真ん中バースデーのはなし 2 10月14日 木曜日
翌朝、一講には早すぎる時間に家を出た暁人はアジトに忍び込んだ。
合鍵は持たされているので正攻法で中に入ったのだがいつもと違い挨拶はしない。
足元を見ると予想通りKKの靴だけがある。
いつものボディバッグとは違う大学用のリュックサックを静かに置いて、即浄を狙う時のように気配を消して霊力を抑えて廊下を歩く。
昨日と同じ奥の部屋に近づくと豪快なイビキが聞こえてきた。
(よし、まだ寝てる)
呼び出しがなければKKは昼前まで寝ている。基本的に夜活動するので当然だし、今の暁人には都合が良い。
封印がないのを確認して扉を開く。退路と誰か来たらわかるように開けたままでベッドに近付き……たいのだが散らばった紙の資料で下手に進むと音が出る。しかし片付けると忍び込んだのがバレる。
とんだトラップだ。などと勝手なことを思いながら暁人は慎重に身を低くして前進する。
どこかでKKが落としたままの目覚まし時計がカチカチと音を立てている。イビキは不規則だが無呼吸にならないだけマシだろう。そんなことを考えながら通常の何倍もの時間をかけてベッドまで到達した。
さて、問題はここからだ。
『必要なだけの肉体接触』というのは果たして広さ的なものなのか深さ的なものなのか。
もし前者ならまだ薄っぺらい布団に潜り込んでハグすればいいだろうか。後者なら?
二、三日に一度しか剃らない顔の下部分をじっと見つめて喉を鳴らす。
両方成人していても男同士でも合意のない行為は犯罪だ。流石に訴えられたりはしないだろうが嫌われても仕方がない。
それでも二度とこんなチャンスがないのなら。
時折指摘される後ろ向きの思考に後押しされて屈み込む。
少しだけ、掠めるだけならノーカウントだ。もしくは質の悪い悪戯として叱られたら。気持ち悪いと言われたら。
多分きっと絶対に立ち直れない。
暁人は無言で立ち上がると音が立つのも気にせず部屋を飛び出し、靴を引っ掻けてアジトを出た。鍵をかけるのだけは習慣として秒でこなし早朝から天狗を鳴かせて空へ飛び上がる。
「違う……僕がしたいのはこんなことじゃない……!」
悲しいのか怒りなのか自分でもわからない感情が涙となって溢れて落ちる。
寂れた地下街のゲームセンターに行けば祟り屋に会えるだろうか。今なら殴り込みも辞さない覚悟がある。
けれど暁人にとって本当に必要な覚悟はそれではないのだ。
学食を食べていると絵梨佳からアジトに手帳を落としていると連絡が来た。最悪だ。別に見られて困ることは書いてないのだが、明日の飲み会のメモとクーポンが入っている。何でもスマホにすると容量がいくらあっても足りないのでアナログにしていたのが仇になった。というかそもそも今朝リュックサックは開けていない。アジトの鍵はバイクのと同じカラビナにつけてジーンズのポケットだ。なのに何故手帳が音もなく落ちたのか。
絶対に呪いのせいだと暁人は左肩を押さえて夕方アジトに入った。
「……お邪魔します」
「おかえりなさいっ」
制服姿の絵梨佳が出迎えてくれて安堵する。今KKと二人きりは遠慮したいので凛子の気配もあって本当に良かった。
差し出された馴染みの手帳を受け取り、一応クーポンも確認する。
「昼に見つけてから私が守ってたから誰も中は見てないよ!」
「ありがとう。 でも講義の予定とか明日の飲み会の予定とかしか書いてないから」
「もしかして合コン!?」
絵梨佳の言葉に奥にいた凛子がガジェットを弄りながらも名前を呼んで諌める。
暁人は絵梨佳の幼さに受け流すように笑ってそんなんじゃないよと否定した。
「男女は混じってるけど四年生も後期だからね。 それぞれの就活や卒論の進捗報告とか頑張ろう会って感じだよ」
明日のことは凛子にも伝えていると言えば納得か感心か曖昧な相槌をして
「それじゃあ暁人さんも忙しくなって週末もアジト来なくなっちゃう?」
と更に聞いてきた。正直忘れ物を受け取ってKKと接触することなく帰りたかったが妹と年が近いこともあって絵梨佳は邪険にしにくい。それに単なる好奇心ではなく大学に対する興味もあるようなので暁人は引っ張られるままにリビングに移動して、KKがいないのを確認して新調したばかりのソファに二人で座った。
「僕は内定も貰ってるし、厳しいゼミじゃないから来ないってことはないけど……少しずつ怪異も減ってきたし頻度は減るかも」
実際には渋谷の一夜が異常に多くて段々正常に戻っているそうだが暁人はその夜からしか知らないので、とりあえずKKが一人で危険を冒さずに済むのは良かったと思う。
しかしそうすると暁人の必要性などどこにもないのではないだろうか。
という言葉はぐっと飲み込んだ。そんな子どものような捻くれた言い方は絵梨佳を困らせるし、優しい彼女は否定してくれるとわかっている。
「それにたまに掃除とかしに来ないと大変なことになるし」
「確かに! それにKKってばすっかり暁人さんのご飯じゃなきゃ美味しくないって言うの。 こういうのなんて言うんだっけ……胃袋を――」
「オイ、勝手なコト言うなよ」
頭の上から聞き馴染んだ声がして飛び上がりそうになった。ジャストガード失敗で硬直した暁人の代わりに絵梨佳が顔を天井に向ける。
「事実じゃん! 私も麻婆茄子食べたかった!」
五人前くらいは作ったつもりだったのだがもしや面倒臭がって三食麻婆茄子にしたのだろうか。
「KK……栄養が偏るよ」
俯いたままだがKKは特に気にした様子もなくうるせえとぼやいた。
どうやら朝のことは気づかれていないらしい。胸を撫で下ろす暁人とは対照的にKKは不満げだ。
「凛子が追加で事務仕事を押しつけてくるからだ」
「元はあなたの所有物の財務処理なんだからあなたがやるべきよ」
正論で返されて黙る。以前ほどイラついてはいないがいつも通りフォローした方がいいだろう。
「じゃあ今度は多めに作り置き用意するよ」
「……頼む」
間があったことに暁人も気づいたが顔が見られないので表情を探ることもできない。
「じゃあ今日は帰るね。 多分土曜日か日曜日にまた来ます」
「ああ、楽しんでおいで」
優しく送り出してくれる凛子に礼を言って、絵梨佳にも手を振ってアジトを出る。
結局KKには触れられなかった。左肩はじくじくと熟れていく心持ちがした。