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“約束の地”へと向かったリアンが戻ってきたのは、一ヶ月ほど前のことだった。
軍主を責務から解放したものとばかり思っていた宿星達は、彼の右手の甲に煌めく、以前にはない雰囲気を醸し出している真の紋章を見、それを持つ意味を察した。
最愛の姉を喪った、これ以上の地獄を味わおうと言うのか。それとも、進む道が地獄へと続いていることに気付いていないのか。その質問すら、既に問いかける価値すらない。引き返せない道を進んでしまった相手に声をかけられるほど、ルックは感情を捨てきれなかった。
守りたかったはずの親友を手にかけ、リアンは絶対的な能力と不老の体を手に入れた。その事実はルックの中にもう一つ、癒えぬ傷をつけた。
ルックは凱旋してきたリアンを見ることなく、以前と変わらぬ己の役割を忠実に守ることに決め、今も石版の前に立っている。
戦争は終わり、今までは宿星達が行き交っていたこの場所も閑散としている。己の役割だと思っていた石版の守護も、戦いが終わった以上必要の無いものだ。
──そう、この城には最早何も残っていない。
眠気があるわけでもないのに瞼を下ろしてしまったのは、脱力してしまいそうになる酷い虚無に襲われたからだった。目を閉じると見たくもない、脳裏に焼き付いた色のない世界が映る。再び目を開けたときに己の立つ世界にまだ色があることに安堵しては、いつか必ず迎える終焉に酷く怯える生活は、ルックの精神を確実に、着実に蝕んでいた。
遠くから響く足音に、ルックは軽い驚きとともに顔を上げた。その音はこちらに向かって歩んでいることを如実に伝えてくる。
人気の無いこの場所に誰かが来ることに驚いているのではない。数年間嫌と言うほど聞いた、数年ぶりに聞くことになった音だったからだ。
「……もうこの国からいなくなったものかと思ってたよ」
目を引く紅い衣装に着古した半袖の普段着を合わせた、赤月帝国の元貴族とは到底思えない出で立ち。鈍く光る黒い棍を肩にかけて歩く少年、ティアはルックの声を聞き口角を上げた。
「うん、実際いなくなったよ。ただ、次はいつ会えるか分からないから、ルックに挨拶しておこうと思って戻ってきた」
「無駄な気遣いでこっそり抜け出した苦労が水の泡になったね」
ルックの辛辣な物言いにもティアは全く動じない。そんなことは解放軍に参加していた頃に既に分かっていたが、ルックは何か言わずにはいられなかった。
何故、二人の決闘についていったのか。何故、この国から、リアンの下から消え失せたのか。何故、今も戦場に立つことができるのか。
尋ねたいことは幾つもある。ただ、そのどれもが望む回答が得られないと理解できてしまう己が憎らしい。結局、肝心なことを聞けないまま、ルックは奥歯を噛むことしかできなかった。
トランの英雄が消えた──それは、リアンを王に立てた国が成立した直後のことだった。
それを言い出したのはリアンではなく、意外にもその隣に立つ軍師だった。
親友との決闘を手も口も出さずに見守ったティアは、リアンをデュナン城へと送り届けて暫くした頃に忽然と行方を眩ました。宿星ではないティアは拠点に自室が振り分けられていたわけでもなく、元々私物が極端に少なかったぶんその痕跡もほとんど残っていなかった。
レパント大統領と機密に交わしたティアの身柄に関する誓約書が残っていなければ、始めからこの地にいたのかさえ有耶無耶になってしまうほどだった。
突然行方を眩ましたとは思えない表情で、ティアは笑みを浮かべている。
「会えたんだから無駄じゃないさ」
「よく言うよ。紋章の気配を追ってきたくせに」
「時間はいくらでもあるとはいえ、無駄足にはしたくないからね」
茶化すような口調でティアは言った。
「……何? 言いたいことがあるならさっさと言えば?」
「なんだかんだ言って、ルックって人を見てるし優しいよね」
「なんだかんだは余計だよ」
冗談を雑談の中でも含ませるのが苦手が人間なのだと、あの戦いでティアを見てきた仲間なら誰だって察することができるだろう。
赤月帝国を滅ぼしたあの夜ですら、ティアは大切な人をあの街に残したまま一人出奔した。何も語らず、誰にも会わず、重荷を共有することなく内に抱えたまま。
だというのに、己に話しておきたいことがあるとティアは言う。ルックの興味を引くには十分な理由だった。
「僕……ルックのこと、羨ましかったんだ」
「──はぁ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「何それ。意味分かんないんだけど。説明して」
「あの日、リアンと初めて会った日。ルックも一緒にいただろう? ルックは真の紋章を持っているのに、解放軍にいた頃よりも身長が伸びていた。ルックの体は、時が止まっていないんだよ。それが人よりも遅いかもしれないけど、成長があるならいつかは老化もあるだろう。生き物として正しい形じゃないか。僕はそんなルックをずっと、羨んでたんだよ」
普段はなかなか言葉にしないくせに、いざ言の葉に乗せられると胸を突かれることが多い。今回も例外ではなく、ルックはティアの告白に酷く心をかき乱された気持ちになっていた。
不老ではないことが羨ましいなどと、言われるときが来るとは。
言われるがまま、ルックはバナーの村で久し振りに出会ったティアの姿を思い起こす。呑気に釣りをしている、数年前に起こした戦争の首謀者であり生と死を司る紋章の宿し主は以前と全く変わらぬ姿形だった。仮面のように朗らかに笑みを浮かべていた顔を一変させたかと思うと、リアン達も構わずティアはルックを見据えた。
ただそれは一瞬のことで、すぐにまた先程の温和な笑みに戻った。ルックは精々顔見知りがいたから驚いたのだろう、程度に捉えていたのだが。
「あんたが僕を羨んでるって? 馬鹿馬鹿しい!」
由緒正しい方法で伝授された真の紋章は宿し主を不老にする。真の紋章を受け入れるために作られたこの体は、風の紋章を操る適性は誰よりもあったが、意志があると言われる紋章からは誰よりも嫌われている。
ルックにとって真の紋章を宿した身でありながら緩やかに体が時を刻んでいるこの姿は、欠陥品の証でもあった。
「人と共に生きて死にたいなら、好きなときに喉元に刃を突き立てればいい」
──この世界の終焉すら見ることができるあんたが羨ましいのだと、今目の前で言ってやろうか。
ルックの魂胆を知ってか知らずか、それだけはできない、とティアははっきりと告げると苦笑を浮かべた。
ルックの感情を吹き消すように、ティアの羨望を掻き消すように、一陣の風が吹いた。
暫くして、ティアは踵を返した。靴音が遠ざかる。
仰々しい石版の前には、もう誰もいなかった。