巡る世界の魔王と勇者(ハドアバ)「私、かなり頑張ったと思うんですよ……」
満天の星空を見上げて呟いたのは、未だ成熟しきらぬ少年だった。少女と見まがう美しい容貌だが、その顔に浮かぶ表情は奇妙なまでに大人びていた。老成しているとも言える。
漆黒の空に輝く数多の星々を見つめる眼差しには、遠いどこかを眺めるような色があった。それと同時に、口にした言葉を示すようにどこかくたびれた風でもあった。
「そうだな」
そんな少年の呟きに同意したのは、低い男の声だった。重厚な響きを持って耳に届くその低音に相応しい体躯の男は、長いフード付きのローブに身を包んでおり顔の判別は難しい。ただ、立派な体格をしていることだけは見て取れた。
夜の闇に溶け込みそうな漆黒のローブ姿の男もまた、星空を眺めていた。静かに流れるこの時間を噛みしめているようにも見える。
こてん、と少年が小首を傾げる。柔らかな巻き毛がふわりと揺れた。夏空を封じたような色の髪が、彼の微かな動きに合わせて揺れる。その様はまるで、よく出来た絵画のようだった。
夜の闇を彩る星々を背景に、名工に丁寧に作られたような整った面差しの少年が男を見ている。まだ頬にまろやかな曲線を遺したあどけない面差しと裏腹に、男を見つめる眼差しは修羅場を潜り抜けた歴戦の戦士のそれだった。
そして少年は、小首を傾げたままで口を開く。形良い唇から紡がれる声音は、ひどく穏やかだった。
「本当にそう思ってます?」
「思っているとも。貴様は偉業を成し遂げた。誰が知らずとも、この俺がそれを知っている」
「……ありがとうございます。まぁ、貴方も頑張ってくれましたしね」
「俺が動ける範囲ではな」
幼さ残る少年と立派な大人とは思えないほどに、彼らは対等に言葉を交わす。少年は男を恐れてはいないし、男もまた少年を侮ってはいなかった。それは奇妙な姿だが、彼らにしてみれば当然でもあった。
ふっと表情を陰らせて、少年がぼやく。運命の悪戯を呪うように。
「いやでも本当に、あの瞬間は肝が冷えましたよ……。うっかりあのままアバンストラッシュを撃ってたら、まず間違いなく貴方死んでましたし」
「よくもまぁ軌道を逸らせたものだな……」
「貴方もでしょう。あの魔法を受けてたら、ちょっと私も無傷とはいきませんでしたし」
「あの状況で撃てるか」
ぽんぽんと軽快に交わされる言葉。内容は物騒なのだが、語る二人の口調はどこまでも軽かった。既に過ぎ去ったことである。互いの咄嗟の判断力を褒める以外に、この話題を出す意味はなかった。
そこで、少年ははぁと盛大に溜息をついて呟いた。彼らが遭遇した、あまりにも珍妙な事態を示す言葉を。
「それにしたって、何で中身だけ15年前に戻ってるんですかねぇ……?」
「俺に聞くな。そもそも俺は死んだ筈だ」
「そうなんですよ、そこですよ。貴方、私の腕の中で死にましたよね?その後、灰になって助けてくれましたけど」
「綺麗に死んだな。割と未練なく死んだぞ」
未練なく、と告げた男の声に偽りはなかった。お前の腕の中だったしなと続ける言葉にも、特に何の感情も宿っていなかった。言われた方も普通の顔だった。彼らにとってそれは、普通で当たり前で、別に特に気にすることではなかった。
そこでふと、男は何かに気付いたように言葉を発した。その声は、純粋な疑問に満ちていた。
「ところで、灰になって助けたとは何の話だ?」
「……ッ」
「どうした?」
「…………気にしないでください」
「ヲイ」
うっかり口を滑らせた己を恥じるように、少年は唇を閉ざした。まるで貝のようだ。意地でも詳細を説明しないと言いたげな態度。それは、その幼さ残る見た目にはある意味で相応しかった。……中身が+15歳だと考えるとアレではあるが。
眼前の相手の強情さを、男は知っている。おそらくはどれほど問うても、当人が言う気にならなければ何も言わないだろう。それが分かっているので大人しく引き下がったが、興味を引かれた事実だけは消せなかった。
そんな男の感情を理解しているのだろう。少年はわざとらしく話題を転換した。もとい、元に戻した。
「まぁ、戻った瞬間がアレだったのが、もう本当にアレでしたけど……」
「アレな……」
「どうせならもうちょっと前に戻っていれば、私も落ち着けたのに……」
「よりによって、互いにトドメの一撃を撃とうとしていたときだったからな……」
「えぇ、本当に……」
ふっと二人揃って黄昏れる少年と男。見た目は子供と大人だが、内面の成熟具合は対等だろう。何せ、少年の中身は大勇者アバンで、男の中身は武人に至ったハドラーなのだから。
そう、少年勇者アバンと魔王ハドラーではない。そこを通過した、15年後の人格がそこに宿っているのだ。珍妙過ぎる。
二人が思い出すのは、彼らの意識が覚醒した瞬間だ。まるで、眠りから目覚めるように意識が浮上し、気付いたら目の前には必殺技を発動させようとしている宿敵の姿。何が起きているのか解らなかった。
それと同時に、バチッと目が合った瞬間に彼らは悟った。目の前の相手の中身が、自分がよく知る最後に言葉を交わしたときの互いだと。分かったからこそ、渾身の力で発動直前だった技の軌道を逸らしたのだ。
ぜぇぜぇと共に肩で息をしながら、恐る恐ると言いたげに口を開いたのは男が先だった。魔王の姿に武人の精神を宿した男は、眼前の少年勇者に向けてこう問うた。
――貴様、アバンか……?俺を看取った、あの。
その言葉に確信を得たのか、少年勇者の中に大勇者の精神を宿したアバンが、食い気味に叫んだ。
――貴方、あのハドラーですか!?私の腕の中で灰になった、あの!
もはや確定した。互いが互いに向けてかけた言葉で、彼らは自分達が中身だけ過去に戻っていることを理解した。ハドラーに至っては、死んだ筈なのに変な蘇りをしていることもだ。
そこからの彼らの行動は、早かった。それはもう、べらぼうに早かった。
まず、魔王と勇者は手を組んだ。休戦協定である。これ以上争う理由を、彼らは見つけられなかった。何せ、今この瞬間も、虎視眈々と大魔王バーンが地上を狙っているのだ。ついでに、ヘタをしたら地上を破壊する冥竜王ヴェルザー一派もいる。争っている場合ではないのだ。
ここで理解して貰いたいのだが、そもそもが魔王ハドラーに地上を破壊するつもりは毛頭なかった。人間を根絶やしにするつもりもなかった。支配するつもりはあるが、この豊かな大地を滅ぼすつもりなんて、彼は持っていなかったのだ。
そんなわけで、魔王と勇者は休戦協定を結び、魔王は配下の魔物達を連れてデルムリン島へと移住した。そもそも、魔王が負のオーラを持っていなければ、魔物達もその影響を受けない。デルムリン島は相変わらずの平和な島になるだろう。ちょっと人数が多いが。
ついでに、無事に生存しているバルトスに連れられて、ヒュンケルもデルムリン島の住人だ。魔物しか知らない子である。いきなり人間の中には放り込めない。それに何より、大好きな父親が生きているのなら、その傍らで過ごすのが彼の幸福に違いない。
アバンは仲間達に詳しい事情は伏せたが、地上を狙う別の勢力がいる可能性はほのめかし、鍛錬の旅に出ることを告げて国を出た。アバンの言葉を受けたマトリフも何かを感じたらしいので、きっと彼はこの世界でもメドローアを完成させてくれるだろう。
アバンがそうして真っ先に向かったのは、アルキード王国だった。彼はその地で、愛を育んでいたバランとソアラ、愛息子のダイをまとめてデルムリン島へとかっ攫った。彼らの平穏を守るのが第一だったので。
ついでに、ヒュンケルから話を聞いておいたラーハルトも、バランと共に迎えに行った。残念ながら既に母は亡く、当人も人間への不信感を持っていたが、何とかデルムリン島へと連れて行けた。今後は、ダイとヒュンケルと共に育つだろう。
「……後は、えーっと、……ポップですか?」
「そうだな。こちらはザボエラの性根は叩き直せんから、息子をメインに勧誘した」
「クロコダイン殿は?」
「あいつは普通にデルムリン島で子守りをしてる」
「面倒見良いですよねぇ……」
記憶を辿るように二人が交わす会話に出てくるのは、今後大魔王バーンが出てきたときに味方として戦力になりそうな面々の話だ。一部、どう足掻いても会えなさそうな面々がいるのは仕方ないが、それでも戦力は整いつつある。
過去に舞い戻ってから数ヶ月、二人で必死に人事を整えた彼らである。本拠地がデルムリン島なのが何ともアレであるが、気にしてはいけない。
ただ、頑張ったおかげで幾つかの悲劇は防げているはずだ。戦力の強化的な意味では未来が変わった可能性があるが。
彼らが優先したのは、仲間として引き入れる者達の安寧だった。近い将来彼らを襲うであろう不幸から、力尽くで運命をねじ曲げた。そもそもが、彼らの存在が運命をねじ曲げている。今更、一つや二つそれが増えたところで構わないだろうという豪胆さだった。
「色々と大変でしたけど、一段落ですね」
「ここからは、相手がどう出るか分からんがな」
「えぇ、分かっています。ですが……」
「ん?」
彼らが動いたことで、未来が変わった。そもそも、大魔王バーンは死の淵にいた魔王ハドラーを取り込むことで地上に手を伸ばしたのだ。その出来事すら覆したことによって、どの時期に地上に出てくるのかもさっぱりだった。
だが、そんな状況でありながら、アバンは笑った。どこか幸せそうなその笑みに、ハドラーは訝しげに首を傾げる。
「何だ、その顔は」
「いえ、不謹慎ですが、ちょっと楽しくて」
「楽しい?」
「嬉しいとも言いますか」
ふふふ、と楽しそうに勇者は笑う。その姿に、やはり魔王は首を傾げるだけだ。貴様相変わらずよく分からん精神構造をしているな、とでも言いたげである。まぁ、間違っていないが。
勇者アバンという男は、人間を逸脱している。その能力も、精神性も。だからこそ彼は、この状況で幸せそうに笑うのだ。何かを、噛みしめるように。
「あの時の願いがこんな形で叶ったので、嬉しいんですよ、私」
「あの時の願い……?」
「えぇ。武人となったハドラーと共に戦うという、願いがね」
「アバン……」
楽しげに笑うアバンに、ハドラーは言葉を失った。魔王と勇者としてしか見えなかった。最後のあの瞬間だけ、あの時だけが、敵味方ではない状態での邂逅といえた。
アバンの抱いた願いは、ハドラーの抱いた願いでもあった。生きていた勇者を見た瞬間に、この男にならば後を託せると思ったのも、その強さを認めていたからだ。力ではない。心と、知略と、皆の支柱になり得る存在感を。
だからこそ、ハドラーが告げる言葉は、決まっていた。
「それは、俺の願いでもあった」
「……ハドラー」
「かつての宿敵と肩を並べて強敵に挑むのも、悪くはなかろうとな」
「ふふふ、そうですか」
「あぁ」
ハドラーの、軽い口調に込められた深い感情を理解したのか、アバンは幸せそうに笑った。あどけない少年の面差しに、達観した勇者の面影が見え隠れする。けれど、笑うその表情は年齢に相応しい無邪気さがあった。
共に空を見上げ、魔王と勇者は未来を見据える。この先に待ち受ける苦難を、頼れる仲間達と共に防いでみせよう、と。
世界のため、地上のためなどというのはおこがましい。ただ、気に食わないだけだ。大魔王などと名乗る男に、地上を好き勝手されるのは嫌だと思った。この地に生きる、一個の命として。
「それでは、明日からまた、頑張りましょうか」
「あぁ」
「貴方と一緒なら、負ける気がしませんし」
「ふん、言っていろ」
軽口を叩く勇者に、魔王は鼻で笑った。けれどその笑みはどこか優しく、親愛の情に満ちていた。かつて交わした絆が、抱いた感情が、決して嘘ではないのだと示すように。
斯くて、ここより始まる物語は、彼らの知る未来とは違う形を描いて続いていく。皆の幸せを得るための道は、まだ、遠い。
FIN