もうタイトルどうして良いか全然分からない 何度も浮かぶ疑問がある。戦場に薬を届ける馬車を降りしきる雨の中走らせた朝、父はムラビトを起こさなかった。そして帰って来なかった。何故、あの日に限って父はムラビトを起こしてくれなかったのだろう。いつもなら起こしてくれた。どんなに朝が早くても、どんなに遠くに行くときも、いつも一緒だった。小さな身体のムラビトが疲れ果てても、その逞しい背中に背負ってくれた。だのに、父が死んだあの日、父はムラビトを置いて行った。
何度も、何度も、浮かぶ疑問に死者が答えを返すことはない。これから向かう場所が戦場であるからだとか、迅速に物資を届ける為に危険な道を征かなくてはならないからだとか、遺された側はそんな曖昧な憶測で推し量るしかない。答えは永遠に得られない。ただ一つ判っていることは、ムラビトを背負ってくれた大きな背中と温もりが永遠に失われたという事実だけだ。
目蓋の裏側を撫でられるような感覚がムラビトの覚醒を促した。ゆっくりと目を押し開く。重たい。涙で乾いた睫毛が涙袋に貼り付いているからだ。傾いた視界に、収穫を待つ一面の小麦畑の地平線が映り込む。その向こうの空は微かに蒼く、黎明の瑠璃色に染まっていた。鳥の声も、虫の声も絶えたあぜ道に、夜の風に静謐に麦の穂先が揺れて踊り、波を打つ。時を置かず朝日に掻き消されてしまうだろう星の光一つ一つをおしむように、ムラビトは目を細めた。
「目ぇ覚めた、店長?」
近くで穏やかな声がした。麦の穂がムラビトの頬をくすぐる。近い。声も近いが、麦の穂先も近い。戸惑うムラビトを置き去りにして、身体を預けた地面が小刻みに揺れる。否、地面ではない。温かい。懐かしい感触に、ムラビトは漸く自分が置かれた状況を理解した。
「……覚めたので、下ろして下さい」
ムラビトはアッシュに背負われていた。頬を撫でた麦の穂先は、アッシュの元気に跳ねた毛先だった。
「やだよ。店長に付き合ってたら昼になっちまう。俺、夜通し歩き回ってんだぜ?」
さっさと帰って半休取って寝る。澄んだ夜明け前の空気に、アッシュのぼやきが気怠く溶ける。下ろす気はないようだ。諦めて、ムラビトはアッシュの肩口にこめかみを押し当てた。
「角、痛くないですか?」
「へーき。もうちょいフード深く被っとけば?村見えてきたし、念の為」
言われた通りフードを被り直す。狭まった視界が徐々に白み始める東の空を捉えた。地平線まで覆い尽くす小麦畑の輪郭が、朝の先触れを受けて微かに滲む。
朝が来る。来てしまう。夢の続きだ。
漠然とした不安がムラビトを押し潰す。耐えきれず、昇る朝日から目を反らしてアッシュの項に鼻先を埋めた。
「くすぐってぇ」
アッシュの笑う声がする。合わせて、ムラビトの頬を彼の金色の髪が柔らかく撫でた。
「……ごめんなさい、アッシュさん」
「それ、さっきも聞いた」
いつだろう。覚えていない。アッシュに見付けて貰ったときの記憶がムラビトにはない。その折に何か口走ったのかも知れない。他にも彼に何か恥ずかしいことを話したかも知れない。途端に恥ずかしくなったムラビトは、更に強くアッシュにしがみついた。
「迷惑かけてしまったみたいで、その……変なこととか、言ってないと良いんですけど」
「んー?そうだなぁ。これがマオだったら暫くネタにしてイジれるけど、店長じゃなあ」
何を言ったのだろう。思い出せない。気が付いたらアッシュの腕の中でぼろぼろと泣いていた。それだけでも情けなくて恥ずかしかった。想像しか出来ない醜態に、ムラビトはますますアッシュの首を締め上げた。
「レベル1の筋力でも入るとこに入りゃそれなりに苦しいんだぞ店長」
「うわーっ!すみません」
慌てて腕を解く。バランスを崩して後ろに倒れそうになったムラビトをアッシュは難なく背負い直した。
「いいよ、謝んなくて。俺もお前に、もっと恥ずかしくて情けないとこいっぱい見せてるしさ」
だからおあいこ。穏やかにアッシュは言った。彼のつむじを見下ろしながら、顔が見たいな、とムラビトは思った。
風を受けて麦畑が波打つ。朝の日の光を受けて、麦の穂のひと粒ひと粒が宝石のように燦めいた。潮騒にも似た響きが鼓膜を震わせる。
「……昔、父ちゃんに負ぶさって、この道を歩いたことがあります」
父とアッシュの背中は違う。肉の付き方も、肩幅も、受ける印象も返る感触も温もりもにおいも違う。背中だけではない。ムラビト自身も、大人になった。あの頃とは何もかもがまるで違う。それなのに、何故かムラビトは父のことを思い出した。
「手を伸ばせばそこにあった父ちゃんの背中が、こんなにも突然、届かなくなるなんて思いもしませんでした」
言い知れない郷愁に衝き動かされる。視界が滲んでぼやけた。太陽の眩しさだけが理由ではないことをムラビトは理解していた。
「子供だったんです。どうしようもなく」
失くしかけた、今度こそ失くしたくない背中にしがみつく。アッシュは小さく身動ぐだけで、今度は何も言わなかった。
穏やかな沈黙が横たわる。そうしている間にも徐々に夜の闇は押し上げられて、東雲色に空は移ろう。
「……そういう思い出、俺にはねぇからなぁ」
不意に、黙り込んでいたアッシュが呟いた。その一言にムラビトは息を飲み、身体を強張らせる。
そうだ。肉親の記憶のないアッシュに対してあまりにも無神経だった。歯噛みする。すぐに謝ろうと口を開きかけたムラビトを、アッシュの言葉が遮った。
「もともと持ってないもんは失くしようがない」
抑揚を欠いた、平坦な声音でアッシュは言った。
「だから、持ってたもんを失くして、傷付いて、哀しんで苦しんでる奴の痛みってのを、俺は想像することしか出来ない。国王にしても、お前にしても。俺には悪友共もいるけど、そういうのとはまたちょっと違うもんなんだろ。肉親の情ってのはさ」
抱き込んだ金色が、徐々に彩度を取り戻していく。暁光を宿して輝く髪は、一面の小麦畑よりも美しく、山積みになった金貨よりも価値があるもののようにムラビトには思えた。
「悼むことも悼まれることとも縁遠い俺には、得られない痛みだ。それを、乗り越えて踏ん張ってきた店長は……カッコいい、と思う」
明朗だったアッシュの声が途中、何かに気が付いたかのように、尻すぼみになる。最後は消え入りそうにか細く、ムラビトの未だ優れた聴力でも拾い取ることが出来なかった。
「でも、別にいつもそんな頑張って踏ん張ってる必要ないし、ガキでもいいじゃねぇか、って話!」
何かを誤魔化すようにアッシュは話を打ち切ってしまった。ぼやける視界は美しい黄金色を不明瞭に捉える。目に焼き付けることを諦めたムラビトは、黙って顔を伏せて息を吸い込んだ。ムラビトの角が当たっても、アッシュは非難の声を上げなかった。
アッシュのにおいがする。アッシュの息遣いが聞こえる。アッシュの心音を感じる。
この人が好きだ、とムラビトは思った。
「見事なもんだな」
さんざめく麦畑へと首を傾けて、アッシュは言った。朝焼けに燃える空の下、黄金色の海が厳かに波を打っている。
「……そうですね。来週くらいに僕たちも収穫の手伝いに駆り出されるかも知れません」
「そっか。来週には見れなくなるのか……勿体ねーな」
麦の穂を揺らす風が、気まぐれにアッシュの髪を撫でて、ムラビトの視界は輝く淡黄一色で埋め尽くされた。魔族の視野には眩し過ぎる。まるで光の中にいるようだった。
「僕にはアッシュさんがいるから充分です」
「酔っ払いが何か言ってら」
アッシュが笑う。背中越しに振動が伝わる。
離れたくない。手放したくない。欲しい。もっと、この男が欲しい。ただ知るだけでは事足りない。ただ頼られただけでは物足りない。もっと深いところまで暴きたい。何もかも余す所なく、ただ一人ムラビトにだけ曝け出して欲しい。
どうしてこの強く仄暗いムラビトの希求を、彼は博愛の一言で片付けることが出来るのだろう。ただの憧れでは済まない、灼け尽き焦がれるこの情動を、どうしてそんな綺麗な名前で呼べただろう。
ムラビトは既に思い知った。手紙一つ残されたあの日に、嫌というほど思い知った。だから、この男も思い知ればいい。
みぞおちから込み上げるような狂暴な衝動に突き動かされて、ムラビトは口を開いた。
「……僕、ずっと自分は無欲で平凡な人間だと思っていました。父ちゃんのすだち屋を守れるだけで充分なんだ、って」
思い知ればいい。
「でも、マオさんに僕の強欲さは魔王らしい、って言われて気付いたんです」
この強く仄暗い希求を、思い知ればいい。
「貴方を手に入れる為なら、僕は何処までも魔王になれる。王様からだって、奪い返してみせる」
この灼け尽き焦がれる情動を、思い知ればいい。
「そんな僕の貴方を独占したい強欲を、どうして博愛の一言で片付られるんですか」
思い切って、そして認めたらいい。ムラビトは強く念じながら、抱きすくめたアッシュの髪を掻き分け首筋に口付けた。肩が跳ねる。アッシュの歩みが止まった。ざまぁみろ、とムラビトは思った。
「……酔っ払い」
「酔ってません。もう自分の足で歩けます。下ろして下さい」
逡巡する気配を漂わせたあと、結局アッシュはムラビトを背負う腕を解いた。痺れる足が畑道に付く。よろけそうになったところにアッシュの手が伸びてきた。腕を捉えられて、踏みとどまる。
「ほら見ろ。まーだ酔ってんじゃねぇか」
眉根を寄せて男は言った。暁光を背に受けてムラビトを見下ろす男の髪一本一本が、光の筋のように燦めいて揺れている。その様子を、ただ美しいとムラビトは思った。
「僕、アッシュさんが好きです」
腕を捉える手が逃げる前に、空いていた手を重ねる。端正な顔を苦虫を噛み潰したように歪めて、アッシュは舌打ちした。
「……前にも聞いた」
「ずっと好きです。十二年前からずっと」
心臓が早鐘を打つ。朝焼けに、ムラビトの額から伸びた角が溶けていった。
「アッシュさん、僕の初恋はきっと貴方だ」
黎明の空と同じ深い青色が見開かれて、微かに揺れた。黙り込んだ彼はムラビトから視線を反らす。そうして、深い溜め息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。麦の穂のように髪が跳ねる。
「……知らねぇの店長。初恋って実んねぇっつーんだぞ」
しゃがみ込んで俯いたままアッシュは言った。ムラビトからは旋毛しか見えない。
「そうなんですか?それは困ります」
「っつーかさぁ、今お前に何言われても酔っ払いの戯言なんだよ」
「酔ってないです」
思い掛けず低い声が出る。一世一代の告白を、博愛主義の次は酔っ払いの戯言で片付けようとするこの男が業腹だった。
「ばーか。酔ってんだよ馬鹿。酔ってるっつー逃げ道を残しといてやってんだよ、分かれよ馬鹿」
「それ、僕の逃げ道じゃなくてアッシュさんの逃げ道じゃないですか」
今度はムラビトが溜め息を吐く番だった。
「分かりました。だったら、お酒を飲んでないときに改めて言います」
諦めの悪い男に言い放つ。ややあって、アッシュは無言で頭を抱えた。彼がムラビトを酔っ払い呼ばわりするなら、その逃げ道を塞いでしまえば良い。抱えた頭を唸りながら掻きむしるアッシュを見下ろして、勝った、とムラビトは思った。
一頻り唸ったり呻いたりしたアッシュは、それからそろそろと顔を上げた。披露の色が強い。だが、ムラビトも引くわけにはいかなかった。恨みがましく睨め上げてくる視線を、真正面から受け止める。だから、アッシュの表情から険が取れて、諦念めいた笑みが浮かんだときには毒気を抜かれた。
「待ってる」
絶句して、耐えきれずムラビトは天を仰ぐ。返す言葉が何一つ見付からない。仕方がなく、ムラビトは万感の想いを込めてしゃがみ込む男に抱きついた。