蒼と碧が融ける場所「同居……ですか?」
「そう」
人よりも格段に長い足を堂々とテーブルにのせ、ソファーの背凭れにそっくり返りながら首肯する五条の行儀の悪さに、向かい合って座る七海は隠す事なく眉を顰めた。
先日、数年振りに再会したかつての『先輩』は、年を経て益々その傲岸不遜ぶりに拍車がかかったように思える。
「…何故、それが条件なんです」
高専卒業後に呪術界を離れた七海は、数年の社会生活を送った後、再び呪術界に舞い戻る事を決意した。
その際、唯一連絡先が残っていた眼前の男…五条に連絡を取り、復帰したい旨を伝えたのがほんの三日前の出来事だ。
七海の復帰の意志を聞いた五条の返答は『即答はできない、数日猶予をもらう』だった。
一旦保留となった七海の復帰希望、それについて話があると呼び出されたのが、まさに今である。
「んー? そんなの、単なる嫌がらせだろ」
但し、その大半は僕へのだけどね。
そう続けた五条は、はみ出す勢いで角砂糖をコーヒーカップへと放り込み、ぐるぐる掻き回すと躊躇なく飲み干す。
見ているだけで胸焼けがして、七海の眉間の皺が益々深くなった。
「判りませんね。私と同居する事が、どうして貴方への嫌がらせに繋がるんですか」
七海が復帰するにあたって上層部から突きつけられた条件、それは『五条悟と一年間同居する事』だった。
今も昔も呪術界の上層部がクソな事は重々承知している七海だが、それでもその条件の意図がどうにも読みきれずに疑問を口にする。
そんな彼に、五条はクッと喉を鳴らして嗤うと、再び背凭れへとそっくり返った。
「───夏油傑の一件以来、呪術界は外からの人の出入りに過敏になった。そりゃもう、大袈裟なくらいにね」
「……っ、」
五条の口から出たその名前に、七海がピクリと片眉を跳ね上げる。
「…つまり、私は疑われている訳ですか。夏油さん一派、または他の呪詛師と通じているのではないか、と」
「ご名答。流石は七海、お前は昔から賢いね」
「頭でっかちだ、と。昔、そう言ったのは貴方でしたよね」
「事実だろ。で、だ。上としちゃ『疑わしきは積極的に排除せよ』ってのが本音だけど、どうしようもなく人手不足なのも否めない。かつて二級だったお前は即戦力となるだろう事だって想像に難くない」
「………」
「そこで出てきた案が僕との同居、って訳だ。賢い七海クンなら、その理由はもう判るよな?」
サングラス越しでもそうと知れる、探るような不躾な視線が七海を射抜く。
この、どこか人を喰ったような意図を悟らせない眼差しが、七海は昔から苦手であった。
それでも思考の末に導き出した答を、どうにか声に乗せる。
「…要するに監視、ですか。貴方に私を監視させ、何事もなければよし。もし私に怪しい動きがあれば、監視役の貴方諸共処分する、と」
恐らくは正答なのだろう予測を述べれば、五条は唇の端を吊り上げてパチンと指を鳴らして見せた。
「はい、連続正解おめでとう。やっぱりお前は賢い奴だね。それだから、なまじっか上の奴等も放置しておけないんだろうな」
「…それはどうも」
形ばかりの謝辞を口にする、勿論本心からだとは微塵も思っていない。
五条の醸し出す雰囲気がこれっぽっちも友好的ではないのが、その証拠だ。
「今のが正解だと言う事は、貴方も何かしら上層部から睨まれている訳ですか。五条さん」
「まあね。僕は最強だから、アイツ等からすりゃどうにも扱い難いんだろうよ。そもそも僕は、上のやり方には納得してないし」
「………」
成程、彼が呪術界において最強の存在である事は、今現在でも変わらないらしい。
この男、五条悟の機嫌ひとつ意思ひとつで、きっと世界の有り様は大きく変貌してしまうのだ。
「まぁぶっちゃけると、上層部共の思惑はこうだ。出戻りのお前に夏油傑なりの呪詛師と通じてコッチ側を裏切ってもらい、且つ───」
真っ黒なサングラスがずらされ、深淵さえ見透かすような深いふたつの蒼が、嘲るような笑みを湛えて七海を見据える。
「監視不十分とのイチャモンをつけて僕に首輪を付け、思うままに飼い慣らそう、ってな。さっき僕は、上層部はお前を『信用しきれなくとも戦力としては欲しい』と伝えたけれど、本当はそうじゃない。奴等はお前に是が非でも裏切って欲しいのさ」
僕を自由に飼い慣らし、こき使う為にね。
そう吐き捨て嘲笑う五条に、七海は眉間の皺を深くしたまま訊ねる。
「…それを私に言ってしまって、良かったんですか」
「聡いお前の事だ、遅かれ早かれ上の思惑には気づいただろうよ。今教えてやったのは、先輩としての僕の慈悲ってとこかな」
「………」
先輩、と声には出さずに繰り返す。
正直、この男を気軽に『先輩』と呼ぶには、余りにも七海は彼の…五条の事を知らな過ぎた。
学生の折からどうにも五条とはウマが合わず、つい距離をおいていた事も影響しているのだろう。
まあきっと、それはお互い様なのだ。
「さ、それでお前はどうする? 七海。言っとくけど、裏切る事を期待されてる上でそれでも戻って呪術師続けるって、きっとお前が想像する以上に居た堪れないよ? だから悪い事は言わない、復帰なんて止めときな」
言葉の表面だけ受け取れば、七海の為を思っているようにも聞こえるそれ。
しかしその裏に、『お前程度が戻ったところで何の役にも立たないから止めておけ』との本音が見え隠れしている事に、勿論七海は気が付いている。
確かに、一度逃げ出した自分が復帰したところで、何が変わるとも何かを変えられるとも思っていない。
仮に復帰したとしても自らのおかれる境遇は、五条が言うように間違いなく針の筵のようなものだろう。
判っている、そんな事は判っているのだ。
────それでも。
七海はもう決めたのだ、再びこの世界で呪術師として呪いを祓うと。
会社での仕事は、向き不向きはあれど誰にでも務まるだろう。
しかし呪いを祓う事は、そのチカラを与えられた者にしかできない。
そして七海には幸か不幸かそのチカラがある、ならば選ぶべき答えは最初から決まっていた。
その決断に辿り着くまでに多少の時間を要してしまっただけ、あとはもう迷う事はない。
「…お気遣いありがとうございます。ですが、もう決めた事なので。どうぞ宜しくお取り次ぎ下さい」
「………あっ、そ。物好きな奴だね、お前も」
軽く頭を下げた七海に返されたのは、呆れたような冷めた声。
しかし次には五条はその口元に軽薄な笑みを象って、ソファーの背凭れから身を起こして言った。
「まぁいいや、それならそれで色々準備しないとね。七海、お前どのくらいで荷造りできそう?」
「は? 荷造り、ですか…?」
唐突な質問に瞠目すれば、五条がサングラスをかけ直しながら長く節くれだった指をピッと突きつけ、揶揄うように笑った。
「忘れたの? お前の復帰条件は僕と一年間同居する事、だろ? 僕は今も高専住みだから同居って条件には向かないし、お前のウチじゃ男二人暮らしには手狭過ぎる。どこかに部屋を借りるから」
「…それは構いませんが。でも、貴方は本当にそれで良いんですか、五条さん」
「は? 何が」
首を傾げながら、五条はテーブルの上に置かれたシュガーポットから角砂糖を摘まみ上げ、ポイポイポイと軽やかに口に放り込む。
益々胸焼けが加速しそうなその光景に眩暈を覚えつつ、最初に条件を聞いた時から抱いていた疑問を投げかけた。
「私と一年も同居する事になるんですよ。上からの提示条件である以上、復帰を望む私に異論があろう筈もありませんが、貴方は違うでしょう?」
本当に良いんですか、と。
念を押すように、目の前の何を考えているのか全く読めない男に問いかける。
五条は暫し、サングラスから僅かに覗く双眸を不思議そうにパチパチと瞬かせていたが───やがて小馬鹿にしたように唇の端を吊り上げて、嘲るようにクッと嗤った。
「なーに、それってお前が本当に呪詛師と通じてたらどうするか、って事? だったら要らない心配だよ、だって、
お前如きじゃ僕を殺すどころか、指一本触れる事すらできないんだから」
ああ、成程。
一度この世界から逃げ出した自分は、五条から信頼どころか信用すらされていないのだ、と。
五条の言葉の端々に滲む嘲笑と侮蔑の色を鋭敏に感じ取り、七海はそれも当然かと妙に納得した。
信用するしないに関して言うのならば、それもまたお互い様だからだ。
七海もまた目の前の五条悟という男を、呪術師としての実力だけならば信頼しているが、それ以外の点においては一切信用していないのだから。
「近いうちにまた連絡する。それまでに今の部屋を引き払えるようにしておけよ、七海」
「判りました。宜しくお願いします」
こうして七海は正式に呪術師への復帰が決定。
それに伴って、五条との一年間の同居もまた決定付けられたのだった。
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