≪ゼン蛍≫瓶の蓋が固すぎる問題ジャムの瓶が開かない。
リンゴをとろりと煮詰めて、甘い匂いごと閉じ込めてきゅっと蓋を閉めた瓶。会心の出来だと食べるのを楽しみにしていたのに。
誰がこんなにきつく閉めたのか。そんなもの、この時間までまだ気持ちよく眠っているであろうアルハイゼン、彼しかいない。
いつどこで使うのかもわからない筋肉は、こういったささいなところで発揮されていた。アルハイゼン自身はそんなつもりがなくとも、自然と力が入ってしまって固く閉まるのだろう。何度気をつけるように注意しても一向に改善される気配がなく、おかげで家中の瓶という瓶ががっちがちに封じられていた。
目の前できつね色のカリカリふわふわトーストがジャムを待っているのに、蛍の握力では太刀打ちできない。そもそもこれは昨日の蛍が閉めたもので、それなら蛍が開けられるはずなのに。自分で開けられるように調整したはずの瓶すらも、いつの間にかぎゅっと固く閉められている。見つけるたびに、きちんと閉まっていないからとそれはそれは丁寧に直してくれているようだった。
閉まってますけど。
はあ。開かなくなってしまった瓶は、本人に開けてもらうほかない。毎度お願いするもの申し訳ないし、アルハイゼンが家にいないときは困ってしまう。そろそろ改善してもらえないだろうか。
ねぼすけのアルハイゼンを叩き起こして、その瞳がぱっちりと覗く前に瓶を押し付けた。
「おはよう。これ開けて」
「……おはよう」
身体も起こさないままぽやぽやした顔で、するっと、いとも簡単に蓋を開けた。なんでよ、蛍はあんなに苦労したのに。ちょっと赤くなった手のひらが悲しい。
「ありがとう。次はぎゅって閉めすぎないでね」
「瓶は密閉してはじめて機能する」
「そんなに閉めなくてもいいと思う。私には開けられないよ」
「俺が開ける。何か問題が?」
焦点の合わない目で遠くを見つめながらもぺらぺらとよく回る口だ。蛍が開けられないのは十分な問題だよ。
「アルハイゼンがいないときはどうするの? ひとりじゃ困っちゃう」
「君がひとりにならなければいいんじゃないか」
のそりと歩く熊のようにベッドから這い出たアルハイゼンは、蛍の前に立ちふさがって不思議そうな顔をしている。当然、みたいな表情だけど、とんでもない無茶を言ってるって理解してるのかな。
「ずっと私にくっついて生活するつもり?」
「そうだが」
そうだが!? それは蛍が嫌かもしれない。うぁ、と顔を顰めた蛍をスルーしてひとりキッチンへと向かっていった。
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お砂糖の瓶が開かない。
蛍は作る卵焼きは甘い卵焼きだからお砂糖は欠かせない。卵を贅沢に4つも溶いて、ぷるぷるの卵焼きを作ろうと思っていたのに。
瓶の蓋をぎゅっと閉めたのはもちろんアルハイゼン。何度注意しても治らないどころかエスカレートしているように感じるし、もうこれはそういう悪戯だと言ってくれた方が納得できる。開けられない蛍を見て楽しんでるとか。
蓋をきつく閉めたところで俺が開けるから問題ない、と宣言した男はちょうど外出中だった。蛍のそばに張り付いて、必要なときにはすぐに開けてくれると言ったのにもかかわらず。やーい嘘つき。
そんな悪態をついたところでひとりきりの家では何の反応もない。そもそもアルハイゼンがいたところで、まともに返ってくるとも限らない。いっつも本に夢中でゆるーい返事ばっかりなんだから。
蛍もアルハイゼンも口数は決して多くないから、あれやこれやと語ることもないのだけど、そういえば最近の会話の半分くらいは瓶の蓋の話かもしれないとテーブルの上の開けられなかった瓶たちを眺めて思う。キャンディの瓶、スパイスの瓶、梅シロップの瓶、そしてお砂糖の瓶。アルハイゼンが帰ってくるまで、ここで蛍と一緒に仲良く並んで待っている。
だから帰宅したアルハイゼンは真っ先にキッチンに立ち寄って片っ端から蓋を開けていくのだ。
最後についでのように蛍に口づけを落としては、私怒ってるんだけど! と咎められるところまでがここ数日のお決まりだった。
蓋が開かないからできることがなくなっちゃった。卵焼き、アルハイゼンが珍しく食べたいなんて言うから帰る時間に合わせて焼きたかったのに。ふん、だし巻き卵にしてやろうかな。
ちゃぷ、とほぐした卵をいじくっていれば、玄関の重い扉が音を立てた。
とすとす、足音が近づいてくる。待ち人はやっと現れたらしい、けど。
「ただいま」
「おかえりなさい。手洗った?」
瓶に触る前に、帰ったらまず手を洗ってね。ぬ、と顔を出したアルハイゼンは、それを聞いてぬ、と廊下に消えていった。
かと思えば、やけに早く戻ってくる。ちゃんと洗った?
いや、端から順に蓋を開けていくアルハイゼンの手はびしょびしょだ。確かに洗ってはあるけれど。
「ちょっと、ちゃんと手拭いてきて」
「手を拭く時間が惜しい」
そうして濡れたままの手で蛍の顎を掬って唇を落とす。冷たい、温かい。
「ただいまのキスは、帰宅後速やかに行うものだと記憶している」
「……手拭いてからだと思う」
「ふむ」
「服で拭かない!」
ただいまのキスだったのかこれ。この人、そんな可愛いこと言うんだ。動揺のあまり、思わずつん、ときつく返してしまった。
蛍に怒られて渋々タオルを探しに行ったアルハイゼンは、ハンドタオルをこねくり回しながら戻ってきたかと思えば、なぜかもう一度蛍の顎を掬い上げて。ちう、と可愛くない音を残して離れていく。
「なんで2回したの」
「手を拭いてからキス、と言っただろう」
「言ってないよばかなの」
「俺が馬鹿だと思うか」
思う、思います。だって、蛍の言うばか、が照れ隠しだとわかっていてそんなことを聞くなんて。