「聞いたかい、仁武! 桜がずいぶん綺麗だそうだよ!」
ノックもないまま、ガンと音を立てて扉が開いた。きゅっと口角を上げた玖苑と目が合う。瞬きをすると小首が傾いだ。
胸元のダンベルが降りていく。同じように、玖苑の眉尻もじわじわ下がっていった。
「仁武は、興味なかったかな」
えくぼが浮かぶ。けれど、視線は仁武の胸元に落ちた。
「ノックくらいしろ、玖苑。とりあえず入れよ」
一度見開かれた碧眼が弧を描く。開けられたときと同じように勢いよく閉められた扉が、再びバン、と音を立てる。
はあ、とひとつ溜め息をつき、ダンベルを机の上に転がした。脇に置いていた椅子に手を伸ばす。指が枠に触れたとき、物静かで上品に座る碧壱がよぎって動きが止まった。
「仁武?」
ぴく、と手首が跳ね上がる。透き通った海のような目が仁武を見ている。
玖苑は人気者だ。弱さは悪だと訓練に勤しむようになった仁武をつまらないと切り捨てて、それからは少しも関わらなかった。純壱位に昇進し、なぜかまた、昔のように友好的になり始めたのは、どのような心境の変化があったのだろうか。碧壱が死んで、親友になってあげよう、などと、めちゃくちゃなことを言い放った理由を、疎遠だった時期を忘れたように関わろうとするその真意を、本当は未だに測りかねている。
椅子を掴んで玖苑に渡す。
「ありがとう」
「それで、桜がなんだって?」
ベッドに腰掛け、目を合わせられないまま口元だけに視線をやった。ガタガタと椅子が音を立てる。子供のような乱雑さは、落ち着きのある碧壱とはずいぶん違う。
「やっぱり気になるんじゃないか! ボクのファンとお喋りをしたのだけど、最近お花見をしたみたいでね。一番綺麗に見える秘密の場所を教えてもらったんだ。そのときに満開だったそうだから、ねえ、仁武も行くだろう?」
椅子から身を乗り出すように、ぐいと華美な顔が近付いた。思わず身を引く。共に訓練をしていたあの頃のような少女めいた顔立ちは、玖苑を避けている間に立派な成人男性のものと変わっていたが、西洋人形のように整っていることに変わりはなかった。
玖苑が目を瞬かせる。一瞬視線を落とすと、崩れてもいない襟を正して座り直した。
「もしかして」
「いつ行くんだ」
言葉が被った。再びすっかり眉を下げていた玖苑が固まる。
「満開だったなら、早く行かないと散るんじゃないか。せっかくだし鯛焼きでも買って行くとするか」
立ち上がる。呆けた瞳が仁武を追う。ぱちぱちと瞬いている顔に、ほんの少し胸がすいて口角が上がった。
「鯛焼き?」
「お前も好きだろう」
財布の中身を確認する。足りることくらい分かっていたが、丁寧に小銭やお札を数えてみせる。
「鯛焼きは好きだけれど。今から行くつもりかい?」
「お前もそのつもりだったろ」
「ボクはちゃんとキミの予定を聞くつもりだったよ」
「じゃあ聞くが、問題あるか?」
「……さあ行こうか!」
ぐう、と一瞬押し黙った玖苑が急に立ち上がる。ガタガタと椅子が音を立てた。碧壱とは違う騒がしさに、わずかに目をすがめてその顔を眺める。
輝くような笑みがあった。白い頬がほんのり染まって、つぼみが一度に花開いたかのようだった。街中であれば、居合わせたファンが何人か倒れていたかもしれない。碧壱はもっと柔和に笑う。けれど、かつての幼い顔立ちが重なり、ふは、とため息を押し出すように笑みがこぼれた。
勢いよく手渡された椅子を元の位置に戻す。手早く出かける準備を済ませて扉を開けた。玖苑がするりと仁武の腕に抱きついてくる。
思わずまじまじと見つめると、一瞬目を見張った玖苑がそそくさと離れて部屋を出た。ぎゅうと腕に残ったぬくもりが緩やかに引いていく。
くるりと振り返った玖苑が、俯き気味に仁武を見上げた。動けないでいると、こてんと首を傾げられる。碧の瞳が、人工灯を反射し水面のようにキラキラ光る。
「仁武?」
「いや……」
口の中で言葉を探した。結局、大股で近づき、昔のように髪をぐしゃぐしゃ掻き混ぜる。思っていたより高くなっていた頭に違和感があった。