うと、そのまま踵を返してリビングを出て行った尾形に伸ばした手は届かなかった。
お互いに悪かったが、比重で言えば発端は尾形で、悪い重さもあっちが上だとは月島の弁だ。
些細な事で普段ならお互い多少の口論で終わり、今頃ソファでだらだら喋りながら晩酌でもしていたはず。今回は多忙で擦り減った余裕のない精神が歯止めを外していた。
出て行った足音は、玄関の外で途切れた。
どうしよう。
追いかけるには、自分は悪くないと思う気持ちが邪魔をする。
あいつも頭を冷やしてきたらいいんだ。
意地になっているが、そう決めてしまうと寝室に駆け込みタオルケットを被って寝てしまおうとする。
尾形が出て行く時、鍵を閉めた音はしなかったがそれをかける気にはならなかった。
翌日、尾形は帰ってこなかった。
そして、その翌日も。
全くの音沙汰無しで、流石に月島にも焦りが生まれる。日を経過すると燃え上がっていた怒りの炎も大人しくなり、冷静さが戻る。顔も見たくないはやはり言い過ぎた。幾ら全面的に相手が悪かろうが、言っていいことと悪いことの境を飛び越えてしまったと、そこだけは反省した。
このまま帰ってこない可能性も一瞬過ぎる。
それだけは、嫌だった。
共に住むようになって数年、この生活が続いて欲しいと思っていたのに。
月島は携帯を手にする。
『悪かった
話したい』
端的にそう入力した。送信ボタンをタップするのに多少躊躇いは覚えたがこのまま立ち消えるのと比べればいい。
どうか、返事が来るように。
既読にならない画面をしばし見つめていたが、ややあって布団に潜り込んで無理やり目を瞑った。
どんな日でも朝は来る。
携帯を恐る恐る確認すると、メッセージはまだなものの、既読はついていた。
ブロックされていないことにまずは一つ安心する。あっさり全部切られてしまっている可能性も考えていたからだ。
とは言え、画面をずっと見ていても始まらない。ポケットに携帯を突っ込むと、昨日準備したゴミの袋を手にする。まずはこれを捨ててすっきりしてしまおう。
玄関を開けて側のゴミ捨て場に向かう最中、メッセージの受信音がポケットから聞こえて足を止める。すぐに手に取ろうとして、思い留まった。もし違ったら落胆が大きいし、もしそうだとしても外で見て動揺なんてしたらご近所迷惑だと。
そのままゴミ捨て場に向かう。コンクリートがコの字型になったそこは既に沢山のゴミ袋が積まれていた。はやる気持ちを抑えてゴミ袋を放り投げる。どさ、と積まれたゴミの山に落ち、少し山が崩れた。そのゴミ袋の間から明らかな人の足が覗く。
「は?」
月島が放り込んだゴミの衝撃で起きたのか、もぞもぞと動いたそれにまずは死体でないことに安堵する。した後に我に返っていやいやとゴミ袋を掻き分けてひとまず引き摺り出そうとするも、出てきた姿に動きを止めた。
「おが……た?」
中から覗くのは先日出て行った男の姿。怪我でもしているのか薄汚れ、あちこちに血が滲んでいた。
慌てて引っぱり出すがぐったりとしており、薄らと開く目が月島を認めたところで後ろから大きな溜息が聞こえた。
「まーた、こんなところに!」
振り返ると月島も知っている顔だった。この辺りの管理をしている老齢の女性だ。足腰もしっかりしていて月島たちの家主もしている。手には大きな箒を持っているがその視線は月島を向いていた。
「あ、おはようございます」
ひとまず月島は挨拶をするとそれに返事をしながらも彼女はこちらに歩み寄ってきた。
「ほら、月島さん、手を離しな。全く……最近よく来るんだよこいつは」
「……?」
箒を持って睨みつけているその先には先程ゴミ捨て場から引き摺り出した尾形。
尾形のことを知らないはずがないのだが、もしかしたら自分の知らない内にゴミ捨て場を漁っているのかと疑念を覚えた。
「いや、あの……尾形が何か」
「そうなんだよ、最近多くてね。野生の尾形の被害が」
「やせいのおがた」
理解が追いつかない。
野生ってなんだ。
ぅなぁーお。
混乱に拍車をかけるのは、聞き慣れた声音で何かの鳴き声を発する尾形。中途半端にゴミ捨て場に埋まっていたので最後まで引き摺り出す。見た目はどう見てもただの尾形のはずなのだが。
「そら、出て行きな!」
箒ではたかれる尾形。思わず月島は止めに入る。
「あの!」
「ん?もしかして、こいつはあんたのところの飼い尾形なのかい」
「かいおがた」
また思考が停止する。叩かれた尾形は痛かったのか身を捩っている。勝手に解釈して大きな溜息を吐くと彼女は咎めるように月島を見遣った。
「増えてきたとは言え飼うならしっかり責任持って首輪でもつけておきな、次は保健所に通報するからね」
「あ、えっと」
これだから若いのは、などと愚痴を言いながら去って行く管理人の後ろ姿を月島は呆然と見送る。
何の冗談だ。
そう思った月島の服の裾が引っ張られる。
猫のような小さな鳴き声は、この男から聞こえる。
「冗談だろ……?」
まだ怒っているから自分を揶揄っているんだろうと希望を込めて視線を向けるが、月島が手を離すと尾形は地面に座り込み、自分の手を舐めて頬や髪を撫で始めた。
野生の尾形。
思考が理解を阻む。
ちらりと視線を向けるが気にならないのか尾形はまだ髪を撫でている。まるで毛繕いのように。
「……おがた?」
声をかけると視線を向けてくるが返事はない。
「あー……とりあえず、家……行くか?」
ただじっと見上げてくる尾形から数歩離れると膝をついて四つ這いで距離を縮めてくる。
(二足歩行ではないのか……いや、そういう問題じゃないか)
野生の尾形に思考が纏まらないまま、少し現状を受け入れかけている月島はこちらを見つめたままの尾形に身を屈めて手を伸ばす。
手に鼻先を寄せて匂いを確認する仕草に、実はこれは月島の頭がおかしくなって尾形百之助の姿に見えているだけで、本当は猫や犬なのではなかろうかと思った。
試しに尾形の手を取る。これで二足歩行が出来なければその可能性が高くなるのではと考えた。
首を傾げていたが月島の手を握り返してきたので試しに引っ張ると立ち上がった。
「歩けるのか……」
介助付きではあれば二足歩行も可能らしい、この野生の尾形は。猫ならワンチャンスくらいはあるだろうか。立ったら自分より背が高い猫はいてほしくない。
細かいことについては考えることをやめた月島はひとまず自宅へと尾形を連れて帰ることにした。
何の抵抗もなく連れ帰れるが、周りの通行人から奇異の目を向けられているのは見なかったことにする。
自宅に辿り着くと同時にポケットに忘れていた携帯を取り出す。メッセージ通知があったがそれを確認するより先にすることがあった。画面を操作して検索する。
『野生の尾形』
検索をするとトップにニュース記事が出てきたので開く。
記事を流し読みする。
要約すると最近街の開発が進み、人間の住宅街が野生の生息域を侵害し始め、餌を取れなくなった野生動物が街を荒らしているとのことだ。
最近被害が多くなっているのが野生の尾形。尾形の群れが畑を荒らしたり、鶏小屋を壊したりしている。警戒心が強めで、人間には懐かないが近寄りもしないため人的被害は無いがいつどうなるかはわからないため、安易に餌は与えないようにと書いてあり、尾形と小さい尾形の群れが道路を横断している写真が載っていた。カルガモの親子のようで微笑ましく……は月島には思えなかった。
気が遠くなるのを感じた。
濡れた感触に月島の遠のいた意識が浮上する。
目を覚ますと間近に尾形の顔が見え、自分の上に乗り上がる様子に思わず頬を染める。
「尾形」
呼ぶが返事はなく、頬を舐めてきた。濡れた感触はこれかと思う。頬から顎を辿り首筋を舐める舌先はざらざらしている。
そこでようやく知っている尾形とは違うことに気付いて押し退けて身を起こす。じっとこちらを見る視線にもしかしたら心配でもしてくれたのだろうかと思った。
濡れた部分を手の甲で拭う月島を見つめていたが、ややあって尾形は興味を無くしたように身を丸めて目を伏せた。
「…………」
月島は目の前の現実からひとまず目を逸らした。
携帯で時間を確認すると先程検索した時間から然程時間は経っていないことがわかる。
そこで後回しにしていたメッセージの確認をしようと画面を操作する。目的の場所へ辿り着こうとするが見当たらない。疑問符が浮かぶ。削除なんてしていない。リストを辿ると一つ、文字化けしている名前があった。新規メッセージを知らせるフラグもついている。
怪訝そうな顔でそれを開くと自分の最後に送った謝罪と話したいというメッセージの前後は文字化けしていて読めなかった。ただ、それは間違いなく尾形とのメッセージのやり取りだ。
「どういうことだ」
疑問を口にしたまま、写真フォルダをなんとなく開く。いくつか尾形を写した写真があったはずだが、記憶にあるそれらはどれも尾形のところだけバグったように画像が乱れている。すぴすぴと寝息をたてる目の前の尾形を見遣る。混乱した思考でカメラを向けて一枚撮った。画面の中には身を丸めすやすや眠る尾形の姿。尾形に対してバグを起こすようになったわけではなさそうだった。
「そんな携帯あるわけないよな」
自分の思考にツッコミを入れた。
徐ろにメッセージグループの一つを開く。
『お前ら、尾形を知ってるよな』
と送る。
すぐに既読と数人からメッセージが届く。
『知ってる知ってる、最近被害すっごいよねー、俺のとこの畑も荒らされたよ』
『最近こっちにも群れが現れてさ、保健所が駆除に乗り出してた』
『生息域を奪った人が悪いとは言え、共存は難しいだろうな。家畜にも被害が出ているんだろう?』
『人を襲わないって話だったけど、俺様頭噛まれたんだけど』
『それはお前だからじゃねえの』
………………。
そういう意味の知っているか、ではなかったのだが。月島は野生の尾形被害に盛り上がり出したグループをそっと閉じる。
大きく溜息を漏らした。
自分の知っている尾形を知っているはずの人間の誰一人として、その尾形のことを口にしない。
売り言葉に買い言葉で、顔を見たくないと言ったが本心なんかではなかったのに。
同じ顔の違う生き物に視線を向ける。周りのみんなが自分を謀っている可能性もゼロではないが、それにしては手が込み過ぎていた。
尾形の方へ手を伸ばす。うとうとした目を向けてくるがその手に頭を擦り寄せてきた。人に懐かないという話はどこに行ったんだと月島は思うが、擦り寄るその仕草は知っている尾形も甘えたいときに時折やっていた可愛いと月島が思っているものだ。
「なあ、謝るから許してくれないか。騙してるならもう勘弁してくれ、冗談にしては行き過ぎてるだろう」
願うように口にするが、言っている意味がわからないのか目の前の野生の尾形は首を傾げるだけだった。
悪い夢なら早く覚めてくれ。
月島はそう思った。