どんぐりひろいやさん かんたろお4 テレビの上の埃をハンディモップで取るついでに、壁に掛けている額縁の埃も取った。こんな細いところにも埃は溜まるのだから、油断も隙もないな、と尾形は思う。
二つ並んだ額縁には「どんぐりひろいやさん かんたろお」と「どんぐりひろいやさん かんたろう」と書かれた画用紙が一枚ずつ入っている。
夏太郎が置いていった荷物を整理した際に、せっかくなので看板を飾ることにした。他のものは全て箱に入れてクローゼットに仕舞ってある。いつ夏太郎が帰ってきてもいいようにしてあるが、人間になった夏太郎はどんぐり拾い屋さんをやるのだろうか。
掃除を終えた尾形はパーカーを羽織って外に出る。大寒波だ大雪だなんて騒いでいた季節も過ぎ、花粉だ黄砂だと騒ぐ季節になった。
公園の中を通っても、あれからどんぐり拾い屋の姿を見たことがない。
あの日、夏太郎の隣で店をやっていた「ずっとどんぐりひろいやさんのおうち」の子どももタヌキだったのだろうか。その家族はタヌキの神様の存在や居場所を知っているのだろうか。
駅前の大通りに行く手前の道を曲がり、最近新しくできたパン屋に入る。こうやって新しい店に興味を持つようになったのは、夏太郎が神様に会いに行くと家を出てからだ。帰ってきた夏太郎は人間なのだから、もう食べ物に気を使わなくていいのでは? と尾形は思った。
それならば今まで食べられなかったようなものも食べられるようになるし、夏太郎の好きなものが増えるかもしれない。下見と称して色々な店に入り、夏太郎の反応を想像するのは楽しかった。
楽しかったが、たまにどうしようもない不安に駆られるときもある。
このまま夏太郎は帰ってこないかもしれない。途中でタヌキのままがいいと思ったかもしれないし、神様に会えなかったかもしれないし、悪いやつに捕まったり、最悪事故に遭っているかもしれない。そもそも夏太郎はこの世に存在しておらず、尾形が一人で見た幻覚かもしれない。
しかし幻覚だとしたらあの看板や、沢山撮った写真は何なんだ、と自分に言い聞かす。宇佐美だって夏太郎を見ていたし、たまに「ちびちゃん元気?」と聞いてくる。
幻覚じゃないと言っても、それは帰ってくる保証にはならない。
こういうことを考え始めたとき、尾形は決まってスパに行く。広い湯船に浸かり、全身マッサージをしてもらい、その後に冷えたビールで喉を鳴らす。
これは前に宇佐美から教わったやり方だ。そのとき尾形は何か不安に思うことも、溜まった鬱憤もなかったが、仕事に忙殺され疲れ果てた宇佐美に引きづられるように連れてこられ、同じコースを回され、ビールを飲んでスッキリしている宇佐美を見て「アリだな」と思った。
そうやって夏太郎がいない寂しさや、本当に帰ってくるのかと不安になった気持ちを水に溶かして流す。夏太郎を信じて待てばいいだけのことだ。ずっと一緒にいたいと思った夏太郎が、尾形とずっと一緒にいたいと言ってくれた。それを信じて待つだけだ。
パン屋ではコーンパンと、レーズンパン、バケットを買った。イートインスペースもあったが、尾形はなるべく家を空けたくないのでテイクアウト一択だ。パンを袋に入れてもらっている間にちらりと覗いたが、客席同士が離れているのと、日当たりが良さそうなので夏太郎と一緒に来たときは食べて帰るのもありだな、と尾形は考えた。
袋に入れてもらったパンはほのかに美味しそうな香りを漂わせている。バケットはどうやって楽しもうか。昨日買ってきたクリームチーズや生ハムを合わせてもおいしいだろうし、トマトとチーズでピザトーストにする話も聞いたことがある。
「ん?」
マンション前に着いたとき、不審な人影を見つけた。入り口の前をウロウロしながら中の様子を伺っている。世間では物騒な事件がニュースを賑わせているので、尾形はポケットからスマホを取り出した。万が一のときに備え、すぐに警察へ電話ができるように準備をする。
くるりと体の向きを変えた男の顔を見た瞬間、尾形はスマホを持つ手から力が抜けた。スマホが手のひらから滑り落ちるのを、すんでのところで堪えた。
「かん……」
それは確かに夏太郎だった。最後に見たときよりもだいぶ大きくなったようだったが、夏太郎の面影はしっかりと残っている。尾形は考えるよりも先に足を踏み出していた。
尾形の声に反応した夏太郎は動きを止める。
目と口が大きく開かれ、両手を勢いよく上げた。
「ひゃ、くの」
「夏太郎!」
名前を呼びながら駆け寄る。
小走りになった夏太郎が尾形の胸に飛び込んできた。
それを抱きとめるも勢い余ってぐるりと体を大きく回す。パンが入った袋と一緒に夏太郎の足が浮く。お互いの肩に顔を埋めた。
「ひゃ、ひゃくのすけ、さん」
今にも泣き出しそうな声を出す夏太郎を尾形は笑った。
泣きたいのはこっちだ。
抱きしめた夏太郎の背中を撫でながら、尾形は徐々に体の回転を止める。足が地に着いても夏太郎は尾形の首に回した腕を解かなかった。ぎゅうと抱きついて離れない。
「夏太郎、おかえり」
「ただいまですぅ!」
元気な声に尾形は口を大きく開けた。
夏太郎が帰ってきた。
待ちに待った日がやっと来た。
春の暖かな日差しの下で、二人はしばらく抱き合っていた。
「神様に会うの大変だったんですよ!」
そう話す夏太郎は尾形の膝の上に乗り、レーズンパンを頬張っている。口の端についたパンくずを尾形が親指で拭うと、あ、と口を開けたのでそのままスライドさせて押し込んだ。むふふ、と笑う夏太郎は楽しそうだ。
そうかそうかと尾形が頭を撫でる。
「百之助さんちから出てどうしようかなって思ったんで、前の俺の家に行ったんです。いい感じの穴だから他のタヌキがもう住んでて、でもちょうどいいから神様どこにいるか知ってるか聞いたんです」
「ほう」
「でも知らないって。隣でどんぐり拾い屋さんやってたタヌキにも聞いたんですけど分かんないって言われたんですけど、でも、そこのおじいさんが前に聞いたことあるって言って! そのときは隣の神社に行ったよって言うから俺も行ったんですけど」
レーズンパンを食べ終わった夏太郎はローテーブルの上に置かれた牛乳に手を伸ばす。尾形が夏太郎を抱く腕を緩めれば、上体を少しだけ伸ばしてコップを掴む。すぐに体を戻した夏太郎は、尾形の腕も先ほどまでと同じポジションに直した。
しっかりと力を入れるように尾形の腕をぽんぽんと叩くものだから、笑いをこらえるために夏太郎の頭の匂いを嗅いだ。そしてお望み通りしっかりと夏太郎を抱く。
「神社のタヌキに神様のこと聞いたら、ここの神様はキツネだよって。タヌキじゃなかったみたいです」
「キツネ……? ああ、お稲荷さんだったのか……」
「おいなり?」
「今度お参りしような」
不思議そうな顔をした夏太郎の頭を撫でて続きを促す。
夏太郎の大冒険の話だ。最後までしっかり聞きたい。
「でもそこのタヌキがあっちのお寺は行ってみたかって言うから、俺行ったんですよ!」
「寺は」
「仏様でした……」
見えないはずのタヌキの耳が見えそうになった。しょんぼりとうなだれる夏太郎の頬をもちもちと揉む。空になったコップを両手で握る夏太郎が尾形を見上げた。
「百之助さん」
「ん?」
「でもでも、もっと行ったところの小学校の裏にいたんです、神様!」
「小学校の裏?」
「はい! お寺のタヌキの知り合いの知り合いが前に人間になりに神様のところに行ったみたいで、そのタヌキはお見送りで一緒に神様のところに行ったんですって!」
「お見送り」
それができるなら俺もしたかった、という言葉をぐっと飲み込む。きっとそれはタヌキ同士だからできたのだ。人間である尾形はきっと付いていけなかった。
「俺、神様に会えたんですよ! ちゃんとお願いしたんです! 百之助さんとずっと一緒にいたいですって。人間になりたいですって。そしたら神様がね、なんで百之助さんと一緒がいいのか聞いてきたんですよ。だからいっぱい百之助さんのいいところ話しました」
「神様相手に?」
「はい!」
元気な返事をした夏太郎はにっこりと笑う。
「百之助さんが初めてのどんぐり拾い屋さんのお客さんだって話とか、家に連れてってくれた話とか、ご飯がおいしい話とか、百之助さんのお仕事の話とか、色々しました!」
「ほうほう」
「いっぱい百之助さんの話してたら、神様が本当に好きなんだねぇって言うので、そうですよって! だからずっと一緒にいたんですよって!」
興奮している夏太郎の背筋が伸びる。
すり、と尾形の頬に自身の頭を擦り付けた。
「夏太郎」
「百之助さん」
えへへ、と照れたように夏太郎が笑う。頭をひと撫ですると、夏太郎は何かを思い出したようだ。牛乳が入っていたコップを座椅子の横に置き、近くにあった自身のサコッシュの中を漁る。
「神様が、百之助さんと一緒に見なさいって」
「俺と?」
「はい」
振り返った夏太郎の手には、くるくると巻かれた角二サイズの茶封筒があった。膝の上でせっせと伸ばしている夏太郎から茶封筒を取って反対にくるくると丸める。きゅっきゅっと力を入れてから開くと粗方の丸まりは取れたようだ。
それを夏太郎に返す。
「ありがとうございます!」
ビリビリと封筒の蓋を破く夏太郎を見ながら、尾形はペン立ての中からこちらを眺めるペーパーナイフに思いを馳せた。次の機会までにお前の存在を知らせておくから。どうせ茶封筒は開けたら捨てるから。
「百之助さん、これ何ですか?」
「ん?」
茶封筒の中には紙が二枚入っていた。
一枚目は住民票、二枚目は履歴書。
尾形は右手で顔を覆い、天を仰いだ。神様っていうものはこういうことができるのか。
何も言わない尾形を不思議そうな顔をしながら夏太郎が見上げる。
「はは」
「百之助さん?」
「ははは、はは、はあああああ」
「ひゃ、百之助さん……?」
突然笑い出した尾形の服を掴んだ。手で顔を隠されているので、夏太郎からは表情が見えないのが怖い。
と思っていると、笑うのをやめた尾形が夏太郎を両腕でしっかりと抱きしめた。込められた力の強さに夏太郎は戸惑う。
「夏太郎」
耳元で名前を呼ばれる。
低く落ち着いた声が好きだ。
喉の奥がくぅんと鳴るのが分かった。
「百之助さん……」
恐る恐る尾形の背中に腕を回す。
タヌキの頃は尾形の背中に腕を回しても、自分の指先同士を触れさせることすら出来なかった。しかし今は違う。
尾形の背中に回した腕はしっかりとその体を抱きしめることができる。
嬉しい。
嬉しい!
力を込める。尾形の腕にも力が入る。
二人の体はもうこれ以上ないぐらいくっついて、しかしそれでも足りないから頬をすり寄せる。大きく息を吸い込むと、大好きな尾形の香りが胸いっぱいに広がった。
鼻先が尾形の耳の中に入る。するとくすぐったそうな小さな笑い声が尾形から漏れた。
ぱっと顔を離す。
尾形の顔を覗き込むと「かん」と短く名前を呼ばれた。
「ひゃくの」
「好きだ」
真剣な声に夏太郎は目を丸くする。
「ひゃ」
「夏太郎、結婚しよう」
「け!」
結婚の意味が分かるか? と尾形に聞かれたので、夏太郎は首を少し横に傾けながらぎこちなく頷いた。自分が考えているものがあっていれば、あれは結婚だ。
「つ、番、ですよね……?」
尾形が目を細める。口元に浮かんでいるのは笑みだ。
頬を親指ですりと撫でられて、夏太郎はふふっと笑った。
「そう、番。この人とずっと一緒にいますって、約束しますって書類を出す」
「書類? 出さないといけないんですか?」
「いけなかないが、出しておいた方が都合のいいことが増える」
ふうん? と納得したようなしていないような顔をしてから、夏太郎は体の向きを変えた。尾形と向き合う形になり、足を座椅子の外に投げ出す。
「百之助さん、俺も好きです。結婚しましょ」
はは、と尾形が笑う。
ふふ、と夏太郎が笑う。
どちらともなく顔を近づけた。
先に触れたのは鼻先で、それから唇。
んむ、と息を漏らしたのはどちらだったのか。