「モーニングルーティン?」
「そう」
くるくるとスマホを回し、沢北が面倒臭そうに溜息を吐いた。
NBAで活躍していた沢北が日本のプロリーグに移籍することになったのは、およそ一年前。それと同時に同棲を開始したので、同棲生活も一年くらいだ。
最近、沢北が所属しているチームの広報の責任者が変わったらしく、どうやら沢北加入を機に若い女性ファンの増加を狙っているようだ。そのために、公式チャンネルで流す動画が欲しいらしく、沢北にルーティン動画を撮ってくるように頼んできたそうだ。
「ルーティンって言われてもさぁ……正直、バスケ以外のことすんの、めんどくさいんだよね」
「でもファンの皆は、沢北の普段の姿を見たがってるピョン」
夕飯の片付けをしながら、そう答える。シンクに溜まった皿を洗い始めると、沢北が俺の皿洗いを邪魔するように、後ろから強く抱き締めてきた。
「……深津さんは、見られても良いの?俺の普段の姿」
「……」
拗ねた声色だけで、どんな顔をしているのか容易に想像できてしまう。ぐずる子どものように、唇を尖らせながら俺の顔を覗きこんでくるので、その唇に自分の唇を押し当てる。わざとらしくリップ音を立てて離れると、白い頬が徐々に赤く染まっていった。
「もぉ……すぐ可愛いことする……」
「可愛い顔を近付けてきた、お前が悪いピョン」
「むぅ……」
不貞腐れた声とは対照的に、その顔はだらしなく緩んでいた。単純な奴、とは口に出さず、皿についた泡を洗い流していく。
「モーニングルーティーンくらいなら、他の奴らに見られても平気だピョン」
「ふーん……そうなんだ……」
「その代り、こういう可愛い姿は、深津さんが独り占めしておくピョン」
「えぇ、何それぇ……すげぇ可愛いこと言ってくるじゃん……何で年々可愛くなっていくの?」
薄らと涙を浮かべる沢北に、にんまりと笑ってみせる。「可愛い」「大好き」と訴えかけてくる視線を躱し、そのまま皿を洗い続けていると、沢北が何かを思い付いたように「あ、」と呟いた。
「ねぇ、俺、良いこと考えた」
「……良いことではない気がするけど、一応聞いてやるピョン」
最後の皿をラックに入れ、水で濡れたシンクを布巾で拭く。その一連の動作を見つめていた沢北が、俺を抱き締めたまま首筋に口付けを落としてきた。
「深津さんが撮ってくれない?俺のルーティン動画」
「は?」
その言葉に、思わず振り返る。至近距離で視線が合うと、沢北が楽しそうに微笑んだ。
「朝やることなんて、ロードワークとストレッチでしょ?その後シャワー浴びてご飯作って食べるだけだし。一人だと間が持たないかもしれないけど、深津さんと一緒なら楽しそう」
「……」
「それに、深津さんとルームシェアしてるって公表してるから、出てこない方が不自然じゃない?」
「んー……それもそう、なのか……?」
「ね、お願い」
沢北の大きな目が、懇願するように俺を見つめる。
ここ数年ですっかり男らしくなってしまった沢北の、久し振りの可愛いおねだりに、俺はグッと喉を鳴らした。
「……まぁ、撮影くらいなら良いピョン」
観念してそう答えると、沢北が嬉しそうに笑った。
そんなこんなで、沢北のモーニングルーティンを動画を、俺が撮影することになったのだった。
****
次の日の朝。いつもより少し早めに沢北に起こされ、ノロノロとロードワークに出る準備を進める。重い瞼を持ち上げて着替えていると、「今日は一段とぽやぽやしてるね」と瞼にキスを落とされた。その愛おしそうな表情に、八つ当たりのように腹を殴り、沢北のスマホを奪い取る。
沢北が愛用しているスポーツウェアは、沢北がモデルに起用されている、某スポーツブランドのものだ。無駄に様になっているのは、元来のスタイルの良さのせいだろうか。
沢北にカメラを向けて、録画ボタンを押す。その瞬間、恋人の顔から、プロバスケ選手の顔に切り替わった。
「おはようございます、沢北栄治です。今日は、俺のモーニングルーティンを紹介します。撮影は、一緒に暮らしてる深津一成選手に頼んでます。よろしくね、深津さん」
「朝から胡散臭い笑顔だピョン」
「ねぇ、画角外からディスらないでよ!」
一瞬にしていつもの沢北の顔に戻ったことに満足して、沢北以上に胡散臭い笑顔を向ける。悔しそうに口を尖らせた沢北に視線で続きを促すと、沢北は呆れたように「はいはい」と笑った。
「現在時刻は、朝の6時です。これから深津さんと一緒に、ロードワークに行ってきまーす。……はい、一旦止めて良いよ」
「走ってるところは撮らないピョン?」
「うん。場所特定されたら困っちゃうしね」
スマホを覗き込み、録画停止のボタンをタップする沢北の動作をぼんやりと見つめる。ピロン、と軽い音を立てたスマホをテーブルの上にそっと置くと、その上から沢北の手が重ねられた。
「それに、走る前のルーティンは、知られたくないし」
「ふっ……確かに」
少しだけ口角を上げ、沢北の首に両腕を回す。高鳴る鼓動が相手に聞こえてしまう程の距離。その距離を更に縮めるように、沢北の唇に自分の唇を押し付けた。
ちゅっちゅっと、触れるだけのキスを繰り返す。沢北の唇が、俺の厚い下唇を甘く噛む。その感触に思わず鼻から抜ける様な声を漏らすと、燻る熱をそれ以上上げないよう、沢北がゆっくりと離れていった。
「はぁ、かわいい……」
沢北の吐息が唇にかかる。自分の目が蕩けていくのが分かって、慌てて沢北から離れ、玄関へと向かう。追いかけるように玄関へと来た沢北がどんな顔をしているのか見なくても分かって、八つ当たりのように坊主頭を乱暴に撫でまわしてやった。
***
ロードワーク後、部屋に戻ってからの沢北が、解説を挟みながらストレッチをしていく。学生時代の成績の悪さが嘘のように、沢北の頭の中には人体に関する知識が詰め込まれている。俺もそれなりに勉強してきたが、沢北の知識量とは比べ物にならない。
「沢北は物知りピョン。それに、勉強熱心」
「へへ、向こうで舐められないようにって、必死に勉強したからね」
「そういうところ、アスリートとして尊敬するピョン」
「え、ほんと!?深津さんにそう言ってもらえるの、すげぇ嬉しい!」
沢北の顔が綻ぶ。無駄にキラキラしたその笑顔がカメラに収まり、不特定多数の人間に見られるのが嫌で、俺は手が滑った振りをしてスマホを床に落とした。
「わわ、深津さん大丈夫?」
「悪い。汗で滑っちゃったピョン」
「もぉ、何してんスか」
呆れたように笑う沢北を一瞥して、ゆっくりとスマホを持ち上げる。今の笑顔も動画に収めたくなくて、いつもよりゆっくりと身体を動かし、再び沢北にスマホを向けた。
「汗乾いちゃうね。俺もう少しストレッチ続けるんで、シャワー浴びてきて良いですよ」
「ん、ありがとピョン。じゃあ、先にシャワー浴びてくるピョン」
俺の言葉に、ピクリと沢北の身体が反応した。恐らく、今の一言が性的な何かを想起させたのだろう。その反応が面白くて、これを動画に残したら話題になるのでは、という考えが脳裏を過った。俺はスマホを沢北に向けたまま、誘うような甘さを声に乗っけて、ゆっくりと微笑んでみせた。
「沢北も、俺と一緒にシャワー浴びるピョン?」
俺の出したわざとらしいくらいに甘ったれた声に、沢北の顔色が一瞬で変わった。「あ、間違えたかも」と思った時には、沢北は俺の手からスマホを奪取しており、強い視線で俺を見下ろしていた。
「そういう可愛いこと、不特定多数の見るような動画内で言わないで」
「……っ、ごめん、ふざけ過ぎたピョン」
「……シャワー浴びてきて。撮影の続きは、また後でね」
いってらっしゃい、といつもより低く平坦な声で言った沢北は、色んな感情を押し殺したような複雑な表情のまま、俺に小さくキスをした。そのままスマホを操作して「今の部分、誰にも見られないようにカットしておくんで」と小さく呟いた。俺は、そんな沢北にかける言葉が見つからず、「わかった」と小さく呟いて、逃げるように浴室へと足を向けた。
*****
「よし、じゃあ朝ご飯作ろうかな」
「ピョン」
いつものように接尾語で返事をすると、沢北はカメラに向かって楽しそうに笑った。
あの後、お互いにシャワーを浴びて一人の時間を持ったおかげか、幾分か冷静になることができた。シャワーから戻った沢北に「さっきはごめん」と再び謝ると、俺以上に情けない顔をした沢北が「俺も、八つ当たりしてごめん」と眉毛を下げながら謝ってきた。そして、抱き合ってキスをしたら、険悪な空気は霧散し、いつもの穏やかな朝が戻ってきた。
慣れた手つきでフライパンを火にかけた沢北が、卵を取り出しながらカメラに視線を向けた。
「深津さん、ハムとベーコンどっちが良い?」
「どっちでも良いピョン」
「えぇー、選んでよー」
「じゃあ、沢北と同じのが良いピョン。沢北と同じの食べたい」
「何それ、かわ……」
いつもの癖で「可愛い」と言いかけたであろう沢北が、撮影に気付いて慌てて口を噤んだ。誤魔化そうとしたようだが、上手い言葉が見つからなかったのだろう。数秒後には諦めて、胡散臭い笑顔をカメラに向けた。
「……じゃあ、ハムにしますね」
「ん」
俺からのお咎めの言葉がなかったことに安堵したのか、沢北が小さく息を漏らした。
ハムと卵の焼ける音が耳に届く。香ばしい匂いが鼻先を擽ったあたりで、沢北が余所行きの顔を張り付け、横目でスマホのカメラに視線を寄越した。
「朝食は大体メニュー同じなんですよねー。サラダと目玉焼きと野菜スープ。あ、このスープは深津さんが作ってくれてます。同じレシピで作ってんのに、深津さんが作った方が美味しくなるんですよ。みんなにも食べてもらいたいくらい!何でだろ?」
「年の功だピョン」
「俺と一つしか違わないでしょ!あ、もしかして、俺に内緒で隠し味とか入れてます?」
「んー、しいて言うなら、愛情だピョン」
画角に入るように、片手で指ハートを作ってみせる。だけど、冗談のつもりで言ったその言葉に沢北は笑うことはなく、目を大きく見開いた後、拗ねたように唇を尖らせた。
「……じゃあ、誰にも食べさせてやんねー」
拗ねたように呟いた沢北が、フライパンの火を止める。ジュワジュワと音を立てていたフライパンが静かになると、部屋は静寂に包まれてしまった。
動画としては致命的な放送事故だ。それを何とかしようと、茶化すように笑ってみせた。
「こら、独り占めすんなピョン。深津さんはみんなのものピョン」
「違うもん。俺だけの深津さんだもん」
「……」
怒られた小学生のようにむくれる沢北に、録画停止ボタンを押し、スマホをテーブルの上にそっと置く。不機嫌を隠そうとしない沢北の頬を優しく突くと、沢北の黒い瞳が俺をジトっと見つめた。
「撮影中に拗ねんなピョン」
「だって……」
だって、深津さんは俺だけの深津さんだもん。
そんな幼稚な独占欲をさらけ出す沢北に、思わず溜息を零してしまう。その瞬間、大きな瞳にじんわりと涙が滲んだ。
「ごめん、俺、いつもこんなんで……」
「気にすんなピョン。変なところで拗ねてる沢北、かわいいピョン」
「……ほんと?こういう俺でも、ちゃんと好き?」
「どんな沢北でも、大好きピョン」
怯えたような表情を向ける沢北に、バッと両手を広げて見せる。俺の意図に気付いた沢北は、嬉しそうに俺を強く抱き締めた。
「もういいや。モーニングルーティンは一人で撮り直す」
「え?」
「最初は、深津さんに撮影手伝ってもらって、仲良いとこを見せつけてやろうと思ったんだけど……」
そこで言葉を切った沢北は、大きな手で俺の頭を優しく撫で、抱き締める腕の力を強くした。
「不特定多数の目に、可愛い深津さんを晒すの嫌だ。耐えられない」
「……」
「どんな深津さんも、俺だけのものだもん」
風呂上りの石鹸の匂いを堪能するように、沢北が首筋に顔を埋め、大きく息を吸い込む。吐き出した吐息の熱さに身体が震え、誘われるように本音が口から零れ落ちた。
「俺も、」
「ん?」
「本当は俺も、沢北の普段の姿見られるの、ちょっと嫌ピョン」
パッと沢北が顔を上げる。だけど、自分の今の顔を見られたくなくて、その逞しい胸筋に顔を埋める。そんな俺を見つめていた沢北が、天を仰ぎながら「No,way……」と無駄に流暢な発音で呟いた。
「……この仕事、断りますね」
「え……?いや、そこまでしなくても」
「いい。断る。俺がやんなきゃいけない訳じゃないし。他の動画出るからって交渉してみる。仕事だとしても、深津さんが嫌がること、したくない」
「……」
沢北が柔らかく微笑む。俺への愛情を湛えたどこまでも優しい笑みに、胸がキュッと高鳴る。自分の頬が熱くなるのを感じ、誤魔化すようにむっと顔を顰めた。
「危なかったピョン……危うく、惚れ直すところだったピョン……」
「いや、そこは惚れ直してよ!」
「ふっ……世の中はそこまで甘くないピョン」
ギャアギャアと喚く沢北の鼻を、ギュッと摘む。不満気に「ちぇ」と漏らした沢北を慰めるように、俺は沢北の首に両腕を回し、グッと引き寄せた。
「それに、これ以上好きになったら、仕事に支障が出ちゃうピョン」
内緒話をするように耳元で囁くと、沢北は「うひゃぇっ!?」という謎の叫び声を上げながら、床にのた打ち回った。
こういう面白い姿を撮影すれば良かったのかも、と考えながらも、やっぱりどんな沢北であっても、プライベートな姿を誰かに見せるのは多少の抵抗があるなぁ、なんて。
長年一緒にいたせいで、独占欲の強さがうつったのかも、と呟いて、俺は蹲る坊主頭を、慈しむように優しく撫でた。