▽
午後の陽は既に傾き始めていた。雲が薄く広がり、陽光は鈍く白く濁って、地に淡い影を落とす。
庭先に面した古びた縁側。この村には宿がないからと村民らが快く貸してくれた空き家。民家の造りにしては少し贅沢な檜の板間に、ジョウイは膝を抱え、黙って空を眺めていた。
リアンとナナミは食料の買い出しに出ていた。短くて小さな留守だった。だがその隙間に訪れた静けさは、普段の旅路にはない質の重さを孕んでいた。
風が渡るたびに、庭の草が波のように揺れた。微かな虫の声と、遠くで笑い合う子どもたちの声だけが世界の音であり、ここには誰の気配もなかった。ただ一人を除いては。
「静かですね。あの二人がいないと、余計に」
口を開いたのはジョウイだった。どこか問いかけるようで、しかし答えを求めているようでもない声音だった。
その隣にいた少年――否、年若く見えるが実年齢はジョウイより年上の旅人、ティア・マクドールは、閉じたままの睫毛をわずかに動かし、こちらを振り向くことなく答えた。
「静寂というのは、時に人を落ち着かせ、時に不安にさせるものだ。今の君は、後者かな」
「……さすが、英雄というものは、言葉の選び方もそれらしい」
皮肉混じりの言葉に、ティアはやはり反応を示さなかった。庭に目を向けたまま、膝に置いた指先だけがわずかに動いた。
言葉が宙に消えるまでの、ほんの短い間の沈黙。
ジョウイは、呼吸を整えるように息を吸った。口の中で何かを確かめるようにして、それから、切り込むように言った。
「マクドールさん。ひとつ、訊いてもいいですか」
「……どうぞ」
「あなたは、どうして戦ったんですか?」
ティアはようやく顔を向けた。その表情には、微かな困惑と、それを上から撫でるような静謐があった。
「どうして、とは? 国を変えるために動くのはおかしくはないだろう?」
「一般論はいりません。あなた自身のことを訊いているんです」
やわらかながら、少し熱のこもった声。
ティアはほんの一瞬、目を伏せると、静かに言葉を継いだ。
「帝国の腐りきったところを見れば、理解できるはずだ」
「それもまた、一般論です」
ジョウイの声には、感情の波がうっすらと乗っていた。怒りではなく、落胆。期待と現実の落差に言葉を選びかねたような、鈍い棘があった。
「あなたが何を見て、何を失って、それでも尚、戦うことを選んだのか――僕は、それが知りたいんです」
少しの間、風が通った。ティアの髪が軽くなびく。その影が、ジョウイの顔にかかる。
「君は答えを求めているのではなく、答えを否定するために僕に尋ねているのかもしれないね」
ティアの声音は、叱責ではなかった。ただ、深く掘り下げるための道具のように、静かに提示される理だった。
ジョウイは笑みを浮かべたが、それは自嘲の色を帯びていた。
「否定するつもりはありません。ただ、理解はできない……あなたは、僕が欲しかったものを全て持っていたから」
膝に置いた手が強く握られる。
「仲の良い家族、裕福な家、大切な親友。家名の重みにさえ、誇りを持てた……それでも、あなたは戦った。全てを捨てて、国を壊し、創った。僕には、そんな選択はできません。たとえ国が腐っていても、僕は壊す勇気なんて持てなかった」
ティアは目を閉じた。風がその身を撫でるたび、影が揺れて、どこか幻のようにも見えた。
「君も、感覚は分かると思っていたんだが。アトレイド家といえばハイランドの名家だろう?」
「名目上は、です」
ジョウイは乾いた声で言った。
「確かにアトレイド家は、ハイランドで名の知れた家でした。けれど僕には、名ばかりの家だった。……血の繋がらない父は、僕に期待も愛情も抱いていなかった。僕の存在は、家名に対する汚点だと思っていたのかもしれません」
語る声に温度はなかった。抑制されていたというより、言葉を形にするまでの間に何度も心で焼かれ、もはや熱を失っていた。
「リアンやナナミ、それにゲンカク師匠がいてくれたから、かろうじて立っていられた。でも……家では、ずっと独りだった」
ティアは何も返さなかった。ただ、表情のどこかに、静かな憐憫が浮かんだように見えた。
「僕には分からない。あなたがどうして、あれほどのものを失ってまで武器を取ったのか……どうして、そこまでして戦ったんですか?」
その問いは、今度こそ真実だった。責めでも、皮肉でもなく、迷いを抱えた者の率直な疑問。
ティアは、ようやく微かに口元を緩めた。
「君が思っているほど、僕は強くなかったよ。失うべきでないものを失った……だからこそ、これ以上失わないために戦うしかなかった」
「失いたくないから、戦った?」
「そう。手遅れになる前に武器を取ることができる者なんて、一握りだ。大抵は何かを失ってから、ようやくそれに気付く。僕も、例外ではなかった」
ジョウイはティアの言葉に何かを言い返そうとしたが、その先の言葉が紡げなかった。
分かりたくなかったのかもしれない。分かってしまったら、己の中の憧れと現実の矛盾が、決定的になってしまうからだ。
「僕の肩書や経歴は、情報でしかない。確かに僕には家族とも呼べる人達がいたし、マクドールという姓もそこそこ知られているだろう。生活に困ったこともない。でも、それが全て良い方向に働くとは限らない」
ジョウイの眉が微かに動く。ティアは続けた。
「父は、戦場で相見えた敵だった。親友は、僕を守ろうとして死んだ。従者は、僕のために命を捧げた。家名は、僕を縛る鎖となった」
静かに、しかし一切の誤魔化しもなく語るティアの姿に、ジョウイは僅かに息を呑んだ。
「君にも、大切な人はいるだろう?」
ジョウイは少し視線を落とし、言葉を吐くように続けた。
「それは——」
「誰かがいることと、誰かを信じられることは同じじゃない」
その言葉には、重ねられた時間と喪失の重みがあった。
ジョウイは、しばし言葉を失っていた。
己が欲しかったものを全て持っていたはずの少年が、実のところその全てを背負い、その重みによって決断を強いられていたことを、今、ようやく理解し始めたのかもしれなかった。
だが、それを認めるには、あまりにも未熟だった。
窓から空を仰ぐと、夕雲が広がっていた。風が変わる気配がする。
夜の帳が少しずつ降り始めていた部屋の空気は冷えていたが、それを感じさせないほど、二人の間に流れる時間は濃密なものだった。
ティアは、火の揺れる蝋燭をしばし見つめ、それから、何かをはかるように言葉を置いた。
「君は、強くなりたいんだね。ただ、その強さがどこに向かっているのか、見失っているようにも見える」
ジョウイは顔を上げた。鋭い否定ではない。だが確かに、自らの根幹をなぞるような言葉だった。
「あなたに、僕の何がわかるんですか」
その問いは、かつての自分自身にも向けられたもののようだった。感情を殺しきれずに発せられた響き。だが、ティアは変わらず穏やかな顔をしていた。
「分かっているとは言わない。でも、同じくらい、君も僕のことを知らないはずだ」
その声音は相変わらず静かで、温い。
「さっき、どうして戦えるのかと問うたね。簡単なことだ。僕は、戦うしかなかった。理想のためでも、誇りのためでもなく、それしか選べなかった。ただ、それだけだよ」
「選べないものは、選んだことにはならないでしょう」
ジョウイは反射的に言い返していた。まるで、己の言葉の正しさに縋るように。
「では君は、選べていたのか?」
言葉が、出てこなかった。
それは否定ではなかった。自らの過去が即座に思い返され、言葉が続かなかった。
「君が僕を見て抱いているのは、幻影だ。誤解というより、期待に近いかもしれない。それが壊れて失望したとしても、それは僕とは関係がない」
ティアは、正論を静かに突きつけるように話す。その一言一言が、理屈として成り立ちすぎていて、ジョウイはそこに入り込む余地を見いだせなかった。
「でも、それで君が少しでも我が身を振り返るきっかけになるなら、その幻影は、そのままでいい」
蝋燭の灯りが揺れ、窓の外の空はすっかり夜に飲まれていた。街灯の光が遠くに滲み、そこに人の営みが確かにあることを感じさせる。
ジョウイは、手を組んだまま俯き、ようやく小さく呟いた。
「……あなたが英雄と呼ばれている理由、少し、分かる気がします」
「それも幻想の一つでしかないよ」
「分かってます。だから、それを壊して、作り直します。自分で」
ティアは、ほんのわずかだけ目を細めた。それは微笑みにも見えたが、すぐに消えた。
それは、廊下の奥から軽快な足音が聞こえてきたからだった。
「ただいまー、ジョウイ、ティアくん! いろいろあったけど、ちゃんと買えたよー!」
「ナナミが店主と押し問答になってしまって……ごめんなさい、遅くなっちゃった」
扉が開き、リアンとナナミが袋を抱えて入ってきた。部屋には、あっという間にいつもの明るさが戻る。
リアンは軽く肩をすくめ、「荷ほどきしてくるね」とだけ言い残して奥へ向かった。ナナミもその背を追ったが、ふと振り返り、ティアとジョウイを見比べるように目を留める。
何かを察したのか、それともただの気まぐれか。ジョウイには分からなかった。
ティアは立ち上がり、リアンの荷を一つ手に取ると、自然な動作でリアンに続いた。振り返ることも、余計な言葉もなく。
その背を、ジョウイはしばらく黙って見送った。
ティアの言葉は感情から来る訴えではなかった。ましてや赦しを求めるものでも、裁かれるものでもない。ただ淡々と、筋道を立てて語られた事実の積み重ねに過ぎない。
だが、そこにはジョウイの思い込みを崩すに足る強度があった。そして、それを前にして、ジョウイは言葉を失い、同時に何かが静かに癒やされていくのを感じていた。
言葉のやりとりの中に含まれなかった感情と、伝えきれなかった思考。
それでも、ティアとの間にあった距離は、確かにほんのわずか――ほんの一歩だけ、縮まった気がした。