連日列島のどこかで四十度前後の酷暑を超えた暑さが記録され、日没後がメインとはいえ冷めきらぬアスファルトや人々の熱気が毎度オレたちを汗だくにさせてくれた。
ところが週末にまとめて洗濯しようと思えば台風襲来と来た。直撃はしないものの年中無休を唄う八雲霊能相談所も臨時休業となり、オレたちは自宅待機だ。
窓を揺らす風と叩く雨を横目にオレは煙草をくゆらせる。日の出はとうに過ぎたはずだが、外は暗雲立ち込めあの夜よりも暗く感じる。
だが昨晩の報告を済ませて首を巡らせれば恋人が鼻歌混じりにコーヒーを煎れている。落ち着いたモスグリーンのエプロンをまとい、ゆっくりとドリップする様は一端のバリスタのようだ。
誕生日にねだられて買ったホームベーカリーで焼いたパンにハンドブレンダーでペーストにした甘藷と甘栗。特にペーストは最近ハマっているらしく様々な料理に活用されている。凛子には介護食の練習ではと揶揄されたがこちとらまだまだ現役、昨晩も大いに若さを発揮した。いや発揮しすぎたか。暁人は機嫌は良いが気怠げな雰囲気でベーコンエッグを皿に乗せてこちらに持ってくる。
「天気予報はどう?」
「直撃はしないが明日まで大荒れだな」
本格的な衣替えは来週に延期だ。気にした風もなくテーブルに朝食を並べて今日はどうしようかとお伺いを立ててくる。
「言ったろ、オマエの好きにする」
手を合わせて挨拶をしてご馳走に手を伸ばす。昔は朝なんてコーヒーですましていたものだが、今では食後の葡萄までついている。和食と洋食が概ね半々に出てくる朝食をいただいて、食後の一服に耽る。停電になれば一大事だが、今のところ雨風だけで雷鳴の気配はない。
暁人は七分丈のシャツから伸びた腕を撫でて少しだけ秋物を出そうかなとぼやいた。
「手伝おうか」
「上着だけだからいいよ、すぐ出せるし」
それならいいのだが、そうなると手持無沙汰だ。オレの不満を感じ取ったのかそれじゃあと暁人が悪戯を思いついた顔をする。悪さする餓鬼はブン殴りたいが性根があまりにも真っすぐで二十年以上真面目に生きてきたお暁人くんの悪戯など恐れるに足りず。とはいえオレの嫌なところをピンポイントで突いて来たりするので油断ならないが。
「まあ何だ、言ってみろよ」
「僕、KKに絵を描いてもらいたいんだ」
絵、とオレは馬鹿みたいに反芻する。オレは絵を生業にしていないし、できるような技量もない。これで暁人がオレの画力を馬鹿にすることを目的にしているのならやはりブン殴るが、あくまで期待に満ちた目で見上げてくる。
「妖怪の絵とかは報告書で見たけどさ、もっと可愛い絵……ラブハチ描いて欲しいな」
「それどうするんだよ」
「待ち受けにする」
馬鹿野郎、絵梨佳とかに見られたらどうするんだ。
「私も欲しいって言うか……隠し持っておくよ」
オマエらつくづくオレのこと何だと思ってんだ。オッサンだからと忌避されるよりはマシだが疑問が尽きない。ともかく暁人は人目につかない場所に隠し持つことは決めてくれたので大人しく描いてやることにした。ご丁寧に検索した画像まで出されては断り切れない。
折角だからと暁人の部屋に招き入れられて(普段からよく出入りしているが)当人があくせく働いている横でペンを動かす。
暁人がネットに上げればウケると思うとか冗談を言い出したり、KKの長袖の服や上着も出そうかと言われて謹んで遠慮しておく。家事をほとんど任せきりではあるが、暁人は恋人であって母親ではない。妻を母親代わりにするクソみたいな世代だと自覚しているが、二の轍を踏まないと決めたのだ。暁人と付き合って新調した春秋物を出すくらいの余裕はオレにもある。
「描けたぞ」
「僕もちょうど終わったよ」
力作を渡すと嬉しそうに眉を下げて白い歯を見せる。この顔に弱いんだよなあと己の目尻も下がる。
「本当は空気の入れ替えもしたいけど」
窓の外は相変わらず大雨だ。諦めていくらか掃除をして昼飯を作ることにする。
「サブスクも便利だな」
お互いの好きな曲、世代間を感じるそれらをかけながら手を動かす。お互いに知ってるだの聞いたことがないだのドラマや映画で知っただの誰かがカバーしただの、遠慮なく語り合うのも悪くない。オレはフライパンを見るだけで次々材料を切って入れるのは暁人だが。
数種類の茸の入った和風パスタは香りだかく慣れぬ仕事に疲れた体を癒す。暁人ほど健啖家ではないが食欲は以前よりも増した。他の欲も。
フライパンいっぱい作ったはずの和風パスタはあっという間に二人の胃袋に収まった。オレは食後の煙草を楽しみ、暁人はやはり満足そうに先程流れた平成のヒットソングを口ずさみながら食器を洗う。それらが触れ合うカチャカチャという音と雨音が合わさって妙に心地よい。この静かな空間がいつまでも続けばいいと思うが、残念ながら二人分の食器は少ない。
「次はどうする?」
代わりに声をかければ暁人は少し考えて読書がしたいなと答えた。
元々どちらもさほど本を読む方ではなかったが仕事柄妖怪についてや地域の伝承について等調べる内に小さな本棚にそれなりに並ぶようになった。今は暁人がそれを読んで勉強している。それから暁人が麻里から借りた小説がある。曰く情緒教育のために読めとのことで。まあ何度も振り回されている身としては麻里の望むこともわからんでもないが、もう少しオレに任せてほしい気持ちが半分、小説でコイツが学ぶわけがないという諦めが半分といったところか。
「折角だからKKに読んでほしいな」
「おいおい、この年で音読しろって?」
そういうのはオレの趣味じゃない。しかし暁人の望みで、オレはそれを可能な限り全て叶えると決めている。マシなのを選んでくれと言えば暁人は羽が生えた調子で本棚に飛んで行った。
「はい、これ」
「……おい」
差し出されたのは恋愛小説だった。しかもいかにも若い女が好むような華々しい表紙の物だ。何故後者を選んだのか。オレが顰め面になったのを見て暁人はニヤリと笑う。コイツ……オレの反応を楽しんでやがるな。
「甘い言葉なら毎晩囁いてやってるだろ」
「毎晩ではないだろ!」
案の定羞恥心を爆発させた暁人はぶつくさ言いながらもう一冊の、恐らく本命の本を取り出した。秋の妖怪について触れられた所謂児童書だ。不満はなくはないが、まあいいだろう。
本当なら暁人が読むべきだと思う。暁人の声は成人男性の低さを持ちながらも穏やかでまろやかな甘さを有しており、それこそ恋物語を語られればコロリと落ちる女はごまんと存在するだろう。
それでもオレの声がいいと暁人が言い張るのであれば、まあ聴衆が一人であるならば特別に許してやらんでもない。
今度は緑茶を淹れて紅葉や栗を模した和菓子も用意して二人でソファーに並んで腰かける。寄りかかる暁人の重さすら心地よく感じながらオレはページを捲り、記憶のある文字を読み上げる。内容は少々大人向けに書かれた民話だ。秋の実りに関する妖怪。要するに山に入った人間に対する警告や教訓だ。台風についても記載がある。今のように窓枠をガタガタと揺すれば不気味に思うのは至って普通の感覚だろう。教訓かとオレは思い返す。絵本や児童書をガキにも読み聞かせた記憶がない。散々暁人を子ども扱いしないと誓っているが、すりよる体温は子どものそれで、甘えてくる仕草も愛おしい。
読み進めているうちに暁人の頭が段々とオレの肩に沈んでいく。読み上げる声を抑えているわけではないが内容的に抑揚に欠けるためか雨音が掻き消してしまうからか。はたまた腹が満たされたからか。ともあれ暁人の睫毛がふわふわと上下する様は美しい。オレの低い声が心地良いのだと信じて疑わないからか、安心しきった顔で目を閉じていく。
声をかけて起こすつもりはない。音読はやめないまでも目蓋が完全に閉ざされ、若く厚みのある体が規則正しく上下するのを見守る。緩んだ口元に穏やかな眠りを感じさせてこちらの頬も緩む。
オレはページを捲るのを止めた。暁人の髪を撫でて、身体を抱き寄せる。小さな呻きと共に暁人はオレに身体を預けてきた。先程の衣替えで引っ張り出したブランケットをかけてやり再びページを捲る。もう読み上げる必要はないが他にすることもないので読み切ることにする。
今度は雨音と暁人の穏やかな寝息、紙の擦れる音が部屋に響く。こんな穏やかな日が続くことを願いつつも台風が過ぎればまた慌ただしい日々が始まるのだろうと予感している。
それでもこの暁人という温かな存在はオレの隣にありつづけるのだろう。夕食まではまだまだ時間がある。オレも暁人に頭を寄せてこの後にも実り豊かな秋の一晩と、台風一過の朝の眩しさに想いを馳せながら目を閉じた。