≪トマ蛍≫カルチャーショックってやつ?ない。チョコがない。いや、チョコなら厨房の棚にこれでもかとある。
違う、蛍からのチョコがない。
今日はバレンタインデーなのに。いや別にバレンタインにチョコを送らないといけない決まりはないけど。
ずっとスメールにいた蛍がわざわざ、2月14日に帰ってくる、と言うから。当然貰えるものだと思いこんでいた。だって、付き合っているのだから。
落ち着かない様子でいるのは緊張からだろうか、かわいいな、などと考えていたのははじめのうちだけ。
パイモンもひとりでどこかへ出かけていて、今はふたりっきりなのに。隣に座った蛍から出てくるのは旅先の話と、あとはキラキラ光る茸だけ。
足元に置いたその紙袋は。異国のロゴマークは洋菓子店のものだろう。チョコ。話が切れるタイミングで蛍をちらりと見やっても、ひとつも目が合わない。
そもそもオレのじゃないとか?
待て、実はオレたち付き合ってないなんて言わないよな? その、キ、キスもしたことがないし……。清いお付き合い、なんなら清すぎる程の関係ではある。恋人ではなかった、と言われてもおかしくはない、かも。
そうだ、あの日、できる限りで構わないから君の時間を共有させてほしいとは伝えたけれど、回りくどい表現をしたせいで、トーマの気持ちが正しく受け取られなかったのかもしれない。
まさか、ずっとそわそわしている様子なのは、勘違いはやめろと言い出せずにいるだけ、だったりして……。
蛍の優しい性格を考えれば、そんなことは言いづらいと躊躇している可能性は十分にある。
でも、そんなつもりじゃなかった、だなんて告げられたら、トーマはどうやって生きていけばいいんだろう。もうきっとふたりでは会ってもらえない。その笑顔をひとり占めすることはできないし、悲しみを分けあっていくこともできない。
君がこの先知らぬ誰かと恋仲になる。知らぬ誰かならまだいい、オレの知っている人と結ばれてみろ。
はあ。無意識に漏れたため息に、蛍がぴくりと反応する。
「ご、ごめん、つまらない話だったよね」
「あいや!? オレの方こそごめん、失礼だった。こう……今日の夜の献立はどうしようかな、って、アハハ」
そんな顔をさせるなトーマ。蛍に辛い思いをさせてはいけない。
今までのすべてがトーマの思い上がりで、それが今日終わるんだとしても。最後こそ、イイ男で終わるべきだ。
……はあ、最後。自分で言っておきながらぐさりと刺さる。
「……もう夕飯の準備の時間? じゃあそろそろお暇しようかな、邪魔してごめんね」
「え!? いやいや邪魔なんてとんでもない! もうちょっとゆっくりしていけばいいだろ」
「そう? ……でもトーマ、なんか無理してない?」
してる。盛大に無理している。だって君にフラれるなんて耐えられるか?
そんなこと言えるはずもなく、立ち上がろうとする彼女を押し留めて精一杯否定するだけ。しかし、トーマが首を振れば振るほど、蛍の表情が沈んでいく。
だから苦しい思いをさせるなと。これ以上そんな顔見たくない。お別れなら、せめて笑顔の彼女と。蛍には幸せでいてほしい。たとえ隣にいるのがだれであっても。
「なあ蛍、言いたいことがあるんだろう」
「えっ」
「いいよ。我慢しないで、言って」
「でも……嫌な気持ちにさせちゃうかも」
「オレなら大丈夫。全部受け止めるよ」
唇を真一文字に引き結んで、じっとこちらを見上げては、あ、とかその、とか、視線をあちこちに彷徨わせる。
ごめん、こんな話オレから言い出すべきだったのに。嫌な役目を押し付けてしまった。ほたる、とかすかに震えた声は覚悟を決めた彼女にかき消された。
「あの、お花とかって貰えない、のかな」
「お、おはな?」
「うん、お花」
「え?」
予想外の話に声が裏返った。
あれ、別れ話じゃない? お花?
動揺して何も言えないトーマに何を思ったのか、蛍は顔を真っ赤にして忘れて! だなんて叫ぶ。お花って何。
「お花?」
「だから忘れて!」
「待って、詳しく聞かせて」
「いじわるしてるの? もう忘れてってば!」
手で顔を覆い隠したかと思えば、そのまま崩れて膝の上に伏せてしまった。
お花を渡す。オレが、蛍に?
わからない。わからないが、とりあえず小さな背中をさする。
「あの……もしかして私達、付き合ってない?」
「え!? 付き合ってるよ!? むしろ付き合ってるでいいんだよね!?」
花を渡す、いやそんな約束はなかった。誕生日も今日ではない。かすかなうめき声を聞きながら必死に頭を回そうとするがうまく行かない。蛍にフラれるかもしれないことへのショックで、トーマはもうすでに混乱しきっていたから。
「トーマ、まさか本当にわかってない?」
「……ごめん、わからない」
トーマより先に落ち着いたらしい蛍が口を開く。
指の隙間からちら、と覗いて、小さく呟いた。
「バレンタインデーって、男の人が愛を伝える日で、お花とかプレゼントを渡すんだって……」
ただでさえ小さな声はどんどんと尻すぼみになって、最後の方は聞こえなかったけれど。トーマはここで、とんでもなく大きなすれ違いを起こしていることに気づいた。
トーマが想像していたバレンタインデーは、女性から男性に贈り物を、多くはチョコレートを渡すもの。これは稲妻独特の文化。
一方蛍が聞いたであろうバレンタインデーは、男性から女性に贈り物をする。モンドをはじめ、他の国ではこっちが主流。
長く稲妻にいたトーマはその特有の文化やイベントに慣れ親しみすぎて、すっかり女性からチョコを渡すものだと思い込んでいた。盛大にやらかした。
「ごめん! オレが悪い! 今から花束を買ってきてもいい!?」
「えっそれじゃ買わせたみたいになっちゃうよ!」
「いや本当に……オレが悪いです……」
トーマを引き止めた蛍はやっぱり稲妻のバレンタイン文化については初耳だったらしく、ひどく驚いていた。じゃあチョコレート買ってくる! なんて飛び出しそうになった蛍を今度はトーマが引き止めて、なぜかふたりでソファの上で正座して向かい合った。
「オレは稲妻も他の国も知ってたのに、気づかなかった。ごめんな」
「ううん、誰も悪くないよ」
「だから、ずっと蛍からチョコが貰えるものだと思ってて」
「私も、お花ちょうだいなんて言ったら欲張りって思われるかなって」
お互いに、相手からのプレゼントを待ちわびてそわそわしていたらしい。いつになっても貰えないから、だんだん不安になってきたところまで同じ。
そうだ、改めて大事な確認を。さっきは答えを聞いていない。
「その、オレたちって付き合ってる、でいいんだよな?」
「や、やっぱり違うの!?」
「まっ、て違う違う! あ、いや、違わないんだけど!」
一気に顔を青ざめさせた蛍に慌てて弁解しようとするも、慌てるあまり中途半端な言葉しか出てこない。お互い一度ネガティブに傾いた思考のせいで混乱している。
ちょ、泣かないで。いやこれもトーマが悪いけど。
「ごめん! 本当にごめん!」
「どういう謝罪なの」
「あの違う、違わないんだけど」
「もう『違う』禁止」
「ごめん」
「『ごめん』も禁止」
「ご、あのちが、……はい」
蛍の目尻を拭えば、膨れた頬がぷし、と潰れる。
か、かわいい……。そんな心の声が漏れていたようで、うるうるとした目にじとりと睨まれる。
「いやあの……それっぽいことしてこなかったから、実は付き合ってると思ってるのはオレだけかもって勝手に不安になってたんだ」
「それっぽいこと」
「……キス、とか、そういうの」
「……する?」
いいのか、と聞きそうになったのをすんでのところで踏みとどまったトーマを褒めてほしい。だってムードとか、いや今がそのムードなのか?
黙って見つめ合ったまま膝の上で握りしめた拳を、蛍の指がそっと撫でる。突然の触れ合いに思わず身を固くしてしまったが、そんな場合じゃない。蛍にリードさせてどうする。男は度胸だ。
手はどこに置けばいい。肩? 頬?
散々迷って、向こうの肘掛けに手をついた。ばくばくと震える胸元に蛍の手が添えられるのを感じながら、ぐっと距離を近づける。
すうと目が閉じられて、蛍の長いまつげがふるふる揺れる。これ、男も目を閉じるのか?
わからないけど、この表情を見逃すのはあまりにももったいないから、もうこのままいこう。