二十六歳の誕生日にソレはやってきた。
東京という都市を象徴したような狭く雑然としたアジトで広げられる漆黒の夜闇を切り抜いた雨傘、同じく烏のようなスーツに影に曇るワイシャツ。緩められたネクタイすら色彩がなく、自分の心を表しているのか持ち主がそちらの存在であることを見せつけているのか暁人には判別がつかなかった。するであろう鼻につくニオイはしない。
どちらにしても悪趣味だ。
暁人にとってその出で立ちは敵対勢力である視覚的な、一番直感的に判別しやすい材料であったし、にも関わらず攻撃しなかったのはそのいつもは不快しか示さない絵文字のように簡略化された顔が、四年前に死に別れた、いや元々相手は死んで魂だけになっていたし暁人もバイク事故で死にかけていた、一晩限りのかけがえのない相棒の顔をしていた。
あれから四年が経ち、暁人は葬儀と身辺整理、大学卒業と就職活動、エドたちと出会い後片付けまで目まぐるしく動き回った。
パスケースを相棒の家族に届ける任務も達成した。どこかで「死んだことにした」とは言っていたが現代の日本国で戸籍の偽造は難しく、対外的な表現であったらしいものの結局は事実となってしまった。それでも籍を外し相続手続きをしてから失踪届けというのは段取りが良すぎていて、不義すら疑われていた哀れな不器用親父のために暁人は『彼は警察も簡単に手出しできない危険な案件に首を突っ込み死んだ。無謀だったが結果的に自分は命を助けられたから勝手だが恨まないっでほしい』と蜃気楼のような事実をパスケースと共に手渡した。それで彼女たちが納得するかはわからないが、そこまでは遺言に含まれていない。
相棒が深い眠りについた時点で暁人の中では終わったことだと意識的に区切りをつけたこともあってパスケースを手放すことに不満はなかったが、定期便のように足繁く通い、届けるのではなく増えるばかりの心霊写真を持ち出していたアジトは処分する気にもなれず自分が生活できるようにだけ環境を整えて、それでも不要な物はかなり処分したしエドたちが本国に持ち帰った機材や資料も多かった、ただの住居として使っている。
誰も彼も霧のようにその魂の強さに反比例するように儚く消えてしまったので、当初は様々な郵便物が行き先を浮かせてシュレッダーの無機質な口に飲み込まれてこの部屋にいた人たち、世界を救うために集まったヒーローにはなりきれなかった彼らのようにバラバラに散っていった。電話回線は早々に解約してしまったので本当に幽霊のようになっている。糸の途切れた照坊主を思い出したが窓を見る余裕は今の暁人にはない。
その上、今の暁人はあの夜のような約十五平方キロメートルの土地を縦横無尽に駆け回り、天狗の力を借りて空を翔び回り、化け物を相手に大立ち回りするような適合者と呼ばれる能力のほとんどを失っていた。元よりKKと二心同体であったからこそ、あの異常な空間であったからこその力だったのかもしれない。今となっては知るべくもないし、知ったとしても暁人にはどうすることもできないだろう。括られた照坊主のように無力なのである。ただほんのわずかばかり、白い布と綿と紐が雨を降らせるかもしれない程度に暁人にも幽霊の類を見聞きすることができる。それだけがKKという、一言で表現することが難しい、今まで暁人が出会ったどの大人とも違う、概ね悪い意味で、存在が特別だったということだ。わかっていると暁人はこの四年の間に何度も噛みしめた。
あの夜を乗り越えられたのはKKのお陰だ。暁人が今生きているのはKKのお陰だ。そしてこれはからKKの思い出だけを糧に独りで歩いていかなければならない。
だと言うのに、ようやく噛みしめる回数が減り始めた今になってKKがよりにもよって化け物となって暁人の前に現れた。
マレビトはヒトの負の感情が具現化したものだ。本来影法師は労働にたいする疲労や不満等から生まれる化け物である。確かにKKも刑事稼業や祓い屋稼業に関して、命がけで寿命を擦り減らすような非健康的な生活を送りながらも人々の安寧のために奔走していたのだが一般人には、家族にさえも正当に評価されないことに不満を抱いていた。しかしそれもあの夜に解消されたはずだ。KKなりに、何かしらの積み重ねを経て、己の独りよがりともいえる欲求に折り合いをつけたはずだった。少なくとも「今はオマエがいる」と言い切った時の表情は二心同体であるが故に見ることはできなかったが声色からその感情がある程度読み取れるようになっていた。あの時KKは確かに肩の荷が下りたような声をしていたのだ。だから少しは救えたのだと、恩を返せたのだと暁人は考えていた。そう思っていたかった。
少なくとも今のところKKは暁人に気付いているものの戦闘態勢をとっていない。暁人もエドから紹介された、あの夜に立ち寄った神社の宮司に依頼して札を数種類常備しており、己の身を護るくらいのことはできる。それがKK相手に通用するかは不明だが、少なくともひのきのぼうとなべのふたでドラゴンの王と戦うよりは勝算がある。
このマレビトが本当にKKであるならば相打ちになってでも浄化しなければならない。
長男であり、早くに両親を亡くした境遇故に人一倍責任感の強い暁人が決意を新たにする間にもKKはゆらゆらと壊れたメトロノームのように不規則に揺れながらも何事かを呟いている。
「……と…………あき……」
その音の並びに覚えがあった。あの夜に恐らく一番、この世界有数のネオンサインに輝く眠らない都市から見ることのできる星の数ほど聞いたであろう己の名前。
暁人の感情は驚愕から混乱、恐怖から悦びに壊れたアナログ時計のように目まぐるしく変化していく。
「僕を……未練に想って戻ってきたの?」
偽物かもしれない。暁人の記憶を読み取って生まれた都合のいい幻かもしれない。それでも同じ体を共有していたために今度は惑星の数ほどしか見ることのできなかった相棒の姿に暁人は安堵を覚えた。例えアイコンのような就職活動をしている大学生宜しく店頭でディスプレイされたスーツセットを身に付け、己の名にも通じるお天道様を遮るような雨傘を掲げ、土塊色の顔をしていても。
「……それとも、痩男?」
東京タワーの展望台で暁人はKKと共に彼の肉体を浄化した。それまでマレビトたちから守り奪い取るようにして集めた魂は肉体が霧に同化されてしまっただけで、儀式を中断させ霧を消せば濾過したように肉体が戻り、精神という楔を頼りに魂もまた肉体という器に戻るだろうと予測されていたが、KKたちの体はそれ以前に死亡……活動を停止し、精神は黒いもやとなり拡散して魂は天に還るだけ。そのルールを破ろうとすると般若のような外道に堕ち、冥界に引きずり込まれる。末路を見届けた暁人はじわりと残暑の残る湿気に背中が汗ばむのを感じながら相手の反応を待つ。が、その場で極致のようなスローステップを繰り返すだけで、エーテルが集められる風も感じられない。
「……KK?」
名前を呼ぶことはすなわち生命を喚ぶことである。それが偽りの名であろうとも。メトロノームの重りに触れたようにピクリと反応したKKは奈落の瞳で暁人を見つめた。見た覚えがある、死者の目だった。
ああ、彼は死んだのだと暁人は何度目かの自覚をさせられる。何度噛みしめても苦く残る粉薬のような事実は慣れることも克服できることもなく四年が経ってしまっている。光差すような妹との約束に影を落とすほどに。けれども新雪に足跡をつけるような昏い悦びが確かにそこにはあるのだった。
「僕は、KKが迎えに来てくれたのなら……嬉しいよ」
けれども今目の前に彼がいる。それが亡骸でも、亡者の魂の残滓でも、確かに本物のKKであった。
暁人は手を伸ばし、血の気のなく冷たい手に触れる。初めて触れる手の感覚。脈拍もエーテルの流れもないが硬く厚みのある手に凹凸のある指。煙草のニオイが染み付いていたはずのカサつく皮膚に指を這わせる。
「また僕の中に入る? それとも僕を飲み込む?」
今暁人が死んだことになったところで、身寄りもなければ持ち物もこのアパートの一室が空虚に感じるほどしかない。服も雑誌も今となっては意味のない資料も、どれもこれもKKの存在を確かめるために廃棄できずに残ったものばかりだ。業者が入れば全て可燃物と不燃物に機械的に分類されて処理されてしまう、何の価値もないモノに囲まれてただ生きてきた四年を暁人は噛み締める。
「やっぱり、一人じゃ無理だよ……」
果たしてこの負の感情が四年間踠いた結果なのか目の前の化け物に強制的に引きずり出されたものなのか、どちらにせよ暁人は冥界の淵に立ってた。思い返せばあの夜もバイクを横転させて右半身に致命的なダメージを負っていたはずだ。結局何もかも引き受けていったKKは暁人のことだけは連れていってくれなかった。
『……ッ、 ぉマ……っえ……』
化け物の口から音が漏れる。意味のないはずの振動から暁人は空気だけでなくエーテルが揺れるのを感じ取った。
「ああ、KKは僕を心配して来てくれたんだね」
自覚していなかったが限界に達していたのだろう。何故今更と恨みさえ抱いていたがここまでもった自分を褒めるべきだったのだと暁人は乾燥した空気を揺らして笑った。エアコンを動かしていたかも記憶にない。電子音はノイズに巻き取られて暁人の耳には届かない。現実が遠い。しかしそれは化け物が現れる以前からだった気もする。 慣れてしまえば蝉の声や蛙の声が聞こえないような。都会の二十四万を越える喧騒の中で暁人の声もそうして消えてしまうのだろう。
「KK」
暁人は腕を伸ばし化け物を抱き締める。自分より少しだけ背が高く厚みのある身体は抵抗なく収まり、逆に暁人が体を預けてもびくともしない。
元々暁人は妹に似て器としてのエーテル適合率が高かったようだ。このままKKの負のエーテルに同調すれば自分も同じものになるのか単純に消えてしまうのか。思考し教授するエドも凛子もここにはいない。アジトの中には誰もいないのだ。どうなってもいいと全てを投げ捨て受け入れていたが、KKは緩慢な動きで暁人を抱き締めると右耳にはっきりと
『オレに任せろ』
と囁いて全身を黒いもやに変化させた。
後の事は何度も経験がある。暁人を喰らい尽くすようにもやが殺到し、質量のあるもやが全身の細胞にぶつかる衝撃に咆哮する。魂同士が衝突する感覚は視界も思考も明滅させ、己の存在が冥界を行き来した時のように曖昧になる。それでもすぐに現実を引き戻して、反射的に右手を見れば、確かに血管を走るような不可思議なエネルギーの流れと、自我をもつ黒いもやが暁人を真っ直ぐに見つめているのだった。
『……心配で目が覚めたじゃねえか』
「こっちこそ心配する起き方するなよ」
相変わらず歪な在り方だが、暁人とKKには相応だと微笑む。
新たな誕生を祝う朝が訪れようとしていた。