悪者/尾月 夜中の待ち合わせは、特別な気がした。
尾形から連絡がくるのは週に二度で、時間も深夜二時と決まっている。几帳面なのか真面目なのか不真面目なのか、水曜日と土曜日に連絡を寄越す。
──あいたい。
歓楽街の裏側、汚い街が目を覚ます頃に文字だけの簡素な誘い文句が届く。思ってもいないくせに、こう言えばおれが喜ぶと思ってわざとそう誘うのだ。
喜んで会いにいくのだけれど。
左手の薬指の指輪を外し、ポケットにしまって。
おれは、高校を卒業してすぐに幼馴染と結婚した。彼女の腹に子供が出来たからだ。父親は誰かなんて知らない。繋がったこともないおれの子でない事は確かだが、すきだったから、契約を結んだ。泣いたり喚いたり怒ったり喜んだりする情緒不安定な彼女の家族は、おれに馴染んだ。馴染まなければ立ち行かないから馴染んだ、以外に思わないようにした。
工場に就職して、妻と娘と三人で、素朴に、幸せに暮らしいていた。歯車が噛み合わないような心地を抱えたまま、しかしそれは昔からおれ自身がおれ自身に抱き続けている透けたような曖昧な存在感と似たようなものだったから、それもイッパンテキな幸福の片鱗なのだと思ってきた。
普通に生きて、普通に死んでゆく予定だった。
尾形は、働く工場の上流工程の作業員として転職してきた。おれは作業責任者であるが故に接点が多く、初めの数ヶ月は指導員として共に過ごした。
「月島さん、何かが噛み合わないと思いながら生きてませんか?」
共に働き始めて二年が経った頃、同じ煙を吐きながら尾形は言った。
堂々たる密会のキッカケはそんなものだったと思う。
決まった曜日。
決まった時間。
決まったコンビニの前で。
騒々しく汚らしい絢爛な景色に似合わぬスーツを着て待ち合わせて、尾形の家に行くようになった。
コンビニで同じ銘柄の煙草を二箱と、アサヒとサッポロの三五○ミリリットルの缶ビールを一缶ずつと、三パックの豆腐と、冷凍の枝豆を買う。
尾形は接客風俗店や性的サービスを含む風俗店がひしめく大通りの真裏にぽつんとオマケのように建てられたアパートに住んでいる。綺麗なところを見つける隙がないのが、おれには落ち着く。八畳の間に独立らしく見えるキッチンと、洗面台と風呂が一緒になった水場と、狭いベランダに設置された洗濯機が男の一人暮らしを物語る。
「俺ね、昔、実姉を姦しまして。高校生の時だったかな。それが童貞喪失ですよ。」
缶ビールのプルタブを押し上げ、それまで大した会話もしようとしなかった尾形はそう唐突に言った。嘘か真か、どちらでもよくてはあとだけ頷き、プルタブを押し上げた。
解凍した枝豆と、鰹節と醤油に色付いた下品な冷奴をつつく。
「女のからだは面白いなと思ったんですよ。その時はね。」
「今は違うのか。」
「面倒なだけですから。行為に及ぶまでと、それから得られる達成感が割に合わない。ヤるまでの努力とは言いませんが、急に股開けなんて言って突っ込ませるアバズレもそう居ませんからねえ。」
言葉が悪い。
そもそもこういう性質の男だと知っているが、およそ気分のいいものでも無い。
でも──悪いものでもない。
「おれとはヤらんのか。」
週に二度「あいたい」と連絡を寄越し家に連れ込んで酒を飲ませるのに身体には触れない。触れられたいと思ったことはないが、下心でもなければこんな夜半に呼び出す必要がない。見聞が狭すぎるのだろうか。最近の若い者の関わり方はそういうものなのだろうか。とは言っても、尾形とは五つくらいしか離れていないが。
尾形は目にかかる髪をそっと左に揺らし、読めない瞳を細長くして野卑に唇で弧を描いた。
ぞっと、首筋が熱くなった。
それは吐精したあの極限の痛いくらいの快楽に似ていた。
箸を支えていた手がいつの間にか空っぽになっておれの頬に伸びて、触れるか触れないかくらいで止まる。
目を閉じて開けると、矢張り真っ直ぐに歪んだ視線は重なる。
喩えるなら、尾形は塵箱だ。
汚い物を含蓄して、何処へも吐き出さずに溜め込んで、飲み込んで、綺麗な体裁を三六○度に見せびらかしてあたかも整っているように見せているのだ。
おれはその箱の中身を見ている。
妻に隠れて、仕事でしか繋がりのない男の内側に侵入して、姦されている。犯されている。侵されている。
この身には何一つ降り注いではいないのに。
「月島さんのハジメテは、誰に捧げましたか?」
冷たい指先が下唇をなぞって聞いた。
ゆっくりとした感触を追ってしまい、深い思考を奪われる。
「今の──妻だ。」
左の薬指を確認したくなった。
指輪はポケットにあると知っているのに。
「そうかあ。ははァ、月島さんの答えだなあ。」
妙に間延びする独特の抑揚はそう言って、おれから離れた。僅かに頭をよぎった物足りなさをビールで流し込む。
「さすがに妻子持ちは抱けません。勃ちゃしませんよ。」
「実の姉には勃つのにか?」
「何なら弟にも勃ちますよ。ただ妻子持ちだけはどうにもね。」
「どうなってんだ、お前の倫理観は。」
呆れて笑う。聞いたって教えては貰えないと知っているし、聞いたところで分かる筈も解る筈もない。
「でも、こうして恋愛してますよ。」
尾形は枝豆を摘んでまた前髪を揺らした。
「れんあい?」
そう首を傾げると、弄ぶだけ弄んで皿に戻した指が迷いなく、真っ直ぐおれに向いた。
「俺、ハジメテ恋をしています。あんたに。」
下腹部が震えて、頭の中が白濁して、息の吸い方を忘れる。
盆と正月と娘の誕生とおれの葬式がいっぺんにきた──そんなふうに思った。決してちぐはぐな比喩じゃない。
コレはれっきとした、誰にも感じたことのない、官能だ。
「月島さん、俺と恋愛しませんか?」
きっと噛み合いますよと、尾形は晴れた空のように言う。
やっと噛み合うのかと──思ってしまった。
「おれを捨てろってことか…」
その整った塵箱に。
汚い物に身を投じて、綺麗な部分だけを見せて。
たったふたりきりで。
「はい?」
向かい合ってビールを呷る。
二日前もこんな風だった。
何も変わっちゃいない。
出会った頃から着実に、確実に、時間を掛けて、何かが変わっているのに、それは目に見えぬものだ。
恋愛も、形にはならないものだ。
「お前は世間と噛み合ってないって自覚があるだろ? おれも巻き込む魂胆か。」
「今更何です? あんたも世間と噛み合ってません。」
「だから、恋愛か。」
「そのとおり。」
やはりこの男の倫理観が分からない。
尾形が言う恋愛が何かもよく分からないが、突き詰めるほど引き返せなくなりそうだった。
「俺ね、だいすきなんです、月島さんが。」
俺と完全犯罪をしてくださいと、尾形は夢見心地みたく微笑んだ。
戦慄したまま多幸感に溢れて、座り直した拍子にポケットから零れた指輪を拾うことを忘れて、
「そうか。」
と目の前を見詰めた。
静かに溺れるような深夜三時は、規則的な、いつもどおりの日曜日の幕開けだった。