犬も食わない その2二学期のハーフタームは特別な物になるはずだった。初めて恋人がいる中休み。二人で出かけたり、観劇したり、アーニャが望めば遊園地にだって行ってもいい。アーニャと交際を始めて三ヶ月。そろそろ手を繋ぐだけじゃなくてその先に進みたい。……例えば、キ、キス、とか。だけどそんなダミアンの考えは見事に打ち崩された。
「ハーフターム?ハーフタームはベッキーの別荘に招待されてる。」
「は?」
あっけらかんと答えられ、ダミアンの目は点になった。初めての中休みに、恋人は自分ではなく友達を取ろうとしている。……まぁそんな所も好きだけど。
「ずっと前から約束してたの。湖の近くにお城買ったんだって!お城だよ?凄くない?そこでお姫様ごっこする約束なの!」
興奮した頬が薔薇色に染まり可愛い。そんなに喜んでいるのに行くなとは言えなかった。
「じなんは?じなんはハーフタームはどこか行くの?お土産買ってきてね!美味しいお菓子とか!カリカリのお菓子とか!」
可愛い恋人は可愛い顔に満面の笑みを浮かべていた。
「それで珍しくここにいるのか。」
兄が面白そうな顔でこちらを見ている。その微笑ましい物を見るような目付きはやめてほしい。ダミアンは今、東地方にある別荘にいた。この地方は有名な湖があり、高台には湖を臨むように古城が立っている。湖の周りにはヴィラやホテルがあり、それに伴い様々な店が建ち並んでいた。近くには良質なワインができるワイナリーもある。何より観光の目玉は宝石だ。宝石の街と呼ばれるだけあり宝石が取れる鉱山があって、この地域は宝石産業が盛んで宝石店が軒を連ねている。オスタニア随一の観光名所だ。勿論デズモンドグループも宝石産業に出資しているのだ。ちなみにデズモンド家所有の別荘は古城を見下ろすように建てられている。
「仕方ねぇだろ。土産買って来いって言うんだし。」
ダミアンは、どうせ土産を渡すならアーニャに何かアクセサリーを贈れないかと考えていた。さすがに指輪はまだ重いだろうけど、土産に託けて何か……例えばネックレスとかなら毎日身に付けて貰えるだろうし、そういった物を贈りたいと思ったのだ。この街は宝石の街だし、自然な流れで土産として渡せるではないか。
「土産買ったら寮に戻るから。」
「そう言わずたまにはゆっくりしていけ。どうせ帰ったって彼女に会えるわけでもないんだろう。何事も良い結果を生むには息抜きも必要だ。それに、アダムとセシリアも来るって言ってたぞ。」
「えっ、あの二人が?」
アダムとセシリア兄妹は分家筋の親戚である。自分達兄弟と年頃も近いので、子供の頃は良く遊んだものだ。特に同い年のセシリアはダミアンにくっ付いてばかりだった。大人になったらお嫁さんにしてね、と可愛らしい事を言われた事もある。今思うと微笑ましい話だ。ダミアンと同じ学校に行きたいと一緒にイーデンを受験したが、彼女は落ちてしまったのだ。
「お前がなかなか帰って来ないからセシリアはいつも淋しそうだったぞ。今回はダミアンもいると聞いてとても楽しみにしているみたいだから、帰らずに少し付き合ってやれ。」
「うっ……まぁ、そういう事なら。」
同い年ながらダミアンはセシリアを妹のように思っていた。生まれた月が数ヶ月早いだけだが、末子の自分が唯一兄ぶれる相手。それがセシリアだった。俄かに外が騒がしくなり、誰かが到着した事を伺わせた。
「ほら、着いたようだぞ。」
デミトリアスは座っていたカウチソファーから立ち上がった。ダミアンもそれに倣い立ち上がる。部屋を出て、正面階段からエントランスホールを見下ろすと、執事に伴われ丁度アダムとセシリアと思われる人物が入って来たところだった。白い大きな帽子を被っているのがセシリアだろうか。帽子の陰からブルネットの長い髪が見えている。セシリアがこちらを見た。幼い頃の面影を宿した美少女がダミアンを見て花のような笑顔を浮かべた。
「ダミアン!」
駆け出したセシリアの頭からふわりと帽子が落ちた。あ、帽子が、と思いながらそれを見ていると、セシリアはダミアンの胸に飛び込んできた。アーニャとだって数える程しか抱き合った事はないのに、お年頃のダミアンは女の子特有の柔らかさに驚いた。
「ダミアン!もう!会いたかったわ!なかなか会いに来てくれないんだもの!」
「セシリア……大きくなったな。」
「ダミアンこそ!何年振りだと思っているの?最後に会ったのは六年も前よ。」
「そんなになるか?」
「ああ、やっと会えた!」
ダミアンは未だ抱き付いているセシリアの体をやんわりと引き離した。恋人がいる身で他の女の子と抱き合う事はできない。
「何よう!せっかく会えたのにどうして邪険にするの?」
「セシリア、ダミアンには恋人がいるんだよ。恋人がいるのに他の女の子と抱き合えないだろう?」
隣からデミトリアスが声をかける。セシリアは驚いた顔でデミトリアスを見上げた。
「ダミアンに……恋人?」
「やぁ、セシリア。久しぶり。」
デミトリアスが笑いかけると、セシリアはハッとして恥ずかしそうに上目で兄を見てカーテシーで挨拶をした。
「お久しぶりです、デミーお兄様。」
「全くセシリアは、はしたないだろう。」
階段下から妹の帽子を手にしたアダムがやって来た。それをセシリアの頭に乗せてやりながら、アダムは笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、ダミアン。デミトリアスも久しぶり。」
「元気そうだな、アダム。大学はどうだ。」
「毎日忙しくて嫌になるよ。」
言葉を交わす兄達を尻目に、セシリアはジト目でダミアンを見つめている。
「ねぇ、ダミアン。恋人ができたなんて嘘よね。」
「えっ……?ああ、嘘じゃない、けど。」
言いながら頬が熱くなる。こんな事で赤面してしまう未熟な自分を恥入りながら、ダミアンは俯いた。
「へぇ、ダミアンに恋人か。隅におけないなぁ。同じイーデンの子か?」
「そ、そうなんだ。」
「可愛いのか?」
「いや……その……か、……可愛いよ。」
カーッと更に赤面した弟を見て、デミトリアスは笑みを浮かべた。イーデンに入学してからいつも張り詰めた顔をしていた弟が年相応の顔をしている。良い傾向だと思ったのだ。しかしその隣で顔を顰めているセシリアには苦笑する。
「まぁ、この話はお茶でも飲みながらしようじゃないか。」
デミトリアスの言葉にダミアンはホッとした。恋人の事を聞かれるのは嬉しいようで恥ずかしい事だと身に染みてわかった。些か思春期の自分には荷が重い。イーデン内ではアーニャと交際している事は認知されつつあるが、イーデンから一歩出れば当たり前だが誰もダミアンとアーニャの事を知らない。イーデンという作られた秩序の中、そこは箱庭のような世界なのだ。自分達は狭い世界で生きているのだと改めて感じた。
庭にあるガゼボに用意されたお茶を飲みながら久方ぶりの会話は始まった。やはりというか、アダムもセシリアもダミアンの恋人が気になるようで、矢継ぎ早な質問にダミアンは汗が止まらなかった。
「それで?彼女の名前は何て名前なんだ?」
アダムが身を乗り出して聞いた。
「ア、アーニャ。アーニャ・フォージャー。」
「どこの御令嬢だ?」
「親は精神科医で……」
「医者の娘?大した事ないじゃない。それともお父様は病院を経営なさってるの?」
セシリアが棘がある言葉で割って入った。
「セシリア。」
アダムが隣で諌めるが、つんとして少しも悪く思っていないようだった。
「……いや、フォージャーの親父さんはバーリント総合病院に勤めてる。」
「何よ。雇われ医者じゃない。そんな子、ダミアンに相応しくないわ。」
「セシリア。やめなさい。」
アダムが再び諌める。セシリアはバツが悪そうに俯いてしまった。ダミアンは小さく溜息をついて形だけの笑みを浮かべた。
「まぁオレも昔はバカにしてたから。でも、今はそれが恥ずかしい行為だったって思ってる。」
ダミアンがそう言うと、セシリアの顔が朱に染まった。
「確かにデズモンドには合わないだろうなぁ。自由な奴だし、うちの家風は窮屈だろうな。どうやってイーデンに合格できたんだってくらい勉強は苦手だしトニトは五つもくらってるし。ああ、古語だけは何故かいつも良い点取ってるけど。あと一つステラ獲得で皇帝の学徒だし、やる時はやるヤツなんだ。」
アーニャの事を話しながら、頭に浮かぶのは春色の恋人の姿だ。アーニャの話をした途端、直ぐにでも会いたくなった。
「……どうせ私はイーデンに落ちたわよ。」
セシリアは不服そうな様子でティーカップに口を付けた。
「イーデンの倍率を考えれば、落ちたって恥じゃないさ。」
デミトリアスがフォローを入れる。
「でも、デズモンドに相応しくないなら何でそんな子と付き合ってるの?」
セシリアはまだ食い下がってきた。何故こんなに気にするのかダミアンは不思議だった。仲の良い幼馴染を奪われた気にでもなっているのだろうか。
「相応しくないとは言ってない。そ、それに付き合ってるのは……好きだからだよ。家柄とか関係なく、好きなんだ。……って、だーっ、言わせるなよ!」
ダミアンは照れ隠しにティーカップに口を付けた。恥ずかしさで喉が渇いてしょうがない。
「で、その子とキスくらいしたのか?」
アダムの言葉にダミアン咽せた。
「キ、キスなんて……そんなのは……」
「何だよ、まだなのか?」
「う、うるせぇな。あいつはまだ子供なんだよ。」
揶揄うアダムの隣でセシリアは唇を噛み締めていた。
セシリアはダミアンの事が大好きだった。幼い頃から好きだったのだ。意地っ張りで頑張り屋で正義感が強く、本当は優しくて淋しがりやの男の子。それを知っているのは自分だけだったのに。一緒にイーデンに通うつもりでいたのに、セシリアは入学試験に合格しなかった。ショックのまま入学させられたのは箱入り娘が通う名門女子校だった。男を殆ど知らないまま育ったセシリアにとって、ダミアンへの執着は日増しに増して行った。セシリアにとってダミアンは完璧な王子様。そんな思いを抱えているセシリアの気持ちも知らず、ダミアンはハーフタームもクリスマス休暇も滅多に帰って来てくれなかった。イーデンに入学するまでは長期休暇はいつも一緒だったのに。最後に会ったのは六年も前だ。ダミアンと結婚したいと親に訴え、何とか婚約できないかとも考えたが、親は子供の言う事だと取りあってはくれなかった。だけどどこかで安心していたのだ。堅物のダミアンに恋人なんてできるわけない。きっと家同士が決めた結婚を受け入れるだろう。その時ダミアンの隣にいるのは自分だと何の疑いもしていなかったというのに、まさか二流の家のどこぞの馬の骨に掻っ攫われていたなんて。男達が談笑している様を険しい顔で見ながら、セシリアは唇を噛み締めた。このハーフタームで必ずダミアンを奪い返してみせる。そんな事をセシリアが決意していたとは、この場にいる誰も知らなかった。
翌日。ダミアンはアーニャの土産を探しに街におりた。それには何故かセシリアまで着いて来た。どうしても二人で出かけるのだと言って聞かなくて、街までおりると護衛も返してしまう始末だった。ハーフタームもあって街は賑やかだった。セシリアははしゃいでいた。何故そこまではしゃいでいるのかダミアンにはよくわからなかった。そんなに昔が懐かしいのだろうか。腕を組んで歩かれるのだけは何とかならないかと思ったが、「久しぶりに会ったんだから別に良いでしょ?」と押し切られてしまった。それならばアーニャへの土産を選ぶのを手伝ってもらうか、と思いながら店々を覗いて歩く。一人で宝石店に入るには一六歳の自分にはまだ敷居が高いが、女の子連れだと自然な流れで入りやすい。そういう打算的な思いがあったのも事実だ。セシリアに腕を引かれて入った宝石店で、ダミアンはハート型のネックレスを見つけた。小さなハートのトップがピンクダイヤでできている。
(アーニャに似合いそうだな。)
そう思っていると、隣でセシリアが甲高い声を上げた。
「可愛い!ねぇ、ダミアン。これ、私に買ってよ。」
見ればダミアンが見ていたネックレスを指差している。
「ええっ?!何でだよ。」
「ねぇ、いいでしょう?今日の日の思い出よ。」
「これ、彼女への土産にしようかと思ったんだけど。なぁ、お前は別のにしねぇか?」
セシリアが眉を吊り上げた。自分が欲しいと言っているのにまさかそんな事を言われてしまうなんて失礼な話ではないか。絶対に恋人になど贈らせてたまるものか。
「いやよ!これがいいの!」
……昔からセシリアは言い出したら聞かないのだ。ダミアンは内心溜息をついた。困ったと思いながら視線を落とす。このハートのネックレスよりもアーニャに似合いそうなネックレスはないか。ふと視線の端に、きらりと輝く月が見えた。それは同じショーケースの並びに鎮座していた。小さな月のトップが付いているネックレスだ。こちらはゴールドの三日月の中にイエローダイヤが一つ付いている。それが照明に反射して夜空の月のようにキラキラと輝いていたのだ。
(これ、オレの目の色に似てるな……。こっちの方がいい。)
これを付けたアーニャを想像し、ダミアンは緩みそうになる口元をグッと引き結んだ。自分の瞳と同じ色の宝石を身に付けた彼女……。良いではないか。こんな事を思うのも独占欲の現れだ。
「わかった。こっちはお前に買ってやる。」
ダミアンがそう言うと、セシリアは頬を染めて喜んだ。
「キャーッ、ダミアン!大好きよ!」
抱き付かれたので思わず両手を上げて「わかった。わかったから離れろ。」と声をかける。自分にはもう恋人がいるので、こういう事は本当にやめてほしい……と思いながらも、昔の感覚のままであろう妹のようなセシリアの行動を微笑ましくも感じていた。店員を呼び、ショーケースからネックレスを出して貰う。セシリアは「ダミアンが着けて。」と背中を向けて髪をかき上げた。ネックレスを着けてやるとセシリアは鏡を覗き込んだ。
「ほら、やっぱり私に良く似合うじゃない。」
セシリアが鏡の中に夢中になっているうちにダミアンは月のネックレスを包んで貰った。
「ねぇ、似合う?」
腕に絡み付くセシリアに、「似合う似合う。」と相槌を打ってやる。丁度その時、店のドアが開いて甲高い声が入って来た。
「キャーッ見てアーニャちゃん!可愛いわよ。」
アーニャ、という名前と、聞き慣れた声にドアを振り返って目が点になった。そこにはベッキーと、愛しのアーニャの姿があったのだ。
「アーニャ、お小遣いそんなに持ってない。」
そう言いながら店に入った途端、アーニャ!という聞き慣れた心の声が聞こえた。声の方を見ると、そこには恋人となった男の姿があった。……ただし、その腕には見知らぬ女の子がぶら下がっていた。
「じなん。」
自分の口から発せられた声はどこか遠くから聞こえた気がした。その女の子は誰。何でここにいる。聞きたい事はたくさんあるのに、言葉が喉に張り付いて出て来なかった。ダミアンの顔色は見る見る間に悪くなった。そうか、きっと後ろめたいんだな。
「アーニャ、何でここにいるんだ。」
ダミアンがそう言った途端、彼の腕にぶら下がっている女の子の心の声が聞こえた。
(アーニャ?この子がアーニャ?)
女の子のブラウンの瞳が上から下までじろりとアーニャを見た。まるで値踏みするみたいに。
「言ったでしょ?ベッキーの城に行くって。」
何とか言葉を押し出す。心は乱れに乱れているが、冷静さを装えただろうか。
「そうよ、高台の城、誕生日に買って貰ったのよ。それよりもあんたはこんな所で何してるのよ。可愛い彼女がいるのに浮気?」
アーニャの隣に立つベッキーがダミアンに向けてストレートに聞いてくれた。さすが親友。
「ち、違う!こいつは……」
「ダミアンの婚約者のセシリア・デズモンドです。」
ダミアンの返事に被せ気味にセシリアが答えた。ダミアンは目を大きく見開きセシリアを見下ろした。セシリアは何故か勝ち誇った顔をしてアーニャを見つめている。
「な、何言うんだセシリア!嘘だ、アーニャ!違うからな!」
慌てるところが怪しく見えた。
「ふーん。婚約者。」
アーニャは目を細めた。ダミアンの心の声は動揺しているのか早口で何を言っているのか聞き取れなかった。……という事は、やはり後ろめたい事があるのだろう。なんだ、とアーニャは思った。ダミアンを信じてたのに。周りのみんなが言うように、ほんとに庶民だからとみくびられ、遊ばれていたのか。そんなヤツじゃないって思ってたのに。……アーニャも冷静さに欠いていたのだ。普段できる状況判断が落ち着いてできない。心がもやもやと苦しくて堪らなかった。こんな気持ちは知らない。これは嫉妬という感情。くるりと踵を返す。もうこんなところには一秒だっていられなかった。
「ベッキー、他のお店行こ。」
そう言って、店を出た。ベッキーが慌てて後についてくる。
「アーニャちゃん、大丈夫?」
「こんなの全然へいき。アーニャ庶民だし、お遊びだってわかってたから。」
交際が始まってからも、特に何かあったわけでもない。手は繋いだけど、キスの一つもされた事もない。ダミアンの好きという気持ちは本当だったかもしれないが、本気ではなかったのかも。だってあんなに可愛い婚約者がいるんだから。思わずぽろりと涙が零れ落ちた。
「アーニャちゃん……。」
ベッキーはアーニャの手を引くと、ブラックベル家の車に押し込み直ぐに発進させた。こんな所に一秒でも親友をおいてはおけない。ダミアンが外に出た時は既にアーニャを乗せた車は車が動き出していた。
「アーニャ!」
呼び掛けるが、無情にも車は走り去ってしまった。