ギヴァウェイのクロディ 窓の外は雪が降っていた。共用スペースに置かれたベンチに腰掛けて、ディアスは一面の銀世界を眺め遣る。
エクスペルに居た頃は、あまり雪を目にする機会はなかった。故郷は長閑で暖かく、空から降る白いものと言えば専ら花ばかりだった。
人気のない廊下は寒々しく冷え切っている。文明の発達した星の学び舎は、エクスペル最高峰と名高いリンガの大学よりも遥かに大きく立派だ。辺境の星の辺境の村に生まれ落ち、教会の日曜学校で必要最低限の読み書きと計算を手習い程度に受けただけの自分には、全くもって不釣り合いな場所だ。
エル大陸に渉る途中ではぐれたフェルプールの少年の存在を思い出す。天才だの神童だのと周囲からの嫉妬と羨望の入り混じった称賛を受けたあの子供であれば、或いは自分などよりもっと、有意義にこの状況を受け容れて立ち回れたのではないか、とディアスは思った。
剣を振うしか能のない男はここに来て、ただの剣では届かない相手と対峙している。ディアスでは及びもつかない文明の最先端の技術で辛うじて渡り合える宇宙の危機の前に、ディアスが貢献出来ることはあまりにも少ない。
家族を喪い、故郷を離れ、ディアスに唯一遺されたものは身体一つだけだ。その身体一つを使って、ただひたすらに強さだけを追い求めた。それ以外何も要らなかった。弱ければ奪われる。そして、最初から何も持たないのでれば、もう誰もディアスから奪うことは出来ない。そう思って、この二年間剣を振い続けていた。そして敗けた。宇宙を滅ぼそうとする脅威にも、ディアスの強さに憧れて背中を追うだけだった子供にも敗けた。強さだけを追い求めた結果だ。
何も持たない生き方を選んだディアスには、足りないものが多過ぎる。その事実をむざむざと思い知らされた。
一人分の足音が響く。ディアスは雪を眺めることをやめ、窓から廊下へと視線を移した。シンプルなジャケットを羽織った、赤いバンダナの印象的な青年が歩いてくる。クロードだ。向こうもディアスに気が付いたらしく、小さく目を瞠る。それでも彼は素通りすることはなかった。ゆっくりとした足取りで近付いてくる。
「こんなところで何してるの」
ベンチに腰掛けたディアスの傍らにクロードが立った。照明を背負う青年を見上げる。珍しい光景だ。
「……外は冷える」
「確かに」
クロードは笑いながら同意して、先ほどまでディアスが眺めていた窓の外へと視線を送った。
「売店で、何か温かい飲み物でも買ってくるよ」
断るよりも先に、クロードは踵を返して歩き出した。その背中を眺め遣りながら、今ならまだ声を張り上げて断ることも出来るのに、その気になれないのは何故だろう、とディアスは思った。
そう時を置かず、クロードは戻って来た。カップが二つ乗った紙のトレイを手にしている。
「良かった。待っててくれた」
居なくなってたら、一人で二つとも飲まないといけないところだった。クロードは笑った。
ディアスと隣り合ってクロードがベンチに腰掛ける。二人の間にトレイが置かれた。覗き込んだ二つのカップの内、一つは紙のカップに入った淡い褐色の飲み物で、一つは透明のプラスチック製のカップに入った黄色い飲み物だった。クロードの髪の色に似ている。
「二種類あるんだ。こっちがヘイゼルナッツとオルヅォのミルクティーでメイプルシロップ。で、こっちはホットレモネード。蜂蜜入り。どっちがいい?」
カップを指し示しながら、一つずつ丁寧にクロードは説明した。
「どっちでもいい」
「じゃあ、ぼくがミルクティーを貰うよ」
カップを攫い、ディアスの横でクロードはミルクティーを口に含む。トレイの上にはディアスのレモネードが残されていた。クロードの髪に似ているなどと脳裏に過った自分の思考が恨めしい。飲み難い。それでも厚意を無碍扱うわけにもいかず、ディアスは渋々レモネードを啜る。
「ごめん。酸っぱいの、苦手だったかな」
眉間に皺でも寄っていたのか、心配そうな声音でクロードに訊ねられた。
「……違う」
溜め息交じりに告げると、クロードの不安の色はますます濃くなった。
アームロックで並んでパフェを食べたときの気まずさを思いす。レナが来るまでは隣でこちらの顔色を窺う子供を本当に煩わしく思っていたのに、今もまたこうして隣り合って座っている。あの時と同様に顔色を窺う気配はあっても、あの時のような不快な気持ちにはならなかった。
クロードの方を見る。彼は手の中のカップに視線を落としていた。
「学長のところに行っていたのか」
「あ……うん」
ディアスが問うと、弾かれたようにクロードが顔を上げる。向けられた青い眼差しは、心なしか輝いて見えた。
「協力して貰ったし、学長にもファイルの内容は伝えないといけないと思って……驚いてたよ」
「だろうな」
事の始まりはノースシティで見掛けた閲覧不可のファイルだった。新聞社に勤めるチサトの協力を得て、様々な偶然や幸運が重なり、このギヴァウェイでとうとうファイルの中身の全容を知ることが叶った。それは奇しくも、倒すべき敵の行動原理の根幹であると言っても差し支えのない重大な機密情報だった。
「何か、やり難くなっちゃったな。こんな形で、メタトロンの言っていた言葉の意味を知ることになるなんて」
自嘲めいた苦笑を浮かべて、クロードは言った。きっと、父親を喪った子供は、娘を喪った父親のことを考えているのだろうな、とディアスは思った。
「だから何だと言うんだ。説得でもしてみるか」
「無理だろうね。聞く耳なんて、きっと持ちやしないさ」
「なら、オレたちがすべきことは一つだけだ」
「うん。そうだね」
力強くクロードはディアスに同意した。けれど、すぐにまたその表情を曇らせる。それから、少し迷う様子を見せて言い難そうに口を開いた。
「……ディアスはさ、家族が死んだときの感情を、覚えてる?」
思った通り、クロードは敵の境遇に自身を重ねているようだった。けれど、それが自身に飛び火するとまでは考えていなかったディアスは言葉に詰まる。
覚えてはいる。強い怒りと憤りと激情が確かにそこにはあった。そして、それらを上回る深い悲しみと自責の念は永く今も尾を引いている。
「覚えている。だが、そうだな……覚えているだけだ」
「うん。ぼくも……父さんが死んでから、日は浅いけど、何だろう……こういう強い感情ってさ、持続させるのはすごく大変だな、って思った」
「おまえは……仲間の存在も大きいだろう」
レナの、と言い掛けてやめた。
ラクアで過ごす最後の夜に、レナはクロードを相手に選ばなかった。あわよくば、ディアスに遺された唯一の大切な存在と言っても過言ではない少女を、この未熟だが見どころのある青年に任せたいと考えていたが、彼女自身がクロードを選ぶつもりがないのなら話は別だ。無理強いすることは出来ない。
「……大きいのはディアスの存在だよ」
何処か忌々しそうにクロードは吐き捨てた。
そこで不意に思い出す。昨夜レナに選ばれなかった彼と過ごしたのはディアスだった。何故か、途中から段々腹立たしくなってきて、意趣返しに口付けてやったことも芋づる式に思い出す。不機嫌そうに唇を尖らせた隣の青年の頬は、心なしか紅潮しているようにも見えた。
今口付けたら、クロードの唇はミルクティーの味がするに違いない。そして昨夜のように会話が成り立たなくなるのだろうな、とディアスは思った。だからやめた。
「……ガブリエルは兵器だ。人間は生きていく為に色んな感情を風化させることが出来るけど、彼はそうじゃない。娘さんを亡くしたときのランティス博士の強い憎悪や怒り、復讐心とが、鮮明なまま留まり続けているんだ」
「復讐心、か」
「わかるんだ。ぼくも、父さんを……あいつらに、殺されたとき、そうだったから」
ディアスもだろ。クロードは付け加えて言った。
ディアスの存在が大きいというのはこういう意味か、と奇妙に納得する。きっと、彼は他の仲間にはこんな話は出来ないと思ったからだ。
だが、復讐という言葉に違和感を覚える。クロードではなく、自分自身の感情に対してだ。
クロードの言うような感情の風化ではなく、家族を亡くした直後に、そもそも復讐心に駆られたのかそれすらディアスは記憶がない。そうだ。喪失の嘆きと、自身の無力への呪詛ばかりだ。それしか覚えていない。
「オレは、復讐をすることはなかった」
「え」
「アーリアを出て、旅をする中で出くわした野盗は一人残らず斬り捨ててきた。だから、もしかするとその中に、家族を殺した顔もあったかも知れない。だが、それだけだ」
レモネードの入ったカップをトレイに戻す。代わりに、よく似た淡い色の髪に触れた。
腑に落ちる。
激情を持続させるだけの執着が、ディアスにはない。家族を奪った相手への復讐心も、世界に報復したいという衝動もない。だからクロードのように、十賢者の境遇を自身に重ねようとすら思わない。どうしようもない喪失感を抱えながら、強さだけを求めるようでいてその実ディアスが求めているのは死に場所の方だ。
「オレの剣は奴らに届かず、おまえにも負けた」
「……何で、あの勝負の話を今するんだよ」
拗ねた様子でクロードが言った。髪に触れる手に関しては何も言われなかった。
「おまえは奴らとは違う。おまえは理不尽に父親を奪われようとも、宇宙を滅ぼそうとは思わない。そうだろう?」
質問には答えず、ディアスは問いを被せる。
「当たり前だ」
「だったらいい。お前がやり難く感じる必要はない」
力強いクロードの即答を得られたことに満足し、髪を放す。だが、再びレモネードに伸ばそうとした指先はクロードの手に捕らわれた。
「おい」
反射的に抗議の声を上げて振り解こうとする。けれど思い掛けず強い力に阻まれて抜け出せない。これ以上はレモネードが冷める。離せ、と言うより先にクロードが唇をグローブ越しにディアスの手の甲に落とした。意図が掴めず、ディアスはただ目の前の青年の奇行を見詰めた。
「そうだよ。ぼくは彼らとは違う。父さんを喪っても、それでもまだ、ぼくには守りたい人たちがいる。宇宙を滅ぼさたりなんかしない」
クロードが顔を上げる。ディアスの手は絡め取られたままだ。
「母さんも、みんなも……あなたのことも、ぼくが守ってみせる」
反応に困る。
母親がみんなの中に含まれていないことは解る。ただ一人残された肉親は大切だ。みんな、というのは恐らく友人だ。エクスペルから先、ここまで旅を共にしてきた仲間も同じ括りだろう。だから、奇妙な間を設けてから、わざわざ念を押すようにディアスを指した意味が理解出来ない。理解したくない。
「……たかだか一度オレに勝ったからといって、調子に乗り過ぎてないか」
「茶化すなよ。ぼくは本気だ」
そう言ってまた、クロードはディアスの手の甲に口付けた。何だか馬鹿馬鹿しくなってきたディアスは、諦めて空いている方の手で冷めたレモネードを啜り始める。
結局、レナと隠れんぼに興じているのだと言うプリシスが通り掛かるまで、クロードがディアスを解放することはなかった。