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    michiru_wr110

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    michiru_wr110

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    M・ドルP♀ 初出2021.11.
    桐華様主催・ドルP♀ご飯アンソロジー参加作品
    再掲許可が下りたため、過去作品を公開します。その節はありがとうございました。

    東雲×女性P
    デザートピザと、持ち掛けた「賭け」の行く末。

    #ドルP♀
    #東雲荘一郎
    soichiroShinonome
    #しのぴ

    風は止んでも火は絶えず(東雲×P♀) 風が吹けば桶屋が儲かる、ということわざが脳裏を過ぎる。
     関連性のない出来事が巡り巡って思いがけない影響を与えることの意だ。そういえば学生時代、定期テストの直前か何かで神谷に説明したことがあったかもしれない。
     語源を聞いた神谷は興味深そうに相槌を打った後「それなら、俺がこの先世界中を旅をすることも同じかもしれない。巡り巡って思いがけず誰かの人生を変えることがあったら、きっと楽しいだろうな」と笑っていた。振り返ってみれば神谷らしい、能天気な考え方だと思う。

     私は、神谷によって思いがけず人生が変えられてしまった筆頭といっても過言ではないだろう。
     そして神谷がいなければ出逢わなかったはずのその人は、今。


     * * *


    「無風、ですね」
     年季の入ったバーベキューコンロの外側はさび付いていて、うちわに煽られただけで今にも剥がれ落ちてきそうなほどだ。風を送ることを止めたプロデューサーさんは、細い顎、流れ落ちようとする汗を拭ってからりと笑う。
    「ええ。無風です」
     私はそう答え、改めて辺りを見渡す。ロケ日和・撮影日和……もとい炎天下が続く八月の屋外。海沿い特有の潮の匂いが混じった空気をいっぱいに吸い込む。小さな島で過ごす日々は非日常的で、共に訪れた三一五プロの仲間たちは撮影の合間もはしゃぎ声をあげながら、あるいは私のように海沿いの景色を存分に堪能しながら思い思いの時間を過ごしている。
     今で言えば、撮影協力してくださっている島の人々のご厚意でバーベキューの準備をしているところだ。三つほどセットされたバーベキューコンロのひとつにスーツ姿のまま屈みこんでいるプロデューサーさんが滑稽で、思わず声をかけずにはいられなかった。どうにもセットされている木炭になかなか火が点(とも)らず、湿っている可能性もあるからと島の人が代わりの木炭や追加の着火剤を持ってくることになっているらしい。
     待っている間も彼女は点火用のライターをかちかちと炭へ当ててみたり、使い込まれて日に灼けたうちわでどうにか火がつかないものかとコンロの中へとせっせと風を送ったりしている最中だった。

     率直に言えば、ただただ暑く、熱い。
     対峙しているバーベキューコンロにはまだ火が点きそうにないものの、隣接した他のコンロは準備万端だ。薄い煙を立ち昇らせながら食材を香ばしく焼き上げる瞬間を今か今かと待っている。
     プロデューサーさんの足元には着火剤がひとかけら転がっているにもかかわらず、手に取ろうと屈む気配すらない。素直に着火剤を使って、すでに火のついたバーベキューコンロから炭を拝借しても良いのではと問えば、プロデューサーさんは「中の炭が万一湿っていたら無駄になってしまうから」という。島の人たちがやってくるまではこのまま着火を試みる構えだったらしい。それならばとうちわを半ば強引に奪ったのが先刻。そして五分と待たずにうちわを奪い返して再び仰ぎ続け、漸く顔を上げたのが今である。
    「ええ加減諦めたらどうです?」
    「いえ。コンロや木炭の保管場所は同じだったと聞きましたし。他の炭に火が点いてこれだけはって考えづらくないですか?」
    「負けず嫌い」
    「どうとでも言ってください」
     日頃はめったに見せることのない、彼女のむすっとした表情。見つめる視線に声を上げて笑ったことで、プロデューサーさんは拗ねた声色を乗せながら「ちょっと」と私をせっついてみせた。
    「だったらせめて、あと一度くらい着火剤を使ってみたら良いのでは?」
    「いやそれは」
    「勿体ない?」
    「ぐっ」
    「あっははは」
    「だから笑わないでくださいって」
     ぎりぎりと歯を食いしばり、うちわを握りしめるプロデューサーさんの全身から滲み出る不服そうな言動が、どうにもおかしくって仕方がない。仕事とはいえ旅先で、非日常的な空気を共にしているからだろうか。笑いの沸点が低くなってしまっている自覚はあるのだ。取り繕えていない、素の爆笑はいつ以来か。少なくとも三一五プロに属する前からは久しくて、すぐには思い出せそうにない。
     思い出すのを諦めるのとほぼ同じタイミングで、プロデューサーさん気を取り直すように表情を引き締めた。
    「そこまで言うなら、東雲さん」
    「何でしょう」
    「賭けましょう」
    「……カケマショウ?」
    「はい」
     一拍置いて、頭の中で〝賭け〟と変換され。そして思わず、首を傾げる。
     いきなり何を言い出すのだろう。プロデューサーさんの悪い癖が顔を出した、と笑いたくなる気持ちはぐっとこらえた。
     彼女は日頃より頭が回る分、プロデュース方針やライブ演出の指示は具体的で分かりやすさに定評がある。けれど時折……本当に時々、伝えたい言葉が先行して過程をすっ飛ばしてしまうことがあるらしい。普段は努めて過不足のない説明を心がけているけれど、時々気を抜くとこうなるらしい。今の一連の言動が典型だ。
     彼女が垣間見せる一面を私が好ましく思うように、彼女もまた、幾分かは私に心を許しているのだろう。と、好意的に解釈したくなるのはあまりにも独りよがりなのかもしれない。
     私の想いを知ってか知らずか、彼女は形の良い唇に人差し指を置き、少し考える仕草を見せる。もう片方の手でうちわを握りしめて腰に手を当てているところがいかにも、プロデューサーさんらしさかもしれない。
    「……あと五分。いえ、三分以内に火を起こすことができたら、わたしの願いをひとつ叶えてください」
    「プロデューサーさんの、願いですか」
    「はい」
    「ということは、火が点かなければ私の願いを叶えてくれる、と?」
    「そう……ですね?」
     私と目が合うなり、疑問形になる。なぜそこで。
     突拍子のなさがやっぱりおかしくて笑い声を上げると、再び彼女にひと睨みされた。
    「どうせ勝てっこないと思っていますね?」
    「そんなことはありません」
     仕事では到底見られない類の表情。やはり思い過ごしなどではなく、心を許しているのだろう。
     私は敢えて挑発的に笑んでみせる。
    「良いですよ。乗りましょう、その〝賭け〟に」
     勝ち負けなんて、本当はどうでも良かった。どちらに転んだとしても結局、美味しい想いをするのはこちらの方なのだ。けれど提案された以上、口にするのは野暮というものだろう。
     プロデューサーさんは最後のひとつだという着火剤を拾い上げた。炭の間に押し込むと、印字が剥がれかけた点火用のライターのスイッチに指を掛ける。土色をした着火剤は端から少しずつ焦げていき、見えなくなっていく。そして──


     * * *


     夜の住宅街に紛れるには少し異質な洋館が見えてきて、わたしはふわふわとした足がもつれないように努めて早歩きをした。
     閉店後のカフェパレードは、窓の奥に小さな明かりが見える以外はしんと静まり返っている。かすかに虫の声が聴こえる夜の街並みと、目にも鮮やかなイチョウの木がまばらにそびえ立つ。かすかな音しか聴こえない道のりの中では、息遣いのひとつもうるさく感じてしまいそうなほどだった。
     店の入り口に続く短い階段を上がり、ふうう、と大きく息を吐く。吸い込んだ空気は都会の短い秋を感じさせる程度には冷たく、現状のわたしにとっては少し心地が良い。
     レトロなドアノブにクローズを知らせるプレートが下げられているのを認めながら、緩んできた髪の毛に気がついてヘアゴムを解く。手探りで後ろにざっくりとまとめ直してから再び結ぶと、ひゅうっと強い風が一吹き、わたしの髪や頬を撫でて消えていった。まるであの夏の日みたいな、突発的な風だと思う。

     わたしは意を決してドアノブに手をかける。
     カタン、とプレートが当たる音と共に、ウェルカムベルがちりんと小気味よくパティシエを呼びだした。程なくして厨房からは糸目の青年が顔を出して「ようこそ」とすました笑みを浮かべる。


     裏方であるディレクターやスタッフ陣を中心とした、いわゆるアウェイの飲み会帰りだった。
     今夜付き合いで顔を出したそれがどうでも良い会合だったとは言わない。いつ、何がきっかけで新しい仕事が舞い込んでくるかはわからない業界だ。少しでも次につながる何かを見出せるのであれば、断る理由などない。けれども今回集まっていたのは他所の大手事務所を贔屓にしているテレビ局の人間。むしろわたしが呼ばれた理由は表面上「三一五プロの敏腕プロデューサーの仕事ぶりは評判で、是非とも話がしたい」というものだった。けれども誘い文句や口調・声色で読み取れたのは決してそのような喜ばしい理由ではない。単に「適齢期の女性だったから」場が華やいで見えるだけであろうと、ありありと読み取れる。隙あらば、あわよくば。魂胆などとうに見え透いている会合だ。
     現段階において「重要度は低い」と分かりきっていた集まりに、気疲れしなかったかと言われると嘘になる。最低限の食事をとり、粗相のない程度にアルコールを入れている。今のところ、意識ははっきりとしているのだ。

     けれども、全く酔っていないわけではないだろう。そうでなければこんな行動は起こせなかったと思う。


    「こんばんは。急だったのにすみません」
    「お気になさらず。楽しみにしていましたよ」
     二次会の誘いを断ってまで東雲さんを呼びつけるだなんて、単に酔ってしまったというだけでできる芸当ではない。正確には、東雲さんのいるカフェパレードに押しかけたとでもいうべきか。
     ともあれあの時の〝賭け〟で手にした「願いを叶える権利」を行使したい、と思ったことは否定できない。「いざという時の切り札に使う」とうそぶきつつ、使うタイミングを今日まで逃し続けていたのだから。

     *

     結論からいえば、あの夏に持ちかけた〝賭け〟はわたしの勝ちだった。
     火をつけてから仰ぎ始めようとした瞬間、こちらに向かって殴りつけるように強い風が吹いたからだ。
     思えば海沿いでは風が強く吹くのが通説であるはずが、あの時までは怖いくらいに静まり返っていて、建物の中にいるのかと錯覚しそうなほどで。
     
     あの賭けに乗った東雲さんもそれなりに驚いていたけれど、誰よりも動揺したのは他でもないわたしの方だった。
    「プロデューサーさん。『願いを叶える権利』はあなたのものです」
    「負けたのに、何だか……楽しそう、ですね?」
     こういうことを口にする時の東雲さんにはたいてい裏があり、何かを企んでいると学んでいる。けれど不思議なことに、その隠し事は決して不快なものなどではないと確信してしまっているわたしもいるのだから始末に負えない。
    「約束は約束ですから。さあ、何でもお好きなことをおっしゃってください」
     答えになっていない、と文句を言いたくなるのをぐっとこらえる。勝った後のことなどほとんど考えていなかったものだから、いざ「願いを叶えてくれる」と言われても、とっさには何も思いつかないものだ。

     ひと思案していると不意に「そうちゃん!」と呼ぶ野太い声が聞こえる。炭を持ってくるよ、と言い離れていた島の人たちだ。大の大人が炭を抱える重労働にもかかわらず、東雲さんの顔を見るなりぱっと顔を綻ばせて片手を上げている。
    「そうちゃんが火を起こしてくれたのかい?」
    「彼女が粘ってくれたんですよ」
    「へえ! なかなか骨があるじゃない。ありがとうね~」
     先ほどよりも幾分か気安さの混じった声かけに、驚きつつも背筋を伸ばした。
    「いえいえ、こちらこそ! むしろ持ってきていただいたのにすみません」
    「予備があるに越したことはないし、なんてことないさ」
     わたしはあの時、島の人たちと合流し、無事にバーベキューが始まろうとしている様子を見届けて。まもなく事務所からの着信に気がついて、いったんその場を離れたのだ。どさくさに紛れて結局「願いを叶えてくれる権利」のことはうやむやになってしまったわけだけれど。

     その後無事に開催されたバーベキューの終盤。東雲さんが密かに準備していた、とっておきのデザートもとい、サプライズがお披露目された。
     振る舞われた締めは、ピザなのにデザートという一見変わった一品。

     あの夏の日。東雲さんはペンションのキッチンを借りてこっそりとデザートの生地作りを……サプライズのための準備をしていたらしい。撮影が終わって自由時間になると一目散にどこかへと出かけていき、買い物袋を提げてペンションへと戻るなり就寝時間までキッチンにこもっていたはずで。一連の様子には何となく気がついていたけれど、わたしは打ち合わせや翌日の撮影準備・東京で留守を守る社長や山村くんへの連絡などに追われていて、深く気に留めていなかったのだ。
     一見すれば不可解な東雲さんの行動に、声をかけたのはペンションのオーナーだったらしい。東雲さんは時間こそ限られているが、炎天下の中がんばっている仲間やスタッフたちに差し入れをしたい旨を打ち明けたという。滞在中にバーベキューをすることは決まっているから、その時についでにさっと焼けるものならと思いついたのがスイーツのピザだった、とも。事情を聞いたオーナーは水面下で島の人たちに働きかけ、次の日にキッチンへ入るとそこには、差し入れもとい大量の果物やフルーツ缶がうずたかく積まれていたそうだ。想定を超える量が集まったものだから、東雲さんは「試食用」と銘打ってピザを焼き、オーナーや協力してくれた島の人たちに「味見」と称して配ってまわっていたらしい。どおりで、島の人たちとも親しげに話をしていたわけだ。
     
     バーベキューでは大量の焼肉に加えて新鮮な海鮮や野菜が振る舞われ、おまけにスイカ割りまで行われていた。にもかかわらず駄目押しのように現れた、とっておきのデザート。トルティーヤの上で焼けた甘酸っぱさとチーズの香ばしさが相まった、食欲をそそる匂い。食べ盛りの青少年たちがまんまとつられ、続々と集まってきたことは言うまでもない。

     全貌が明かされれば、そういうことだったのかと膝を打ちたくなる思いだった。東雲さんの笑顔を見てようやく、妙にバーベキューコンロの様子を気にしていた理由に気がつくだなんて。察しが悪いにもほどがある。
     もしもあの時に火が点かなければ。一時的とはいえ使えるバーベキューコンロが減り、下手をすれば東雲さんの連日の準備が無駄になっていた可能性さえあった。

     結局あの〝賭け〟は誰にとっても、わたしが勝つ方が都合が良かったのだ。

     *

     カフェパレードの店内の中でも厨房に近い円卓。四つある椅子のひとつに腰を降ろしたわたしは今、念願だった一品を運んできた東雲さんの手元を食い入るように見つめている。
    「あなたが急に食べたいというものですから、あの時とは同じになりませんでしたが」
     東雲さんやわたしの顔よりも大きく丸い木皿に乗せられた、一風変わった色合いのピザ。あの日と同じトルティーヤの薄い生地の上には、複数種類のチーズと、いちご・ブルーベリー。申告通り、あの夏にはあった輪切りのバナナや、缶詰のみかん・パイナップルが見当たらない。代わりとして合間には、串切りになった柿やイチジクといった秋の訪れを感じさせるフルーツたちが所狭しと並べられている。あの夏とは多少彩りが異なっているとはいえ、食欲をそそられるものであることに違いはないだろう。
    「同じじゃなくても良いんです。美味しそう」
     あの時は食欲旺盛なキャスト陣や重労働の多かった若手スタッフに譲ったデザートピザを、ほとんど口にすることはできなかった。本当は食が比較的細めと思われる一部のアイドルにお願いすれば譲ってくれた可能性はあっただろうけれど、あの場で私的欲求を優先するのは違ったと思う。実際目で見て楽しむことができたし、サプライズに満足そうな笑みを浮かべた東雲さんの顔を見られただけでも充分すぎるくらい幸せだった。

     なのに今更。少しの酔いに任せて、願いにかこつけてまで「食べたい」というのは今更だっただろうか。

     わたしの思案をよそに、東雲さんは木皿をコトンと置く。ピザカッターを握り直すと、その場で皿の端に丸形の刃を立てた。意外と骨ばっている手がピザカッターを転がしては、きっちりと直線を刻み付けていく。一度の往復を三回、等間隔の六等分に切り分けていく手は白く、やはりもうあの夏の面影は残っていない。けれど、少し血管の浮いた手の甲は完全に男の人のそれだったし、コック服の袖から垣間見える腕には意外と筋肉がついていることを知っている。元パティシエの肩書きも伊達ではない。優雅な所作とその身体つきとのギャップは異性を意識させるには充分すぎるほどだろう、と他人事のように考えている。
     アルコールのおかげでどうでも良いようなことばかりが頭を過ぎるので、わたしは改めて皿の上に目を凝らすことにした。じゅうじゅうと音を立てながら、溶けたチーズの泡がぱちんと弾けて消えていく間にカッターは離れる。いつ見ても器用なものだ。
    「どうぞ」
     当然のように勧める東雲さんの声に、わたしははっと顔を上げる。
    「えと、東雲さんは」
    「私ですか?」
    「一緒に食べないんですか?」
     するりと零れたのは無意識の問いかけだったけれど、紛れもなく本音でもあった。
    「私は、あなたにさえ召し上がっていただければ」
    「嫌です」
     言葉にすればするほど幼くなってしまう口調に、東雲さんが息を吞む気配を認める。
    「東雲さんと一緒が、良いんです」
     さすがにこれ以上は、まずい。顔を出した理性が軌道修正を図ろうと懸命に言葉を選び始める。努めて意識していないと、またすぐに酔いに身を任せてとんでもないことを口にしてしまいそうだった。
    「……その、ですね。見られているとやっぱり、落ち着かないですし」
    「なるほど……?」
    「言いそびれてましたけれど、わたしは『東雲さんと一緒に』ピザを食べたかったんです」
    「……ふふ」
     そうでしたか。笑う気配とともに、ピザカッターを皿の端に乗せるようにそっと置く。
     あれ、と言いかけて、今度はわたしがはっと息を呑む。もしかすると、わたしは余計なことを口にしたのかもしれない。
    「そこまでがあなたの願いだというのなら、仕方がありませんね」
     九十度の位置、少し間隔を空けて隣にある椅子を引きながら、東雲さんは穏やかに笑った。その顔がやっぱり綺麗で、アイドルなのだから当たり前なのに今更のように心臓が早鐘を打ち始める。それでも東雲さんが椅子に腰かけたことにほっとしてしまうわたしがいて、一連のやり取りに熱くなっていく頬をごまかすように片手を押し当てる。熱を冷まそうと試みながらもわたしは、傍らの取り皿を自分のもとへ引き寄せた東雲さんからなおも目を離せずにいた。

     この人の前で気が緩んでしまう理由を認めたくはなかったけれど。
     目を背けることにも、いよいよ限界が来ているのかもしれない。

    「まったく、あなたには驚かされてばかりです」
    「そう、ですか?」
    「ええ」
     わたしの顔を覗き込むように首を傾げて、東雲さんの笑みはますます深まっていく。
    「あなたと一緒にいると思いがけないことの連続です。私の小手先のサプライズだけでは到底、敵いそうにありません」
    「そうかも、しれませんね。わたしも東雲さんには、驚かされてばかりです」
     おや、と眉を上げた東雲さんは何かを問いかけようとしたけれども。「いただきますね」と、わたしがやや強引に話を切り上げた点については深く追及しなかった。何しろ目の前には、未だに熱を持ってとろけたピザがあるのだ。彼としても腕によりをかけた一品に手を伸ばしているのに、止める理由などないだろう。
     きっちり六十度の角度をつけたピザの先を一口齧れば、舌先にはトルティーヤのぱりっとした生地とチーズ、そして半分に切られたいちごが転がり落ちてくる。火傷をしないよう、はふはふと熱を逃しながらゆっくりと噛み締めれば。口の中にはベリーだけではなく、共に焼かれた柿の風味が混じり合って口の中で広がっていく。熱を入れることでさらに増した甘さにカマンベールチーズのまろやかな塩気が重なり合って。口にしてから呑み込むまでは本当に一瞬だ。
    「秋を感じます……」
    「何ですかそれは」
     仕方がないお人ですね、とでも言いたげに眉尻を下げた東雲さんには、どうやらその一言で伝わったらしい。どこか満足げに頷いてからようやくピザをひと切れ手に取り、口に運ぶ。一口齧ったピザを取り皿に置いて咀嚼する顔は。
    「何だか幸せそうですね?」
     思わず口に出した一言に、東雲さんはきょとんとした表情でこちらを見つめた。
    「私が、ですか?」
    「はい。東雲さんが」
     心底幸福そうに目じりを下げたのは、作り手として喜びを感じたからなのか、それとも。年相応に顔を綻ばせる目の前の青年は、普段の寡黙さなど嘘のようにくるくると表情を変えてみせている。その光景を幸せ以外の何かに例えることは、今のわたしには難しい。
    「こちらからしてみれば、あなたの方がよほど幸せそうに見えますけれどね」
    「当然ですよ。東雲さんの作る、美味しいデザートをいただいているこの状況を、幸せ以外の何に例えろっていうんですか?」
     ああ、さっき思ったことをそのまま口にしてしまったな。自らに突っ込みを入れてももう遅いだろう。これ以上口を開けばいよいよぼろが出てしまいそうだ。
     思うように働かない思考回路で、理性を保とうにも限界がある。

    「……風が吹けば」
    「え?」
     そんなことを考えていたから、東雲さんの唐突な言葉への反応も遅れてしまったのだろう。
    「ああ……いえ、こちらのことです」
     少し、昔のことを思い出しただけです。呟いた東雲さんは懐かしむように、少し離れた窓の外を見つめている。
    「風が吹けば火が点(とも)る、火が点れば無事にピザが焼ける。ピザが焼けるとあなたは笑う」
    「東雲さんも酔っていますか?」
    「ふふ。そうかもしれませんね」
     東雲さんはこちらに向き直り、取り皿を脇に避けると再び、わたしの顔を覗き込むように頬杖をついた。口ではそううそぶいているものの実のところ、東雲さんはスイーツを作りながらお酒を嗜むようなキッチンドリンカーではない。そのことをわたしは、決して短くない付き合いの中で気づいている。
    「一見すれば関連性のないようなことにもきっと、後々意味が出てくるというものなのでしょうね」

     彼の発言が一体、何を指しているのかはわからないけれど。表情から察するにおそらく、東雲さんにとって悪い話ではないのだろう。
     何がともあれ、あの夏の日に提案した思い付きの〝賭け〟は今夜、漸く終わることになる。けれども、今夜をきっかけにわたしたちの関係性に、何かしらの変化が始まるような予感があった。形が変わるかもしれない関係性、訪れるであろう変化が今後のわたしたちに──もしかすると世間にも──どのような影響をもたらすのかは、未だわからないけれど。
     変化にはきっと抗うことなど出来ないだろう。だから今夜はもう、難しいことを考えるのは止めにしようと思った。
    「……賭けを持ち出してくださり、嬉しかったですよ」
     東雲さんはそういって、あの夏とは少し違う、いくらか熱の伴った視線を向ける。
     それは風が吹くほどに熱が上がる、木炭の火によく似ている……と脳裏に過ぎった例えは、かろうじて口にせず済んだ。アルコールによる熱だけがゆっくりと冷めて、真夜中の店内に溶けていく。

     窓の外ではイチョウの木々が穏やかな風に吹かれ、鮮やかな葉をいくつも揺らしていた。
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