灯りをともせるのはなんだこれは
なんなんだいったい
自分は、資料室から、自分の机のあるイチトクへ戻ろうとしていたのだ。それなのに、ふと、振り返るとソレはいた。
黒い塊だ。5本の指が揃った人間の手が無数に生えている、それのどれもがどす黒く、放置された死体を連想させた。うねうねと軟体動物のように宙を漂うソレは、こちらを掴まんと、頬を這う。
ぬるっとした感覚と、タールのような耐え難い匂いに、腰が抜ける、そのまま、バケモノは自分の腰を掴んで、どこに隠していていたのか、大きな、大きな口を開けた。
足に力がはいらず倒れ込む。すると、相手も予想外の動きだったのか、無数の手からずるりと体が抜け落ちた。
再度、黒い塊がこちらに迫ってくるのが視界の端に見えた。
捕まるわけにはいかない。
もつれる脚をなんとか前に出し、転がるように立ち上がった。何かにぶつかった、壁だ、こっちじやダメだ、とにかくアレから離れないと、その一心で駆け出す。ヤツは人のようには走れないようで、ずるずると巨体を揺すってはいるが、どんどん距離を離していく。
どれくらい走ったのか、息が苦しい。後ろをちらりと見るともうソレはいなかった。それを確認して、目の前の扉を開いて滑り込む。
部屋は会議室のようだった。大きな机をかこむようにキャスターのついた椅子が配置されている。
それにぶつからない様に、壁に背中をつけ、ずるずると座り込む。静かな部屋の冷たい空気に荒い息遣いが吸い込まれて行く。
膝を立てて座り込み、うなだれながら息を整える。・・・こんなときにふと紫の髪の、いくつか年下の恋人の顔がチラつくものだから、どれだけ自分が彼に依存しているのか・・・。
きぃ・・・
ふと、目の前の椅子が回った。
誰もいないはずだった。
しかし、そこには少女が座ってこっちを見ている。
可愛らしいクマの顔がプリントされたパジャマは、彼女のお気に入りだ。
僕は彼女を知っている。
体中の血が、さっと引いていくのを感じた。
ぼくが、かのじょを、ころしたんだ
彼女は、にっこり笑って
「人殺し」
と呟いた。
そのあと、何がどうなったのかわからない。目の前が真っ白になって「ごめんなさい」だの「そんなつもりは」だのと言い訳がましいことをさけびながら走って逃げたのだろう。
気がつけば、冷たい風の吹く屋上のフェンスにしがみついていた。
このまま落ちてしまえば、この罪悪感も無くなるのだろうか、心臓のあたりが重たいのも、なくなるのだろうか。
一度ぎゅっと握りしめたフェンスから乱暴に手を離すと、ガションと間抜けな音がやけに大きく響いた。
いつまで、こんな幻覚に振り回されるのか。
いつまで、こんなふうに正気でいられるのか。
フェンスを背にしゃがみこみ、乱暴にポケットを探る。案の定、くしゃくしゃになったタバコを無理やり一本取り出し、口にくわえる。よく失くす100円ライターは、震える手で操作しても、火花が散るだけだ。
意地になってがしゃがしゃとライターと格闘していると、目の前に白い手がすっと伸びてきた。突然のことに肩が跳ねる。ひどく間抜けな顔をしていたんだろう。その手の主・・・多摩くんが苦笑していた。
「なんで、こんなところに・・・」
「それは僕のセリフですよ」
ぽかんとしている僕の手からライターを受け取ると、恋人は手馴れた様子で火をつけてこちらへ差し出す。ようやく火をつけて、1度紫煙を吐き出すと、安心して泣きそうになった。情けない。肩にのる体温に、弱い僕は、そのそのまま頭を預ける。
いつまで、彼と、こうして、
白い、簡素なベッドが置かれた四角い部屋に、火の気はなかった。
ただ、二人の男が寄り添うだけ。
□□□
何のためらいもなく壁に激突している恋人をモニター越しに見つけたのが数分前。そして今、その人が収容されている部屋の扉をあけると、そこに彼の姿はなかった。
稀にだが、初めてではない。
唯一の心あたりである、ユニットバスの扉を開ける。
いない。
ユニットバスのカーテンを開ける。
いない。
これは初めてのパターン。
頭の中で様々な可能性が駆け巡る。自分も幻覚を見ているのか?逃げ出したのか?連れ出されたのか?ここまでの一本道ですれ違うこともなく?
急いで部屋に戻り、ざっと見渡すと、一つ違和感を覚えてた。
ベッドが少しだけ、いつもよりもこちらに迫ってきている。
もしや、と思い、ベッドの向こう側を除く。
いた。
どうやら暴れていた時に何らかの力が加わってベッドが動いたらしい。
その陰に、彼は、野々宮日和はいた。
しゃがみこんで、うつむいている彼の後頭部を眺めながら、じわりと安堵の溜息が漏れるのが自分でも分かった。
今度ベッドを固定しておかないと。引っかかって怪我でもしたら大変だ。
そんなことを思っていると、恋人がごそごそとてを腰のあたりで動かす。おそらく幻覚の中でタバコを吸おうとしているのだろう。いつもソレが入っていたのはパーカーのポケットはそのあたりにある。しかし、現在着ている、備品になった者の最後の尊厳を象徴するかのような衣服には、そのような機能的なものはついていない。
どうやら、お目当てのものが見つかったらしい。何時もより乱暴にタバコを取り出し、口にくわえる動作をする。そしてライターを点けるように親指が動く。
何度も
何度も
なんだか、その様子を見ていると、たまらなくなる。
さっさと起こして、ベッドに戻そうと思い、手を差し伸べた。
そのとき、恋人の肩が大きくはね、ぎょっとした顔でこちらをみた。
目が合った。
「なんで、こんなところに…」
「…それは僕のセリフですよ」
37日ぶりの会話。自分は笑えているだろうか。せめて、この人と話す時は、笑顔がいい、と決意したのが20日前。なのに、今目の奥がジンジンと熱くて仕方がない。
誤魔化すように、おそらく彼が手に持っているであろうライターを受け取り、火をつけるふりをする。小さく礼を述べて、顔を近づけた所を見るに、うまく点けられたらしい。
大きく吸って、少し此方から顔を背けて息を吐きだすと、肩の力が抜けたのが見てとれた。その横に自分も座りこみ、恋人の肩に頭をのせる。笑顔を維持するのは、難しいことが分かったから。
それに気づいた彼も、寄り添うように頭を寄せ、ふわふわと、感覚を楽しむように、自分の頭を撫でるのだった。