獣の贄(未完) もう随分と昔に退治された妖獣が、長い年月を掛けて封印を破り、今生に復活したそうだ。姿は狼と似ているが、それを実際に見た者はごく僅かだ。今はもう廃墟と化した山村を縄張りにして他の獣や怨霊を使役して人々を襲っている。
「というわけだが、聶宗主は何かご存じだろうか?」
「……もちろん存在は知っているとも。他ならぬ我が御先祖様が封印した妖獣だと伝わっているから」
「封印が破られた後は既に大勢の人間を喰っているらしい。さて、宗主はどうお考えだろうか?」
念押しとばかりに放たれた言葉に懐桑は眉を顰め、視線を真横に逸らす。側に控えている年長の門弟たちにそっと目配せして助言を求めようとするが、「何も答えたくはない」と皆言いたげな様子で沈黙を貫いていた。
例の妖獣は元々聶家の管轄地にある山村を脅かしていたはずだったが、復活してからはその根城を変えて他世家の狩場を荒らしている。こういった事例は別段珍しくもないことだが、過去に封印を施した清河聶氏の子孫にとって、今回の件は実に頭の痛い話ではあった。
「聶宗主!」
魏無羨が威圧的な態度で声高に叫ぶと、懐桑はびくりと大きく両肩を竦めた。その非礼な振舞に聶氏の門弟たちが僅かに警戒を強めたのを横目で見遣ると、魏無羨は唐突に表情を変え、畏まった面持ちで聶宗主へと拱手した。
「ひとつ、頼みがあります」
「……何だろうか?」
わずかな沈黙が流れる。夷陵老祖と含光君がなにゆえ遠路遥々と不浄世へ赴いたのか、推測すれば次に彼らが何を申し入れるのかは想像に容易い。
「聶家に納められている秘文書の中に、妖獣の記録が残っていないか調べさせていただきたい!」
やはりそうきたか、と懐桑は苦々しい表情を浮かべて眉間を揉んだ。
各世家の歴代宗主が遺した文書の数々は、その家々に関わる秘術や秘蔵の法器の詳細が記されているものが多く、本来ならば二つ返事で閲覧を認めて良いものではない。当然ながら魏無羨もその事を知らないわけではないが、如何せん今回の依頼は情報が少なすぎる。大昔の聶家宗主が立ち会って封印したとあらば、それに纏わる記述が必ず残されているに違いないと睨んでのことだ。ここは退くわけにはいかなかった。
緊張感に耐えられないと言わんばかりに懐桑がさっと視線を脇に逸らすと、魏無羨の傍らで身動ぎもせずにいる藍忘機とうっかり目が合ってしまう。冷氷にも似たその淡色の瞳は彼の携える仙剣の如く、懐桑を今にも射貫かんとばかりに冷徹な目線を向けていた。懐桑を震え上がらせるにはもうそれだけで十分だ。
はああ、と重い溜息をひとつ落とし、懐桑は側で控えていた年若い門弟へそっと目配せして何かを耳打ちする。物言いたげな表情を浮かべる門弟だったが、いくら世間で一問三不知と笑い者にされる宗主であれど、その命令とあらば決して苦言を申し立てるわけにはいかなかった。
どうやら聶宗主は腹を括ったようだ。
「他ならぬ夷陵老祖と含光君の頼みとあらば、私は聞かぬわけにはいかないでしょうね」
些か含みのある言い方ではあったが、魏無羨たちの嘆願はこの場であっさりと承諾されたのだった。
「聶宗主に感謝申し上げる」
一連の遣り取りを黙って見ていた藍忘機がここでようやく口を開き、先程から寸分変わらぬ表情で恭しく拱手する。
「いえ、感謝すべきはむしろ私の方かもしれない」
「へえ?」
それはどういう意味なのかと魏無羨はわざとらしく目を細めて懐桑を見る。
「正直なところ、今は若輩者の多い我ら一門では手に余ると思っていたからね。藍家諸兄の方々が先陣を切って手を打ってくださるというのなら願ったり叶ったりだ」
既にかつての名声を落としていることを自覚している一問三不知宗主は、この期に及んで恥じることもなく打ち明けた。四大世家の主がこの様子とは如何なものかと藍忘機は密かに眉を顰めたが、魏無羨の方は腹を押さえてあからさまに笑っている。さすがに不敬だろうと藍忘機が視線で訴えると、口元は緩めつつも詫びの意味で懐桑へと拱手した。
(中略)
「あなた方は、あの頃とすっかり変わってしまった様だね?」
扇子で口元を覆い、懐桑は苦笑いで答えた。
一瞬の沈黙の後、魏無羨は藍忘機と顔を見合わせる。ふっと溜息の溢れる音がして、真っ先に小さく首を振ったのは意外にも藍忘機の方だ。それに釣られるように魏無羨は盛大に吹き出すと、「そうだな!何も変わってないな」と腹を抱えて笑った。
「むしろ変わってしまったのは、あなたの方ではないのかな? 聶宗主」
魏無羨は意味深に懐桑の目を覗き込むと、その口許を隠す美しい扇子に手を掛けようとする。しかしその腕は懐桑にやんわりと払いのけられ、彼は表情ひとつ変えることなく首を振った。
「私は何も変わらない。先代と比べれば大した才能もなく、周りからは一問三不知と揶揄されるお飾り宗主だ。まさに玄門百家の大莫迦物だよ」
わざとらしく魏無羨の肩を何度か軽く叩くと、懐桑は眉根を下げて自嘲気味に笑う。
(──けれど、それで良いんだ)
懐桑の秘めたる顔は、生涯誰にも明かされることはないだろう。そして、目の前の旧友が言及することもないと確信している。
座学時代に起こした魏無羨の数々の出来事を思い返し、あの頃はまだ何も知らない子供で良かった、と懐桑は胸中で呟く。
過去を懐かしむ懐桑の柔らかな眼差しの裏に閉じ込められているのは、誰よりも計算高く、仄黒い感情さえ秘めた獣の面影だった。
≪未完≫