とても寒い朝 恐らくこれが最後の夜になるだろう。
ドクターはとっておきのワインの封をあけ、ふたつのグラスに並々と注ぎ、軽やかな硝子の触れる音が響くや否やその縁に口を付けた。けれどもそれは、ちっとも美味くなかった。にもかかわらず、ドクターは微笑みを浮かべて、グラスを傾ける手を緩ませることなくあっという間に葡萄酒を飲み干してしまった。
私室の窓からは星々が一望できた。暗闇の中の輝きが鏡合わせに煌めいている。地平線を境にして、空の星は相も変わらず眩しいが、水面に浮かぶ月は虫食いにでも遭ったのか歪んでいる。瞬きする間にその形を変えるのは、海より来たりしあれらに眠りが必要ないことの証左でもあった。恐ろしさを紛らわせるために瓶を傾け、再びグラスを満たすと、もう一つの杯がちっとも減っていないことに気付く。だからドクターは悲しくなってしまった。共に夢に浸かりたかったが、そうはならないことを悟ってしまったからだった。
向かいに座る男の顔は月明かりに照らされているが、彼とは随分長い付き合いになるにもかかわらず、見たことのない表情を浮かべていた。そこには酒精に脳を浸す喜びも、現実から逃避する意思も、かといって悲観の色も見られなかった。彼が口角を僅かに上げるのは癖でしかない。そこに喜びの感情が宿っているかどうかはまた別の話で、こうなってしまっては相手の内心を探るたびに息苦しさを覚えてしまう。ドクターはまたグラスを空っぽにして、本当はしくしくと泣いてしまいたいのに、一切涙が出ない己の薄情さを呪いながらグラスを満たした。それを煽ろうとしたところで、漸くエリジウムが口を開く。ドクターの明日の体調を気遣う言葉は、却ってドクターの神経を刺激した。これが最後の夜だ。にもかかわらず彼の態度は他人行儀だった。「抱いてくれないのかい」あまりにも直接的な誘いにエリジウムは動じることなく首を振った。「抱きしめてもくれない?」テーブル越しに手を取られ、掌の体温を味わうだけ。それが随分冷たいことを知って、このままいくらでも温めてやりたいと思う。
「なら、私から抱きしめてもいい?」
ずっと黙ったままの男に対して口火を切ると、エリジウムは笑みを崩さないまま僅かに頷いた。よく観察していないと分からないほどに緩慢な動作だった。どれだけ迷って、誘惑に負けて、それからドクターの申し出を許容したのだろう。これ以上考えたくはない。肉体の境界線を曖昧にするぐらいにくっついて、背中に回した腕に力を込める。死地へ向かうひとの体温は、生きているからそれでも温かい。なのにひとつも安心できなかった。どこにも行かないでくれと叫んでしまいたかった。ドクターは衝動を呑み込んで、日が昇れば離れていくだろう男の身体を掻き抱いて、ままならない現実に嗚咽を漏らしていた。いつもは煩いぐらいに口数の多い男がちっとも口を開かない。ただ、背と頭を撫でられる。受け入れられなかったし、受け入れたくはなかった。それでもそうしろと命じる立場にあるために、どれだけ感情的になろうが本音を伝えることが出来ずにいる。
慰めは、肉欲によるものではなく、ただの触れ合いに終わった。早朝の空気が部屋を冷やす頃にエリジウムは窓の外をそっと指差して、やがて見えなくなっていくだろう星々の名前を口にする。「覚えていてね」まるで呪いのような言葉だった。「夏になれば、よく見えるようになるはずだから」今となっては暦はただの記号でしかないというのに。
「その時は一緒に見に行こうよ。いい機会だから、情緒ってものを君に教えてあげる」
減らず口が過ぎるので、顔を上げて相手を見つめる。何も言わなくたって目線があった。唇が触れた。舌同士が触れ合うことはなかったが、互いが互いの腕の中に居て、欠けたものを埋めるように何度も口づけを交わす。全てを忘れてただ互いの境界を溶かし合うことに夢中になる。窓が差し込む光を認識したくないから目を閉じる。朝が来れば悲しみも喜びも離れていく。
葡萄酒の香りを交換しながら、これが別れのにおいだと刻みつけた。この腕の温かさなどきっとすぐに思い出せなくなってしまうのに、これをよすがに生きていかなければならない。最悪だ。これから地獄のような寂しい日々を送るほかない。欠けた比翼は地に落ちていくだけだと言うのに、これら全ての訴えは呑み込まれて、優しい触れ合いに黙らされている。
グラスの底に僅かに残った酒精を臓腑に収めると、その人は白い肌を少しばかり紅潮させながら腕に強く力を込めた。この体温をいつまで覚えていられるかも分からない自分に嫌気が差す朝だった。